今週の九条の大罪/第41審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第41審/事件の真相①

 

 

 

 

九条の大罪・新シリーズ「事件の真相」開始、扉絵は運動着の九条とブラックサンダー!ブラックサンダーかわいい。

 

 

くさむらのなかに複数の捜査官が集まっている。まわりには無数のハエが飛んでいて、中央に布でくるまれた死体が横たわっている。布から足が少し見えている感じだ。この足の絵、いつもの、写真っぽいやつなんだけど、どういうことかな・・・。

回収されてベッドに横たえられたその遺体に泣き崩れるのは、ときどき壬生まわりに出現していた、刑事の嵐山義信である。

 

その事件から10年経つ。嵐山は遺体発見現場に花を置いている。そのことを、組織対策課の、嵐山の部下ふたり、又林と深見が、餃子食べながら話している。深見はここにきてまだ3年だから、10年前の事件は知らない。先輩の又林はリアルタイムで知っているようだ。

遺体は嵐山の娘のものだった。深見はそれを聴いてむせる。警察官の親族が殺されたということなので、まったく他人事ではないし、事件じたいは深見も知っていたらしい。それが嵐山だとは知らなかったのだ。

とはいっても、どうもこの事件は、嵐山が警察官だったから起こったというものでもないらしい。暴力団や半グレを相手にする仕事なので、反社の報復ということがまず考えられたが、そうではなかった。現場は証拠だらけであり、とても、ヤクザやそれに類するもののしわざとはおもわれなかったのである。指紋や足跡は残されたままで、被害者の体内に残された体液も複数人ぶん判明した。どう考えても組織的に犯罪を行うもののしわざではない。そうして、未成年が疑われた。やがて犯人の一人がバイクの窃盗で逮捕され指紋採取、芋づる式に全員捕まったということである。彼らは、帰宅中の嵐山信子をさらい、金品を奪って河川敷で強姦、意識を取り戻した信子に顔を見られたために首を絞めて殺害したと。

実行犯・犬飼勇人は少年刑務所で懲役10年以上15年以下の不定期刑で服役中、共犯2人は少年院送りになったがすでに退院、社会復帰しているという。共犯者は幇助というあつかいになっていることとおもわれるので、不良集団内での犬飼の権力がそうとうに強かったということだろう。

そしてこの犬飼という男が、壬生の後輩なのである。

 

又林と深見は、嵐山の執念深さの原因を、この事件に見ている。少年法を盾に減刑した判決も、それを実現させる弁護士も、嵐山は恨んでいると。ここで九条が描かれており、深見も九条の名前を出すので、ひょっとしてこの事件の弁護も九条がしたのでは?とおもわれたが、冷静に考えると九条が独立したのは5年前のことであり、その前の山城の事務所での修行期間も3年であるから、10年前九条はまだ弁護士になっていない(『九条の大罪』が自然な時系列に沿って描かれていればのはなしだが)。現在そういう説明ですぐさま思い浮かぶのが「九条間人」だというはなしだ。「そういう種類の弁護士」を恨んでいるということである。

嵐山は被害者の性格、生活環境から原因を探し出す「被害者学」の視点で考察すると、又林が興味深いことをいう。

これは、現在の嵐山の発言だろうか、印象的に描かれているので、引用しておく。

 

 

「いいか?

人の本性というものはボーっとしてると見抜くのは困難だ。

 

公衆の顔

家族の顔

本当の顔・・・

 

本当の顔は

本人と罪を共有している人間しか知らない」

 

 

こういう視点が、嵐山にもともとあったのか、事件の結果として身についたのか、微妙な表現だが、どうもこの事件をきっかけに少なくとも骨身にしみることにはなったのではないかなという感じはする。要するに、捜査の結果、嵐山は娘の信子の知られざる一面に直面することになったのである。

 

壬生の事務所の外に嵐山は花束を置いていったらしい。それを部下がもってくる。毎年のことである。壬生は逆恨みだから気にするなと、部下にいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

嵐山は遺体発見現場に花束を置いているが、どうもそのあとそれを回収して、そのまま壬生の会社のところまで持っていっているようである。

献花についてざっと調べてみて、あまり正確な重量級の記事はちょっといま体調的に読めないので、ブログ的なものに限るが、基本的にその目的は慰霊ということになる。仏教的には「飾り」という意味もあるようだが、ごく大雑把にいって、現場に花をそえるのは、被害者への同情や哀れみがあって、鎮魂するとともに、じぶんはあなたのことを忘れていないということを示しているものとおもわれる。そして、それとは別に、現場に花を置いていくという習慣について、けっきょくそれを片付けるのは誰なのか?という問題もあるようである。センセーショナルな事件になると、遺族でもなんでもないひとが同情のあまり現場を訪れていろいろ置いていくということもあるかもしれない。それも気持ちはわかるが、被害者は死んでしまっている以上、置かれたものを持ち帰ることができない。したがって、そこに置かれたものは、いつか近隣住民や役所の職員が片付けなければならないのである。こういう意味で、警察官である嵐山は「持ち帰る」可能性が高いかもしれない。訪れ、慰霊と「忘れていない」というメッセージの身振りをとり、そしてそれを持ち帰るのである。嵐山は真面目な人間なので、いかにもありそうなことだ。

そして、ではその持ち帰った花はどうなるのかというと、壬生のところに置かれるわけである。同じ方法で読み解くのならば、これもまた、「忘れていない」というメッセージにほかならないだろう。

死者は、死んでしまっている以上、今生のコードを用いてやりとりをすることができない。「忘れていないよ」とか「安らかに眠ってね」とか、そういう言葉をわたすことができない。この、生きている側の無能感をほんの少しでも癒すのが宗教の方法なのだ。それで死者とやりとりが可能になっているかどうかというのはわからない。調べようにも、わたしたちは生者のコードしか手元にないのだから、「やりとりが成立している」と断定することは永遠にできない。したがってこうしたふるまいはある種のパフォーマンスに過ぎないかもしれない。だが、人間の発するメッセージというのはなんであれ受信者を想定するパフォーマンスである。

こういうふうに考えてみると、いち市民として供えた花を持ち帰った嵐山がそれを壬生の事務所に置いていくというのは、興味深いわけである。ここにはいくとおりかの意味が見て取れる。ひとつには、たんにこの信子の命日を壬生と、壬生を通じて犬飼に思い出させようとするものである。しかしながら、犬飼や壬生は、生きているのだ。生者のコードが使える相手なのである。としたら、ここに嵐山がこめているメッセージは、壬生や犬飼を、じぶんと同じ生者と同じものとしてはあつかわない、ということになるだろう。もし嵐山がアウトローなら、これは壬生らの近い「死」を予言するものになるかもしれないが、そうではないので、この「生者ではないもの」とは「死者」ではないわけである。ひとことでいえば、嵐山は、生者として当たり前に「生」を満喫することを、犬飼や壬生に対しては認めない、ということなのである。しかしそれは彼らを殺そうとしているということを意味しない。彼は法に従事する警察官だからだ。となると、彼の刑事法的なもののみかたもうっすら見えてくる。刑法が規定する刑罰というのは、人間から自由を奪うものだ。そのようにして究極まで自由を奪った先に、死刑はあるわけだが、この「受刑者」の段階が、嵐山の遵法意識のうえでは、生でも死でもない、コミュニケーションにおいて別のコードを必要とする亜空間なのである。

 

 

又林のはなしでは事件と、嵐山の被害者学的考察のありようのどちらが先なのかよくわからないのだが、ひとまず現在の彼は、被害者の見えない「顔」を掘り返すことで事件を捜査していくというセオリーがある。この方法は娘の事件でも用いられ、それで彼は、娘の、父親のじぶんがまったくしらなかった相貌を発見することになった。こういう事情からすると、順序としてはまず、被害者学的捜査法がごく自然に、また彼の気性に合うかたちで確立されてはいたが、その時点ではあくまで選択的な方法に過ぎなかったところ、そののちに娘が死亡し、娘の「知らない顔」を知り、身をもってその難しさを体感した、ということなのだろう。

この嵐山のセリフでのポイントは、「本当の顔は本人と罪を共有している人間しか知らない」というところである。まずわかることは、信子は無垢な「ヒガイシャ」ではなかったということだ。そして、原因とはいわないまでも、彼女がそうなりうる危うい生き方をしていたらしいということだ。この議論は、「被害者にも原因がある」とするもので、殺人のような重大な犯罪でなくても、日常的に聞かれるところである。「事件」を無時間モデルととらえると、たしかに「加害者」と「被害者」は対概念になる。加害者が存在しなければ被害者も存在しない、それと同様に、被害者が存在しなければ加害者も存在しない。しかしこれは合理的判断を下すために事態を単純化した結果であって、現実は無時間ではない。時間の流れにおいては、まず潜在的加害者があらわれる。それを仮に被害者が誘発したのだとしても、現代の世界はほぼすべて法治国家であるから、誘発されて生じた欲望を認めることはできないのだ。もしそれをさらに遡行的に考えようとするのだとしても、法の認める範囲では、被害者の落ち度を拾うことはできない。

こういう議論はありうるが、嵐山が用いる思考法は、その合理的判断に至るための無時間モデルということになるだろう。被害者の落ち度をそれとして認めるか認めないかは置いておいたとしても、そうとらえることで真相にたどりつけるならば、それに越したことはないわけである。いわば専門家向きの思考法といえるかもしれない。

もうひとつ、このセリフから見えるのは、まるで全人類が罪を犯しているかのような、嵐山のペシミスティックな態度である。もちろん、ここで嵐山は犯罪、また被害者のはなしをしているので、一般化できることでもないが、嵐山じしんはどうもこれを誰にもあてはまることとしていっている感じがある。人の「本当の顔」は、罪を共有している人間しか見ることができないというのである。つまり、仮にまったくなんの罪をこれまでの人生で犯してこなかった人間を想定するとしたら、その人物の「本当の顔」は誰も知らないことになるのだ。

ここでいわれている「罪」は、刑法、また倫理のうえでの「罪」というよりは、「やましさ」というようなものととらえるとよいかもしれない。たしかに、罪を犯しながらその自覚がまったくないサイコパス的な人間や、あるいは竹本優希くらいの凶器的な無垢さの人間は、「本当の顔」の存在感が薄い。というか皆無である。

こういう議論からは、人間の「本当の顔」を想定することじたいがまちがいなのでは?という考えかたも出てくる。平野啓一郎の「分人主義」である。ひとは、嵐山がいうように、公衆に対して、また家族に対して、別々の表情をする。別々の仮面を、社会生活のうえで身につけていく。その家庭で、わたしたちは「素のわたし」と呼べるような人格本体のようなものを見失うような気持ちになって苦しくなる。しかしそうではないというのが平野啓一郎の考えかただ。そうではなく、そうした仮面がそれぞれにわたしたち自信そのものであって、その集合が、「わたし」なのである。

 

 

 

 

 

 

しかし、ここでポイントとなるのは、嵐山が「本当の顔」と「罪」をセットにしているということだ。「本当の顔」があるのかないのか、それはなんともいえないことだ。しかし少なくともそれが「現れる」ときというのは、「罪」、もしくはやましさとセットになってのことなのだ。嵐山の経験ではそうなのである。たしかに、罪、あるいはやましいことというのは、他人から隠すことにはなるので、見えにくいものになる。それにまつわるそのひとの「顔」というのも、当然見えにくい。そして「本当の顔」というのは、そのひとの最深部にあるもののはずであるから、それと同居しているようにもおもわれるかもしれない。だがこれは、嵐山には気の毒だが、彼の「娘の死」がもたらした、悲観的すぎる見方だろう。たとえば、壬生がおもちに見せる表情は、罪と同居してはいないが、「本当の顔」という表現がかなり馴染むものになるだろう。「罪」は人格の構成要素ではあっても、そこが最底部とは限らないのである。というより、そうした行為が発生している以上、その前段階があるはずなのだ。

 

たぶん、嵐山のこの経験的な悟りが、彼をかたくなにしてしまっているぶぶんはあるだろう。彼が壬生や九条に対するときの態度は必要以上に断定的であり、狭量である。そういうふるまいが、壬生やなんかを相手にするときには必要ということもあるだろうが、そこには危うさもある。彼は、娘の死から多くを学んだが、そこかた回復したとはまだぜんぜんいえないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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