2022年あけましておめでとう 高校の担任のはなし | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

今年もよろしくお願いします。

 

 

別に連休があるわけでもないせいか、いつも通り、特に切り替わった感覚もない年越しである。でも、世界には時差があるのだし、カウントダウンでもないのかなという気もちょっとする。越したかな、越してないかな、くらいのふわっとした感じで1日すごすのがこれからのグローバル年末年始だ!

 

 

今年の目標は第一に教養の底上げだ。「教養」というと、意味がぼんやりしすぎていてなにも指示しないものでもあるが、ぼくのばあいでいうと「常識」に近い。ひとが、当たり前に知っていることを、当たり前に身につけたい。いまその内容を知らない以上、「こういうことだ」とは示せないわけだが、ぼくはほんとう、100人いたら95人が知っているようなことを知らない。変わりに5人しか知らないことを知っているのだが、現実世界では無意味である。そのことに価値を見出してくれる環境にあるのならそれでかまわないが、ぼくはそうではないので、95人が当然身につけているものごとを、ぼくも身につけなくてはならない。

と同時に、ぼくは読書家(仮)で書き手志望でもあるので、引き続きその「5人が知っていること」の領域も耕していかなければならない。どうすればいいかというと、ひとつしかない、読書量をもとに戻すしかないのだ。年に20冊とか30冊とかいってるばあいじゃないんよ・・・。

だから、いままで通りの興味が導くままに、難しい本やへんな本を見つけていきながら、同時に、たとえばヒット作とか、読書とはちょっとちがうような実用書とか、そういうものにも手をつけていきたい、というような気持ちだ。むろん、すべての知識がそうであるのだが、それを身につけるいちばんの方法は、ただ生きることである。ぼくはこれまで多くのものに無関心でいすぎたのだ。ふつうのひとは、ふつうにまわりにいるひとと話したり働いたりしていくだけで、常識を身につけていくだろう。ぼくではそういう人生が歩まれなかった。ときどき思い出していることだが、これは高校の担任にもいわれたことである。進学校の、それも特進クラスにいて、教えかたのうまさに定評のある、心優しい数学の先生だった。このひとに、卒業10年くらいしてクラス会であったときのことである。先生は、当時からぼくの数学を評価してくれていた。いまでもいついつの試験で何点とった問題児がいる、みたいなはなしを授業でしている、みたいなこともいっていた。サボりまくりで進級すら危うかったぼくをおそらく陰で守ってくれていたのも先生である。しかしこのとき、彼はいったのである。

 

「お前は・・・とにかく字が汚い。あまりに・・・あまりに汚すぎる。あとひとのはなしをぜんぜん聴いてない」

 

これらのことが実人生にとってそれほど重要なこととは、このときもぼくはまだ考えていなかったが、担任にいわせればとても大切なことだった。ぼくは、酒の席でもあり、そんなに重大な欠点だとおもっていたのなら、当時からきちんと指摘してくれればよかったじゃないですかと、笑っていったのだ。しかし担任は、やれやれという口調で、そこにつけくわえるのである。

 

「いったよ、何ッ回も注意した。な? 聴いてないだろ?」

 

ぐうの音も出ないというところだが、これが笑い話では済まないというはなしだ。ぼくの常識の欠落は、そのまま他人への興味の欠落、端的に「はなしを聴いていない」ことによるものなのである。学校の先生ってすごすぎませんか・・・。20年も前に、ぼくの人生がどういうものになるのか予見していたってことだよね。

さらにいえば、ぼくはたしかにおそろしく字が汚くて、いまも店舗スタッフにちくりと嫌味をいわれたりすることもあるし、相方からも「字が読めないのだけはだめだ」といつも注意されているが、これも、ひょっとして「はなしを聴いていない」ことと同根なのではないかとおもうのである。字が汚いっていうのは要は、「他人に読ませる気がない」っていうことなのでは?ということだ。もちろん、たとえば伝票を書いているときには、きれいに書いているつもりである。だが、根本にそういう他人の軽視みたいなことがあるので、こころのどこかでは「どうでもいい」とおもっているのだ。

 

ブログをはじめたころから、ぼくは「共感」をこえた「共有」の感覚が人間には必要だと書いてきた。「共感」は記憶の再体験、じぶんがすでにしたことのある経験を、べつの創作物などを通じて思い出しているだけで、そこには他者との接触がないと。そして、現代人を「共感地獄」に閉じ込めるものは、「価値観はひとそれぞれ」という標語だと考えてきた。「価値観はひとそれぞれ」という考えかたは、ほんらい「異なった価値観」を保護するためのものである。要するに、じぶんとは異なる相手を、異なったまま認めるということだ。しかしこれが、語のままうけとられ、歪められて、保身に用いられるようになっていった。つまり、相手ではなくじぶんの価値観を守るために、ひとは「価値観はひとそれぞれだから」と唱えるのである。これが共感地獄の原因である。

こういう記事を、ぼくは14年も前から書いているのだが、冷静に考えると、これはぼくじしんが読み込んで考えなければならないことなのではないだろうか。だれよりぼくじしんが、他人への興味をもたず、はなしを聞かず、汚い字、もしくは汚い文章で発信すらいい加減にすませて、じぶんの価値観にまどろんでいるのではないか。

 

というわけで、これからのぼくがしていかなければならないことは、要するに「ひとのはなしをちゃんと聴く」、それから「字を丁寧に書く」、転じて「文章を丁寧に書く」である。いちばん最後のやつはちょっと、ごめんなさいするとして、最初のふたつ、担任にいわれたことだけは、少しずつでもなんとかしていかなければとおもう。考えてみれば「対話とは傾聴からはじまる」ということは去年発見したことでもある。「常識」を身につけるいちばんの近道はそれだといまは考えている。

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、筋トレにかんしては、今年は片手プッシュアップとプランシェを完成させる。これはもはや無謀な目標ではなくなっている。たぶんできるだろう。数値的には、片手プッシュアップはプリズナートレーニングの設定するもの、足を閉じて、もっとも低いところまでからだを落として、1レップに5秒かけるものとする。これで10回できたらとりあえずは目標達成としていいかな。プランシェは、3秒でもできたらうれしいが、いちおう10秒キープを目標にしよう。がんばるぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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