今週の刃牙道/第152話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第152話/瞬斬

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

装甲車の列に消えた武蔵を追って、おそらく100人くらいはいるとおもわれる特殊部隊・STATが車を降りる。しかしそれは武蔵の思うつぼというもので、あらわれては斬り、発見されては囲ませ、乱射を防いだうえでまた全員をばらばらに斬り、また闇に消えると、こういう流れをつくってしまうのだった。STAT100人を物量で上回る脅威が目の前に迫っていたらもう少し感想もちがっていたとおもうが、しかしいまはまだ人数に余裕があるし、武蔵は神出鬼没、殺戮が遠くで行われていることもある、隊員の何人かはそのことでむしろ全滅を予感してしまうのであった。たとえば勇次郎みたいな爆発的脅威が相手だったら、こういうのんびりした感想は出てこないのだ。

 

 

暗闇は武蔵を見失わせてしまっているが、しかし同時にばらばらにされた仲間たちを見ないで済むというぶぶんもある。昨日までいっしょに働いてきた連中のからだの断片が血の海に浮かんでいるところを目撃したら、恐怖を打ち消すあるかないかの理性も失われてしまうだろう。それが武蔵の作戦であるとはいえないだろう。というのは、恐怖が限界に達したとき彼らがどう動くかはわからないからだ。逃げ出してしまえばそれでいいが、へんに覚醒してしまったり、あるいは笑いながら銃を乱射するバーサーカーになってしまわないとも限らない。しかし現状、暗闇は完全に武蔵の味方となっているとみていいだろう。オバケ屋敷で、次にどのタイミングで機械や仕掛けが動き出すのかわからない、そんな感覚で、彼らは武蔵を探さねばならないのである。

武蔵のこの「悪魔的波状攻撃」に、やがて彼らはその場に「居付き」、動けなくなってしまう。暗いといってもまったく見えないわけではない。少なくとも半径3メートルくらいは見えているはずである。もしそこで、彼らが武蔵捕縛より「斬られないこと」を選ぼうとしたら、当然動けなくなる。いま知覚できている範囲には武蔵はいない。しかしそこから一歩でも前に出れば、その前の瞬間まで把握でていなかった空間を知覚の内側に含むことになるからである。つまり、逆にいうと、彼らが動かないことを選択しているということは、もはや武蔵を捕らえたり殺したりということにかんしては積極性をもてていないことになるのだ。

彼らは、現状何人やられたか、次に斬られるのは誰かと、受身の思考法しかできていない。こういうたたかいにじぶんたちは慣れていないと、素直に認めるものもいる。ここでヘリが描かれるが、ヘリからいちおうライトは出ているようだ。これが現場を照らすだけで状況はかなり変わる。なにしてんのかなうえのひとたち・・・。誰かはやく連絡しろよ!映画とかゲームみたいに、話したことが無線で共有される感じにはなっていないのかな・・・。ヘリがわけわからんほうを照射しているということは、つまりそういうことなんだろう。うえのひとたちはしたの惨状をまだ知らないのだ。

 

島本が死んでからはじめて指示が出た。田沼という警部で、ナンバー2らしい。ふつう、もっともうえの位の上官が倒れたあら、すぐしたのものが代わって指揮をとるとおもうが、たぶん島本の死が未確認だったせいもあるだろう。田沼的には、いったいこの状況はなにか、島本はなにをしているのか、という感じだったはずだ。つまり、じっさいに死体を見たか、目撃者にはなしを聞いたかして、島本の死を知り、指揮権を発動したのだ。

田沼はまず隊員たちを車から離れさせる。武蔵は車に隠れて移動しているのだから、とりあえずまとめて指示を下すにはそうしなければならない。装甲車は12台。隊員はじぶんの乗っていた号車を実質チーム名としているようだ。田沼は1号車から6号車を車の列の前方に移動させ、残りを後方で待機させる。そして、二人以上の行動を前提として、車と車のあいだを前後でふさがせる。そして照準は脚という指示もようやく出る。最初から彼らが脚を撃つつもりで出動していれば、ここまでの惨劇にはならなかったかもしれない。ともかく、恐怖で思考停止状態に近いものになっている彼らに、ようやくまともな指示が行き渡ったのだ。

しかし武蔵は車輌の上にいる。田沼が声を聞きつけ、指示を出すが、間に合わない。武蔵は、刀というより鉈でも振り下ろすように、跳躍とともに体重までのせて、「ズドムッ」という音で田沼を両断する。

だが田沼の命令はまだ生きている。隊員たちは、囲むな、中に入れるな、という互いに言っているが、中に入れるなというのは、車と車の間のことだろうか。そして撃つのは脚。ここで今回の作戦ではじめて発砲された。しかしひとの頭くらいまで跳躍した武蔵はこれを回避、跳び膝を隊員にくらわせる。着地した武蔵がもうひとつの刀に手をかける。STATメンバーも常識的教養を備えた日本人である。それがどういうことか、すぐにわかる。ついに武蔵が二刀流になったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

二刀流を見せるのは勇次郎戦以来だろうか。

勇次郎のばあいは、出し惜しみをしない武蔵のスタイルに感激していたようだが、それというのはやはり武蔵であっても二刀流も秘策なのである。僕が五輪書を読んだのはもう15年くらい前で、それももうどっかにいってしまってないのだが、おぼろげな記憶では、せっかく武士は刀を大小ふたつ差して手もふたつあるのだから、使わないのはもったない、くらいのニュアンスだった(要出典)。吉川英治の創作小説では、これも読んだのは20年くらい前で、しかもこれももう見つからないのでうろ覚えだが、吉岡一門70人とたたかっているときに、いつの間にかそうしていた、みたいに描かれていた(ように記憶している)。これらの記憶をとりあえず正しいものだとして、二刀流とはなんだろうか。まず、刀というのはけっこう重いうえに長いので、片手で、凡人の両手以上の精密さで操ることはそうとう難しいということがある。握り方のコツとか、武蔵ならではの技術もそこにはあったことだろうが、なにしろ小指のちから、端的にいって握力がものをいう流儀である可能性が高い。そして、もしそのことによって、片手でも両手なみに精密にあつかうことができるのであれば、五輪書で武蔵がいっている(と僕が記憶している)、せっかくふたつあるのだから、的な理屈もはじめて通るわけである。ふつうは、刀を片手で操ることはかなり困難である。しかしもしそれができるなら、そして左右別々に動くのであれば、ひとつよりはふたつのほうがなにかと便利であるにちがいない。

また、そういう技術や合理性のはなしとは別に、武蔵はパフォーマー的面もかなりある。STAT一同が理解した「あの宮本武蔵」による「あの二刀流」という文脈をまったく経由しない、たとえば戦国時代にはじめて武蔵と遭遇したようなものであっても、こんな容貌魁偉な男が、刀を両方にもって構えたら、ギョっとするにちがいないのである。    

技術や合理性の面でいえば、二刀流はとっておきの技だ。刀のばあいは、武蔵はスパスパ斬りまくっているが、いくら金重が名刀でも、いつかは刃こぼれを起こして斬れなくなる。長期戦ということを考えたとき、なるべくもういっぽうの刀は温存しておきたいという面があるのだろう。そういう意味でも二刀流はとっておきたい。さらにパフォーマーとしての武蔵という視点からいっても、ここで刀を抜くことで、げんにSTAT一同がそうなっているように、段階が変化する印象を相手にもたらす。本気になったぞ、これからいままで以上に切りまくるぞ、そういう武蔵の決意みたいなものが姿そのものに宿るのである。

それを踏まえて、勇次郎戦で二刀流になった状況を含めても、武蔵はおそらく、じっさいここで本気になっていると考えたほうがよさそうである。この人数、この物量では、いくら現代人が殺し合いになれていないとはいっても、ちょっとの油断で重傷を負い、あっという間に死んでしまう。現場はおそろしいほどの緊張感のはずだ。武蔵はそれを戦略的なものがもたらす恐怖心などでかなりカバーしていたが、田沼の指示のおかげで徐々にそれが回復しつつある。げんに、今回はじめて銃が発射され、車の死角も使えなくなりつつある。囲ませることによる銃撃の制御もたぶんもうできないし、時間がたてばたつほど、上空のヘリがこちらを照らし出す可能性も高くなっていく。表面的にみれば武蔵は彼らを圧倒しているようだが、武蔵は最後のひとりを倒すまでずっと劣勢なのである。武蔵がふたつめの刀を抜いたのは、逆にいえば彼が時間と戦略の限界に追い詰められている、だからもう勝負を畳みにかかっているということでもあるのだ。つまり最終局面である。すでに多くの犠牲を出してしまっているが、武蔵が二刀流になったことそれじたいが、事態の進展を示している。STATの準備不足は否めない。あらゆる事態を想定して、とはいうが、ほんとうに重要なことは、想定していない事態にも対応できることだ。そうでなければ、彼らの訓練マニュアルみたいなものさえ手に入れば、テロリストたちはこれにかんたんに対応できてしまうからだ。そのあたりの不手際というか甘さを、武蔵は実戦的な攻撃で露呈させた。ここであらわになっているのは、たんじゅんに運美不足ということのほかに、彼らが最終的に行動のよすがとするものはなにか、ということである。最終的に優先すべきこと、そのほかのものごとがまったく想定外にすすんだとしても、これだけは守らなければならないルールのようなもの、こうしたぶぶんが、STATではかなり曖昧だったのだ。

具体的にいえば、彼らがここになにをしにきたのかということである。国家権力として、総理の直々の命令を受けて、武蔵を制圧しにきたといえばそうである。しかしそれは具体的にはなにを意味するのか。逮捕であり、抵抗があった場合だけ射殺ということなのか。それとも、総理からは暗に殺害がほのめかされており、生かしておく気などなかったのか。おそらくそれが曖昧だったことが、今回の悲劇につながっている。もし逮捕が最優先の目的であるなら、制圧が難しいことは幾度かの失敗で学習しているはずであり、はるかむかし、対植芝盛平の作戦で考えられた投網などの方法が検討されてもよかったはずだ。しかしみたところそのような装備はなく、対テロ用の装甲車にフル装備できているところからして、根底的には殺害が目的であったのではないかとは推察できる。しかし、それはおそらく明文化されていない。いまたまたま書いた言い回しだが、それは暗にほのめかされているだけであって、指示のかたちをとってはいない。大塚や岩間のころに見たことだが、現代日本では訓練された機動隊員であっても発砲は日常ではない。撃つべきか、というより、これは撃っていい状況なのか、そういう第三者的判断が、射撃者には求められる。しかし戦闘のとがった局面でそんな判断を各自するような余裕はない。だから部隊のリーダーというものがいる。隊員は、発砲すべきかどうかを判断するのではなく、上官の指示にしたがうだけでいいのだ。それが大義となって、隊員の訓練された動作は精神的に安定する。しかし今回の作戦は、いま見た通りだとするなら、その目的、つまり、最優先にして、最後まで通さなければならない初期衝動、これがおそらく明文化されておらず、指示としても口語的な、おしゃべりのやりとりを出ていなかったのだ。要するに、武蔵を最終的にどうするかというのは日本語人が特別に感知する「空気」でしかなかったのであり、それは各自で、あるいは各隊で「そういうことなんだろう」とおしはかるほかないものだったのである。

 

 

武蔵にとってこのたたかいは「戦」、つまり戦争であり、戦争とは、相手国の社会契約を書き換えようとする行為だ。何度かみたように、武蔵はクローンで誕生した人間なので、存在じたいがたいへんな騒動につながる価値を孕んでいる。武蔵じしんの認識としては、たんに、じぶんという存在、また生き方を、周囲が認めないので、たたかうしかない、というふうに、ふりかかる火の粉を武蔵流に打ち払っているわけである。ここのさらに深いぶぶんには富と名声という、彼が闘争を経由して求めているものも含まれる。現代では闘争、もっといえば喧嘩に強いことが社会的名声につながるということはまずない。武芸に優れていれば現代でも尊敬は得られるが、武蔵が生きた時代のようには歓迎されない。もし彼が現代でそれを求めたら、社会のほうでそのように変わってもらうほかない。たぶん、武蔵じしんはそこまで望んでいないだろう。くりかえすように、ただたんに、じぶんのありかたを認めないものを斬っているだけだ。しかしそれは、彼がクローンであるという事実が増幅させて、社会契約の変更をうながす可能性を孕んでいる。2回くらい前にくわしく見たのでくりかえさないが、ごくかんたんにいうと、武蔵じしんにはクローンにかんする責任はなく、むしろ被害者である。誕生させられてしまったタブーの存在である武蔵を、世間は糾弾しない、むしろ悲劇の主人公としてみるのではないかと、こういうはなしだ。おそらく阿部総理には、そういう未来が瞬間的に見えたはずだ。さすがにここまで警官を虐殺してしまうともっと問題は複雑になってしまうとおもうが、それでも、クローンの問題はこれを正当化し、仮に武蔵が死刑になったとしても、彼をある種のヒーローとして祭り上げ、結果としては名声を与えるかもしれないのである。それが、総理のいう「英雄」の意味である。

こうしたわけで、武蔵の認識にかかわらず、いまこのたたかいはまさしく戦争としかいいようのないものになっている。そして、武蔵が(結果として)書き換えんとしている現行の社会契約とは、通常は憲法のことを意味するが、ここではもっと広く、常識とか価値観とかいうふうにいってもいいだろう。そしてここで目につくのがSTATのお粗末な作戦である。

彼らの問題点は、いまみた仮説では、どれだけ想定外のことが起こったとしても最終的に貫徹しなければならない目的が不安定だったということだ。

12人の警官で倒せなかった、じゃあ放水車つきで100人を。それもだめだった、じゃあテロ対策の専門家を100人・・・という具合に、いちおう、武蔵に対する認識が改められるにつれて、物量は増している。しかし、逆にいえばそれだけである。武蔵の戦法を精査することもなく、ただ量だけでとらえているから、対応策も量を増すだけのものとなる。さらに決定的なのは、それを駆動する決断の回路が、最終的には「空気」みたいなもので決まっているということだ(少なくともSTATにかんしては、ということです)。そうとらえれば武蔵の闘争はまさしく批判思想的なものなのであって、現行の社会契約がほんとうに正しいものであるのか、突きつける結果になっているのである。武蔵はこの時代ではイレギュラーな存在であり、宇宙人みたいなものであるから、宇宙人に対応できないからといって、そのルールがお粗末なものだということにはならない。けれども、その宇宙人はじしんの存在の権利をかけて、相手を殺しにかかってきているのである。もしこの制圧に失敗すれば、かつてバキの母が勇次郎について語っていたように、想像を絶する影響を社会に及ぼすことだろう。それなりに理解者である本部か勇次郎が登場しないと、これはたいへんなことになってしまうかもしれない。