今週の闇金ウシジマくん/第390話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第390話/逃亡者くん②






沖縄の金融で働く村田仁。ふつうに考えてマサルとおもわれるが、いまのところはっきりした描写はない。作業着っぽい制服の洗濯をして、折りたたみの携帯電話で今日のニュースを確認する。


家をでて、近所のラーメン屋で朝食を済ませているあいだも、村田はずっとキョロキョロ周囲に目を配っている。なんかゴミを拾っているおじさんの動きにまでいちいち緊張し、構えてしまっている。

その足で向かうのは、どうもマサルが最初にいたアパートとは別のところっぽい。外観や階段の感じがちがうし、部屋のなかも生活感がない。ではなにがあるのかというと、風呂場の屋根裏に金が隠してあるのだ。たぶん最上を殴って奪ったあの金だろう。金が入り乱れてわからなくなってきたが、あれはたしか、家守たちが加納から奪った金だったはずである。とすると、それは丑嶋が退職と結婚のお祝いにあげて1000万だったはずだ。袋にそのまま入っているっぽいところからして、加納は手をつけていないようだし、たぶんマサルも使ってないだろう。1000万丸々あるのかもしれない。(いちおう単行本を読んで確認したのだけど、最上が金庫にしまおうとしていた金、ハブが命令したときは手づかみで、見た感じ650万くらいである。で、最上が金庫に運ぶときは紙袋に入れているようなのだが、金庫に入れるにあたって袋から出したということなのか、床に同じだけ積まれている。マサルはこのとき最上を殴打し、また手づかみで金をつかむが、逃げるときは紙袋に入れているように見えないこともないという感じである。もしかしたら、引越しとかもあって、加納はすでに少しそれをつかっていたのかもしれない)

金を確認だけして、村田はまたそれをすぐしまう。そして仕事だ。沖縄にきても客層はたいして変わらない。飲み屋のママは酒の仕入れ代が入ってご機嫌だが、村田は悪態をつく。ぜんぜんこたえないのは東京と変わらないようだ。

前回野球賭博にすべてを賭けようとしていたいかにも失敗しそうな比嘉だが、100万の勝負に勝ったらしく、今日全額返済するというはなしである。貸した金がちゃんと金が返ってくるし、貸したら貸したでみんな素直に喜ぶので、なんというか、手応えがないのかもしれない。村田はうつろな顔をしている。

なかでは寝たきりの父親を放ってパチスロしている下地がいちばん東京っぽいといえばそうかもしれない。まだ貸してくれという彼に、村田は父親のことを持ち出して怒鳴りつける。下地はうえのひとにクレームをつけるぞとふつうにいってくる。カウカウなら考えられないことだ。柄崎が乱暴だからといって丑嶋にクレームつけてなにがどうなる。悪化はしても対応が改善することはありえない。そういう言い分が出てくることじたい、東京出身の村田にはあまりなかったことのはずである。

帰社した村田を金城社長が呼び止めて、下地からの苦情について伝える。村田は、あんなクズとことん追い込んでつぶしてやるという。それはそれで目的が変わってきているわけだが、まあ、沖縄にきて優良顧客ばかりで、マサルも下地にかんしては張り切ってしまうところがあるのかもしれない。

しかし金城は、沖縄ではそれじゃだめだという。東京では、返済できない客に利息ぶんまで貸しつけ、つまりジャンプさせて、金額をふくらませ、パンクさせる。この言い方だとパンクさせることそれじたいが目的のようだが、そうではなく、もっと厳密にいえば、パンクするぎりぎりのところまで貸し続けて、すっかり回収したところで手を引くということだ。じっさいにパンクしてしまったらふくらんだ貸しつけ額が回収できないからである。風俗だとかマグロ漁船だとか、きつい労働でしぼりとれるならまだいいが、村田久美子のようになってしまえばもうどうしようもない。客がパンクしたその瞬間に貸し付けている業者は、回収できないから損をすることになる。金城はそれをババ抜きと形容する。そういう方法を闇金的によしとしても、東京はほとんど無限に客がいるからいい。しかし沖縄では客は限られている。狭い世界で噂もすぐ広まる。引き出せるだけ引き出すというより、また借りにきてくれる客をつくって回転させることのほうが大事だと。なるほどね。

ひとことでいえば、それは「ゆいまーる」の精神だと、金城はいう。「助け合いの精神」だと。


村田のことをマサルと呼ぶ人物の登場だ。仲間という名前で、こちらに逃げてきたマサルをいろいろ世話したっぽい。村田仁と呼べといっても面倒くさいといってきかない。この男はどういう種類の人間で、マサルとはどういう関係なのだろう。一見つきあいが長そうでもあるが、語尾ののばしかたからして現地の人間っぽいし(仲間由紀恵というひとがいるくらいだから、名字も沖縄由来のものだろう)、たんに陽気なだけかもしれん。

デリヘルをやっている仲間が、マサルに遊んでいってくれないかという。マサルは「今デリヘルやってるんだっけ」といっている。ということは、仲間との関係が最近はじまったものだとしたら、そのときには仲間はデリヘルの営業をしていなかったことになる。ただ、こっちでの生活に慣れたかと尋ねる仲間の様子や、仕事場での金城とマサルのやりとりを見ていると、マサルが沖縄にやってきたのはほんの、せいぜい1ヶ月の間のことなのではないかという感じはする。1ヶ月前の時点で別の仕事をしていた人間、しかもそのときはじめて会ったような相手に対して、「今デリヘルやってるんだっけ」というのは少し奇妙である。マサルと仲間は、マサルが東京にいたころからなんらかのつながりがあって(あるいは万が一の事態のためにマサルがそういう人脈を確保していて)、薄いながらそれなりの年月交流があり、今回それをたどって沖縄にやってきたということかもしれない。たぶんマサル独自のルートで確保した人脈だろうから、以前から丑嶋が戌亥をつかってマサルを調べていたなんてことさえなければ、このルートが見つかることはたぶんないだろう。

最低保証をつけていない仲間の店では、客がつかないと、待機しているだけの女の子は給料が出ないことになってしまう。それじゃすぐ辞めてしまう。いろいろ支払いもあるから、「ゆいまーる」のつもりで遊んでってくれないかと、こういうおはなしである。マサルは全然乗り気じゃないが、仲間はにこにこ陽気に金城社長を紹介してやったから捨て駒の受け子にならずにすんだんだろ?みたいなことをいう。受け子というと、オレオレ詐欺とかでじっさいに金を受け取りにいく人物のことで、捕まるリスクが高いぶん、「捨て駒」であるということかもしれない。しかし仲間はどこまで事情を知っているのだろう。さすがにくわしくは説明していないとはおもうが・・・。むかしの知り合いに「東京でちょっともめちゃったから世話してくれないか」と連絡をとった、ということくらいにおもわれるが、どうだろう、仲間が陽気なぶんわかりにくいが、東京だったら完全にこれは弱みになってしまうし、マサルもあんまり強気に接することはできないんじゃないか。

そういう関係もあるのかないのか、マサルはホテルで女の子を待つことになる。手にはスマホっぽいものが見える・・・。2台もってるのかな?

この展開は杏奈がくるんじゃないか・・・などと一瞬おもったが、ふつうにきれいな黒髪の女の子だ。見るからにすれていない感じのいい子で、マサルもそれに気がつく。はじめて半年、週二くらいでやっているという。

プレイが痛いひととか、金払ってるからいいだろという態度の客など、まあよくいわれる種類の嫌な客もいるにはいるが、たいていの客は優しいと彼女は明るくいう。ポジティブなのだ。だからこの仕事でも病むことがない。と、女の子はマサルの暗い表情に気がつき、そばに寄る。マサルが悩みを抱えていることが伝わったようだ。女の子に優しくされて、マサルは涙を浮かべてしがみつき、丸くなってしまう。震えるマサルを、女の子はなにも事情はきかず、「なんでもないよ」と慰めるのだった。




つづく。




村田仁がマサルであることが今回明らかになった。仲間という、陽気で無害そうだがそれだけにあやしく油断できなそうな男が登場し、マサルの逃亡の手引きをしたらしいということも判明したが、相変わらず細かいところはよくわからない。仲間はどこまで知っているのだろう。もし、なにからなにまで知っているとしたら、けっこうマサルにはネックのような気がするし、くりかえすようにこれが東京なら、マサルは口止め料を払わなくてはならないかもしれない。まあ、仲間の人格と沖縄の陽気が同時にそうした事柄の角を落とし、感覚を鈍くさせている可能性もあるので、このあたりはまだなんともいえない。深い事情は説明していないのかもしれないし、していたとしても問題ないのかもしれない。

もうひとつは、やはりマサルがどこまで知っているのかということだ。いちおう携帯電話でニュースを見ている描写はあるが、ということはそれはテレビレベルの情報量なわけである。人伝いに噂話を手に入れるには仲間を使わなければならないだろうけど、そうなると仲間がすべての事情を知っている必要がある。さすがに、ハブや熊倉が死んで、事件になってはいるだろうから、この件については知っているだろうが、丑嶋がいまどうしているのかということはわかりようがないだろう。ただ、仮に大きく報じられたとして、そこの死者の名前のなかに丑嶋はないわけである。かといって生きているとも限らないわけだが、おそらくマサルなら、丑嶋がヤクザどうし殺しあったように見せかけた現場の報道を受けても、すべて丑嶋がやったことだとわかるだろう。

マサルはハブも裏切っている。ハブだって、いちおう大きな組織の末端に属していた人物なわけで、現実的には薮蛇組で問題にしていなかったとしても、裏切った当の本人からすれば、はなしが東京でどうなっているか全然入ってこないぶん、かなり不安だろう。そして、身近で見てきたぶん、丑嶋が不死身であること、そしてヤクザ以上におそろしい男であることも、よく知っている。現実的にはこのあたりがマサルへの精神的な負荷となって、日常をあんなに緊張して過ごさねばならないようにしてしまっているのである。

沖縄人がくちにする「ゆいまーる」は、マサルのなかでどんなふうに響いているだろう。マサルは集金しつつ、客と店双方にあるゆるさを、あるいはなまぬるいものと感じているかもしれない。マサルは、下地にかんして、あんなクズすぐ潰してやる、みたいなことをいう。しかしそれは、結果そうなるかもしれないというだけのことであって、潰すことは、東京であってさえも目的ではなかった。だって潰したら回収できないから。そもそも、おそらく東京時代の癖でやっているとおもわれる、私生活への口出しは、きちんと定期的に回収するための予防手段だったわけである。客がどういう人物で、どういう背景で金を借りにきたのかしっかり把握していないと、身元の保証もあやしい債務者たちからきちんと取り立てて利益をあげることなどできない。いくらおどしても、金のないものはふっても出てこない。ぎりぎりでも金を作り出す機能を保存してもらわないと、貸す側としては困るのだ。生命保険の健康診断みたいなものである。

沖縄の「ゆいまーる」の精神は、助け合いの精神であるから、金融屋はお金に困っているひとにそれを貸し、返してもらうときに少しいろをつけてもらうことで利益を出す。それで営業を続けられればそれでよい。おそらく、「金が金を増やす」という東京のマネーゲームとは無縁とおもわれる。そういう動機だから、見かけだけみれば、マサルが下地の生活にくちを出すように、沖縄の地元の金融も声をかけている可能性はある。しかしそれはマサルがしていることの目的とは異なった、もっとサザエさん的ありようである。「ゆいまーる」は、仲間のように冗談半分でも都合よくつかわれる標語である可能性もあるが、まだ例が少ないのでなんともいえないぶぶんもあるとはいえ、比嘉などを見ていると優良顧客が多いように感じられる。貸したら、きちんと返ってくる。それは、ゆいまーるが標語なのではなく、ただの説明だからである。ゆいまーるという目標があって、ロールモデルとして想定して、ひとがそこを目指すのではなく、すでにそうした生き方が現地で選択されており、それを説明・形容する段になってはじめて「ゆいまーる」という呼称が生じてきたのである。

そういうセリフがあるわけではないが、マサルはおそらくなまぬるさ、という説明がちょっとちがうとすれば、いってみれば「手応えのなさ」を感じているように見える。それの正体が、けっきょくのところ「ゆいまーる」なのだ。下地もいかにも東京的なダメ人間かもしれないが、たぶん、踏み倒そうなどという気は彼にはない。しかし、東京的集金に餓えたマサルは、下地のダメさ加減にとびついて、みずからすすんでイラついてしまう。下地がダメ人間であり、借金を踏み倒そうなどという馬鹿なことを考えてくれるような人間であれば、マサルも遠慮なく回収の鬼になれるからだ。沖縄において、地域に密着して、互いに助け合うという精神が、もしきれいごとだとしてもじっさいに機能しているのだとすれば、逆にいって東京では「互いに助け合わない」という点についての深い相互理解が、貸す側にも借りる側にも徹底してあるともいえるかもしれない。マサルが東京からもってきた方法、すなわち「あんなクズは潰してやる」という結果の表現は、相手のほうでもたとえば踏み倒す気満々だったりしたときにはじめてフェアなものとなる。つまり、マサルのやりかたは、それは倫理的にみてどうなのかということはあるとしても、東京の現実の原則でいえば、したたかな債務者に対応するための技法なのであって、正しいありかたなのだ。しかし沖縄ではそうではない。そうしたとき、マサルは確実に疎外感を覚えたはずである。いままでの方法をそのまま持ち込んでも、沖縄では正しく機能してくれない。ということは、マサルという価値、マサルという生き方が、社会関係という意味合いにおいて、現状ではきちんと周囲に把握されないのである。なんの冗談か仲間が仲間という名前であるのもおもしろい。東京時代は、カウカウでは評価され、客はマサルをおそれ、いろいろな方向から「マサル」という人物の価値が規定され、彼のアイデンティティをたしかなものにしてきたはずである。しかしいまの状況には、マサルをそれとしてきちんと把握してくれる人物がひとりもいないのだ。

そして、重要なことだが、その「評価されないマサル」というのは、これまでの考察からいえば、丑嶋から受け継いだ「愛沢以後」のマサルである。マサルが下地を通して具現し、沖縄に持ち込もうとしている東京の流儀、これは、まるまる丑嶋が授けたものなのである。マサルが丑嶋を否定するということは、自己否定するということにほかならなかった。けっきょくこれは果たされず、現実問題としてマサルは丑嶋に授けられた技法をつかって生きていくしかない。しかし、沖縄ではこれが通用しない。いや通用はするだろうけど、価値が正確に認められることがない。じっさいには別の生き方もありえたはずである。それが、彼が「村田仁」と名乗っていることにあらわれていると見ることもできる。ごく単純化していえば、マサルの生は「愛沢以後」と「愛沢以前」に隔てられ、友人である村上仁は「愛沢以前」の無垢な時代を象徴する人物であった。それは、丑嶋への復讐を決行しようとする段階で彼が仁と訣別したことからもわかる。しかし、そもそも丑嶋に復讐しようとすることじたいが示しているように、マサルはそれがどういうことかをわかっていなかった。丑嶋が授けた技術、もっといえば生で丑嶋に復讐するということは、自殺にほかならない。これが成り立つ可能性があったのは唯一、彼が「愛沢以前」を足場にした場合のみだった。「ほんらいのわたし」は「愛沢以前」のようなものだったはずである、それを丑嶋はこんなようにした、だから復讐すると、こういうはなしならわかる。しかしマサルは、復讐にのぞむにあたって仁と訣別するという、大きく矛盾した行動を選んでしまった。ほんらいなら、逃亡するにしても、「愛沢以前」を足場にして、バイク屋で働くとか、いろいろ選択肢はあったはずなのである。しかし、彼はもうそこに戻ることができない。みずから否定しようとしてきた丑嶋的ありようを通す以外に、もう生きる道がないのである。彼が「村田仁」にすがるのは、そうした後悔とか憧憬とか、もっといえば郷愁とか、そういう感情が入り混じった結果であろうとおもわれるのである。


マサルが無自覚に足場としてきた「愛沢以前」にはもどることができず、これまでずっと否定してきて、しかし使わざるを得ない「愛沢以後」の技法もここでは価値を認められない。マサルはいま、じぶんが何者かわからなくなっているのだ。マサルが泣きながら震えるのは、ハブや丑嶋やそれに関係するような男たちがこわいからというだけではない。もちろんそれがもっとも大きな不安ではあろうが、それに加えて、結果何者でもなくなり、ということはとるべき行動の指針もなく、無防備にからだをさらした状態でその日暮らしにびくびく生きるしかない、その状況に心底疲弊しているのである。最後のマサルは女の子のやわらかさに母を見ているはずだ。母は、子どもの社会的価値、つまり何者であるのかということにかかわらず、子どもを認め、愛するものである。察しのよい女の子も、事情を聞かず、ただその存在を認めることで母を演じている。マサルが最初「女買う気分じゃない」といったのはたぶん本当のことだ。「買う」ためには、その欲望の主語が必要なのである。






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