今週の刃牙道/第91話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第91話/実戦屋






宮本武蔵が、勇次郎と酒を飲みながら、本部の実戦性を評価しているいっぽう、本部は光成に武蔵との対戦を要求していた。いつもどおり、読者同様の「まあ、好きなようにしたら・・・」という反応だった光成もやがて本部の実戦意識に気がつき、これを認めるようになる。それとも認めつつある?


その本部を、もともと弟子だったということでガイアが訪れていた。ふたりは久しぶりに立ち合いをすることになり、本部はあっさりそれを制圧してしまった。今回はそのたたかいの詳細である。

本部はせっかくの久しぶりだから立ち合ってみようという。独特の言い回しで、久しぶりであることがせっかくの状況であるから、立ち合ってみようということに見える。長い時間会っていなければ、技術的にも互いに変化があるかもしれない。それを見せてくれ、というくらいの意味だろう。

ルールがあり、常識がある、そんな道場は安全だというはなしだったのに、嘘ばっかりだとガイアはいう。本部を持ち上げているようにもみえるが(げんにその傾向がないではない)、たぶんほんとうに警戒しておそれているのだろう。

いつでもどこでも誰とでも、そういうスタンスでいる本部はほんとうの実戦屋だと。そういうキャラクターはこれまでもたくさんいた。しかし、それと本部は根本的に異なるというはなしである。なにをもって差別化するか、そこが、「本部でなければならない」ここからの重要なポイントになるかもしれない。

ガイアも本部相手では実戦上等、やろうやろうとはならないようである。汗をうかべながらなにをもって決着とするかなどと訊ねる。むしろこうした会話は、死刑囚編などでは戦術のひとつになっていたりするものだが、そうではなく、ふつうに会話であるのは、そのような子どもだましの小細工は通用しないという互いの理解があるのかもしれない。

決着については「やりながら決める」と本部はいう。そのときの状態や雰囲気で、互いに「このあたりで決着にしよう」とおもえるポイントまで、それを決めないつもりなのだ。なんでもないようだが、こういうところも実戦的といえるかもしれない。突発的な実戦で「じゃあ先に倒れたほうの負けね」みたいな、外部からの審判はありえないわけである。実戦においては、じぶんと相手しかいないのだ。ふつうは、相手が納得するまで、勝っているほうは徹底的に攻撃することになるが、ふたりは友人、あるいは師弟なのだし、憎しみから殺し合うわけでもない。こんなところが妥当なのだろう。


表情をかえたガイアがそのルールなしルールを承知し、くちから硫酸の入ったカプセルを噴出す。もともとくちのなかに仕込んであったようだ。それを本部はあっさり掌で受ける。顔に受けたらひるんですきをつくってしまう。このカプセルは、本部が教えたもののようだ。とすると、ガイアがバキ戦敗北からなんらかの流れで本部流にたどりついたという線はなくなる。なぜなら、このカプセルはバキ戦において使われているからである。


ガイアもそれが当たるとはおもっていなかったのかもしれない。さすがです・・・などといいながら自然と近寄り、ハンカチで手をふく本部に近寄っていく。そして、距離を見計らい、なにか針のような武器を仕込んだ左拳をすばやく突き出す。本部は特にそれをかわす動作もなく、いつのまにかガイアの側面に移動している。スピードや反射神経でよけているというタイプの回避ではない。そうくることがわかっていたかのような動きだ。パンチのコマだけみると、ガイアが誰もいないところにパンチを打っていて、それを本部が横から眺めているだけのようにさえ見える。

本部はガイアの拳にハンカチを優しくかける。そして、拳の先から突き出た針を刺し、ハンカチで拳をくるむようにして、ひっかけて投げつける。続けて迷いなく流れるような動作でガイアの関節をとり、うつぶせになったガイアの背中にひざをあて、脇固めのような状態にして動きを制御する。よく見ると、ガイアの顔は本部の足の甲に押し付けられているが、これはどういう意味があるだろう。同時に首もいっぽうに固定してしまうことで、エスケープ不可能にしているんだろうか。なんらかの方法で膝をはねのけても、これではガイアは回転できない。

この時点でガイアはタップしているが、本部はまだやめない。ズボンからベルトを引き抜き、なめらかにガイアの両手をかためてしまい、完全に動きを制圧してしまうのだった。

ガイアは無傷のままである。このようにして道場は安全なのである、とかっこよく宣言しようとしたらズボンがズルっと落ちてパンツだかふんどしだかが見えてしまう。この描写はいったいどういうことを意味しているのかッ?!!


そのころ、光成の家をジャック・ハンマーが訪れていた。光成は寝巻きっぽいのを着ているので、朝早いんだろうか。武蔵再誕の兆しを受けて多くのグラップラーが鍛錬にはげむなか、ジャックは人生二度目の骨延長手術を行っていた。今回は、なんでも運動能力を損なわないぎりぎりのところまで背をのばしたということである。身長243センチ、体重201キロ。あたまが天井につかえ、首を曲げなければならない高さである。大きいものが小さいものより強いことは真理である、にもかかわらず誰も実行しない、ジャックはそういう。いや、生物は軽いほうがなにかと都合がよいとか、そもそも痛すぎる、あるいはそんな技術があるとは知らなかった、副作用がこわいなどなど、実行しないものにもそれなりの理由があるだろうが、ジャックはどんなにきつくてもどんなに未来を損なうものであっても、最短距離で最高の結果が得られる選択をし続ける男だ。なにしろ、今日勝つために明日を捨てる男だから。大きくなることでどんな結果を招くか不明なぶぶんがあるにしても、ジャックとしてはこんなにたんじゅんなことをやらない理由はないのだ。

ジャックが光成のところにやってきた理由はひとつである。宮本武蔵にあわせてくれと。ジャックのあまりのでかさにいつもより小さくなっている光成は、ジャックが武蔵と会うことを望まぬ男がいると、ようやく告げるのだった。




つづく。




ジャックと武蔵の出会いを望まぬ男とは、本部のことと考えてよいだろうか。年末年始などはさんであいだがあいてしまったので、感覚としては薄れてしまっているが、考えたらこれは本部が武蔵と立ち合う宣言をした2回あととかなんだよな。ふつうに考えて本部のことと見てまちがいないだろう。もうほかの誰も武蔵とはたたかわせない、そういう主旨のもと本部は武蔵とたたかうのだから、ここでジャックをはさんじゃったら光成は本部に怒られてしまうだろう。


243センチなんて、いまでも想像もできない身長だから、武蔵の時代でも考えられない高さだろう。武蔵はふつうにびっくりするにちがいない。基本的に「大きいことはいいことだ」ということはいえるのはまちがいないが、ふつう、特に身長というのは、個人の努力でどうにもならないぶぶんもある。「長男であること」とか「女性であること」みたいに、背が高いか低いかというのは社会の人間関係における相対的な事象であり、そのなかでの個人の価値を規定する本質的な要素でもあるので、それを「よいこと」とするのは、極端なことをいえば「日本社会では男性であるほうが圧倒的に出世にかんして有利である」というようなことを特に反省なく描くようなもので、ある意味では身もふたもないのである。まあ、そういう現実を意図的に反省せず描くことで、わたしたちが常識ととらえている事象の意味を浮き彫りにするという手法もないではないが、とりあえずバキという漫画はそういう方法をとっていない。かといって大きいことは弱いことだ、とはならないが、結果としては、巨人は不遇であることが多い。しかし、ジャックのばあいはそれを、苦痛にたえ、おそらくそれなりのお金を払って、つまり身銭をきって獲得したものであるという背景がある。だから、巨人が不遇であるバキ世界でも、ジャックにおける高身長が有効である可能性はある。いまのところ、最初の骨延長においても、ジャックがでかくなって、同時に同じだけ強くなったと実感できる描写はないのだが、いちおう理屈としてはそうなるのである。

そして、武蔵において243センチなんていう身長は想像もできない、ということがもしあるとしたら、それもまたジャックには有利なことである。たんに大きければリーチがあり、パワーも増すなどというレベルのはなしではない。ここまででかいと、対人間を想定して研鑽された技術のほとんどが使えないのではないだろうか。調べたところ、伝承では、北条家につかえた風魔小太郎でも216センチである。だいたい宮本武蔵だって当時はかなりの大男だったはずだ。現代にきてみんなでかくて驚いているにちがいないところに、前代未聞の243センチなんか出てきたら、ふつうに学術的興味とかもっちゃうかもしれない。

というわけであるから、ピクル敗戦から親子喧嘩をテレビで眺めるという残念な描写とは裏腹に、ジャックは武蔵相手ならかなりがんばるんではないかと想像できる。まあ、武蔵も現代人の高身長のことを考えていないということはないだろうし、決まった型でなければ対応できない、というような凡人でもないから、どうとでもなるともおもえるが、しかし本部はそれでも許可しないだろう。武蔵は、あらゆる武芸を知り尽くしている。知性は、じぶんがなにを知らないかということについて意識を向けることができるようになったとき、もっとも活性化されてちからを増していくが、武蔵の「武芸百般」にもあるいは同様のことがいえるかもしれない。世界に存在しうる武術や発想をすべて知り尽くしていることにより、たたかいにおいてあらわれてくる技術はすべて既知である、だから強い、というはなしなのではない。そこのところをわたしたちは、バキと勇次郎のやりとりでいやというほど経験している。おそらく、武蔵にとっての未知は、わたしたちにとっての未知とは異なっている。わかりやすい例でいえば、勇次郎にとってバキのくりだした虎王は最大の未知、最大のプレゼントだった。というのは、虎王が、他の漫画、つまりほかの次元における奥義だったからである。虎王は、げんに勇次郎が知っているかどうかという以前に、構造的に未知の技だったのである。そして、その虎王の未知性がきちんとその通りに機能したのは、勇次郎が既知の人間だったからである。圧倒的な腕力と才能で、文字通り世界をわたりあるき、「知らないこと」を限りなくゼロに近づけることで、勇次郎の強さは成っていった。だからこそ、存在しないはずの未知、すなわち、勇次郎が完全に知り尽くした世界の外からの知識に対して、彼は対応できなかった。一見すると武蔵の「武芸百般」も、そのように「知らないことをなるべく減らす」という行動に見えないこともない。しかし勇次郎がげんに存在している世界で、しかも過去からの登場という大きなハンデを背負って武蔵が登場する価値は、おそらくそこにはないとおもわれるのである。それは、未知を未知のままにうけとめることのできるありようなのである。武蔵は、多くを知ることにより、じぶんがなにを知らないか、またなにを知らない可能性があるかということについて保留する余裕があるのである。だからこそ、基本が型にあっても、ジャックの巨体のような、型からはずれた規格外のふるまいに対しても対応できる可能性が感じられるのである。


そう考えてみると、では本部における「武芸百般」はどのようなものだろうか。武蔵の評価を考えると、あるいは同じ種類のものを本部のなかに感じ取っているようにおもえないこともない。けっこう危ない目にあいながら、なんだかんだ生き残っているというのも、たぶん「未知を未知として受け止めることができる」ことを示しているのだろう。心配なのは本部じしんにその自覚はあるのだろうかということである。対武蔵ということにおいて、じぶんは誰よりもその領域に精通している、そうした自負が彼を武蔵に挑戦させる。これは、相対的な知識の多寡によってじぶんの位置を規定しているということにほかならない。「未知を未知としてうけとめる」という悟りを獲得するためには、多くの知識、多くの経験を経なければならないが、原理的には、そうでなくても悟ることはできる。知識が多いことそれじたいは重要ではないのである。しかし本部は、じぶんがもっとも武蔵に近いという量的なしかたでみずからを規定している。ここに若干の不安が残るのである。





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