フリースタイルダンジョンについて | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

去年の9月か10月くらいだったとおもうが、僕は基本的にテレビを見ない(見れない)のだけど、仕事が終わったあと相方の家に寄ったときには、2時くらいまでごはんを食べながらテレビを見てくつろぐことがときどきある。たいていマツコ・デラックスの番組を探すか、てきとうにニュースでも見るかするのだが、ちょうど、さて、そろそろ帰って筋トレしなきゃというタイミングで、テレビにZEEBRAがうつったのである。地上波でジブラの姿を見るのは、僕はシュガーヒルストリート以来だったとおもう。で、装着したカバンや上着もそのままに、「うおっ、ジブラだ!」とうめいて硬直し、そのまま番組を見続けた。たぶん2回目の放送とかだったとおもう。最初のナレーションからしてUZIだし、T-PABLOWR-指定など、そのときはまだ聞いたことのなかった名前もあったが、サイプレス上野、MC漢、そして般若と、なじみのある名前が次々と登場し、「なに?!なにこの番組?!」となって座り込んでしまったのであった。火曜の深夜、厳密には水曜の午前1時26分頃にいまも放映されているフリースタイルダンジョンなのであった。




フリースタイルというのは、要するに、前もって用意したリリックをラップするのではなく、即興でラップをすることだ。バトルとなれば、互いに即興でラップしあう。なじみのある名前といったが、正直に書けば、般若も漢ももちろん知ってはいたのだが、よく知っているかというと全然知らない、アルバムももっていない。般若は客演で何度も聴いたことがあるが、漢は音源で聴いたことすらない。動画で何度か見たことがあるだけだった。しかし、僕が大学生くらいのころ、いちばんヒップホップに熱中していた時代、「blast」というヒップホップ専門の雑誌が発行されていて(いま考えてもあれはいい雑誌だった・・・)、特別にくわしい友人がいるわけでも、ひとりでクラブに出かける勇気があるわけでもなかった僕ではそれが唯一の情報源だったから、雑誌なんてふつうぱらぱらっと読むものだろうけど、ほんとうに熟読していて、そうした媒体を通してある意味ではよく知っていた。つまり、フリースタイルの大会の結果などを通して、その名をよく目撃していたわけである。僕の認識ではその般若と漢、それにKREVAがフリースタイルの三強というとこだった。

しかし、正直にいえば、あのころの僕はフリースタイル、あるいはバトルというものをよくわかっていなかった。要するにディスり合いでしょ?なんでそれを即興でやるのかなと、ディスなら、般若はふつうの曲でもやっているわけだしと、どことなく、ふつうにスタジオ録音されたものより一段低いものとしてとらえていた。もちろん、フリースタイルを行うということそれじたいに関係する技術は、ふつうでは獲得できないものだろうし、ラッパーによっては得手不得手もあるだろう、でも、楽器の演奏ならともかく前後の関係性で論理的につながってないといけないラップを即興でやるとなると、パンチラインといったって知れたものなんじゃないのか、それなら、じっくり練って寝て練ってこれで決定、したライミングで構築されたもののほうが当然高度になるのではないかと、こんなふうに考えていたのである。バトルでなくても、フリースタイルを目撃する機会はないではなかった。たとえばジブラの武道館である。RIZEJesseをフィーチャーした曲で、ほとんどすべての仕事を完璧にこなすジブラが、どうしたわけかホワイトアウトしてしまい、完全に歌詞をとばしてしまったのだ。そこでジブラは、あきらめて即興で流暢なラップを披露してみせたのである。しかしそれも、ある意味では「ジブラだから」できたことじゃないのかなと、そんなふうにおもっていた。無知だったとしかいいようがない。フリースタイルがこんなにおもしろく、またこんなに高度なものだとは、まったく、ぜんぜん想像していなかったのだ。

決定的なのはR-指定だった。このひとはまだ24歳という若さなのだけど、MCバトルの最大の大会であるUMBをすでに3連覇しており(昨年末に行われた大会には不参加)、現役最強といってもいい使い手である。このR-指定をはじめとして、最若手のT-PABLOW、サイプレス上野、MC漢という、文字通り泣く子も黙るようなほんとうに強いラッパーたちが「モンスター」として控え、そこに、毎回「チャレンジャー」として、たとえばMCニガリのような、高校生ラップ選手権覇者レベルの強者が順番に挑んでいき、最終的にラスボスの般若を引っ張り出してこれに勝利すれば100万円の賞金が手に入るというシステムになっている(知ったかぶりして書いているが、たとえばこのMCニガリなんかも、このほんの数ヶ月で知ったのだ)。バトルには相性もあり、絶対はありえないというのは格闘技といっしょで、番組がすすむにつれ、強い、また調子のいいチャレンジャーも登場してくるし、5年間無敗とかだったはずのR-指定も、焚巻というラッパーにいちど敗れている。それだけ「どうなるかわからない」のがバトルなわけだが、ともかくこのR-指定というのが事実上の最強者であることはまちがいない。ちょうど最初に見たときだったかな、バトルではなく、番組最後に行われるライブで、観客が適当にくちにした言葉五つをお題として歌詞のなかに混ぜてラップをするという「聖徳太子スタイル 」を披露していたのである。これはどうもR-指定の十八番らしくて、動画検索すればいっぱい出てくるのだが、これが本当に衝撃だった。いったいどういう思考法をすればあんなことが可能なのか。とりあえず、いま説明しても伝わる気がしないので、是非動画をみていただきたい。その場で、急に渡された、しかも複数のお題を、きちんと論理的に意味が通るようにつなげて、しかも流暢なフロー、タイトな押韻でかためてラップにしてしまうのである。誇張ぬきでまさに神業である。




そうしてR‐指定というラッパーにやられてしまったというのもあるけど、やはりバトルそのもののおもしろさに目覚めてしまったというのも非常に大きい。ヒップホップを聴いてきたといっても内容が偏っていることに自覚はあったし(基本的にジブラ、ブッダ、ニトロの周辺に限られている)、くわしいつもりも別になかったが、こんなおもしろいことを知らなかったなんて、なにも知らないも同然だったと感じているくらいである。だから素人丸出しで書くけれど、R-指定に限らず、あれはいったい、どういうあたまの使い方で可能になるのだろう。エミネム主演の「8mile」とか、あとUMBもそうみたいだけど、バトルの勝敗が観客の声に任されることはけっこうあるみたいだが、番組では5人のジャッジによる多数決という方法がとられている。ちなみにこのジャッジも非常に個性的で、晋平太をはじめとしたフリースタイルの巧者三人と、たぶん女性枠ということで、バトルにもくわしいLilyというひと、それに、日本語ラップの創始者としていとうせいこうが参加している。で、このひとたちのはなしを聞いていると、やっぱり、用意している、あるいは用意したもので代用可能なライミングだと、そうとううまかったり、盛り上がったりしても、若干評価は落ちて、基本的には相手のいっていることに耳を傾けて、ディスるにしてもリスペクトを表明するにしても、アンサーしていかないとだめなようなのだ。これはスタジオ録音でも同じことがいえるが、ラップの方法にもいろいろ個性があって、カチコチにかたい韻を踏むものもいればあまり踏まないひともいるし、バーバルみたいにインテリジェンスをみせるものもいればマッカチンみたいにユーモアとかナンセンスで徹底しているひともいる。全然ディスらないひともいれば、最初から喧嘩腰で、これバトルのあと大丈夫なのかな・・・とか余計な心配をしてしまいそうになるひともいる。いろいろなわけだが、そのスタイルの応酬も込みで勝利するには、「相手のくちにしたことがなければ存在しなかった」ようなラップであることがまず求められるわけである。つまり、その場、その瞬間、その相手のラップが、突然目の前にあらわれるという状況以外では決してあらわれてこなかったようなもの、それがバトルに具現化するものの正体なのである。動画のコメント欄なども読んでいま勉強中だが、バトルの勝敗についてはやはりいろいろな意見があるようではある。しかしステージに立つものは、格闘技とまったく同様のことだが、そこに立つという動作それじたいによって、そのルールにしたがうという意志を表明しているから、多少納得いかない結果になっても、けっこうみんなすっと受け入れるのだ。観客の声の大きさなどが評価の基準となると、なにかポピュリズム的なものを想像してしまうが、あんな会場にわざわざ出かけて聴きにいくようなひとはまずまちがいなく玄人リスナーなので問題ない。いずれにしてもフリースタイルダンジョンを見るかぎりでは、そうしたアンサーのぶぶんが非常に重視されているように見え、それというのはつまり、「いかにその瞬間でしかありえないラップをするか」ということなのである。こんなことを、彼らがいったいどういう脳みその使い方で行っているのか、謎は深まるばかりだが、ふつうに考えて、ラップしながら、聴きながら、何手も先の言葉を、それも上手に韻を踏み、観客がわくような名言に仕立てながら、マシンガンのように滑らかにくちにしていくんだから、並大抵の技術と蓄積ではないのである。そして、くどいようだが、それがつまらないわけがなかったのだ。僕はなんというバカモノだったのだろう・・・。




これは、同様に即興音楽であるジャズでもそうだが、たいていのミュージシャンには「手癖フレーズ」みたいのがあって、思いつかないというわけではないだろうけどけっこうよく聞く音のかたまりみたいなものは誰にもある。即興といっても、ことばというのは「それ以前に誰かが一度以上口にしたことのあることば」であることにちがいはないわけだから、ある意味では、それは手癖フレーズの連続となる。が、勝敗が、そしてそれ以前にフリースタイルというもののおもしろさ、また程度が「即興性」によっていることが示しているように、「その瞬間にはじめて生まれたことば」を、おそらく彼らは口にしている。これはほんとうに不思議なことだ。フリースタイルは、「そのときでなければ存在し得なかったことば」を評価するが、定義上そういう「ことば」はありえないわけである。そして、フリースタイルバトルを目撃するわたしたちがげんにそう感じていることが証明するように、ここにはたしかに一回性のスリルがある。それは、その瞬間を逃したら決して戻ってくることがない、復元のできないプリミティブな表現なのだ。ラッパーに限らず「作り手」に嫌われる種類の言説だが、たとえば花は枯れるから美しいというのは、その美しさのなかにすでにして滅びが含まれているからである。わたしたちは、無意識にでもそこに死や滅びを感じるから、そのたたずまいにかけがえのなさを感じ取り、美しいと知るのである。もちろん、死に縁取られる人間の生も同様である。クローンが倫理的にタブーとされているのはおそらくそうした理由がある。復元できないところにこそ、わたしたちの生の交換不可能性は宿っている。クローンが可能となれば、わたしたちの生は交換可能となり、すなわち「量」となり、人間は生きる意欲を失ってしまうにちがいないのだ。

即興音楽には、そうした生についての根源的なありかたが含まれている。「ことば」は、ある意味では貨幣であり、量である。しかし、ひとの声帯を通し、またまさにそれが即興的なものであると判定されるその「場」じたいとのかかわりのなかで、おそらく唯一無二の交換不可能なものに変わっていくのである。

また、「その瞬間でなければありえない」ということには、「あなたでなければいけない」という意味も含まれている。あんなにディスりあっていて不可解なはなしだが、あれは、そのふたりでしか成立し得ない「コミュニケーション」でもあるのだ。一回性の音楽でありながら「ことば」を介するという特異性は、そういう意味合いで実るものかもしれない。




へんな方向に転がってしまったが、ともかく、そういうすばらしい番組で、そして個人的にもっともうれしかったことは、相方がこれを通してすっかりヒップホップにはまってしまったということである。つきあいはじめたころ、僕があれだけニトロとかデヴラージとか貸してもいまひとつの反応だったものが、なんとじぶんからUMBDVDを注文するようになったのである。僕だってまだ見たことないのに!発端としてはR-指定の衝撃はやはり大きかったようで、ファースト・アルバムの『セカンド・オピニオン』もすでに手に入れ、毎日聴いているようだが、興味はそこにとどまっていない。僕は僕で晋平太のアルバムを購入した。そういうひとはけっこう多いのではないか。それくらいおもしろい番組である。ふつうに深夜なので、生で見るのは難しいかもしれないが、番組内容はすべてYOUTUBEで公開されている ので、是非見てもらいたいです。







V.A「ULTIMATE MC BATTLE GRAND CHAMPION SHIP 2014.../LibraRecords
¥3,240
Amazon.co.jp

セカンドオピニオン/LibraRecords
¥2,777
Amazon.co.jp