あけましておめでとうございます | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


年越しは相方の家で。ちょっと前までは父親とすごしていたのだが、時間がなさすぎて、去年あたりからもうそれはあきらめている。大急ぎで閉店し、ちまちまと施錠やらなんやら確認し(なにしろ1月1日は1年で唯一店に誰もいない日なのだ)、大急ぎでコンビニに行っていろいろ買って家に向かい、相方の家族と、おそばを食べながら紅白を見て、ゆく年くる年見て、「よくやるよなぁ」と初詣に並んでいるひとたちを眺めつつ、新年を迎えた。一瞬でも紅白を見たのはかなり久しぶりであった。なんか毎年ダウンタウン見てたような気がするのだけど、なぜか昨日は紅白を見ることに。もともと歌謡曲にくわしくなったことがないので、紅白は他人事だったが、いちどだけm-floが出場することになったときだけは、部分的に録画したりしたことがある。

後半になってくると特によく知らないひとばかりになるのはある程度の年代以下のひとはみんなそうだとおもうが、最後にみんなで蛍の光を合唱するところではやはり毎回ちょっと胸をうたれてしまう。いろいろあったけど、ようやく1年が終わるなぁと。うちの店も、ご多分にもれず閉店時にこの曲を流すのだけど、特に二十歳以下の若い子だと、イヤホンしてるわけでもないのに素でこの曲のコノテーションがわからなかったりするものである。音楽に限らず、いろいろ荷物片付けたり、外に設置してあるガチャガチャをなかにしまったり、かなりあわただしい雰囲気になるにもかかわらず平気で立ち読みし続けるのもどうかとはおもうが、平均的に見てどうも若い子は「蛍の光」が「終わり」とか「別れ」を意味するというふうには感じないようなのである。閉店時間をすぎてもしばらくは待つけど、あんまり放置するのも、じっさいに「蛍の光」を聴いてあわてて買い物を済ませて出て行ってしまったお客さんに対して不公平になってしまうので、声をかけるが、そうするとたいてい意外そうな顔をして、赤くなって帰ってしまうのである。つまり、本気で気づいていないのだ。これがヤンキーとかだと、「オレは閉店時間なんか気にしないアウトローだぜ」っていう身振りをとらないといけないからまだわかるのだけど、ふつうの子でそうなのだ。僕はそれを、若い子が紅白を見なくなったからだと考えていた。調べてみると、どうやら我々が閉店時に流している曲は厳密には「蛍の光」ではないらしい。「蛍の光」はスコットランド民謡で、もともと4拍子なのだが、それを日本で3拍子に編曲したものがこれであり、タイトルは「別れのワルツ」というのだそうだ。なるほど、よくよく思い返してみると、みんなでうたう「蛍の光」とうちで毎日聴いているアレはたしかにちがう。しかし、そんなことははっきりいって些細な問題で、ひとことでいって同じ曲である。「蛍の光」そのものは、知らなかったが、紅白以外の別れの場面でつかわれることも多いようである。覚えていないだけで、卒業式とかでも演奏したりあるいは耳にしながら退場したりとかしていて、内面化しているのかもしれないが、ともかく、蛍の光がつかわれる場面としてまず最初に思い浮かぶのは(閉店を除くと)やはり紅白なわけである。そしてじっさい、これを別れの曲としてもっとも有効に使えているのもこれだとおもうわけだ。現実の視聴率はどうだか知らないけど、やっぱり若い子は紅白を見ないんじゃないかなとはおもう。知っているひとが出る比較的はやい時間ならともかく、最後までしっかり見る中学生なんてなかなかいないんじゃないかと。まあ、時代がそういう時代なので、みんな紅白を見たほうがいいよというはなしではないのだが(僕だってちゃんと見たことない)、もしそれが原因なのだとしたら、閉店の音楽も変わっていかなければならないかなーなとどおもう。価値観の多様化で、「誰もがある音楽について同様の意味を思い浮かべる」ということはかなり困難になってきているとおもうが(たとえばサッカーの応援とかにつかわれているアイーダだが、サッカーファンからすると高揚する音楽かもしれないが、僕だと、むかしm-floTakuがアルバムの最後にこれをつかっていたので、どことなく「終わり」を感じてしまうのである)、しかし歌詞がそのまま別れの言葉だとしたらどうだろう。たとえば宝塚の閉館時に流れる「さよなら皆様」とか・・・。劇場で聴くあれは、「ああ、夢の世界が終わってしまう・・・」となる、現実世界に戻らなくてはならない合図でもあるので、とてもさびしい気持ちになるのだが、仕事でそれを流せば翻って「ああ、仕事が終わってしまう・・・」と、営業そのものに愛着がわくようになるかもしれないし・・・。あと個人的には蘭乃はながうたっていた「遠き山に日は落ちて」なんかもいいな。


さて、達成できたためしのない今年の目標をいちおう立てておくことにしよう。


筋トレにかんしては、これまで通り増量していこうとおもっているが、あたらしい器具でも手に入れないかぎり、大きな成長は望めないんじゃないかなとなかばあきらめている。去年は、いろいろ考えた結果73キロを目標としたが、いまおもえばとんでもない数字だった。二年前のはなしだが、いっとき、68キロまで伸びたことがあって、それが、おなかを壊した結果落ちてしまったのである。おととしと同じペースで体調さえ崩さなければ73キロにも届くはずだと期待したわけだが、まあ、全然ダメだった。というわけなので、体重にかんしてはもっと現実的に、70キロくらいを目指そうとおもう。それくらいが、いまの環境と僕の骨格の限度なんじゃないかと。それと、前も書いたけど、全身のサイズをまめにチェックして、太くしていく方向でもとらえていこう。胸や脚に比べれば、腕や肩は現在の環境でもまだ太くできる余地がある。あんまりバランスわるいからだになるのもアレだが、様子を見つつ鍛えていって、具体的な数字を立てるなら、だいたい上腕36センチくらいになればいいかななどと考えている。あと左右のバランスの悪さも少しずつなおしていきたい。しかしこれはおそらくトレーニング云々というより日々の生活のほうだろうな。姿勢や立ち方が悪いのだ。体幹ももっと丈夫にしていかないと・・・。


読書にかんしても去年同様40冊を目標にしよう。いまはとにかく、たまってしまった本を片付けることを優先しなければならない。読みかけの本が多すぎる。半分くらい読んでいる本を全部読みきるだけでたぶん目標達成できる。当然、すぐ読みきれないのには理由があるわけで、硬い本ばかりになるわけだが、そういうことがあってもいいんじゃないかなともおもう。とにかく本が多すぎる・・・。処分する方法もいろいろ検討しつつ、今年はなるべく、新刊以外の本を発掘するのを抑えて、いま手元にある大量の読みかけ本を読みきっていこう。まあ、見るからに達成できなそうな目標だけど。


また1年愚痴ばっかりになるとおもうけれども、今年もすっぴんマスターをどうぞよろしくお願いいたします。