藤田一照著『現代坐禅講義』を読みました。
心の落ち着き、ストレスの緩和、頭脳の向上、性格改善、超越的な体験。
坐禅を実践する際、つい何らかの目的を意識してしまいがちなのではないだろうか。
道元禅師は、いかなる好ましくて善い目的であったとしても、何らかの目的を目指して意図的に何かを遂行することを、「自力自調の行」と呼び、吾我(エゴ)に囚われたままの状態であるとして、坐禅の実践に持ち込むことを戒めた。
本書は、何も期待せず、「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」(道元『正法眼蔵』)、ただひたすら坐る、坐禅の全容を立体的に描こうとする渾身の試みであり、ただ坐ることが、いかにダイナミックな取り組みであるかを実感させる。
ただ坐る坐禅は、作法に従って力ずくで外見上の形を整えて坐ることでもなければ、結跏趺坐で坐る痛みに耐える修行でもなく、精神を集中させることでも、こころの世界に沈潜することでもない。
坐禅は、自分を外に向かって開き、吾我の束縛と拘束から解き放ち、道元禅師が語る「尽一切(全宇宙)」と繋がる取り組みであるという。
ただ坐ることが、何故、「尽一切」に繋がるのか。
坐骨で体重を支え、その基盤の上に背骨と首を積み重ね、安定して坐る間、呼吸は続き、息が入るのに伴い胸が膨らみ、背中が広がり、背骨が上へと伸びて、骨盤が前に傾き、息を吐くと身体全体が収縮し、背骨と骨盤が元の位置に戻る。
こうした生命の活動を、意識的にコントロールせず、ただその自由なはたらきにゆだねて坐ることによって、身体に取り入れてからまた周囲に吐き出す空気、常に身体に作用している重力といった、躍動する生命を支えている全て、「尽一切」へと繋がることを、道元禅師は、生きた魚を例にして、「魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しるぬべし」(『正法眼蔵』)と表現した。
魚は、それが泳いでいる水と共にあってこそ活溌溌地に泳げるのであり、水から切り離されてしまっては、生きた魚ではなくなってしまう。
ただ坐ることも同様であることを示し、「坐禅とはこういうものだ」という通俗的なイメージに揺さぶりを加え、「坐禅とは、無所得無所悟(得ることなく悟ることなく=つまり何らかの目的のために行うものではなく)でひたすら正身端坐に努めることである。そのようにしてなされている坐禅は、当人の覚知を超えて、尽一切と通い合っており、活溌溌地の生命活動が様々なかたちで生き生きと現れている」姿をしているのだ。
幅広い視点から、身体の機能を捉え、具体的なアドバイスを数多く提供しており、参考となり心の糧にもなる豊かな情報が満載のため、読み終えたときには付箋だらけになってしまった。
素晴らしい一冊。
村木弘昌著『白隠の丹田呼吸法』
西部文浄著『禅の人』
小山一夫著『悟りに至る「十牛図」瞑想法』
ネルケ無方著『ただ坐る』
心の落ち着き、ストレスの緩和、頭脳の向上、性格改善、超越的な体験。
坐禅を実践する際、つい何らかの目的を意識してしまいがちなのではないだろうか。
道元禅師は、いかなる好ましくて善い目的であったとしても、何らかの目的を目指して意図的に何かを遂行することを、「自力自調の行」と呼び、吾我(エゴ)に囚われたままの状態であるとして、坐禅の実践に持ち込むことを戒めた。
本書は、何も期待せず、「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」(道元『正法眼蔵』)、ただひたすら坐る、坐禅の全容を立体的に描こうとする渾身の試みであり、ただ坐ることが、いかにダイナミックな取り組みであるかを実感させる。
ただ坐る坐禅は、作法に従って力ずくで外見上の形を整えて坐ることでもなければ、結跏趺坐で坐る痛みに耐える修行でもなく、精神を集中させることでも、こころの世界に沈潜することでもない。
坐禅は、自分を外に向かって開き、吾我の束縛と拘束から解き放ち、道元禅師が語る「尽一切(全宇宙)」と繋がる取り組みであるという。
ただ坐ることが、何故、「尽一切」に繋がるのか。
坐骨で体重を支え、その基盤の上に背骨と首を積み重ね、安定して坐る間、呼吸は続き、息が入るのに伴い胸が膨らみ、背中が広がり、背骨が上へと伸びて、骨盤が前に傾き、息を吐くと身体全体が収縮し、背骨と骨盤が元の位置に戻る。
こうした生命の活動を、意識的にコントロールせず、ただその自由なはたらきにゆだねて坐ることによって、身体に取り入れてからまた周囲に吐き出す空気、常に身体に作用している重力といった、躍動する生命を支えている全て、「尽一切」へと繋がることを、道元禅師は、生きた魚を例にして、「魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しるぬべし」(『正法眼蔵』)と表現した。
魚は、それが泳いでいる水と共にあってこそ活溌溌地に泳げるのであり、水から切り離されてしまっては、生きた魚ではなくなってしまう。
ただ坐ることも同様であることを示し、「坐禅とはこういうものだ」という通俗的なイメージに揺さぶりを加え、「坐禅とは、無所得無所悟(得ることなく悟ることなく=つまり何らかの目的のために行うものではなく)でひたすら正身端坐に努めることである。そのようにしてなされている坐禅は、当人の覚知を超えて、尽一切と通い合っており、活溌溌地の生命活動が様々なかたちで生き生きと現れている」姿をしているのだ。
幅広い視点から、身体の機能を捉え、具体的なアドバイスを数多く提供しており、参考となり心の糧にもなる豊かな情報が満載のため、読み終えたときには付箋だらけになってしまった。
素晴らしい一冊。
村木弘昌著『白隠の丹田呼吸法』
西部文浄著『禅の人』
小山一夫著『悟りに至る「十牛図」瞑想法』
ネルケ無方著『ただ坐る』