「せたがや梅まつり」2013 | とんとん・にっき

「せたがや梅まつり」2013


羽根木公園で開催されている「せたがや梅まつり」へ、久し振りに行ってきました。やや風が強かったですが、お天気に恵まれ、気温もいつもより高く、絶好の観梅日和で、たくさんの人たちで賑わっていました。東急世田谷線に乗って山下駅まで行く途中、家人から、知人の根津一族の方からの話として、羽根木公園一帯は昔は「根津山」と呼ばれていたという話を聞きました。羽根木公園に入口に銘板があり、根津山の話がや梅林の話が書かれていました。


羽根木公園の由来

羽根木公園は、その昔六郎次という鍬や鎌をつくる鍛冶屋がすんでいたことから六郎次山と呼ばれていました。また、大正時代末期敷地の一部が、根津財閥の所有であったことから根津山とも呼ばれるようになり、土地の人たちには、今なお「根津山の公園」、あるいは「六郎次山」と呼ばれています。名称は、この地が東京都荏原郡世田谷村大字世田谷字羽根木の飛び地であったことから名づけられました。東京都は、昭和31年(1956年)羽根木公園として開設しました。その後、昭和40年(1965年)世田谷区に移管され、総面積は約8ヘクタール(24,000坪)となっています。昭和54年(1976年)国際児童年を記念して、全国で初めての冒険遊び場であるプレーパークが開設されました。


羽根木の梅林

羽根木公園は、全体が小高い丘になっており、南斜面地は笹が生い茂っていましたが、昭和42年(1967年)世田谷区議会議員に当選した55名の方々により55本の梅の記念植樹が行われました。その後、昭和46年(1971年)東京都100周年記念や昭和47年(1972年)世田谷区制40周年などの記念植樹を経て、現在は紅梅170本、白梅530本の700本を数える都内でも屈指の観梅の名所となりました。毎年2月の梅の見頃には、地元の実行委員会による「梅まつり」が開催され、多くの方々に楽しまれています。








「飛梅」
飛梅とは、菅原道真にまつわる梅の伝説に登場する梅の木のことです。平安時代、時の右大臣であった道真が太宰府に左遷となり、京を発つとき日頃大切に育てていた梅に向かって、「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」と詠むと、梅は主人を慕って太宰府まで飛び、根付いたということです。飛梅は平成7年2月に太宰府天満宮より寄贈され、その隣に平成14年2月、梅まつり第25回を記念して、実行委員会より石碑が寄贈されました。


「句碑」

“外にも出よふるるばかりに春の月”

梅林の一角に建てられた句碑には俳人中村汀女さんの詠んだ句が刻まれています。春を先駆けて咲く梅の花を好み、羽根木公園も散策の場としてよく通っていたそうです。あなたも句碑を前にして、俳句の心にふれてみませんか。


羽根木公園の茶室

日月庵

建物名は、故井上靖により命名された。羽根木公園西側の一角に、昭和58年秋に完成しました。棟梁野村貞夫の手により、京都久田家に残る「半牀庵(はんじょうあん)」を基本としながら、独自の間取りをもつ造りとしています。間取りは、一畳中板三畳の席で、併設して腰掛待合や立水屋が設けられています。床構えは、柱が栗のナグリ、天上は杉杢鏡板、地板は山花梨が使われています。また、中柱は北山の絞り丸太、中板は日本松が使われています。

星辰堂
建物名は、高山辰雄画伯により命名された。日月庵の日月に対し、星辰とは星の位置が季節・時間の標準となる意味。星辰堂は平成4年3月に、古民家の部材を生かし、新たな利用に応えるように計画し、完成しました。伝統的建築技術と新たな建築技術が巧みに融合した建物には、繊細な数寄屋造り、書院造り、そして民家の骨太い空間があります。間取りは、有料の上(8畳)・下(10畳)座敷、小間(4畳半)と、無料休憩所の土間からなり、他に水屋や台所があります。





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