東京国立近代美術館で「1938-1940 『日本画』の前衛」展を観た! | とんとん・にっき

東京国立近代美術館で「1938-1940 『日本画』の前衛」展を観た!


自分自身のためにちょっとおさらいを。「日本画」とは、膠絵具(ディステンパー )で描いた日本 の絵画のことです。狭義には、明治維新 から第二次世界大戦 終結までの77年間において、油彩に依らず、旧来の日本の伝統的な技法や様式の上に育てられた絵画を指します。これに対して、油絵 は「洋画」と呼ばれていました。日本画の伝統は、フェノロサの通訳を勤めていた岡倉覚三(のちの天心)らが1889年に開いた東京美術学校(後の東京藝術大学)に、橋本雅邦らを教師として日本画科を設けたことに始まります。第1期生には日本画の大家・横山大観がいました。日本画は明治維新以降のものであり、戦前の横山大観が日本画家であっても、江戸時代の狩野永徳は日本画家ではない、とされています。


「前衛」とはフランス語の「アバンギャルド」、軍事用語で「最前線」の意。「前衛芸術」といえば、20世紀初頭に始まったシュールレアリスム(超現実主義)や抽象絵画を意味することが多い、という。「シュールレアリスム」は、近々、国立新美術館で「シュルレアリスム展」が開催されるようですし、横浜美術館には「ダリとシュルレアリスムの部屋」があります。シュルレアリスムの始まりは、シュルレアリスム宣言が発せられた1924年、シュルレアリスムに属する主たる画家としては、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォー、エドガー・エンデ などがいます。


「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないと言うことだ」:アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」より


また「抽象絵画」についてはカンディンスキーがその創始者と言われています。「抽象絵画」の源流は「ドイツ表現主義」からと「キュビスム」からの流れがある、とされています。ドイツ表現主義からの流れは、カンディンスキーやフランツ・マルクなどの作品にあり、パウル・クレーがいます。一方、キュビスムからの流れは、オランダのピート・モンドリアンら「デ・ステイル」のメンバーへ流れと、ロシア・ソビエトでは「ロシア・アヴァンギャルド」のミハイル・ラリオーノフ、マレーヴィチ、ウラジーミル・タトリンらがいます。

 


東京国立近代美術館で「1938-1940 『日本画』の前衛」展を観てきました。この展覧会は京都国立近代美術館の山野英嗣学芸課長が企画し、京都で開催された後、東京に巡回したものです。「日本固有の表現に対する前衛意識こそ、伝統的な表現を打ち破る『前衛』にふさわしい。研究と展示によって、その詳細を明らかにしたかった」と、その理由を朝日新聞の記者に話しています。今回の「 『日本画』の前衛」展は、絵画を中心とした86点が展示されています。


まず始めに山岡良文の「シュパンヌンク」(1938年)で始まります。シュパンヌンクとは、ドイツ語で「緊張」という意味で、抽象画の父・カンディンスキーが「バウハウス」で教えていたときに記した著書で、繰り返したという言葉だそうです。山岡はその考えを日本画に応用し、画面を構成しました。山岡を初めとする当時20~30代の日本画家たちは、1938年に「歴程美術研究会」を結成します。山岡はこの「シュパンヌンク」を第1回歴程展に出品しました。山崎隆は「象」を「試作展」に出品しました。他に船田玉樹や丸木位里らがいました。歴程研究会の会員は、日本画の抽象や革新的な表現に取り組みました。


今回の目玉となっているのは、船田玉樹の「花の夕」(1938年)、紅や紫や白の花が乱舞する作品で、岩絵の具をぽたぽたと落とすようにして描かれています。今回のチラシやポスターになっています。丸木位里の「馬(部分)」は、作品の半分のみしか残ってないという。山崎隆の「扇面ちらし」、扇が散らされて、動感あふれる表現となっています。山岡良文の「潮音の間襖」は自宅の襖だという。田口壮の「喫茶室」は明るくていい作品です。丸木位里の作品は睡蓮を描いた「池」と、構図が圧倒的に素晴らしい「ラクダ」が出されていました。


また岩橋英遠の作品、タケノコを描いた「土」と、土の中の蛇と蛙を描いた「土」(二曲一双)が出されていました。靉光の「眼のある風景」は最高傑作でしょう、左右にひろがる有機的な量塊の中に目玉のようなものがシュールです。丸木位里の「雨乞」と「柳暗」は斬新な水墨表現です。また「紅葉」は朱一色で反復される樹葉が描かれています。「牛」もいい。船田玉樹の「紅梅(利休像)」は大作です。船田は、安田靫彦から日本画の伝統的な描法や精神を学んだという。また長い針葉を大胆に荒々しく描いた「大王松」も素晴らしい。


山崎隆は「戦地の印象」シリーズが並んでいました。大陸を連想させる広大な風景がパノラマのように展開します。また「歴史」は、黒々と屹立する岩肌に、要塞のように埋められたモダンな白亜の建築が対比的に描かれています。なぜか真ん中に赤い旗が立っています。全体を通して、丸木位里の作品が「前衛的」という名にふさわしく思いました。


第1回歴程展の「芳名録」が展示されていました。靉光、福沢一郎、村井正誠ら洋画家の名前も見られます。山岡や船田は、洋画家による「自由美術家協会展」にも出品します。そこでは画家たちはジャンルを超えて交流し、新たな表現を探していました。しかし、1941年に太平洋戦争が始まると、画家たちにも挙国一致を迫られて、歴程展は1942年の第8回展で幕を下ろします。終戦後、洋画の分野では再び「前衛芸術」が活発になりますが、なぜか日本画では「前衛芸術」活動が行われませんでした。


展覧会の構成は、以下の通りです。

Ⅰ 「日本画」前衛の登場

Ⅱ 前衛宗第「歴程美術協会」の軌跡

Ⅲ 「洋画」との交錯、「日本画と洋画」のはざまに

Ⅳ 戦渦の記憶

Ⅴ 戦後の再生、「パンリアル」結成への道











1938-1949「日本画」の前衛

もし、伝統に近しい「日本画」の領域に真に革新的な表現が生まれたとしたら、それこそ「前衛」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。たとえば、純粋な抽象や非対象の表現が、「日本画」に現れたとしたら―。社会的にも激動の様相を呈する1930年代後半期、「日本画」の世界においても、伝統的美意識による想像に決別し、新たな表現を目指す活動が起こりました。舞台となったのは1938年4月に結成された歴程美術協会です。彼ら「日本画家」たちは、抽象やシュルレアリスムは言うまでもなく、バウハウスの造形理論をもとりこみつつ「日本画」を制作し、その展覧会場にはフォトグラムや工芸、盛花までもが並びました。本展覧会は、この歴程美術協会にはじまる「日本画」における果敢な挑戦を、日本ではじめて具体化された「前衛」意識と位置づけ、多角的に検証するものです。本展では、これらの「日本画」たちが交流を深めた洋画家たちとの影響関係も探ります。また、戦争の拡大とともに未完の前衛と化した様相にも触れながら、歴程美術協会の戦後における再興とも言うべきパンリアルの誕生までを視野に収めます。


「東京国立近代美術館」ホームページ


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