山種美術館で「生誕120年 奥村土牛」展を観た! | とんとん・にっき

山種美術館で「生誕120年 奥村土牛」展を観た!

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山種美術館で「開館記念特別展Ⅳ 生誕120年 奥村土牛」展を観てきました。過去の山種美術館でも幾つかの作品が出ていましたが、これほど纏まって山種美術館が奥村土牛の作品を所蔵しているとは思いませんでした。「奥村土牛」という名前は、「土牛石田を耕す」、奥深い村で牛が土を耕すという長閑な風景を思い起こします。院展の初入選は、なんと38歳という遅咲きだったというから驚きです。幼い頃から体が弱かった土牛、しかし101歳で天寿をまっとうするまで絵筆を持ち続けたという。土牛の代表作は、70歳の頃描いた「鳴門」、83歳の頃に描いた「醍醐」と言われています。山種美術館では土牛の作品、本画・素描・書を合わせて135点を所蔵しているそうです。今回はその中から約70点を選りすぐり、展示しています。


「吉野」、奈良時代より続く吉野の桜、右手前に詳細な桜、遠景に燃えるような満開の桜山、遠く壮大な山々の景観を描いています。「鳴門」、土牛夫妻が妻の郷里徳島からの帰途、鳴門に立ち寄り、船上から雄大で神秘的な渦潮を見て、描きたいという意欲がわき上がり、妻に帯をつかんでもらい、一気に何十枚も写生をしたのが元になった作品。「醍醐」は、京都・醍醐寺三宝院しだれ桜を描いた作品。師の小林古径の7回忌の法要が奈良・薬師寺で営まれ、土牛は帰路に醍醐寺に立ち寄ったという。しかし、作品として描きあげるまでには、10年近い歳月が流れました。





「舞妓」、あどけなさ、古風な魅力、純真さという、土牛が魅了された舞妓を描いた作品、完成まで2年の歳月を要したという。「朝市の女」、能登を旅した土牛は、朝市で見かけた若い売り子の姿、健康的に日焼けして、白木綿と絣の上下に笠を身につけた初々しい姿を描いています。衣裳や笠を購入して持ち帰り、自宅で三男の妻に着せて写生を繰り返したという。



「浄心」、土牛は師と仰いだ古径が亡くなり、何度か訪れたことのある中尊寺の一字金輪座像を描きたくなり、毎日拝観と写生に通って描いた作品。師・古径のために自身の「心の奥にある仏像」を描こうとしたと、土牛は語ったという。「僧」、土牛は若い頃から「釈迦十大弟子立像」(国宝・興福寺蔵)に惹かれ、数年をかけてそれを写生したという。左に描かれている僧は「羅睺羅像」、右の僧は「須菩提像」を参考にしたものだという。「仏像を彫刻的に描くのではなく、生きた人間の気持ちで描いてみたい」という気持ちで臨んだ作品。



「那智」、古くから信仰の対象でもある那智の滝、強大な画面に限られた色数の色面で表現された粗い岩肌は、セザンヌの影響が見られるという。一気に流れ落ちる白滝は、上下で水の質感が描き分けられ、「崇高なかんじのする滝」と土牛が語ったとおり、宗教的で荘厳な姿に描かれています。「姪」、50代の若さで他界した、不運で美しかった姪が、明治期の衣裳を着けて髪を結う姿を描いています。以前は完成し得なかったこの作品を、50年の年月を経て再び「昔を思い出しながら」描いたという。



丑年生まれの土牛、牛は特別に愛着を感じる動物だったようです。晩年に至るまで多くの牛を描いた作品を残しています。「聖牛」、出産を終えた母牛に「落ち着きと気品」を感じたと、土牛はいう。顎を突き出して天を仰ぐような姿は荘厳です。「犢(こうし)」、95歳の土牛が生まれたてと生後3ヶ月の兄弟牛を描いた作品です。



さて、ここからの4枚の作品、僕が気に入った「建築的な作品」です。「茶室」、大徳寺真珠庵、その名高い茶室の一角を描いたものです。土牛は「狭い空間に組み立てられた直線の構成の美しさ」に感嘆詞、往時を偲んで描いたという。根気よく絵具を塗り重ねt土壁、障子紙や柱からは質感と同時に歴史的な時の流れが感じられます。格子戸からのぞく外景や障子から差し込む光が、狭い空間を描きながら広さと奥行きを感じさせます。「門」、姫路城に21の門が残っていますが、ここに描かれているのは「は」の門。「城」を描くために姫路城を訪れた際、城郭内にある門を丹南に写生したという。黒々とした門扉、門から見える白壁、四角い銃眼を描いています。



「大和路」、奈良・白毫寺あたりの家並みの土塀を描いています。遠近法による奥行きの表現や、色面構成、壁、屋根、河原、地面、石垣、等々、対象物の質感を微妙に描き分けています。「城」、天守閣解体修理の報を聴いた土牛は、姫路に1週間滞在し城の写生を繰り返したという。横から仰ぎ見る城の姿、大胆でユニークな構図が城の壮大さを強調しています。セザンヌの影響が見られるという。


「開館記念特別展Ⅳ 生誕120年 奥村土牛」展:

このたび山種美術館では、2009年に迎えた奥村土牛(1889-1990)の生誕120年を記念し、その人と芸術をたどる展覧会を開催いたします。
「私はこれから死ぬまで、初心を忘れず、拙くとも生きた絵が描きたい。むずかしいことではあるが、それが念願であり、生きがいだと思っている。芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。」――85歳のとき、自著『牛のあゆみ』の中でこう語った土牛は、1889(明治22)年2月、東京・京橋に生まれ、16歳で梶田半古塾に入門して画業の道へと進みます。院展を活動の中心とし、横山大観、小林古径、速水御舟などから多くを学びながらも、土牛自身は「東洋画と西洋画」、「写実と印象」、「線と面」、「色彩と墨」、「立体と平面」という、相反する要素の間で試行錯誤を重ね、両者が融合した独自の芸術世界を築き上げました。土牛の院展初入選は38歳と遅咲きでしたが、その雅号の由来である「土牛石田を耕す」の詩句のとおり粘り強く努力を続けました。101歳で天寿をまっとうする直前まで絵筆を持ち続けたという画家魂には目をみはるものがあります。
代表作と言われる《鳴門》(1959年、70歳作)や《醍醐》(1972年、83歳作)にも見られるような、対象を見つめる真摯なまなざし、絵の具を丁寧に塗り重ねて生み出された「コク」にこだわった深い色彩、そして画家自身の心の清らかさや優しさのこもった作風こそが、画家の誕生から120年がたった現代においてもなお、多くの人々の心に感動を与え続けている所以でしょう。
山種美術館は、本画・素描・書を合わせて135点の土牛作品を蒐集し、戦後の秋の院展出品作品のほとんどを所蔵しています。日本国内外でも屈指の「土牛コレクション」といわれる当館所蔵品から、本展では、院展出品作を中心として、季節の草花や十二支をテーマに描かれた作品なども加えた約70点を選び、土牛の画業と芸術の粋をご紹介いたします。


「山種美術館」ホームページ


とんとん・にっき-togyu 「奥村土牛作品集」

編集:山種美術館学芸部

発行:山種美術館










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