第141回芥川賞「選評」を読んだ! | とんとん・にっき

第141回芥川賞「選評」を読んだ!

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第141回(平成21年度上半期)芥川賞受賞作は、磯崎憲一郎の「終の住処」、ということは新聞報道でご存じでしょうし、このブログでもたびたび取り上げました。選考委員会は7月15日午後5時から東京・築地の「新喜楽」で開かれ、その日のうちに(直木三十五賞と併せて)受賞作の発表がありました。僕はさっそく単行本を購入して「終の住処」(2009年7月25日発行)を読みました。それについてはこのブログで書きましたので、ご存じの方もいるかと思います。


さて「文藝春秋9月特別号」が10日に発売され、さっそく購入しました。。「芥川賞受賞作全文掲載」とあります。もちろん「芥川賞選評」を読むためだけに購入しました。その日の朝刊(2009年8月10日)には「文藝春秋9月特別号」の大きな広告が載っていました。磯崎憲一郎の腕を組んだ写真と共に、「44歳三井物産次長が紡いだ」とあります。次の日、つまり今朝の朝刊(8月11日)にまたまた大きく「終の住処」の広告が載っていました。


「発売たちまち12万部突破!」とあり、「現役商社マンとして受賞が注目される著者の描く、リアルで不可思議な時間」とあります。正確には「三井物産人事総務部次長」で、早稲田大学商学部の出身、早稲田時代には早慶レガッタで有名な漕艇部に所属していたようです。というようなことは、文藝春秋の「芥川賞選評」を読む前に、受賞者インタビュー「『サラリーマン』と『作家』の時間術」という記事を先に読んで知ったということです。いずれにせよサラリーマンとはいえ、アメリカの7年間勤務を含んだ大手商社のサラリーマンですから、一般のサラリーマンとはわけが違う、超エリートなわけです。


まあ、それはそれとして、「終の住処」とはどんな小説か?とりあえず新聞の広告(8月11日:朝日新聞朝刊)から、以下に引用しておきます。


新婚なのに不機嫌な妻
妻の彼も望んだわけではない結婚
数ヶ月、満月のまま浮かんでいる月
黒いストッキングの女
サングラスの女

「―もう止めよう、ぜったいに今晩は女のところへだけは行くまい。―彼はアリに誓うのだったが、日中の異常な忙しさと小さな失望の連続が、夜にはふたたび彼を女のもとへと向かわせていた。」

妻はそれきり11年、口を利かなかった。
「週末をどう乗り切るか?それが11年間を通じての彼の最大の悩みだった。土曜日は出勤した。若いころは毎日上司の罵声を浴びて、あれほど辛い目に遭ったこの職場が、いまではいちばん気持ちが落ち着く場所になってしまっていた。」

それでも、時間は続いていた―。


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さて「芥川賞選評」ですが、選考委員は、池澤夏樹、石原慎太郎、小川洋子、川上弘美、黒井千次、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍、山田詠美の9委員です。受賞作以外の候補作は、戌井昭人「まずいスープ」、シリン・ネザマフィ「白い紙」、藤野可織「いけにえ」、松波太郎「よもぎ学園高等学校蹴球部」、本谷有希子「あの子の考えることは変」の5作品です。


まずは石原慎太郎ですが、作家の登竜門である芥川賞の候補作でさえ年ごとに駄作の羅列に終わっており、「作品が自らの人生に裏打ちされて絞り出された言葉たちという気は一向にしない」と苦言を呈して、受賞作については「結婚という人間の人生のある意味での虚構のむなしさとアンニュイを描いているのだろうが的が定まらぬ印象は否めない。題名がいかにも安易だ」とし、「選者に未知の戦慄を与えてくれるような作品が現れないものか」と結んでいます。


山田詠美は、「過去が、まるでゾンビのように立ち上がり、絡まり、蠢いて、主人公を終の住処に追いつめていくようで恐ろしかった。けれど、その合間合間の太陽の描写が綺麗な息つぎになっている」として、「大人の企みの交錯するこの作品以外に私の推すべきものはなかった」という。小川洋子は、「あらゆる出来事は、まるであらかじめ定められていたかのように起こるべくして起こる。人間の人格など何の役にも立たない。その当然の摂理が描かれると、こんなにも恐ろしいものなのか、と立ちすくむ思いがする。人間を描くという不確かな視点を拒否し、ただ時間に映し出される事象のみを書き写す試みが、独特のいびつさを生んでいる」と評価しています。


黒井千次は、「固くごつごつした物体を積み上げることによって出現した、構築物のごとき小説である。・・・あり得ないような出来事がしかし違和感もなく受け入れられてしまうのは、せき止められた時間の重なりの中に特異な世界が作られているからだろう。自分には知らされていないものを探り、手の届かぬものに向けて懸命に手を伸ばしながら時間の層を登っていく主人公の姿が、黒い影を曳いて目に残る」と述べています。高樹のぶ子は、「何10年もの歳月を短編に押し込み、その殆どを説明や記述で書いた。アジアの小説に良く見られる傾向だ。日本の短編はもっと進化しているはず。確信犯として選ばれた方法だとしても、主人公がどんな男かが読後の印象として薄い。何10年を語り尽くした主人公が見えない。空白なら其れもよし、空白を見せて欲しい」と、やや否定的にいう。


川上弘美は、「リアルなことを書いているようにみえて、実は魚眼レンズや薄膜や顕微鏡のレンズを通してみているかのように、文章中に現れるもののほとんどが歪んでいる。それでいて、何が起こっているかは明らか」として、「利便に与しない作者の物語をいつか読んでみたい」としています。宮本輝は、「観念というよりも屁理屈に近い主人公の思考はまことに得手勝手で、鼻もちならないペダンチストここにあり、といった反発すら感じた」が、「磯崎氏はこれから一皮も二川も剝ける可能性を感じさせる」として、将来に期待しています。


村上龍は、「現代を知的に象徴しているかのように見えるが、作者の意図や計算が透けて見えて、わたしはいくつかの死語を連想しただけだった」として「ペダンチック、ハイブロウといった、いまとなってはジョークとしか思えない死語である」と、徹底して否定的です。池澤夏樹は、「小説には文法がある」として「通常の小説と何が違うかといえば、第一に主人公が徹底して受動的であること、第二に、停滞と跳躍をくりかえす時間的な処理が独特であること。第三には時として非現実的な現象が平然と語られること」として、それらの事例を幾つか挙げて「それでもすべてがうまく運んで、彼は会社ですいすいと出世し、どうやら安定した晩年に至るらしい」と、疑問を呈します。


磯崎憲一郎の背後に見え隠れしているのは、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」であろうと、期せずして宮本輝と池澤夏樹は指摘しています。昔の芥川賞の候補作を眺めると、選にもれた作品であろうとその質の高さが印象づけられると、第1回の石川達三に破れた太宰治を例に出して、石原慎太郎は言います。「彼らにとって小説を書くという作業はそれぞれの人生にとって、ある不可欠な動機に裏打ちされていた証左」だとし、それと比して「文学賞もやたらに増えはしたが、新人作家なるものがどれほど、狂おしい衝動で小説という自己表現に赴いているかはかなり怪しい気がする」と非難しています。



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