―ウィリアム・シェイクスピア
芸術の秋
秋が深まってきたが、「映画の秋」と言わんばかりに、先月及び今月だけで、劇場鑑賞した映画は―、
ブライアン・デ・パルマ監督作『パッション』(10月4日公開)
ダニー・ボイル監督作『トランス』(10月11日公開)
マシュー・ミーレー監督作『ニューヨーク・バーグドルフ
魔法のデパート』(10月26日公開)
スティーヴン・ソダーバーグ監督作『恋するリベラーチェ』(11月1日公開)
リドリー・スコット監督作『悪の法則』(11月15日公開)
ジョン・S・ベアード監督作『フィルス』(11月16日公開)
の計6本を数えるが、ブログで1本すら感想を綴っていなかったため、本日のブログは、アーヴィン・ウェルシュの1998年の著書『フィルス』を基に、ジェームズ・マカヴォイ主演で製作された映画『フィルス』について、ごくごく簡単にまとめてみたい。尚、他の5作品についても、今後気が向けば、ブログを更新予定だ。
1993年と1996年
映画『フィルス』の著者は、他でもないスコットランド出身のアーヴィン・ウェルシュその人だが、彼が1993年に世に送り出した処女作『トレインスポッティング』、そして1996年に一大ムーヴメントを起こした同名映画については、今さら説明は不要だろう。
1993年当時、俺は大学生だったが、同年足を運んだ海外旅行先はいくつもあるが、春先の3月に足を運んだのは、常夏の島ハワイだった。先週末、その20年前のパスポートを改めて確認してみると、そこには<NARITA(2)>のスタンプが押され、3月8日に出国し、同月17日に帰国していた。
8泊10日の旅行中、帰国子女の彼女と一緒に、ワイキキの映画館で観た映画が、マイケル・ダグラスのクライム・コメディ『フォーリング・ダウン』だった。当時付き合っていた、イギリス英語を話す彼女は今頃、何をしているのか、俺が知る由もない。当時、退廃的な大学生活をエンジョイしていた俺を知る友人からは、「何番目の?」とか訊かれそうだが(笑)、そんな泡沫の日々とはいえ、過去が過ぎ去っていくのが早過ぎる、今日この頃だ。
17年前(2010年当時)に当時48歳だったマイケル・ダグラスが、映画『フォーリング・ダウン』の中で、イカれたサラリーマンを迫真の演技で見事に演じきったわけだが、そんなプッつんした彼にはフィリップ・マーロウの言葉をぜひ贈りたい。
自己中心的で、生きる意味や目的を見失った主人公は、別れた妻と娘に会いたい一心だったのだろうが、劇中で娘に対する彼の「優しさ」(路上でオルゴールを購入するのだ)のようなものも見え隠れするとはいえ、壊れた主人公は永遠に元には戻らなかったのだ。
タフでなければ生きていけない。
優しくなければ生きている意味がない。
―フィリップ・マーロウ
ジョン・S・ベアード監督
同作品についての感想だが、下品な描写などは大した問題ではない一方、低予算映画ながらも、私的にはよく出来た良作だと思った。なぜなら、映画用に軽く脚色したアーヴィン・ウェルシュの原作に、映画『トランス』でも主演を務めたジェームズ・マカヴォイ(スコットランド出身の34歳/写真:右)くんの迫真の演技を絡め、そして最も英国らしい、お得意の、クールなクラシックな曲の数々を、見事なまでに映像に融合させた点が、1996年の『トレインスポッティング』を彷彿とさせたからだ。
とはいえ、『アメリカン・サイコ』の主人公<パトリック・ベイトマン>や、『ハンニバル』の主人公<レクター博士>は共に知的なエリートゆえ、『フィルス』の主人公<ブルース・ロバートソン>のような出世も望めない、どちらかと言えば、頭が悪い、性質が悪い人物であるため、趣が異なるのは確かだろう。『トレインスポッティング』で描かれた社会の底辺に生きる若者たちにも相通じるようなキャラクターが、『フィルス』で描かれたブルースの猥雑な姿だとも形容できる。彼の幻覚によって、自身の、鏡に映る動物の姿然り。
『フィルス』で、唯一間違っていた点を挙げるとするならば、映画冒頭シーンで映し出される「メトロセクシャル」の解釈だろうか。メトロセクシャルとは、「オカマ」のことではなく、都会に生きる、洗練された、異性愛者のことだ。英国でいえば、元祖がデヴィッド・ボウイであり、近年ではデヴィッド・ベッカムがその代表格なのだから。
ひとつだけ、同作品に「洗練」を付け加えるならば、(ある女性の登場で、哀しき男ブルースの人生に光が射し始め、その彼女に手編みのマフラーを貰った直後の展開において、それがある道具に使われるのであれば)劇中で雪を舞わせていたら、ジェームズ・マカヴォイが演じたブルース・ロバートソンの決断は、善かれ悪かれ、その哀しすぎるエンディングを、彼にとっての「パーフェクト・デイ」に変えたかもしれない。
それをうまくやったのが、第78回アカデミー賞作品賞を獲得したポール・ハギス監督作『クラッシュ』(日本公開2006年)であり、人種差別主義者の警官役を演じたのがマット・ディロンだった。クリスマス間近のロサンゼルスを舞台に、雪が降らない同市に、雪を降らせたその演出は見事であり、エンディングでは、ステレオフォニックスの“Maybe Tomorrow”が流れ、洗練を加味したのだ。
雪とは関係ないが、チャック・パラニューク原作の2本の映画・・・『ファイトクラブ』(1999)のエンディングにピクシーズの“Where Is My Mind?”が、『セックス・クラブ』(2008)のそれにはレディオヘッドの“Reckoner”がそれぞれ使われたが、あれも見事な選曲だった。尚、先述した2作品については、2012年11月26日付ブログ“Where Is My Mind?”で取り上げているので、興味のある方はどうぞ。
CREEP
『トレインスポッティング』同様、気になる『フィルス』の音楽だが、エンディングでは、レディオヘッドのデビューアルバムからのヒット曲“Creep”のカヴァーが流れるが、同曲が使われたことによって、この作品の完成度が格段とアップしたのは確かだろう。尚、同曲を歌っているのが、スティングの娘<ココ・サマー>ちゃん(1990年生まれの23歳)であることに驚きを隠せなかった。参考までに、意図的だといえる、日本版予告編で流れるシザー・シスターズのノリノリの曲“Filthy Gorgeous”は、劇中では使われていないので、彼らのファンは注意が必要だろう。
最後になるが、人間は夢と同じで、ささやかな一生は眠りによって締めくくられるのだろうが、『フィルス』の主人公<ブルース・ロバートソン>は、「昇進」という夢も叶えられず、成功の甘い香りを楽しむこともなく、彼が選んだ人生の決断は、彼「らしい」生き方を象徴し(貫き通し)ていたのだろうが、それは「運命」で片づけるにはあまりに哀しすぎる最後だった。俺自身、そんなイギリス映画が今後、ますます好きになりそうだ(笑)。
哀れなブルース・ロバートソンに、神のご加護を。
Have a nice day!