怒り。というのは、つまり起こることを
自分の問題としてとらえない。
ということじゃないかなぁ?
起きていることを否定する。抵抗する。
ということは。
こんなことが起きるのは
誰かが悪い。何かが悪い。
そして責める。
責める対象は、個人であったり、
社会・自然現象である。
そこには「こうでなければならない」がありますね。
「こうである」だけが、そこにあると
責める必要がないのです。
起きている事実だけがある。
起きてくること。起きていること。
を、起きたまま、見る。
そこで心は、乱れることがありません。
「こうでなければならない」と思っているのは
自分はすべてを知っていて、こうなると予測していて
それが間違っていてはならない。
とか~思っているんじゃないかしら?
そういう時は、人の話なんて聞きませんね。
現象を、そのまま見るも、できません。
なんたって「自分はもう知っている」のですから。
人(現象)から教えてもらう(気付く)なんていう
姿勢はありません。
「こうなんだ」「こうであるべきなんだ」に
凝り固まっていますよね。
そんなふうに、いっぱいになっているトコロには
何も、入って(起きて)きませんね。
天国の門は狭く・・・幼子の心でなければ
通り抜けることはできない~とか、言いますが。
幼子の心。というのは
「こうであるべき」がない状態かな。
だから、すべてが、初めてのこと。
良い悪いはなく。得か損かもない。
そこだけに直面する。