坂本龍馬は、誰もが知る維新の功労者である。 しかし、彼が並み居る志士や要人たちと対等に渡り合えたことについて、疑問を呈する人はあまりいない。

亀山社中での活躍や薩長同盟締結の仲介など、一介の下級藩士、しかも脱藩者に出来ることではない。龍馬の行動を検証すると、その境遇では不可能と思われる行動が多すぎる。

同じく下級藩士であった西郷隆盛や大久保利通も同じようなものだと誤解する人は多い。しかし彼らは、島津斉彬や久光に取り立てられるという幸運に恵まれ、 同士に薩摩藩家老の小松帯刀がいたことなど、藩の強大なバックアップがあり、さらに出世によって相応の地位をもって行動していた。 しかし、勝海舟や松平 春嶽との人脈はあったものの、龍馬には地位も藩のバックアップもなかったのであり、薩長同盟のころには勝の庇護も失っていた。つまり、同じ下級藩士出身と 言っても境遇は全く違うのである。 

龍馬は薩長同盟において、桂小五郎に求められて盟約書の裏書を行っているが、天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えるというのは、「信頼されて いた」という理由では説明がつかない。 現在で言えば、海外との条約締結の保証人に派遣切りにあった元派遣社員がなるようなものである。それほど分不相応 なことであった。

1865年、龍馬が30歳のときに日本初の商社である、亀山社中を設立した。

設立後、わずか3ヶ月で銃7,800丁、さらに二ヵ月後には軍艦を輸入している。 膨大な輸入業務を考えると、たった数ヶ月でこのような実績を残すのは、 事実上不可能といえる。 これを可能にするには、設立前に海外に大量の武器を準備し、万事整えていた黒幕がいたことになる。 もちろん、日本人ではそれは 不可能であり、もちろん外国人だ。

その黒幕とは、トーマス・ブレイク・グラバー(1838~1911)というスコットランド人の武器商人である。 
龍馬が脱藩下級藩士の身で、日本各地の志士と渡り合えた背景には、このグラバーの存在が大きい。いろは丸沈没事件で、御三家の紀州藩を脅迫して損害賠償させることができたのも、そして何より膨大な資金力があったのも、背後にグラバーが存在したからである。

グラバーが調達した武器は主に長州藩に売るためのもので、亀山社中を通じて、薩摩経由で運ばれた。 グラバーは武器売買により富豪となったのである。

グラバーは、亀山社中が設立される1年ほど前、勝海舟と共に長崎を訪れていた坂本龍馬と出会う。 当時のグラバーは、自宅に桂小五郎や高杉晋作、中岡慎太郎などの倒幕派の志士たちを匿っていた。さらに、伊藤博文や井上馨らの攘夷派をイギリスに密航させ ていたのである。この留学によって、攘夷派であった彼らは開国派となり、明治維新後は新政府の要人となったことを考えると、これだけでもグラバーは歴史の 黒幕と言える。 さらに、坂本龍馬の行動について全く資料に残っていない空白の期間(1864年10月 - 1865年4月)に、龍馬もグラバーの援助で海外に密航していたという説も有る。

幕末、グラバーは討幕派を支援していたため幕府には警戒され、さらに、危険な外国人であるとして攘夷派にも狙われていた。 つまり、武器を公に売ることが出来ない状況にいたのである。 そんなグラバーは、自分の身代わりとして坂本龍馬に目を付け、武器商人として幕末日本に暗躍することになった。

しかし、グラバーの行動の背景にあるのはビジネスではなかった。グラバーは、志士たちを倒幕に駆り立てた一方で、反幕府の諸藩に資金の信用貸しで武器を 売っている。幕府が倒れれば資金が回収できなくなる危険が高い。つまり、ビジネス上では矛盾した行動をとっているのである。 実際、明治になってからはそ れが焦げ付き、グラバー商会は倒産している。彼は、ビジネスのためではなく、自らの意思で維新に尽力したのだろうと言われている。

彼の思想や力は幕末の日本においては大きな影響力を持っていた。その彼の力の源は二つあり、ひとつが東洋最大手のイギリス武器商会「マセソン商会長崎代理 人」の肩書き、そしてもうひとつがフリーメイソンである。フリーメイソンとの関係は、史実上は根拠が無いとされているが、彼がフリーメイソンの人脈を使っ ているのは明らかである。グラバーが20代にしてこのような強大な力を得ることが出来たのも、フリーメイソンの力が大きいだろう。ちなみに、坂本龍馬もメ ンバーであったと言われているが、これについても資料があるわけではない。

フリーメイソンは、ヨーロッパの建築技術者集団のギルド的なものとして設立された。ロッジと呼ばれる石工の技術者集団の組織であり、その技術を門外不出と して伝承していく役割を果たしていた。 それが次第に、石工以外の人間もメンバーとなるようになり、さまざまな人たちの友愛団体へと変わっていった。モー ツァルトやゲーテ、米国初代大統領ワシントンなど、多くの著名人がメンバーである。 フリーメイソンのメンバーは、現在世界で約400万人いると言われ る。 フリーメイソンの象徴である「全能の目」が米一ドル札に描かれていることは、フリーメイソンの強大な力を証明している。

それでは、幕末当時の日本における、フリーメイソンの影響力は如何ほどだったのだろうか。 第15代将軍徳川慶喜の側近であった、西周助がフリーメイソンリーであり、その背後にはグラバーの影がちらついている。 幕府の要人であった西は1864 年、蘭学者としてオランダに留学し、その際に日本人初のフリーメイソンのメンバーとなった。 彼は、グラバーの手引きで密航していた薩摩藩士、五代友厚と フランスで会見している。 当時敵同士であった幕府の要人と薩摩藩士の会談は、深い意味があってのものであろう。 そして帰国後、西は徳川慶喜に側近とし て抜擢され、大政奉還に決定的な役割を果たすことになる。

龍馬が薩長同盟に向けて奔走していたとき、グラバーはイギリスのパークスに働きかけ、幕府を支援していたイギリスを、薩長側へと寝返らせた。このことが薩 長同盟成立に大きく影響を与えた。 イギリスの幕府からの離反、そして坂本龍馬の背後にいたグラバーによる薩長への武器輸入が、当時一般には非現実的で あった倒幕を実現可能なものとしたのである。 つまり、薩長同盟、延いては倒幕-明治維新の表向きの立役者は坂本龍馬ではあったが、黒幕はグラバーだった のである。グラバーは大政奉還後、徳川慶喜助命の嘆願書を出しているが、天璋院や和宮の嘆願書以上に新政府に対する影響力があったかもしれない。

坂本龍馬は無名の素浪人のまま生涯を閉じた。彼が有名になったのは、死後大分経ってからであり、全国に名が知れ渡ったのは日露戦争時である。このことから も、幕末当時の人々は龍馬を認めていたというより、グラバーを強く意識して龍馬と付き合っていた可能性が高い。もしそうでないのなら、薩長の志士が龍馬の 名を意図的に消し去ったということになり、龍馬暗殺の犯人もわかってきてしまう。そのくらい、薩長同盟の証人が無名のままであったというのは不可解なこと なのである。 

龍馬の名が知られるようになった切欠は、明治政府の薩長閥への対抗を目的とした土佐藩出身者による宣伝行為であり、今日知られる龍馬のイメージは大分脚色 されたものである。薩長同盟、亀山社中、海援隊、船中八策は龍馬の完全な独創ではない可能性が指摘されているが、それどころか、その大半がグラバーのアイ デアであった可能性もあるのである。

大政奉還から一ヵ月後、坂本龍馬は京都で暗殺される。 丁度そのころ、グラバーは偶然にも、スコットランドに初めての里帰りをしている。 坂本龍馬の暗殺 には、グラバーの不在が何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。 龍馬を暗殺した犯人にはいろいろな説があるが、龍馬の死で一番メリットがあったのは 新政府に君臨した薩長閥であることは確かである。龍馬が生きていれば、薩長独裁の政府にすることは出来なかったはずだからだ。 

龍馬とグラバー、そしてフリーメイソンの関係は深かったはずだが、その資料の少なさから龍馬の実像は未だ闇の中である。明治維新後、グラバーは教え子であ る岩崎弥太郎と組んで三菱財閥の一員となり、さらにはキリンビールの前身である、ジャパンブルワリーの設立にも尽力していく。

1911年12月16日に死去。享年73。