先の記事で、船奉行所跡「服部屋敷」をご紹介したが、中へ入ると、
当時の徳川幕府献上絹(黄八丈)御用船の模型を見ることができる。
当時の徳川幕府献上絹(黄八丈)御用船の模型 服部屋敷にて
うわー!こんな船で!?と思わず見入る。実際の大きさはどのくらいだったのか?
七百石の船と書かれてあるが、わかりやすくいうと、
八丈島~青ヶ島を現在運航している「環住丸」くらいの大きさだったらしい。
この船に黄八丈をたくさん積んで、江戸まで運んでいたんですね。
咸臨丸の乗船者達 左から2番目が樫立出身の濱口興右衛門(当時31歳)
同じく服部屋敷に飾られてあるこの写真も大変興味深い。
これは、勝海舟の咸臨丸に乗船した人々の写真。
この左から2番目に写っている人物が、樫立出身の濱口興右衛門というのだから!
◎濱口興右衛門 (Wikipedia)
Wikipediaにもこれと同じ写真が載ってますね。
服部屋敷にあるものは、写真の模写を撮影したものらしい。
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咸臨丸(かんりんまる)
今を去る百年前、意気盛んな日本男児九十六名を乗せた咸臨丸が
浦賀港から米国めざし、日章旗を掲げた日本軍艦として初の太平洋横断の
偉業に成功の物語は、今なお日本国民の胸を打つものがあります。
この中堅幹部の一人に、八丈島出身者がいた。
その人は濱口興右衛門いい、八丈島樫立村に生まれ、江戸に出て、
浦和同心会の西家の養子となり、浦賀奉行配下の同心、濱口家の婿養子となり、
同心として働くうち抜擢され海舟の長崎伝習所一期生として入所し、
主席にて卒業、咸臨丸には、教授方中堅幹部として乗り、
渡米の偉業をなしとげた人である。
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この写真は明治二十年に写したもので、
当、服部屋敷九代目の叔父に当たる
海軍中将(勝海舟の長崎伝習所一期生)
濱口興右衛門です
と書かれてあります。
服部家からは、こんな偉人も出ていたのですね。
ひょっとして、八丈島出身で一番有名なのはこの人物なのでは?
しかし、これはあまり知られてない事実。
Wikipediaにも八丈島出身とは書かれてない。
勝海舟がお百姓の家から養子に行って出世したように、
身分制度の厳しい時代には、八丈島出身は隠すべき秘密であったようです。
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濱口興右衛門のその後の職歴を書いたもの。
歴史のお勉強に、ぜひ服部屋敷を訪れてください。
■服部屋敷関連リンク
*八丈服部屋敷(八丈島総合ポータルサイト)
*服部屋敷(八丈島観光協会HP/歴史・伝統文化)
*船奉行所跡「服部屋敷」
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