晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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一昨日、妙壽寺住職から
7月の浦江塾のご案内の葉書が届きました。

浦江塾でアイヌ語起源地名の話が聴かれます。

写真図 浦江塾のご案内の葉書




文面は以下のとおりです。

郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
 アイヌの文化と言えば、私たちは東北や北海道を思い
浮かべるのが普通です。しかしその痕跡は近畿地方にも
残っているようです。各地の地名にその証拠が見られると
言われます。日本列島の先住民だったのでしょうか。
知らないことを吸収することは人間性が深まるようです。
 日時 7月5日(土曜日)午後7時より
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ「日本列島の中の
      アイヌ語起源地名について-」
      関西外国語大学人権教育思想研究所
       特任教授 加藤昌彦先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加下さい。


以下、田野による書き込み
加藤先生から最初、アイヌ語起源地名の話を
お聞きしましたのは、
昨年の全国大学人権教育交流会の時ですから
1年三ヶ月以前です。

初めは、まさか近畿地方にアイヌ語の「痕跡」なんぞあるまいと
思って聞いておりました。
しかし、柳田國男の地名研究から
アイヌ語起源が消えて行くとの指摘は
日本民俗学研究史から見ても
推察できます。


柳田による一国民俗学構築と絡めて
考えてみるならば
消え失せたのは
アイヌだけではありません。
山の民、海の民・・・・。
あるいは、農民に収斂される「常民」概念と
照らすならば
柳田が単一な民族を構想する中で
先住民とおぼしき人々の痕跡を
日本列島から消し去った可能性を
ボクは考えます。


アイヌを取り上げることにより
水田稲作に偏重した日本文化論への
異なる視点が生じます。

ただ従来、しばしば聞こえてきたアイヌ語起源言説と
どのように違い、
どれほど説得力のあるお話が聴かれるかを
ボクは楽しみにしております。
殊に畿内における、信憑性に乏しい地名起源を
いかに説明されるかが楽しみです。


浦江塾は、
今までどおり参加手続き、参加費不要です。
30名が定員ですので
お早めにお越しください。


究会代表 田野 登

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《島村恭則「民俗学研究とは何か」講演以後のこと》の
結びに
社会・文化を「歴史の地層(時間性)」として
捉える考え方には興味があり、
この考え方により地域民俗学を探る方法について
次回、ボク自身の論考を交えながら
考えてみたいと思いますと記しました。

「歴史の地層(時間性)」について
島村恭則「フォークロア研究とは何か」
(『日本民俗学』第278号、2014年5月)の
論文要旨における6つの特性要素の第2項目は
以下のとおりに記述されています。
(以下、「島村論文第2項目」と略記します。)

●社会・文化を
 厚い歴史の地層(時間性)の上に成立するものと考え、
 「現在」の事象を「過去」との照合によって
 解析することを方法論の中核に据えている。


ボクは、この「島村論文第2項目」に関心を持ちました。
なぜなら、「歴史の地層(時間性)」といった概念と
通底するであろう考え方をボクは「伝承の堆積」として
考えたことがあるからです。


それは「都心周辺部にみえる岩見重太郎伝説
―野里住吉神社一夜官女祭に関する言説の変容―」
 (『日本民俗学』第249号、2007年2月)においてであります。
以下、「拙論」と略記します。


拙論におきましては
「一夜官女祭」神事の解釈として
「現在」流布している岩見重太郎伝説と
「過去」との関係を
「伝承の堆積」といった比喩表現を用いました。
●この神事には近世以来、人身御供の伝承が生じ、
 その伝承の表層部に昭和初期以来、
 流布した文芸講談の主人公である
 岩見重太郎伝説が堆積したものである。


私たちが現在、目にし耳にする話は、
何重もの伝承の堆積層を
今という最上層から俯瞰しているようなものです。

だから見えているものは
表層部分であって
澱(おり)のように沈んでいる
遠い過去の伝承の層までは
なかなか見えないでいるのです。

物語が伝承される際のメカニズムには
記憶装置の仕組みが秘められています。

かつて本ブログの「『物語の哲学』を読んで」に
次の記事を載せています。
  ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11354453392.html
野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫)の
引用個所のみを載せます。
●それゆえ、より以前の出来事はそれ以後の出来事の出現によって
 「流れ去る」わけではなく、
 いわば後者は前者の上に「積み重なって」いるのである。
 この「積み重なる」時間のイメージを
 一つの視覚的比喩によって示しておこう。
 それは、一枚一枚の透明なガラス板に
 それぞれ別個の図柄が描かれ、
 それらがうずたかく積み重ねられているという
 イメージである。


以上の引用個所は、
「積み重なる」時間のイメージを比喩的に記述したものです。

このイメージを
伝承行為に当てはめてみますと
私たちが語る話というものが、
過去を語っているつもりであっても
その「過去」は解釈の加わらない「過去」など
あり得ない訳で、
語る行為自体、現在のいとなみであって
堆積した時間の層を
上から俯瞰している行為に他ならないことになります。

民俗学研究のおもしろさは、
それを自覚することです。
初めから、整然とした「過去」などない訳で
民俗研究者は「語られた過去」とわきまえて臨むことです。
いつの時代の、誰であろうと
バイアスの掛かった言説を述べ
それが折り重なって「現在」が形成されているのでしょう。


「一夜官女祭」神事の解釈についての
拙論の結論は、次のようなものです。
●一夜官女祭は、
 川魚を神饌の最重要品目とする「川」にまつわる神事である。
 この神事における伝承において深層をなすのは、
 〈蛇の淵伝承〉であり、
 この伝承は、浜松歌國『摂陽落穂集』における言説〈人身御供伝承〉以降、
 隠れてしまったのである。
 神事としての一夜官女祭には、
 〈人身御供伝承〉〈岩見重太郎伝説〉といった伝承が
 表層に堆積したものの、
 〈蛇の淵伝承〉といった伝承の深層が
 周辺に押しやられながらも今日なお見えるのである。


しばらく眠り込んでいたボクの民俗研究の楽しみを
「島村論文第2項目」の「歴史の地層(時間性)」概念から
目覚めさせられました。


究会代表 田野 登

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前回は両区の境界を求めて
此花年金住宅2号棟の最上階に
上った訳ですが、
眼下に見えたのは
紛れもなく旧中津川に出来した鼠島でありました。
その広さは、5.8394ヘクタールですので、
甲子園球場の敷地面積とほぼ同じ広さです。
  ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11444819840.html
 「鼠島残影」


次には急ぎ足で、旧中津川南東端の対岸の
砂利置き場に移動しました。
その場所からの鼠島を確認したかったからです。


写真図1 砂利置き場からの旧鼠島南端




正面に見えるのは、福島区側の大開厚生年金住宅です。
前方右(北方)に六軒屋川地下水路が
テントに覆われて見えます。
この水路は、新淀川取水口に出る高見機場から
六軒屋川に水を流しています。
両区の境界を挟んでの
此花区側の此花年金住宅の高層住宅は
図像の左(北西)に見えます。


あと一つ両区の境界が可視的に見えるポイントに向かいました。
大阪市建設局西野田抽水所です。


写真図2 大阪市建設局西野田抽水所



住居表示板が右に「福島区吉野五丁目4」
左に「此花区西九条五丁目1」が掲げられています。
まさに両区の中心からすれば周縁地域であり、
かつての漁村の入口でもあります。


この抽水所の場所は
*「新撰増補大坂大絵図 元禄4年(1691)」では
 *「新撰増補大坂大絵図・・・」:
  玉置豊次郎 1980『大阪建設史夜話』附図 第4図
  ブログ掲載許可申請中
「野田新家」の浜に至る北西に見える樋であります。

絵図を読図すれば
中津川の水が南東に流れ込んでいるように見えます。

さてここで村尾会員と別れ
清水会員と二人旅です。


二人とも同じ道を通るのを潔しとしない性分で
阪神淀川駅へ戻るのに
今度は、此花区側からの境界線を
訪ねようと阪神高速道路沿いの南北の道路を
北上することにしました。

この道路は、高見新家公園以北は
まちがいなく旧中津川の川床であって
現在の地名に照らしますと
「福島区大開四丁目」と「此花区一丁目」の境界に
位置します。


やがて、この阪神高速道路沿いの南北の道路を
左(西方)に、福島区側から此花区側に
越境することにしました。

高見フローラルタウン敷地内の高見地蔵堂に
立ち寄りたくなったからであります。

そのお地蔵さんは
2013年1月、高見新家公園に
「高見の25棟に地蔵さんが祀られている」と聞き、
訪ねて行ったことのあるお地蔵さんです。


写真図3 高見日切地蔵堂




地蔵堂のあるニュータウンです。


写真図4 高見日切地蔵尊




香華を手向ける方々がおられるのです。
地蔵堂の裏には
この地の町名の変遷が記述されていました。

●このお地蔵尊は、
 大正年代の中頃、此花区高見一丁目7-11
 (当時大阪府西成郡稗島村大字大高見)に
 有志住民により建てられたものです。/町名は
 大正14年4月 大阪市西淀川区姫島町
 昭和3年6月  大阪市西淀川区高見町
 昭和18年4月 大阪市此花区高見町
 と変遷しました。

 地蔵尊はこの間70余年にわたり

 地域の人々に親しまれてきましたが、

 高見地区整備事業にともなって

 奉賛会有志により当地に移設建立しました。
 平成元年8月吉日

 高見(日切)地蔵尊奉賛会


やはり地蔵堂は、身近なマチの記憶遺産です。

この日の調査を終えて

新淀川左岸を北に遡り
海老江、鷺洲に向けて歩き始めました。


究会代表 田野 登

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昨日、6月22日は
大阪民俗学研究会の会員と
福島・此花区の境界を歩きました。
集合場所である阪神淀川駅での
参加者は、
村尾清一郎会員、清水聡会員、
福島区歴史研究会幹事長でもある末廣訂氏からは
資料提供だけしていただけました。


この日は、複数の地図と路上の表記に基づき
旧中津川下流の中州に
かつて存在した鼠島(下島)を
挟むように両区の境界を踏査しようとする試みでした。
基本的には左岸(東側)が福島区で
右岸(西側)が此花区です。
以下、写真に基づき両区の境界を説明します。


今まで左岸(東側)では、近世絵地図に
描かれた土手の道なりに湾曲する道を
本ブログで紹介しましたが、
今回は、土手道より西側を歩きました。

絵地図では、河川敷で「流れ作」と表記されたりしています。
現在は
下流にはダンボール会社・レンゴーや
福山通運の裏側(西側)に続く道です。


写真図1 ホームセンター・コーナン福島大開店


この店のさらに西の道路が此花区との境界です。
大型の家庭用品を商う店にとっては
陳列するのに大きなスペースを要する訳で
このような河川敷跡、氾濫原が地価が安いこともあって
営業を始めたのでしょう。

一行は南に歩き懸案の鼠島跡地に入りました。
今では公団の高層住宅が建ち並び
公園が広がっています。
高見新家公園です。
この公園は南西から北東にかけて
両区の境界線が走っています。
南に行くほど福島区側が広くなります。

それは、鼠島の形が南に広く、
北にすぼまっている形をしていたからです。
   ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11444819840.html
 「鼠島残影」

「鼠島」という中州の島は
たとえば弘化2(1845)年の「弘化改正大坂細見図」では
「野田シマ」と表記されています。
野田は福島区側です。
そのような「歴史」が今日の区の境界にも反映しています。


一連の高層住宅も東側が福島区側で、大開年金住宅です。
すぐ西の郵便ポストがこれです。

写真図2 此花年金住宅北のポスト




確かに「此-107」とあり、
所在地の表記は此花区高見一丁目です。


今回、清水会員からの発議で
此花年金住宅2号棟の最上階から
かつての鼠島を見下ろすことにしました。
いつもの好奇心に着火しました。


東側の窓からの光景ですので
かつての鼠島の南東端が見えます。
すっかり阪神高速道路の敷地内に取り込まれ
踏み込むことができない領域です。


写真図3 此花年金住宅2号棟の最上階からの眺め




すっかり調査意欲が掻き立てられました。
村尾会員の退散時刻が迫ってきました。

一行は、此花年金住宅二号棟を下り
大急ぎで次の地点に向かうことにしました。
せめて彼には野田新家のかつての樋口を
確認してもらわねば・・・・。


次回に続きます。


究会代表 田野 登

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6月7日の浦江塾にて
関西学院大学教授の島村恭則氏から
「*民俗学研究とは何か」のご講演をいただきました。
*民俗学:島村恭則氏の論文
  「フォークロア研究とは何か」
   (『日本民俗学』278号、2014年5月)では
  「フォークロア」となっているのを
  浦江塾では、一般に向けて「民俗学」に
  言い換えていただきました。
以下、講演に関しましては「民俗学」の語を用います。


この講演は、
大阪民俗学研究会(阪俗研:はんぞくけん)の会員の中で
反響を呼んでおります。

*質問は井東一太郎会員からでした。
  *質問:2014/06/11 9:47田野受信

今回、阪俗研メンバーでもある
島村教授からメールで井東会員への
回答をいただきました。
両者の承諾を得てブログアップします。

まず、井東メール(一部編集)を紹介します。
●民俗学は歴史だけでなく,
 過去から現在に続いている事象を
 集める学問と感じました。
 ある事象がなぜ起こったかを,
 またそれが各地に伝わり
 どのように変化し
 現在に至ってきたのかをも調べる学問ではないでしょうか。
  (以下略)


地域史の調査研究をしている
阪俗研メンバーにとりましては、
井東会員のみならず
民俗学は、歴史学と
どのような関係にあるのかは知りたいところです。

両者の研究対象の相違は?
切り口は、どのように異なるのでしょうか?
そもそも民俗学における隣接科学と異なる
ユニークな発想は?


島村会員からの*回答は
以下のとおりです。
 *回答:2014/06/20 0:28田野受信
●民俗学の方法の最大の特徴は、
 「現在、それがそのようになっているのはどうしてか」を、
 過去との照合によって究明するところにあります。
 過去そのものの研究ではなく、
 「過去を使って現在を解く」という学問です。
 比喩的にいえば、過去形でもなければ、
 単なる現在形でもない、
 現在完了形、というのが民俗学の方法です。


分かりやすく歴史学との違いが説明されていますね。

島村会員が学会発表された論文「*民俗学研究とは何か」の
冒頭には論文要旨が記されております。
そこには6つの特性要素の複合を挙げられています。
以下、田野が、その6点を自分なりに書換えました。


「フォークロア研究」とは
 ①何らかのコンテクストを共有する人びとの間で生み出され、
 生きられた、経験・知識・表現を研究対象とする。
 ②社会・文化を厚い歴史の地層(時間性)の上に成立するものと考え、
  「現在」の事象を「過去」との照合によって解析する。
 ③人と「もの」との関わりを重視する。
 ④文献学的知識や言語感覚が対象把握に際して重要な役割を果たす。
 ⑤フォークロアを生み出し、生きる人びとや
  彼らが暮らすフィールドと、研究者・学界との間に、
  深い相互性がある。
 ⑥いわゆる「輸入学問」ではない。


井東メールに即すれば②の項目に注目したいと思います。
社会・文化を「歴史の地層(時間性)」として
捉える考え方には興味があります。

この考え方により地域民俗学を探る方法について
次回、ボク自身の論考を交えながら
考えてみたいと思います。


究会代表 田野 登

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