福島・此花区の境界を歩く(後) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


前回は両区の境界を求めて
此花年金住宅2号棟の最上階に
上った訳ですが、
眼下に見えたのは
紛れもなく旧中津川に出来した鼠島でありました。
その広さは、5.8394ヘクタールですので、
甲子園球場の敷地面積とほぼ同じ広さです。
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http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11444819840.html
 「鼠島残影」


次には急ぎ足で、旧中津川南東端の対岸の
砂利置き場に移動しました。
その場所からの鼠島を確認したかったからです。


写真図1 砂利置き場からの旧鼠島南端




正面に見えるのは、福島区側の大開厚生年金住宅です。
前方右(北方)に六軒屋川地下水路が
テントに覆われて見えます。
この水路は、新淀川取水口に出る高見機場から
六軒屋川に水を流しています。
両区の境界を挟んでの
此花区側の此花年金住宅の高層住宅は
図像の左(北西)に見えます。


あと一つ両区の境界が可視的に見えるポイントに向かいました。
大阪市建設局西野田抽水所です。


写真図2 大阪市建設局西野田抽水所



住居表示板が右に「福島区吉野五丁目4」
左に「此花区西九条五丁目1」が掲げられています。
まさに両区の中心からすれば周縁地域であり、
かつての漁村の入口でもあります。


この抽水所の場所は
*「新撰増補大坂大絵図 元禄4年(1691)」では
 *「新撰増補大坂大絵図・・・」:
  玉置豊次郎 1980『大阪建設史夜話』附図 第4図
  ブログ掲載許可申請中
「野田新家」の浜に至る北西に見える樋であります。

絵図を読図すれば
中津川の水が南東に流れ込んでいるように見えます。

さてここで村尾会員と別れ
清水会員と二人旅です。


二人とも同じ道を通るのを潔しとしない性分で
阪神淀川駅へ戻るのに
今度は、此花区側からの境界線を
訪ねようと阪神高速道路沿いの南北の道路を
北上することにしました。

この道路は、高見新家公園以北は
まちがいなく旧中津川の川床であって
現在の地名に照らしますと
「福島区大開四丁目」と「此花区一丁目」の境界に
位置します。


やがて、この阪神高速道路沿いの南北の道路を
左(西方)に、福島区側から此花区側に
越境することにしました。

高見フローラルタウン敷地内の高見地蔵堂に
立ち寄りたくなったからであります。

そのお地蔵さんは
2013年1月、高見新家公園に
「高見の25棟に地蔵さんが祀られている」と聞き、
訪ねて行ったことのあるお地蔵さんです。


写真図3 高見日切地蔵堂




地蔵堂のあるニュータウンです。


写真図4 高見日切地蔵尊




香華を手向ける方々がおられるのです。
地蔵堂の裏には
この地の町名の変遷が記述されていました。

●このお地蔵尊は、
 大正年代の中頃、此花区高見一丁目7-11
 (当時大阪府西成郡稗島村大字大高見)に
 有志住民により建てられたものです。/町名は
 大正14年4月 大阪市西淀川区姫島町
 昭和3年6月  大阪市西淀川区高見町
 昭和18年4月 大阪市此花区高見町
 と変遷しました。

 地蔵尊はこの間70余年にわたり

 地域の人々に親しまれてきましたが、

 高見地区整備事業にともなって

 奉賛会有志により当地に移設建立しました。
 平成元年8月吉日

 高見(日切)地蔵尊奉賛会


やはり地蔵堂は、身近なマチの記憶遺産です。

この日の調査を終えて

新淀川左岸を北に遡り
海老江、鷺洲に向けて歩き始めました。


究会代表 田野 登