柏駅から70チェーン
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

「個人」という概念の理解を深めようとして作ったメモランダム

人間は、そのひとりひとりが「個人」として尊ばれ、かつ自由な存在であるという観念は、キリスト教世界の枠を超えて、様々な形に変容しつつも世界各地に根を下ろした。あるいは、下しつつある。相変わらず「世間」が解体されないでいる日本という国でも、少なくとも建前としては、ある。この観念を肯定するのが「近代人」であって、だから日本人も「近代人」ではあるのだが、どうも「個人」という概念は、その名と形を移入しただけで、今ひとつ理解が足りないように思う。だから、たとえば「個人」という概念と不可分の関係にあるはずの人権意識も、日本ではどうも理解が進まないのだろう。

とまぁそんなことをつらつらと考えて、ならば19世紀における「個人」をめぐっての思想的潮流の上澄みに関するメモランダムを置いておけば、少しは益するかなぁと思って本稿をあげた次第。まぁ自分にとっては少し役立ったという程度のものに過ぎません。まぁ大学の般教で社会学をとったという人ならば、社会学という分野の発生に関係深いヨーロッパの保守主義について学ぶ過程でとうにご承知かもしれません……という程度のものですが。学びますよね、社会学と保守主義の関係について。

さて、以下本題。

人権を享有する主体たる「個人」は、単に「ひとりひとりの人間」といった意味ではなくて、国家とか社会とか諸集団を徹底的に解体し尽した地平に現れる、独立した最小単位としての一個の人間のことを言うのであって。

ただし、イデオロギーに絡め取られるが故の限界というものはあって、たとえば18世紀に女性の権利を主張したメアリ・ウルストンクラフト(*)の見識は、当時の男性知識人の容れるところとならなかった。「個人」といえば概ねヨーロッパの白人男性を指したわけで、これが「啓蒙の世紀」と呼ばれる時代における知的状況の限界。

まぁなんであれ西欧は、数百年にわたる中世の歴史の中で「個人」という概念を獲得していった。そして自由主義や急進主義による「個人」の解放を経て、二重革命(市民革命・産業革命)のもたらした混乱に直面し、「個人」の受容の仕方が変化していったというのは事実としてあるのだけれど。

19世紀は、市民革命と産業革命の結果たる矛盾が噴き出した時代。資本主義的生産様式は「諸個人」が資本家と労働者に分裂させられて階級対立を引き起こし、ローカルコミュニティはその存立基盤を失い、不均等発展や支配従属の関係が誰の目にも明らかになった。

要するに個人主義や合理主義が人々の生活圏にまで降りてきた結果、その理念自体を裏切る事態が起きたわけで、マルクスは疎外態としてこれを捉えた。個人的諸権利への献身を旨とする自由主義は、個への献身に働く限りにおいて制度や集団を認めるように変容していった。また保守主義による中世的価値の擁護は、コミュニティや家族、権威、宗教といった社会的集団の復権と影響力の強まりに寄与した。19世紀の保守主義、変容した自由主義、そして共産主義は異なるイデオロギーに見えるが、二重革命の混乱を社会的、制度的に克服する思想であるという一点において重なり合う。

ただ保守主義が自由主義や共産主義などと決定的に違うのは、社会の最小単位を「個人」ではなく「社会の小さな諸集団」と考えた点。彼らは社会を個人という単位にまで解体することが社会的無秩序につながり、ひいては国家統制を呼び起こすとして、個人主義に反対した。

「啓蒙の世紀」18世紀が「個人」による「契約」の時代だとすれば、19世紀は「社会(コミュニティ)」を再発見した時代。ただし、それ以降「個人」が蔑ろにされるようになったというのではなくて、より普遍的かつ現実的であることが目指されるようになった。社会権という概念の発見も、そう。

というわけで、以上大雑把ではありますが。

(*)メアリ・ウルストンクラフト(1759~97)はロンドン生まれの女性著述家。今日では、1792年に出版された『女性の権利の擁護(A Vindication of the Rights of Woman)』の著者として知られる。同書は当初、女子教育に関心を持つ進歩的知識人の間で好評を博したが、一方では旧来の女性観を拭えない穏健な知識人からは、女性を貶めるものとして見られた。また刊行された年後半以降のフランス革命の急進化と、および1793年に始まった対仏戦争に伴う国内政治情勢は、ウルストンクラフトに対する風当たりをより強いものとした。このあたりの事情は梅垣千尋「革命の時代の男女平等論――メアリ・ウルストンクラフトの革新性」河村貞枝・今村けい編『イギリス近現代女性史研究入門』(青木書店、2006年)を参照。

キリスト教世界はどうして性に対して抑圧的なのか、についてのメモランダム

キリスト教世界において性が抑圧的に扱われている事実を理解するには原罪ということを考えなくてはならないんだけれど、wikiの説明はわかりにくい。コトバンクの「恩寵喪失の状態」というのも、説明になっていない。そこでキリスト教史や西洋史の本に加えて、阿部謹也『西洋中世の男と女』を参照する。

先達の著作を参考に解釈すると、アダムとイヴは、木の実を食べたことで肉体に囚われるようになった。そのことから二人は神の許から離されて、永遠に生きることが出来なくなった。これが人類全体が背負った「原罪」で、その結果もたらされたのが出産と死の終わりなき繰り返し。

2世紀頃の地中海世界におけるキリスト教徒を捉えたもの――最後の審判に備えた自己変革。ちなみに原罪に関わる最大の悪は出産と死の終わりなき繰り返しであるがゆえ、したがって性の放棄によって悪の永久運動を絶つことができるとする考えが現れる。

そして2世紀以降、男性の間に去勢が広がる。これは、キリスト教徒を縛っている肉体的、社会的制約から己を解き放ち、肉体の底にある「真の自分」の発見に至ろうとするもの。絶対者たる神の前には、「真の自分」が一人で立つ必要がある。肉体に囚われない「真の自分」。

ちなみに4世紀ごろになると聖と俗の分離が進む。教徒一人一人が絶対者と向き合う古代のキリスト教から、聖職者のみが絶対者と向き合う構造に変化。一人一人の教徒が独身を貫くという形から、聖職者に独身男性たることを求める形への変化。

ところで、こうして性への衝動を抑えることが普遍化することで、売買春や性犯罪は無くなったのか。答えは否。売買春は依然として存在し、今でいうところの性犯罪に相当する行為もなくならなかった。

古代地中海世界崩壊後、キリスト教と性を巡る舞台は中世の西欧へと移る。世俗の人間関係に宗教的規範が覆い被らされた時代。教会は、私的領域たる「性」にも干渉した。性は不潔、性は悪、女性は官能的であるが故に制御されなければならない、そもそも出産を担う女は肉の象徴で原罪と不可分。

復活祭の前の四旬節(40日間)はセックスしちゃダメ、クリスマスの四週間(降誕節)もダメ、聖霊降臨祭も復活祭もダメ、日水金土の各曜日もダメ、昼はダメ、裸でするのもダメ、子作り目的でないとダメ、愛撫ダメ、ディープキスもダメ、変った体位ダメ、楽しんじゃダメ、するなら一回だけ云々云々。

で、ここから先は中世都市研究の成果もいくつか参照。

12世紀ごろ、教会は結婚に介入、秘蹟として位置づける。情欲や淫乱をネガティブに捉えて否定し、肉体の繋がりではなく、魂の繋がりとするようになった。そのことはやがて一夫一婦制の確立、内縁関係の劣位化、結婚解消の困難化へと進む。

中世都市の商人、手工業者は晩婚化の傾向にあった。30~50代の男性が適齢期に達した女性と結婚するケースが多く、必然的に若い男性の結婚相手がいなくなるという傾向に。甚だしきは34歳の開きも。

中世都市は暴力の巷。教会による性の抑圧や晩婚化の一方で、若い男性による女性への暴行が日常化。十代後半から二十代前半の男性十数名のグループによる暴行が年中行事化していた。そのため、はけ口として都市当局による公営の娼館が14~15世紀に設立される。

暴行を受けたことが明らかになった女性は、穢れた体の持ち主と見なされる。独身女性の場合は結婚が困難となり、既婚女性であれば夫に捨てられるという風に。時には娼館入りも。これは名誉を失ったこと――わかりやすく言えば被差別階級への転落を意味する。なお、娼婦の四分の一強が暴行事件の被害者であるというデータも。

ある中世史家は、こう述べる。こうした青年の攻撃性や「女性への渇望」は、余りにも厳しい道徳的な拘束、強制された結婚や晩婚などを原因とする、露骨な結果ではなかったであろうか。――ジャン・ピエール・ルゲ『中世の道』(井上泰男訳、白水社、1991)。このように捉える歴史家は多い。

ただし、女性に対する暴行が年中行事化していたとは言っても、十代半ばまでの女性に対する暴行には厳罰が科せられていたらしい。欧米においてティーンエイジャーに手を出すことが許されないというのは、こういう歴史的背景があってのこと。

以下、8/15追記。

中世のヨーロッパにおける性の抑圧と女性差別は、表裏一体のものとして進んだ。どちらも肉体を否定する考えから。こうした傾向は宗教革命以降はプロテスタントに強く表れる。ポルノ否定論は、その延長線上にあるのではないか。

ところで、十代半ば頃くらいまでの少女との性関係(とりわけ暴行)がダメだというのは、キリスト教以前にさかのぼるようである。中世初期、キリスト教の影響を受けていないゲルマン民族の法典に見られる。だからこれは、肉体否定とか性への抑圧とかとは関係ない。もちろん現代の人権も関係ない。

なお娼婦は、中世の時代を経るにしたがって差別を受けるようになっていったが、15世紀ごろには再び市民と対等の立場を取り戻したものらしい。

労働生産性が低いというのはどういうことか、そしてそれは何にとってどのように都合が悪いのかという話

日本は労働生産性が高くないらしい。そこで自称経済評論家あたりから「高くしろ」という声が聞こえたりする。なるほど、生産性が低いと聞けば良くなさそうな印象も受けるが、実はそう簡単な話ではない。

まず本題に入る前に、前提となる話を大雑把に。労働者が自分の賃金一日分の価値を作り出すのに3時間の労働で十分だとする。これが必要労働時間といわれるもの。すると8時間労働のうち残り5時間という労働時間は、早い話が「タダ働き」の時間となる。これが剰余労働時間。その「ただ働き(剰余労働時間)」で生み出された価値(剰余価値)が利潤で、つまり資本の儲けとなる。これが搾取。

で、労働生産性というのは、投下された労働量(労働時間、労働者数)に対する、それによって生み出された付加価値の割合。

もし付加価値の量が同じであれば、労働時間や労働者数が多くなればなるほど、労働生産性は低いということになる。逆に労働生産性を高めるということは、同じ労働者数、同じ労働時間で生み出される付加価値を増やす、つまり剰余価値を増大させるということであり、搾取がそれだけ強化されるということである。これは早い話が、1日の労働時間におけるタダ働きの率を相対的に高めるということでもある。

ところで労働生産性という概念の他に、資本生産性という概念もある。こちらは投下された資本に対する、それによって生み出された付加価値の割合。付加価値の量が同じであれば、投下された資本が多ければ多いほど、資本生産性は低くなる。

資本生産性と労働生産性は概ねシーソーの関係にある。他方が上がれば他方が下がる。どういうことかというと、遊休資本が発生しないように労働者数なり労働時間を増やせば、それだけ資本生産性が高くなる代わりに労働生産性が低くなる。逆に資本をどんどん投下して労働者数なり労働時間なりを減らせば、労働生産性が高まる一方で、資本生産性は低くなる。

言い換えれば労働生産性が低いということはそれだけ資本生産性が高いということでもあって、つまり資本(土地や設備など)に金をかけていないと言うことでもある。だから、投下資本の量に対して必然的に労働投入量が多いサービス業は、それだけ労働生産性が低くなる。また大手製造業の労働生産性が低ければ、資本をあまり投下していないんじゃないかという、その企業にとっていささか恥ずかしい話にもなりかねない。

また労働生産性は、好況の時は高くなり、不況の時は低くなる傾向がある。また平均労働時間が長くなれば下がる。人数が増えれば下がる。しかし賃金の多寡はカウントされない。したがって、「不況だから非正規雇用に置き換えました。労働時間は長くなりましたが、コストは下がっていますよ」という状況だと、確実に労働生産性は下がる。

で以下は、ならばどうすればいいかと言う話。

一つは、労働生産性にまったく囚われない生き方。生産性を高めた分だけ搾取が酷くなるのは確実だが、賃金がそれに純比例して上がると言う保障はどこにもないし、資本の運動に労働者が積極的に協力しなければならないわけでもない。下手に機械設備の更新などによって資本生産性を下げたところで労働者数が減る(解雇)というのは問題であり、また生産の拡大は有限な資源を浪費するだろうし、長い目で見てそれが人類のため、他の生物のためになるのかどうか。

もう一つは、我々が生きていくための指標の一つとして参考にする考え。現在は労働生産性の低さそのものよりも雇用の伸び悩みと低賃金の横行こそが問題で、雇用確保、賃金の引き上げ、残業も含めた労働時間の短縮をおこなえば消費も上向きになり、生産も拡大され、結果として労働生産性も向上する。それに、忙しい思いをしないで済む方が生産性が高いともいえるわけで、過重労働を避ける目安にもなるだろう。

さらにもう一つ。カネをひとたび固定資本にでもしたら、すぐに金には変えられんし減価はするし、いいことない。一方カネ(日本円)は、デフレと円高のおかげで持っているだけで価値が上がり続けている。つまり事実上の金利がついているのと同じ状態にある。だから今は資本を投下すること(=資本生産性を下げる)ことは考えずに、また低賃金長時間労働もそのままに低い労働生産性に甘んじて、より一層の資本への隷従を強いたほうが良い。

私なら、1番か2番を選ぶが、そもそも生産性なんて資本の運動に都合のよい財務指標に他ならないわけで、労働生産性それだけに右往左往させられることが間違っていることだけは断言できる。3番の選択肢は論外だが、ただ現実には、否応無くそのような生き方を強いられている労働者が極めて多いし、また資本は、そのような状況に甘んじて大した改善努力もしないばかりか、公共セクターによる社会保障部門の企業負担を減らし、さらには消費税増税と法人税減税をバーターしろという要求まで突きつけてくる始末。言うまでも無くこれは、実質的な賃金引下げを政策によって引き起こさせることに他ならない。

ところで、日本の必要労働時間(=労働者が自分の賃金一日分の価値を作り出すのに必要な時間)は2時間ほどという試算もある。もしそうなら、我々は随分と資本を儲けさせてやっているわけ。そもそも「誰が食わしてやっているのか」と言う話をしたら、分があるのは株主ではなく、労働者の側。いくら資本があっても労働者が働きかけてやらなければ、それは単なる「カネとモノ」にすぎないのだ。そろそろ総資本に対する全面的な攻勢を、総労働という枠組みで考えてもよい頃だとは思うけれどね。

ミルキーとか称する出会い系サイトに関する情報

スパムメールやコメントスパムは、いわゆる出会い系サイト(本当は出会いなんかないのに)ばっかりである。しかもコメントやメール本文はいかがわしい文面で、削除や受信拒否が追いつかないほどにドメインを代えて次から次へと送ってくる。

えぇ、私の携帯にも着信するようになりました。仕事で使う携帯だから、メールアドレスをやたらと変えるわけにもいきませんし、これは困ります。というか、仕事中にメールが来て、どこからかなと思って開くとスパム。これはもう、迷惑を通り越して威力業務妨害ですらある。

ちなみに申せば、2008年12月1日以降は「特定商取引に関する法律」の改正によって、請求や承諾をしていない人に対する電子メール広告の送信が禁止されています。

で色々と考えた結果、このサイトに関する情報を晒すことにしました。

サイト名:ミルキー(milky)
商号:株式会社リディム、株式会社ビリーブ。特定商取引法にもとづく表記を見ると、なぜか二社の名前が併記されています。
で、ここはキャロル(Carol)というサイトも運営しています。

以下は住所。
(株)リディム:東京都豊島区南大塚一丁目60番20号
(株)ビリーブ:東京都港区新橋二丁目10番7号

以上はどちらもビルなのですが、部屋番が不明。まぁどうせバーチャルオフィス……ありていに申せば私設私書箱あたりでしょう。法人登記を見ても住所はここなので、「特定商取引法にもとづく表記」にある住所は、特に嘘というわけではありません。

それから電話番号。これはいけない。03-6868-7673という電話番号は使われていないので、かけても無駄です。いけませんね、「特定商取引法にもとづく表記」で嘘をつくのは。経済産業省に言いつけてやろう。

運営者の名前。、「特定商取引法にもとづく表記」で運営者となっている茂腹宜孝という名前は法人登記にも役員の名として記載されていますので、これも嘘や間違いではないだろう。

そして、ここから先は取締役本人の情報。「内容証明を送りたい」「訴訟を起こしたい」という方は、どうぞご活用下さい。ただし悪用はいけません。ほんと、くれぐれも悪用はなさらぬよう。

……と申して、茂腹宜孝氏の小金井市の住所を載せていたんですが、ちょっぴり反省して削除としました。必要な方は最寄の法務局で、法人登記の「現在事項全部証明書」を一部700円也で請求してください。

地震と模型

人の命にかかわる被害の出なかった千葉県柏市だが、さすがに揺れは大きく、帰宅したら積み上げてあったものが部屋中に散乱。

ただ、自作の本棚だけは倒れもせず壊れもしなかった。もちろん、中の本も飛び出すことなく、無事。これでいよいよ、本棚は自作に限るとの信念を強める。家具屋で市販されている本棚とかスチールラックじゃ、普段でも持たないもんねぇ。そのくせ中途半端に奥行きが深いから部屋を狭くするし。

悲惨を極めたのは、模型。走らせる時に箱から取り出す鉄道模型はともかく、ディスプレイがメインのプラモ(の完成品)は、ほとんどが落下の衝撃で壊滅。経済損失ン万円(十ン万円か。ン十万円は多分いかないと思う)という有様で、せめて未組み立ての箱を眺めて「あーあのキットもこのキットも、まだ手付かずで良かったなぁ」と自分を慰める始末。

新規まき直しを図るとして、さぁどうしようかなぁ。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>