第七章 人間、このすばらしい可能性を秘めた尊き存在 ⑤シュタイナーの人間観 | 心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!―人間は、肉体の死を超えて進化する―

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心の奥には科学的常識を超えるすばらしい可能性がひそんでいます。その可能性に目覚めて生きるなら、人生を希望をもって心ゆたかに強く生きられるようになるのです。このブログはそのことを真剣に論証し、具体的方法を提案するものです。※不許複製・禁無断転載

生命と意識(心)は質的に異なる存在  渡辺久義氏は前掲書『善く生きる』の中で、生命と意識(心)についての考察内容をいろいろ述べています。

そのひとつに「我々がこの只中にあり、我々がそれそのものであるところの生命」というのがあります。この表現からは生命と意識(心)は一体のものととらえられているように思えます。また「生命と意識は別物ではない。かといって同じものでもない」とも言っていて、これを先の「我々がいのちそのもの」と言っているのとは違う何かを伝えようとするもののようで、それがなんであるかはいまひとつよくわかりかねるところです。またそのあとに「生命は意志をもっている。あるいは意志そのものである」との表現もあり、一般に意志は意識内容の一部と理解されるものなので、感情や思考も意識内容に含まれることから言えば、生命は意志そのものであるというのにはいささか引っかかりを覚えるところです。

渡辺氏のこの三つの記述をあえて総合すると、生命=意識=意志と理解してよいようにも思われるのですが、同時にその三つがまったく同じというわけにもいかない何かがあるということを述べようとしているようにも受け取れるのです。

 こんなふうに渡辺氏の生命のとらえ方は意識(心)の働きと渾然一体になっています。渡辺氏にとって生命と意識というのはそもそも区別できるようなものではないのかもしれません。

 しかしその点で、シュタイナーの場合はかなり異なっています。彼の場合には生命と意識(心)の在りように質的違いのあることを明らかにしているからです。すなわち生命は先に述べたように主として呼吸、代謝、体液の循環、成長、生殖など身体の維持や成長および種の保存に関する働きをつかさどるものであり、意識(心)は、感情や思考あるいは意志といった個々人の内的世界にかかわるものとされているからです。両者は質的に異なる存在であり、質的に異なる働きをしているものなのです。
 
 すでにふれているように、意識(心)と生命は同じ不可視の究極的全体に起源をもつものですが、シュタイナーの場合、意識(心)は生命原理とは別のより高次原理のもとにあるとされており、意識(心)の中核をなす「私」という自己意識(自我=人格)は、さらなる高次原理にかかわるものとされているのです。とは言え、この三者は相互に浸透し合う関係にあるともされているのです。




人間は四つの異なる要素の複合体
 ここからは、シュタイナーの主要著作『神智学』『神秘学概論』『いかにして超感覚的世界を認識するか』等にもとづき、先に縷々述べたシュタイナーの生命観を包含する、彼の人間観の骨格・概要について述べたいと思います。

 シュタイナーによれば、人間は四つの異なる要素から構成されている複合体です。四つの要素の一つは物質的要素(鉱物・無機物)から成る物質体です。そこには自然法則が常に働いています。

その物質的要素(物質的身体)を有機的身体(肉体)に変容させる働きが生命力という第二の要素です。これをシュタイナーはエーテル体(生命体)と名付けました。

第三の要素は、外界を認識しそれに反応する意識、心(感情)の働きです。これをアストラル体(感情体)と呼びました。

第四の要素は人間の心の中核をなす自我(「私」の意識・自我体)です。
ここに述べた「物質体」「エーテル体(生命体)」「アストラル体(感情体)」「自我体(『私』の意識)」はいずれも感覚ではとらえられないものです。

人間は、これら四つの異なる超感覚的要素(「体」)が相互に浸透し関連し合いながら全体を形成している複合体だというのです。
 (ところで、シュタイナーが物質体、生命体=エーテル体、感情体=アストラル体というときの「体」についてですが、これはある意味を持って使用されているものです。ただここでは、この「体」が物質的な性質を示すものではなく、イメージ上の形姿にあたるものだとだけ述べておきます。)

以上は、渡辺久義氏の生命論とのかかわりでシュタイナーの人間観に抵触する部分と言えるものです。渡辺氏のように、生命現象と意識現象を区別することなく一体のものとしてとらえ、意識の中核的働きをする自我(「私」の意識)でさえ、生命の延長線上に自然に生じるものとして特別意識した扱いをしていないのは、実は他の「正当な学問」の領域においてもよく見受けられるところです。

しかしこの点が、いま述べたようにシュタイナーの生命観および人間観での大きな違いであり特徴であって、シュタイナーの場合には、先述したように生命現象と意識現象は別の原理下にあるとされている点に深く留意する必要があります。この違いを意識することは、人間の奥深い在りよう、人間本来のすばらしい在りように言及しようとする本書の場合きわめて重要です。それゆえに、その違いをあえてここで指摘した次第です。


自我こそ人原の核心
 シュタイナーは主著『神智学』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の中の「人間の本質」と題された章で、人間を先に述べた「人間は四つの要素の複合体」というのとは別の表現で、つぎのように説明しています。

 人間は、三つの側面から構成されている存在だ、というのです。

 それは今日のキリスト教会の教義にあるように、人間が「肉体」と「魂」からなる二分節的存在と見るのではなく、「体」と「魂」と「霊」とからなる三分節的存在として見ていることを意味します。

「体」とはここでは生命活動を営む「肉体」ととらえてよく、この肉体を通して、周囲の世界は感覚的知覚像を人間に示します。たとえば眼前に紅葉した銀杏の木があるなら、肉体すなわち眼(視覚)はその幹の形や紅葉した扇形の葉形を人間に示してくれます。

「魂」とは「心(心性)」ととらえてよく、いまの例でいえば、視覚が受け止めた銀杏の知覚像が自分にとって喜ばしいと感じたり、過去に銀杏の実でかぶれた経験を持つなら嫌悪感を覚えたりするところのものです。つまり自分に向かってくるものに対して本質的に好きか嫌いかで反応するものが魂(心)だというのです。

「霊」とは「精神(叡智)」ととらえてよく、知覚像として「魂(心)」のうちに現れるものを、好きと思うか嫌いと思うかということとは別にして、そもそもそれは何であるかと問い、考えることを通して認識しようとするときに、人間にもたらされる世界のことだというのです。それは思考内容として「魂(心)」の中に現れるものですが、もとよりそれは「魂(心)」についての何かではなく、対象そのものについての何かということになります。

 このように人間は「体」「魂」「霊」という三つの側面をもつことにより、周囲の世界と三重に結びついている存在だというのです。動物はこの「霊」の側面が欠けている存在ということになります。

 ところで、この章の①でふれたように、動物一般に共通することとして、肉体(感覚器官)を通してもたらされる知覚像に対して魂(心)が好きか嫌いか、共感か反感かの感情を抱くだけではなく、その感情から欲望が目覚めたり衰えたりするということでした。そして次に起きることは、その知覚像に対して近づいてゆこうとしたり、逆に離れようとするのでした。つまり環境からの刺激に対して特定の感情を抱き、その感情から欲望が目覚め、その欲望を満たそうとするのが魂(心)というものの本性でした。

ところが人間だけは、心魂がこうしたさまざまな感情や欲望を経験するなかでやがて自分自身を自覚するようになる、すなわち自己意識を持つようになるというのです。

 すべての動物ではなく、なぜ人間だけが自己意識を持つようになるのかと言えば、もともと人間のみが霊的存在として思考力を備えているからだというのです。とは言え、人間も自分の感覚の中でのみ生きているかぎりは感覚に依存しています。そのかぎりでは環境の与える印象が人間の内部で作用し続け、印象が人間を支配し続けることになります。このかぎりでは基本的に動物と変わりありません。

しかし人間は「霊(精神・叡智)」的側面を持つ存在として次第に思考を働かせるようになり、それによって感覚から来る印象(知覚内容)を秩序づけ、意味を理解するようになります。するとその瞬間から人間は自己意識・自我を意識するようになるのだと言います。そして人間はこの自我により、自分を他の一切から区別された独自の存在、すなわち「私」であると考えるようになるのだとシュタイナーは言います。

 個々人において、「私」という自己意識が、そのような出生後の成長過程のなかでひとたび目覚めるとき、この自己意識としての「私」には、私に示される周囲の世界と共有しているものが何もないことになります。ところがそのことによって人間は、「私」という意識によって自分にかかわるものすべてと内的に関与できる、すなわち「私」が自分以外の世界について考えることができるようになったのです。このことの意義は絶大です。

そのようにして人間は体と魂と霊の存在として経験(体験)するすべてを「私」のなかに統括し、それにより個々人はそれぞれ独自のまとまとりのある内的世界を形成するようになっていったのです。まさに「私」という自己意識(自我)こそが人間の本質であり、人間の核心ということができるのです。



人間を高貴化する自我の役割
 シュタイナーの人間観によれば、個々の人間ははるかに高次の段階へと進化をとげる可能性を持った存在です。しかし実際に人間が高次段階に進化するには、自我(私)が自己の他の構成要素に高次の視点から働きかけねばなりません。

もちろんそれができるのは、自我(私)が精神世界(不可視の究極的全体・叡智界・霊界)の比較的高いヒエラルキーに根ざす存在だからであり、その自我(私)によって他の構成要素である心魂(アストラル体)や生命体(エーテル体)、そして肉体にまで働きかけができる構造になっているからです。

とは言えここで特筆すべきことは、人間には自由意志が備わっているということです。この自由意志により、自我(私)は自己の真の本性に逆らってまで生きることもできるのです。それゆえ自我(私)が心魂のいだく様々な欲望にふり回されたり、あるいはそれらの欲望にのめり込んで、周囲の迷惑も省みず自己本位に生きることもできてしまうのです。

 そうした前提のもとで、それでも摂理が働くなかでの一般的な在り方としては、自我(私)が次第に、低次(利己的)な欲望や感覚的な享楽にふけりがちな自己の心魂の傾向に、ブレーキをかけようとするようになるのです。あるいは自我(私)が、好き嫌いを本性とする心魂に振り回されるのではなく、心魂の世界を高次の視点から支配しようとするようになります。それによって心魂は次第に浄化されていくことになります。

修養を積み重ねるというのも自我(私)による心魂のコントロール強化(心魂の成長)のためであり、また、人生に降りかかる荒波を乗り越えようとする場合にともなう苦悩や努力も、たいていの場合その人の心魂の浄化、成長を促進させるものになっているのです。

いずれの場合にも自我(私)が高次の視点から心魂に働きかけており、その結果として心魂が浄化され洗練されていくことになります。
 そのことに関連するものとして、シュタイナー著『精神科学(霊学)の観点からの子どもの教育』には次のような記述があります。

 「原始の人間に『私』がはじめて輝き出でたとき、それまでの動物状態から一歩先へ進むことができたのですが、その時点でも、低次な衝動や欲望や情念に衝き動かされて生きていたのでした。そのような成長段階から何度も生まれ変わり、受肉の過程を繰り返しつつ、人間はますます高次の進化を遂げていき、衝動や欲望や情念を浄化し洗練させていったのです。」

 これはシュタイナーが霊視した(超感覚でとらえた)人類史におけるスタート時点からの人間進化の概要を述べたものと解されます。「私」の、特に「衝動や欲望や情念」の浄化、すなわち心魂(アストラル体)への働きかけによる進化について述べたものと言えます。そしてここには、人間が一度かぎりの人生を生きるものとしてではなく、幾度も生まれ変わる存在であり、進化はその生まれ変わりをとおして進められていくことが示されています。

 同じことは生命体(エーテル体)の進化についても言えて、「私」による働きかけはそれを高次な在り方へと変容していきます。すでに述べたように生命体は肉体の形成力であり、作用力でした。しかし同時にエーテル体は「慣習や平生の好みや気質や記憶力(そして意志)の担い手」(前掲書)ともされているのです。

ところで、この生命体を「私」によって高次な在り方へと変容させるには、心魂(アストラル体)の場合以上に「私」による集中力を要し、困難がともなうものとされているのです。

なぜそうなのかと言えば、「私」の他の構成体への働きかけは、心魂(アストラル体)の高次化(高貴化)をとおしてなされることになっているからです。しかもアストラル体の変化の度合いを時計の長針の動きに例えるなら、エーテル体の変化の度合いは短針の動きに匹敵するほど遅々としたものだと言います。

エーテル体の高次化によって肉体をより健全なものに変化させたり、慣習や気質等を高次レベルに変化させるには、それだけアストラル体だけを対象にした場合より「私」の強い働きかけや集中力(努力)が必要になるというわけです。

こうした「私」の高次の視点からの働きかけによる他の構成要素の変化は、日常生活の中で実際に生じている現象です。たとえば、ある人が内蔵の病気をかかえているとした場合、その人(私・自我)が自己の心魂(アストラル体)へのコントロールを強めて陰鬱な気分に打ち勝ち、明るい気分で前向きに生活するように努めることで、生命体(エーテル体)が活性し病気が快方に向かうというのは、現実にいくらでも見られるところです。第一章の①のケースで述べた筆者の扁平苔癬治癒の経過も、筆者(自我)が妻の言動をきっかけに絶望的気分から明るく前向きの気分に切り替えることができ、それによりアストラル体が浄化され、エーテル体をよい状態に変化させることができた結果もたらされたものと言えます。同じく①のケースで採り上げたハンス・セリエのがん克服法もそうした事例の一つと言えるものです。

 また、そうした「私」の高次の視点からの働きかけによる他の構成要素の変化という点では、教育の営みにおいても見られるところです。実際に先生が教室で子どもに接するなかで――子どもの自我は未成熟(未だ覚醒途上)であることから、先生の態度が子どもの心魂に直接影響しやすいので――、先生(の自我)が基本的に落ち着いた明るい気持ちを維持するように心がけ、笑顔で児童に語りかけながら授業を行うとき、子どもの心魂も明るく楽しい気分に満たされることになります。そのときの子どもの生命力(エーテル体)は生き生きと活動し記憶力も強化されるという事実があります。

反対に先生が不機嫌な感情をコントロールできずにその感情を引きずって教壇に立つなら、子どもたちの気分は暗くなって生命力は萎縮し、記憶力も弱められてしてしまうのは教育心理学的に知られた事実です。すなわちよい教育を行うには、つねに教師(の自我)が自己の心魂(アストラル体)に高次の視点から働きかけ、浄化・高貴化を図ることが必要になるということです。

このようにして「私」の働きかけは、ついには肉体の容姿にまで及びます。それは容貌に変化を生じさせ、体つきや身のこなしなど外観をも次第に変化させていくことになります。

その格好の事例として、私の若きころ近所で出会った経験が思い出されます。それは少年のころから不良行為を繰り返し、大人になるとやくざ集団に身を置いて悪行を重ね、見るからに怖い形相をしていた男がいたのですが、何があったかキリスト教会に出入りするようになったのです。ところでその男性を数年後に見かけたときには、驚いたことに以前の怖い形相とは打って変わって、柔和で品性さえ備わった人相に変貌をとげていたのでした。

キリスト教の教えを彼の自我が受け入れてそれを生きることで魂(心性)が浄化され、それをとおして彼の態度や容貌(肉体)までが変化をとげていったと思われます。


ところで、こうした「私(自我)」による他の諸要素への働きかけの程度が、実は必然的にカルマ※の形成に結びつく点がこの人間観の要のひとつでもあります。先に、進化は生まれ変わりをとおして進められると述べましたが、まさにこのカルマを携えて新たな人生へと転生することで、さらなる進化が可能になるとされているのです。
 (※カルマとは簡単に言えば、精神世界での因果の法則を前提にした「過去世の生き方の成果であり、来世の運命のこと」(『神智学の門前にて』、R・シュタイナー著)。つまり生まれおちる境遇の違いの原因は前世にあるということ。人間は自分の運命を前世で用意したのである。したがってこうも言える。この人生での新しい行為は現在の運命に影響をおよぼし、未来の運命をつくることになる、と。)


生死を超えて存続する「私(自我)」の意識

 さて、「私」の意識(自我)がカルマをともなって転生するということになると、そこに生じる科学的常識からの疑念は、やはりその自我がいったいどこから生じるのかということになるのではないかと思うのです。

その点については、すでに第三章を中心に論じてきているように、多数の脳科学者が考えているような大脳の神経生理学的働きから生じるものではなく、また過去の経験の記憶による積み重ねによって形成されるものでもないというのが、同じ脳科学者であるペンフィールドやエックルスらの論証によって明らかにされたところでした。その点からすると、「私」の意識(自我)は、少なくとも赤ちゃんとして母体から生まれる時点ですでに存在していた、ということにならざるをえません。そして、そのこと自体、自我の生まれ変わりを否定できなくします。

私は、その真実性を実証しうるものとして、本論の第四章および第五章で取り上げた「臨死体験の存在」や「胎児の記憶の存在」を挙げることができると思っているのです。

すなわち臨死体験から推察されることは、少なくとも「私」の意識(自我)が肉体を離れても存続しうるということであり、胎児の記憶から推察されることは、もともとしかるべきところ(霊界)に存在していたと思われる「私」の意識(自我)が、機が熟して地上に下降することになり、カルマにしたがって自分にふさわしい両親に出合い、母親の胎内にいる胎児と同化するというプロセスを歩むことになるのではないかということです。

こうした臨死体験と胎児の記憶に共通するここでの決定的に大事なことは、人間の本質である「私」の意識(自我)が、もともと精神実体として肉体から独立した、その意味で超越的存在であり、生死を超えて存続し続けるものであるというところにあります。


 人間は成長し、進化し続ける存在

 「私」の意識(自我)が死後(肉体から離れたのち)どのようなプロセスをたどるのかについて、さらに臨死体験が教えてくれる重要なことは、肉体から離脱した直後の私の意識(自我)がどのような状況に遭遇するかということに関しての具体的な姿です。

 最初のころの状況は、多くの臨死体験に共通している光景で、私の意識(自我)が肉体から抜け出すと間もなくまばゆい光に出合うのです。すると、その光りから温かさと歓喜と安らぎが生じ、そして深い愛に包まれるのです。大変神秘的な現象ですが、人の心(魂)が肉体から抜け出すと誰しもがこのような大いなる光に必ず出会うようなのです。


 次いで、その大いなる光りとの出合いから間もなくして導かれるのは、地上での人生をつぶさに回想させられる場面です。それも相手や周囲の人々の立場に立ってです。たとえば虫の居所が悪くてある人をひどくいじめたとする場面では、いじめられた人の苦痛の方を体験することになるのです。そうした回想により様々な自己本位な行為が相手や周囲に与えていた苦痛や苦悩の大きさを知ることになり、その結果、自分の振る舞いの身勝手さ、自己の人格的欠陥に気づき、悔恨の苦しみの中から意識が前向きに変化し、心の成長が促されることになるのでした。

この、臨死体験から推察される人間の死後の経過をシュタイナーの精神科学(霊学)ではどのように認識されているかといえば、概略つぎのようです。

 人間が死ぬという現象は、物質体から人間の他の構成要素〈エーテル体+アストラル体+自我(私)〉が離れてしまうことを意味します。死によってエーテル体が離れてしまった物質体は屍となり、無機物(鉱物や水)に分解されることになります。その後エーテル体はアストラル体と結びついたまましばらく生き続けるが、やがて離れていき、アストラル体と自我(私)は結びついたままで生きていきます。アストラル体は過ぎ去った地上の人生の記憶を保持していて、死後間もなく私(自我)はその記憶により自らの一生を映像として体験することになります。しかも、その内容がすべて逆の意味になって体験されるのです。このあたりは臨死体験の事例とも符号します。

さて、その映像体験が終わると、あらゆる性質の自己中心性すなわち利己的欲望が浄化の炎によって焼き尽くされ、アストラル体も消滅することになります。

この段階に来ると、私(自我)は物質界でのすべての欲望から解放され、自己の奧にある純粋な世界を体験できるようになります。すなわち私(自我)は他のすべての構成要素(体)から離れ、これまでと異なる意識状態に移行するのです。すると、私(自我)の内側から「純粋な精神世界(霊界・叡智界)」が現れ、自我はその世界を体験するようになります。

実はシュタイナーの言うこの純粋な精神世界(霊界)こそが、第五章の「胎児にも心がある」で述べた肉体に宿る以前のすべての個性的な私(自我)が集う場所であったと理解することもできます。自我はその世界に一定期間滞在し、尊い学びをしたのち、時宣を得て再び地上に降りるべく、カルマにしたがって両親を選び出し、その母胎に宿ることになるわけです。

こうしてシュタイナーの精神科学(霊学)では、精神実体としての私(自我)がこの世に生まれ変わる度に、その都度その人にふさわしい肉体(物質体+生命体)と心魂(感情体)をまとい、地上での人生を新たに生きることになります。その目的については、先述したように私(自我)が、本能やさまざまな欲望にふけりがちな心魂にふり回されないように生きることはもとより、高次の視点から働きかけて心魂の浄化、高貴化を促し、その浄化、高貴化の程度に応じて他の構成要素も浄化、高貴化されることから、人間として成長、進化することにあるのでした。


 進化する人間の行き着く先

さて、人間がそのように進化、成長する存在であると知って、どうしても気になってくるのはつぎのことです。そのように進化、成長し続ける人間の行き着く先、最終的な到達点をシュタイナーの人間観(人智学)ではどのように想定しているのかということです。

その到達点に関しては、シュタイナーの著書『シュタイナーの霊的宇宙理論』(高橋巌訳、春秋社)のなかに、人間と高次元存在との奥深いかかわりについてかなり詳しい記述が見られます。そのなかで、その本質が端的に表現されていると思われるところに注目してみようと思います。この書の第十講「進化の目標」の一項目に〈ヒエラルキアを取りまく根源の宇宙叡智〉というのがあり、そのなかに先の問いに深くかかわる内容が、つぎのように示されているのです。

「私たち人間は、現在の立場から出発して、ますます高次の認識力、意志力等を獲得し、それによって、根源の宇宙叡智にますます近づき、根源の宇宙叡智がますます身近な存在になるように努めなければなりません。」
 (ここに用いられている「根源の宇宙叡智」という用語についてですが、シュタイナーの精神科学〈霊学〉では、宇宙の創出者を「根源の一者」とか「根源の偉大なる宇宙叡智」あるいは「超感覚的世界」等とも表現しています。この名称は、本論の場合には「不可視の超越的絶対者」や「サムシング・グレート」あるいは「創造主」など何でもよいのです。要は宇宙物理学の研究結果により気づかされた人間原理が示唆する、人智を圧倒する知性と創造力と秀でた人格性を有する存在を指すものであればよいからです。)

 右の引用文から、私たち人間が努力によって根源の宇宙叡智にかぎりなく近づける存在として想定されていることがわかります。そしてこの記述の少し後に「(人間の生息する)太陽系の進化全体は、…根源の宇宙叡智の自己実現なのです。」との記述が続きます。

この文言はきわめて重要です。この文言と先の記述を併せて考えると、私たち人間は、根源の宇宙叡智の自己実現のために、自らの努力によって高次進化をとげるべく期待されてこの宇宙とともに創出された存在である、ということになるからです。
同じ意味に当たる内容が、シュタイナーの主要著書『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)の最終章に、つぎのように書かれています。

「かつての超感覚的世界は感覚世界への移行を必要とした。その世界はこの移行なしにはそれ以上の発展はしなかったであろう。感覚的な領域のなかで、必要な能力を発展させた存在が現れたときはじめて、超感覚的世界もさらに前進する。(太字化は著者)」

 このことに関しては、日本人智学協会代表の高橋巌先生が、かつてある講座の中で、超感覚的世界のいわば内情をおおよそ次のように分かりやすくお話しされていたのを思い起こします。

それは超感覚的世界がなぜ感覚世界への移行を必要としたのかと言えば、超感覚的世界においてさらに進化をとげようとする内的エネルギーが高まったため、ついに外化(外界を流出)するにいたり、この人間の生息する宇宙が出現するようになったのだ、と。(これは、あくまでも私の三十数年も前の記憶によるものです。)

渡辺久義氏もほぼ同様の観点から、前掲書『善く生きる』のなかで中心的な内容の一つとして主張しているものがあって、それは宇宙が目覚める宇宙であるとの前提に立ち、「宇宙は明確な方向性を持っているということ、たんに方向性を持っているというだけではなく、何かを実現しようとしているらしい」というのです。しかも、その実現は「まさに人間によって、人間をとおして、目覚めの新しい境地を開くしかないからである」と述べているのです。

さらにこのことを別の言い方もしていて、そもそも宇宙史は目覚める宇宙の覚醒の歩みであり、「(意識を開くにいたった)人間は宇宙の自己実現のために、いわば悲願をこめて創られたものである」と。

これらの表現は先のシュタイナーの精神科学(霊学)が指し示している宇宙観および人間観に共鳴するものと言えるでしょう。つまり根源の宇宙叡智(超感覚的世界)のさらなる進化は人間の進化への努力にかかっており、それゆえ人間の進化の行き着く先は、進化する根源の宇宙叡智(超感覚的世界)と同じレベルにまでに高まることにあるということになります。


 根源の宇宙叡智にとって、さらなる進化の必要性とは
 こうして私たちは、人間の進化が根源の宇宙叡智の進化に直結するという、人間がこの上ない重要な位置におかれていることを知って、あらためて思うことは、そもそも最高の理念を有し最善の状態にあると考えられる根源の宇宙叡智が、さらなる進化をとげる必要が生じたというのはいかなる理由によるのかということです。

先の『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』からの引用文に「かつての超感覚的世界(=根源の宇宙叡智…筆者)は感覚的世界(=ビックバン以降の人間のいる四次元宇宙…筆者)への移行を必要とした。その世界はこの移行なしにはそれ以上の発展はしなかったであろう」とあることから察せられるのは、何らかの理由によって根源の宇宙叡智は自らをそれまで以上に高次な在りようへと進化発展させる必要を感じたのだと思われます。

その必要を満たすためには、「感覚的な領域のなかで必要な能力を発展させる可能性をもつ存在」としての人間がどうしても必要であったと思われます。では、その人間によって発展させられるべき能力とはいったいどのような能力なのでしょうか。それについては、やはり先述した『シュタイナーの霊的宇宙論』の第十講、「進化の目標」のなかに突っ込んだ記述があるので、その勘どころと思える部分を私なりに要約して、以下に示します。
 
 宇宙においては、繰り返しが大切なのではなく、時代が移り変わるごとに、新しい事情が宇宙進化に組み込まれること、絶えず新しさが付け加えられることが大切である。この前提に立つとき、宇宙進化の方向を前へ進めるためには、ある特別なことが生じなければならなかった。その特別のこととは何かと言えば、「進化の道を前進させるかわりに、その道を妨害すること」であった。

と言うのも、妨害することによって「目標に向かって道がまっすぐに続いている限りは生じえないような、(今までにない)もっと偉大なことがらを生じさせることができる」からだ。それまでのように超感覚的世界の内部で「宇宙進化がそのまま続いたのでは、霊的人間は立派に進化をとげたかもしれない。」けれど、そうではなく、進化の道が何らかの要因により妨害されることによってはじめて、人間はそれ以上に力強く進化をとげることになる。

そのような理由のもとに、根源の宇宙叡智がみずからを進化させるためにはどうしても、妨害を受けてもひるまずに前進する人間のいる宇宙(感覚的世界)を創出する必要があったのだ。

 ところで、実際に妨害を受けることによって、人間は自分の力(自分の自由意志)でそれを克服して目標に到達できるようになったのだが、この「自由が与えられていることに人間の行為の本質がある」のであって、人間の行為が自由を前提になされることがどれほど意味深いか、すなわち自由が与えられているということは好き勝手ができるということであり、自由を付与された人間だからこそ、「ルツィフェル※(悪)の力に打ち勝つことによってのみ、善と真と叡智を獲得できる」のだ。
(※ルツィフェルとは、人智学では人類の進化のために神的摂理にしたがって悪の役割を演じる霊的存在のこと)


 こんなふうに、人間の進化の道を妨害することや人間に与えられている自由意志が、人間に求められる能力獲得にとって不可欠の要件であることが書かれており、そのうちとくに後段の自由に支えられた人間行為の本質のとらえ方は、人智学(精神科学〈霊学〉)における人間観の要をなすもので、人間は大いなるものからの強制力によってではなく、自分の力(意志)で自由に進化できる可能性を持っているところに尊さがあるとされているのです。

 さて、そのような文脈の後に、さらにつぎのような人智学が伝える核心的内容の文章が見出されます。
 
 「…人間は、世界に自由をもたらし、自由と共に愛をも世界にたらすという、偉大な使命を背負っている」
「自由がなければ、愛の行為が崇高な在り方を示すことはできません。無条件に衝動に従わなければならない存在は、まさにそれに従って生きています。勝手なことを行うことのできる存在にとって、従わなければならない衝動は愛だけなのです。自由と愛は、互いに結びあうことのできる両極です。私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、…可能なのです。」

 このようにシュタイナーの人智学では、人間の中で発展させるべき能力を高次の認識力や意志力はもとより世界に自由と愛をもたらす能力においているのです。究極的には世界に自由と愛をもたらすことが人間の使命であり、それらの能力を高め発揮することによってはじめて根源の宇宙叡智もこれまでにない高次な在りようへと進化、発展することが可能になるということなのです。したがって根源の宇宙叡智がさらなる進化を必要とした理由は、まさにこれまでになかった自由と崇高な愛を成就することにあったと言えます。









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第七章 人間、このすばらしい可能性を秘めた尊き存 ⑥心の奧の真相に目覚めて生きることのすばらしさ