第七章、人間、このすばらしい可能性を秘めた ⑥心の奧の真相に目覚めて生きるすばらしさ | 心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!―人間は、肉体の死を超えて進化する―

心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!―人間は、肉体の死を超えて進化する―

心の奥には科学的常識を超えるすばらしい可能性がひそんでいます。その可能性に目覚めて生きるなら、人生を希望をもって心ゆたかに強く生きられるようになるのです。このブログはそのことを真剣に論証し、具体的方法を提案するものです。※不許複製・禁無断転載

自分の身勝手さを克服するには
このように人間が根源の宇宙叡智によって創られ、世界に自由と崇高な愛をもたらすべく期待された存在と知って、あらためてその存在意義のすばらしさ、尊さを思わされます。

ところが、そうしたすばらしい人間観に立って人類史を顧みるとき、残念なことに、そこにはすばらしい人間観とはあまりにかけ離れた姿が見出され、愕然とせざるをえません。時代と地域により程度差はあるものの、多くの人間が利己的欲望に狂い、悪行に走り、その結果混乱と退廃と破壊が蔓延するすさんだ世界をつくり出してきているからです。

なぜそのようになったのか、それは根本的には人間に与えられている自由のゆえに、好き勝手ができるところから自己本位の行為に走る傾向が強まり、堕落したからです。その結果、必然の成り行きとして、個人と人類に塗炭の苦しみと不幸が見舞うようになったと言えます。

しかしながら、そうした地上で苦しむ人間の姿は、察するに、宇宙創出者(根源の宇宙叡智・サムシング・グレート)にとって見るに堪えぬものであったろうと思われます。なぜなら、すでに見てきたように彼が己の必要性から宇宙に人間(人類)を誕生させた、まさに人間の生みの親だからです。親の深い愛と責任のゆえに苦境にある子どもたちを何としても救出せねばならぬとの切なる思いから、幾たびか地上にその救出者を適切な時と地域を選んで遣わしてきたのではないかと思われるのです。

そのひとつの証としては、たとえば、いまから2000年ほど前に出現したイエス・キリストをあげることができるのではないかと思うのです。イエスは迷い苦しむ人々に直接人間のあるべき姿を説き、自己のこれまでの身勝手さを悔い改めることによって、聖なる超越的絶対者により救済されると説いたからです。

「真理は汝を自由ならしめん」と聖書には記されています。聖書の普及も根源の宇宙叡智が直接人間一人ひとりに真理を伝えようと救いの手をさしのべている証と言えます。(ただし、聖書により真理が伝えられているとしても、自分から進んでその真理を心の奥深くに受け入れようとするのでなければ、それを受け取ることはできないものです。)

さて、そうした根源の宇宙叡智による直接の救済がこの先どのように進められていくにしても、人間(人類)が苦しみと不幸から真に脱却するには、つまるところ誰もが己の低次な欲望に振り回されない、エゴイスティックでない自己を確立する必要があるわけです。

しかし、普通に考えれば、そのような自己の確立は容易ではなさそうに思われます。なぜなら、まず第一に、これまでの人間的弱さを持つ筆者自身に照らして考えてもそうですし、第二に、マスコミによって日々伝えられる身勝手さが生み出す国内外のおびただしい犯罪や事件のニュースがそう思わせます。第三に、先述した人間のエゴがもたらした悪行ゆえの苦悩と不幸の絶えない人類史を見るにつけても、そう思わざるをえないのです。

こうしたことを踏まえると、この先どれだけ時代が進もうとも、人間がエゴイスティクな在りようを克服するなんてことは不可能ではないかとさえ思えてきます。

その上、さらにそうした自己の確立を困難にし、人類の未来に対する悲観的な見方を助長させるものに唯物論的世界観、人間観をあげなければなりません。

この点は主に本書の第四章で重大な問題として指摘したつもりですが、唯物論的思考傾向の脳科学者や生命科学者たちが述べているように、人間が物質原理のもとで偶然や奇跡によってたまたま生じたものであるとする考え方、すなわち端的に言えば人間の本質は物質(モノ)にすぎないとする考え方が、人間の尊い側面を見出そうとする認識の営みを陰に陽に妨げ、その認識にもとづく前向きな生き方にブレーキをかける働きをしているのは確かと言えます。

このように一般の日常レベルの私(自我)にとって、自分の欲望に振り回されない自己の確立はほぼ不可能に見えてきます。その点に関してはシュタイナーも、一般には今日の進化段階にある人間の「私」の意識レベルは成長の揺らん期にあり、未だ自己本来の在りように目覚める状態には程遠く、それはまどろんだ意識状態にあると述べています。

 しかしながら、一般の人たちの意識はそうであったとしても、本書によるこれまでの論証を追ってきた私たちの意識は異なるはずです。私たちの本来の自己がいかにすばらしい在りようをしているか、すなわち先に紹介したシュタイナーの精神科学(霊学)が提示する人間観の概要を理解できるところまで来ているからです。その人間観の枝葉の部分はともかくとして根幹部分を受け入れることができるなら、その時点から日常の自己は低次な欲望に容易に振り回されないレベルへと成長が促されることになります。

ただし、先述の聖書による宇宙創出者の真理伝達の際にふれたように、真理を知るだけでなくそれを自己の心の奥深くに受け入れる必要があるのです。まさにそこから、これまでとはまったく違った未来への展望が切り開かれることになり、絶対の希望ある見通しのもとに進化を促進する生き方が可能になるのです。


 心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!
 こうして、心(魂)の奥にまどろんでいる真相・実相が途方もなくすばらしい可能性を秘めたものであると知った私たちのなすべきことは、まさにこの私がそのすばらしい可能性の持ち主であるということにハッキリと目覚めて、それを心に強く深く刻んで生きることです。

そのことは個人にとってはもとより人類にとって、さらには根源の宇宙叡智にとって決定的な意義を持つことになります。

 さて、ここであらためて、私たち人間が実際に根源の宇宙叡智瞬とのつながりを一瞬たりとも絶えることなく意識せざるをえない現象を、第一章で紹介した「気」の記述のなかからいくつか示そうと思います。

第一章に登場する合気道や空手の武道家、さらにはホーリスティックな見立てをする医師の誰もが確信しているのは、宇宙の創造主の存在でした。武道家たちの揺るがぬ信念として宇宙の創造主には心(意志)があり、それは天地の理として、宇宙を貫く絶対の原理として働いていると受け止められているのでした。

実際に武道家たちの日常的体験として、自分の心が天地の理にかなっていると思えるときにのみ気が流れ出ること、またその気は病気や怪我の治癒力としても発揮されるのでした。それでは天地の理にかなう心とはどのような心かと言えば、それは正直な心、純真無垢な心(子どもの心)、真心、真実に根ざす心、感謝の心、調和や愛等の心です。

 そのことを実証する事例を第一章で述べた中からひとつ挙げれば、相手に真心を込めて挨拶するとその人の身体に気が通るという事実があります。この挨拶で、武道の場合にはその人の身体は強くなり相手の攻撃に対する恐怖心が消えるのです。正座のお辞儀をすると、それだけで全身に力がみなぎり、柔軟性のある姿勢ができ、身体の重心が下がって肚が据わり強くなれるのです。もし「この野郎」と思いつつお辞儀をすると身体に力が入らず、身体の重心が浮いてしまい実力が発揮できなくなるのです。

いまひとつ例をあげれば、対戦相手を前にしたとき、統一体をつくったうえで相手と調和する、調和の心で相手を包む、そのような心で対戦すると自己の身体に気が流れ、相手の戦力を萎えさせてしまうという事実があります。

こうしたことは師範たちの道場でつねに経験されている体験的事実です。そしてこれらのことは、道場のなかだけでなく日常生活の場面でも言えることが、数々の体験的事例によって明らかにされています。

 すなわち真実や真心、調和や愛にもとづく振る舞いからは無意識のうちに気が出て人の心を動かし、他方愛や調和を欠き、また偽りや心からのものでない言動には気が流れず、人の心を動かす力が弱まることが確かめられているのです。こうした武道の師範たちが提示している諸事例は、気の出る出ないが自分の心次第で決まり、そのときの心が天地の理にかなっているかどうかにあることを示しています。

こうした心の在り方次第で気が流れ出たり出なかったりするという事実が私たちにもたらす奥深い喜びは、「この世界には『根源的に善良な力』が働いている」(来住英俊著『キリスト教は役に立つか』新潮選書)ということを確信させてくれることです。

世界は過去も現在も人の身勝手さのゆえにおぞましい姿をさらし絶望的にさえ見える部分を抱えているだけに、ともすると世界は道理なきものに思え、そうであることは仕方のないことと諦めがちにがちになる私たちにとって、この確信を持てることの意義は誠に大きいものがあるように思うのです。

 そこで、こうした確信のもと、これからはこの私(自我)自身のすばらしい可能性をいつも意識し、自分の心を真実、真心、調和、平和、感謝、愛等の思いで満たしつつ、自己の置かれた境遇や立場のなかで、自分にふさわしい役割や課題を見出し、それを達成するために全力で生きることでです。

とりわけ愛の思いからすべてをなそうとする生き方は、まさにエゴイズムと悪を隔てる生き方と言え、私たちが進んでそのような真っ当な心構えで生きようとするなら、それはまさしく偉大な宇宙創出者(根源の宇宙叡智)の悲願達成につながる生き方ということになります。


さて、そうした生き方をする人には、たとえば先ほどもふれた第一章の武道の師範たちに「気」という超常的能力が生じたように、そしてその力で、自身はもとより周囲の人をも健康に導いたように、その種の超常的パワーによって、それぞれの状況に応じた望ましい変化がもたらされることにもなるのです。

 しかし、そうした身近に生じる望ましい変化もさることながら、こうした生き方をする人にもたらされる最高の意義は、なんと言っても絶対の希望ある未来に向かって生きているという自覚からくる、心の底からの安心感と喜びです。さらには、いかなる状況下でも揺らぐことのない自己肯定感を持てることです。

これら人間を根底から支える諸感情は人生を積極的、意欲的に生きようとする前向きの心を引き出します。たとえ現状が深刻な状況にあったとしても、もはやそれをこれまでのように悲観的にのみ受け止めるのではなく、平静に落ち着いた気分で前向きに受け止められるようになり、そこから現状を乗り越える気力や知恵も湧出し、なすべきことに全力で向き合えるようになるものです。それにより状況の改善が図られていく可能性は高まっていくことになります。

それはまた、カルマへの賢明な対処法ともなり、よき未来の形成につながっていくことになるのです。
 
 最後に、心の奥の尊くてすばらしい自己本来の在りように目覚める者は、他の人も本質的に尊い存在と見ることができるようになり、どのような人とも尊敬心を持って向き合えるようになるはずです。

そうなると、この先世界にそうした真の自己に目覚める人が増加するにつれて、様々な差別意識は解消に向かい、憎しみや恨みも徐々に薄らいでいくことになるのではないかと思うのです。その流れが加速するなら、世界は今日あるような不安と恐怖、苦しみと不幸な在りようから次第に解放されて、自由と愛に満ちた姿に変わる日がやってくるにちがいありません。

 以上のように、心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きる者は、未来への明るい見通しのもとに心正しく強く生きることが可能になるのです。



「おわりに」
 本ブログがお伝えしようとしたもっとも大切なことは、人間として存在し生きることが、宇宙の始まりに存在した偉大な何者か(サムシング・グレート)によって根底から支えられ、意味づけされているということです。すなわち人間はサムシング・グレートによって生み出され、その本質は肉体ではなく心(魂、その核心である自我)にあり、その心(自我)は未来において高次の認識力や意志力を備え、そして自らの意志により世界に自由と崇高な愛をもたらすことのできるレベルにまで進化をとげるべく、サムシング・グレートによって期待された存在であるということです。そして同時に大切なことは、現代の常識から大きく逸脱したかに見えるこの主張を、できるだけ筋道だった説得力のあるものとしてお伝えすることにありました。そのために宇宙物理学(天文学)や生命化学、あるいは脳科学などの科学的知見を踏まえることはもとより、心理学における経験主義的立場から超常現象といわれる臨死体験や出生時の記憶等をも重要視し、それらをできるかぎり論理的、実証的に表現しようとしたことです。

 
 ところで、そのような高次レベルの進化は、本文で述べたように一回きりの人生で成しとげられるようなものではありません。シュタイナーの精神科学・霊学(人智学)では、人間の自我は肉体が消滅したのち純粋な精神世界(霊界)に移行し、然るべき時の経過ののちにまたこの世に生まれ変わり成長の歩みを続ける存在とされています。どの人の人生も紆余曲折しながら歩むのです。

すなわち家庭や社会に貢献する一方で勝手をして周囲に迷惑をかけたり、時には罪を犯すようなこともします。しかし個々人の自我は、それらの経験から学びを重ねるなかで進化し成長していくものとされているのです。人間は、基本的にこうした学びの人生を幾度も繰り返しながら、いつの日にか高貴な存在にまで高まる可能性を宿した存在だということになります。したがって進化の道のりは決して短いものではないと知ります。

 とは言え、基本的にはそうであっても、当然それは個々のケースで違ってくるということです。と言うのも、それぞれの人生において多くを学び悟る人の場合とそうでない人の場合とでは、必然的に進化の速度は異なってくるはずだからです。それゆえもし一人のひとが、ひとたび本ブログが述べるような人間の真実な在りように目覚めるならば、その人が進化成長する速度は飛躍的に速まることになります。

 
 それにしても、生まれ変わりを前提にした心(自我)の成長という問題の件では、「そもそも生まれ変わりって本当のこと?」と、心(自我)の不滅説に懐疑的である方は大勢おられたのではないかと思うのです。そういう人たちには、この疑念が晴らされなければその先のことは語れないことになります。

本ブログがお伝えしようとした二つ目に大切なことは、この疑念が払拭される論拠を提示することでした。そのためそれに関連する経験的事実に徹底して寄り添い、それらを論理的に吟味検討したつもりです。それは本論で、心は脳とは異なる要素からなるもので、あくまでも心が主体であって脳は本質的に心にとっての生物コンピュータにすぎないことの論証を試みた第三章や、肉体を離脱した後の「私」の意識(自我)の在りようにかかわる臨死体験を扱った第四章、それにこの世の経験がゼロの胎児にもすでに人間としての心(自我)があることを明らかにした第五章においてです。これら複数章に渡って述べたことを重ね合わせることで、もはや死後の心(自我)の存続とその生まれ変わりを否定することは、ほとんど不可能になったのではないかと思っています。

 こうして、人間の本質が肉体(脳)ではなく心(自我)にあり、生まれ変わりを事実と受け止めなければならないとすると、その観点からだけでも、この世の生き方、生きる姿勢が大きく変わるのではないかと思うのです。

 それは、まず死による自己消滅の恐怖から解き放たれることの影響です。自己消滅の恐怖から開放されることが、人の心にどれほど大きな安らぎをもたらすものであるかは計り知れないものがあるように思うからです。と言うのも、先に述べたように死後の心(自我)の存続などありえないと考え、ひたすら死を怖れる現代人はあまりにも多いからです。

 東大教授で文学博士であった岸本英夫さんもその一人でした。彼には、ガンに冒されその闘病中の心を記録した『死を見つめる心』があります。それには死が目の前に迫り、もはや全く絶望という意識が心を占有したとき去来した思いが述べられています。「人間はどうしても死ななければならない。しかし、なんとしても死にたくない。(私は)この矛盾を解くことができない」と。岸本さんにとって死は私の完全な(肉体だけではなく心の)消滅を意味していたのです。それゆえに、どうしてもそれを受け入れることができずに苦しんでいたのでした。岸本英夫さんが死を私の完全な消滅ととらえていたのは、おそらく今日の科学的常識とも言える「心は脳から生じる」との考えによるものと思われます。この前提に立つなら、死によって肉体(脳)が機能しなくなれば心も消滅するのは当然のことになるからです。

 他方、感受性豊かに長く生きてこられた人のなかには、生活実感としてというか直感的に、死後に心は残ると思われる方もおられるようです。2015年末に、NHKスペシャル「いのち~瀬戸内寂聴 密着500日~」が放映されましたが、そのなかで強く印象に残ったのは寂聴さんの次の言葉でした。

「…でも私は死んだら体は焼かれるけど、魂は残るという感じがするんですよね。死んでも何もないなら、生きているこの世の意味がないような気がするわね」この言葉は、彼女の長い作家人生による生活実感からくるものではないかと思われたのです。寂聴さんにとって、生きているこの世の意味はたしかにあると感じられていることから、「生きているこの世の意味」がある以上、その意味の担い手である魂は死後も当然残るという直観をお持ちなのだろうと私は推察しました。

わが国では後期高齢者の方が急速に増加しつつあるなか、今後はますます岸本英夫さんのように死を受け入れられず、あがき苦しまれる方が出てくるに違いありません。そうした人々にとって、本書が論じる心(魂)の不滅説は必ずや救いとなり、心に大きな安らぎをもたらしてくれるものと信じます。


 生まれ変わりを事実と受け止めることで、生き方、生きる姿勢も大きく変わるのではないかと考えるもう一つの理由は、生き方の結果(カルマ)がその人の来世に引き継がれていくことを考慮せざるをえなくなるという点です。そうなると、それは犯罪の抑止力にもなるはずですし、手の施しようのないイスラム国(IS)など自爆による集団殺戮をもくろむ者に対してさえ、最大の抑止力にもなりえます。集団殺戮はもとより自殺も容易にできなくなるはずだからです。

 さらには、この転生とカルマの観念は、これまで人生の謎と思われていたものがそうではなくなるかも知れません。たとえば、それぞれの人生を顧みるとき、誰しもひとつやふたつ納得のいきかねる出来事に遭遇しているものです。どれほど納得いかないかは人によって程度差はあるにしても、なぜこの私がこのような辛い目に遭わなければならないのか、なぜこれほどの苦労を背負わなければならないのか、そうなっていることに人生の理不尽さあるいは不条理さのようなものを感じる場合があるのではないかと思うからです。それは人生の大きな謎と言えるのではないでしょうか。

しかし、もしこの転生とカルマが真実と受け止められるなら、この謎は解けることになります。なぜなら、今生の不条理に見える出来事も前生のカルマがもたらしたものと受け止めることが可能になるからです。この転生とカルマを前提にすれば今生の人生の軌跡の結果が次の人生に引き継がれることになるわけで、そうであれば人生に生じる過酷な運命にも、それを知らない場合とは異なり、ある程度冷静な受け止め方や対処の仕方が可能になるはずであり、また普段に利己的欲望をコントロールし、周囲や社会に対して協力的で思いやりのあるかかわりをするように努めるならば、それは心(自我)の成長を促すと同時によきカルマの形成につながり、次の望ましい人生を期待することが可能になるからです。


さて三つ目に大切と思っていることは、本ブログは大変僭越ながら、シュタイナー思想の存在を知ってもらうきっかけになるようであればとの願いを籠めて書いたものでもあます。

それは、もとよりシュタイナーの深遠かつ壮大な思想の全容を紹介しようと意図するものではありません。それは筆者ごとき浅学非才な者に到底できることではありません。その意図に応えるすばらしい本は街の書店にたくさん並べられています。そうではなくシュタイナーの思想・人智学にまったく無縁であった方々に本ブログを通してその存在と思想内容の一端を知ってもらい、関心を持っていただけたらとの思いからです。

それは本文でも述べているように、人智学は人間(人類)の魂を高次の世界に引き上げる道筋を説いている思想と言えるからです。さらには幸い読者が本ブログを通してシュタイナー思想に関心を抱きこれを理解しようと思われたとき、その理解を進めるのにどうしても必要なことは、なんと言っても唯物論的思考の限界もしくはその問題点に気づくことだと思っているのです。それゆえ本ブログはその点に気づいていただけるよう配慮した内容にしたつもりです。その意味からも、本ブログがシュタイナー思想の存在を知る契機となり、さらにその理解を妨げる壁をいくらかでも低くするのにお役立つようであれば、大変嬉しいことです。




























































































つぎに続く
第七章 人間の生きる意味 ⑦日常生活で実践する際の戸惑い