第七章 人間、このすばらしい可能性を秘めた尊き存在 ④シュタイナーの生命観 | 心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!―人間は、肉体の死を超えて進化する―

心の奥のすばらしい真相に目覚めて生きよ!―人間は、肉体の死を超えて進化する―

心の奥には科学的常識を超えるすばらしい可能性がひそんでいます。その可能性に目覚めて生きるなら、人生を希望をもって心ゆたかに強く生きられるようになるのです。このブログはそのことを真剣に論証し、具体的方法を提案するものです。※不許複製・禁無断転載

こうして、生命のホーリスティクな在りようを踏まえることで、先に述べた人間の心が超越的で高次な在りようをした存在から生じたとする論拠が、別の言い方をすれば「不可視の究極的全体」が存在するということの論拠が、いっそう確かなものになったのではないかと思うのです。

そこで、その観点から、ここでさらに論理的に一貫した内容が見いだせる哲学・思想が存在することにふれ、その哲学・思想の中核をなす人間観について概略を紹介しようと思います。その思想とは、すでに本論でもたびたび登場しているルドルフ・シュタイナーが構築した「精神科学(霊学)」・「人智学」※と言われるものです。

シュタイナーは、私が思うにまさに人間(人類)を高次レベルの進化に導く先達と言える人物です。彼は人間進化の道筋をその根拠と共に明らかにしているからです。彼の思想の中核をなす人間観に不可視の究極的全体にかかわる内容が示されていると思えているので、ここではその人間観の概略と、その一角をなす生命観について説明しようと思います。とは言え、シュタイナーの人間観はかなり独自性に富んだものであり、また彼の「精神科学(霊学)」は、従来からの学問である精神科学とは大きく異なるところがあるので、はじめてそれにふれる人の戸惑いを少なくするために、前もって、シュタイナーの思想で論じられている精神科学(霊学)の特徴について少しふれておこうと思います。(※「人智学」とは一言でいえば、不可視の世界〈超感覚的世界〉を自然科学の方法で探求し認識するための学問的方法のこと)
 



 シュタイナーの「精神科学(霊学)」の特徴
 シュタイナーのいう「精神科学(霊学)」・「人智学」は、第一にこれまでの学問として認められている精神科学とはまったく異なる点に留意する必要性があります。

この点については『高橋巌 講義録』(松原こひつじ幼稚園発行、1985年)の中で、あるいはご著書『シュタイナーの治療教育』の中で、高橋巌先生(日本人智学協会代表)がわかりやすく述べておられます。それによると、これまでの学問としての精神科学というのは、普遍的な法則を提示する自然科学に対置される概念で、自然科学では対処できない価値、すなわち真、善、美という価値を対象として独自の方法(解釈学的方法)で研究するもので、いわゆる哲学、心理学、社会学、宗教学、美学などの学問をさすものでした。

しかしこれらの学問とは、シュタイナーの精神科学は全然違った観点に立つものだというのです。

 では、シュタイナーの精神科学(霊学)はどういう観点に立つかというと、自然界と人間界の両方をとりあげ、その両方の世界の中に等しく存在する「目に見えぬ世界」を研究しようとします。そしてそのために物質界、生命界、それから叡智界(霊界)が基本的に同じだということを証明しようとする学問です。したがって自然界といわれるものを挙げてみると、物質界、生命界、それから叡智界(霊界…筆者)という三つの世界を自然の中にも人間の中にも認め、そしてそれらの全体的関連を問題にするのです。

そもそも、物質界と生命界とにはどういう関連があるのか、生命界と叡智界といわれる世界とにはどういう関連があるのか。これらの関連づけをどうしてもしなければならないが、これらの関連づけは従来の自然科学的な方法でも、それから従来の精神科学による解釈学的な方法でもとらえることができないので、そこで第三の方法として、霊学を通してこの関連づけを行おうとするところに(シュタイナーのいう)精神科学(霊学)が出てくるのです。」

 この高橋先生の説明でお分かりのように、自然界の中には物理法則の支配する物質界と、物質だけからは生じえない生命界(有機的世界)と、人間の心のように物質界や生命界ともその存在様式を異にする叡智界(意識世界・霊界)が存在することになります。

そして、まさに人間はこれら三つの世界を併せ持つ存在ということになるのです。そこで、この全体の関連を問題にする学問がどうしても必要であると考え、シュタイナーは精神科学(霊学)を構築したのです。
 すなわち、シュタイナーの精神科学(霊学)は、旧来の学問では把握しきれない世界および人間の、実相に迫る学問として打ち立てられたものと言えます(シュタイナーのいう「精神科学」を旧来の学問である精神科学と区別するために、高橋巌先生はあえて「霊学」という用語を「精神科学」の後に添えておられるわけです)。

 ところで、この学問の際だったもう一つの特徴を挙げるとすれば、西平直氏が『魂のライフサイクル』(東大出版界)で述べているように、それは感覚のとらえ方にあるということができるように思います。通常私たちはものごとを目や耳といった五感で認識しますが、シュタイナーはその五感とは区別された「超感覚」の存在を主張しているからです。

それゆえ「通常の感覚と区別された『目に見えない(超感覚的)次元』を認めるかどうかが、この学問が認知できるかどうかの分かれ目」(前掲書)になるとも言えるのです。

 シュタイナーの精神科学では、人間のこの超感覚は誰でも一定の訓練をとおして目覚めさせることができるものになっています。一定の訓練とは心(魂)の特定の活動を意味し、具体的には思考訓練であり、瞑想や観想と呼ばれているものです。人間はその超感覚をまどろんだ状態で所有しており、誰もがいま述べた一定の思考訓練等によって、日常の生活レベルとは異なった高次レベルの感覚(超感覚)を獲得することが可能になるとされているのです。

 さて、ここで注目すべきことは、超感覚を覚醒するのに日常生活で用いる思考が重要視されている点です。この日常生活で使っている思考をもとに一定の訓練を経ることで、超感覚的世界に参入することが可能になり、存在の真相認識に到達できるとされているのです。

この点は大変重要で、それは決して、様々な神秘主義あるいはカルト集団に見られるような「熱狂、幻覚、トランス、霊媒、憑依」といった当人の正常な意識を弱め失う方向ではなく、むしろそれとは逆方向の、日常の思考能力を鋭く鍛える方向をとっているということです。

 このことでおわかりのように、シュタイナーは人間の認識能力の発達には限界がないと考えていました。それはカントなどが、可視的な世界の背後には隠された世界(不可視の世界・物自体)があって、その世界への参入は人間の認識能力の限界から不可能である、と考えていたのとは決定的な違いがあることになります。

さて、まさにその一定の思考訓練により獲得されたであろうシュタイナー自身の超感覚によって、叡智界(精神世界・霊界)の多様で精妙な姿が把握され、当然世界は、それと地上界(感覚的世界)を含む全体像として把握されており、その内容は彼の著書等において論理的に表現されているところです。彼独自の人間観もそこに見出すことができるものです。



生命とは「非物質的形成力体」

 さて、これから説明するシュタイナーの人間観は、「科学的常識」のもとにあるほとんどの人にとってはじめは特異な感じを受け、まともに向き合うには抵抗を覚えるようなものなので、その抵抗感をいくらかでも和らげ取っ付きやすくするために、やはり特異性は色濃くあるもののより深く実体をとらえていて説得力もあるように思われる、彼の生命観から先に説明しようと思います。その後に彼の人間観の骨格をなす「人間の四つの構成要素」および「人間の三つの本質的側面(要素)」について述べ、さらにそれらの要素のうち要(かなめ)をなす「自我」の果たす役割の特筆すべき重要性について述べようと思います。

 シュタイナーの生命観は、これまで述べてきたことから言って、相当特殊なとらえ方をしたものに違いない、そう思われているかもしれません。と言うのも、すでに渡辺久義氏の著書『善く生きる』から、生命を「不可視の究極の全体」に起源を持ち「すでに常にあるもの」というとらえ方を紹介したのち、渡辺氏のこの生命観はシュタイナーの生命観に通じるものと述べてきたからです。

 お察しのとおり、シュタイナーの生命観は、今日の常識的な見方を超えているという意味で特殊であるのは確かです。しかし本論がこれまで述べてきたように、むしろその常識的な見方にこそ真の認識を阻む深刻な問題が横たわっているのであって、そのことに気づくことなしには、シュタイナーの生命観を理解することはほとんど不可能と言えます。

 シュタイナーは生命の働きを「非物質的形成力体」とも呼んでいて、それは「物質的な素材や力が産み出したものではなく、物質的な素材や力を生あるところのものに変えた現実的本性」(『神智学』)であり、「感覚的な観察によっては、その諸作用しか認められない(もので)、それは肉体内に存在する鉱物素材に一定の生きた形態を与える働き」(『神秘学概論』)のこととしています。この生命の働きが肉体に形態を与え、体液(樹液や血液)の循環や栄養の摂取と消化、および成長と生殖活動などを担うものとされているのです。

このようなシュタイナーの生命論は、物質の法則から生命の働きが生じると仮定している唯物論的自然科学の立場を完全に否定するものです。
 実のところ身体においては、その生命的要素が身体にとどまるかぎり、その高度に組織化された状態は保たれますが、いったん生命的要素が離れると、つまり死ぬと肉体は再び分解して無秩序状態となり、物質的要素そのもの、すなわち塵や土、水や鉱物など無機物に戻ることになるわけです。

 

 自己組織化論にみる生命論の粗雑さ
 ところで、生命体の発生は自己組織化による現象であると主張するイリア・プリゴジンというベルギーの科学者がいます。不可逆過程や統計力学の研究により1977年に「散逸構造論」を唱え、ノーベル化学賞を受賞しているひとです。

彼はダーウィン説に異を唱えました。この世界(宇宙)には熱力学第二法則(=エントロピーbー※増大の法則)というのがあって、世界に存在するすべて秩序あるものは、例外なく時の経過と供に無秩序の状態に移行し、崩壊(エントロピーが増大)していくとされているのですが、いったん崩壊したら元に戻ることはないというものです。(※エントロピーとは無秩序の度合いを示す物理量のこと)

 ところが、地球にはエントロピー増大の法則に逆らうように、きわめて複雑で高度な秩序形態をもつ生き物が生存するようになっており、進化してきています。この事実はダーウィンの「偶然による突然変異」と「自然選択」の二要因ではとても説明することはできない、そうプリゴジンは考えたわけです。

そこで混沌から秩序が生まれるような、つまりエントロピー増大の逆の現象がどこかに生じているはずだと考え、ついにそういう現象を発見するにいたったというのです。その論理を彼は「散逸構造論」としてまとめました。
 彼のいう「散逸構造論」とはどのようなものか、それはつぎのように説明されています。


 ビーカーの水が底から温められて、温められた水温がゆらゆら対流が起こり始めたとします。そのビーカーの水の中に青いインクを一滴垂らしてみると、たちまちビーカー一杯に広がり、決して自らは元の一滴に戻ることはないのです。この青色のランダムさ(均一さ)の度合い、すなわち平衡状態の程度を測るのがエントロピーなのです。

 ところで、このインクは自ら水全体に広がろうとしているのではなく、ただランダムに動いているだけなのです。ではなぜランダムな動きの中から無秩序の増大という一方向の規則性が生じるのかといえば、ランダムな運動は相互に打ち消し合い、残ったものの方へ、その傾向を生じさせるからだというのです。つまりエントロピーが増大するのは、増大する確率が高いだけであって、そのことはいつも逆の傾向への可能性も存在することを意味します。

 この、エントロピーに逆行して秩序を形成するシステムの可能性を「ゆらぎ」といっています。そして無秩序と混沌の中に常にある「ゆらぎ」が、たまたま「ポジティブ・フィードバック(好循環)」を引き起こしたとき、「ある秩序を作る」ことがあり、この自己組織化の過程を通して秩序ある構造が自発的に生じてくるというのです。

 しかし、この「ゆらぎ」は、ビーカーのような閉鎖系の中では、ごく短時間でエントロピーに打ち消されてしまいます。もし閉鎖系のビーカーの中でではない、開放系のシステムの中だとしたらどうかといえば、そこでは非平衡状態、すなわち動的なプロセスが保たれていることになるので、「ゆらぎ」は打ち消されることはなく、秩序ある構造物への(エネルギーと物質を生み出す)新たな推進力になるということです。


 この理論は、システムの内部でエネルギーやエントロピーの低い物質を取り込んで系の複雑さや秩序を増し(エントロピーを低下させ)、熱やエントロピーの高い物質を捨てて(消費して)います。すなわちこの理論は、このようにエネルギーを消費(散逸)させるために、散逸構造論と呼ばれているのです。

 この説と複雑系の理論を踏まえて独自の生命論、すなわち生命の自己組織化論を展開したのは、複雑系の分野の最先端を行くサンタフェ研究所の生化学者、スチャート・カウフマンでした。前掲書『科学の終焉』に彼の生命論の概略が以下のように述べられています。


 「単純な化学物質の系が、あるレベルの複雑さに達すると、液体の水が凍るときに起きる相転移(※)に似た劇的な変化を被ることに目をつけ、分子は自発的に結合しはじめ、複雑性と触媒能力が増した、さらに大きな分子になる。この自己組織化や自己触媒の過程こそが生命を生み出すのだ、と主張している。生命の発生は、反応する分子の十分に複雑な集合が与えられれば、自己触媒的な部分集合として結晶化すると期待される。その意味において生命の発生は自然現象なのだという。」(※相転移とは固体、液体、気体のような物質の状態が、温度や気圧などの変化でがらりと変わること。)


 カウフマンはこの論理にもとづき、原始スープ中の化学物質が複雑な代謝経路へ自己組織化すると提唱したのです。さらに、異なる細胞「タイプ」間の切り替え(ただの受精卵から組織が発達して肝細胞や皮膚細胞、あるいは眼球細胞などになっていく場合のような切り替え)は複雑系のゆらぎであり、彼の構想である自己組織化の結果として起こるものだと提唱したのです。

 


 私は、生命を発生させる原理として、このようなプリゴジンやカウフマンの自己組織化論(散逸構造論)に大きな疑問を抱く者です。プリゴジンが最初に問題視したのは、熱力学第二法則のもとで生物が存在している事実を、ダーウィン進化論は説明できないとするものでした。

 しかし、そもそも地球環境が多くの生命体を生み出したのは、地球が閉鎖系ではなく太陽から膨大な熱エネルギーが注がれる開放定常系であるからであって、だから熱力学第二法則に反することなく生命の存在が可能であったわけです。そのことに関しては、佐藤進京都大学名誉教授(振動制御、科学技術論研究)が、著書『立花隆の無知蒙昧を衝く――遺伝子問題から宇宙論まで』の中で、以下のように述べています。

 「生物圏においては、太陽は中心部で水素がヘリウムに変化する核反応を行っている。そのとき膨大なエネルギーが放出される。それが太陽光線として地球に到達すると、そのエネルギーを使って、つまり植物などは光合成を行って、水H2Oと二酸化炭素CO2を合成して生育する。
 光エネルギーが秩序を形成する。この意味において、地球上の植物の成育は、地球が閉じた系ではなく、太陽からエネルギーをえている開放系であり、そこでは熱力学の第二法則が適用されなくてよいことを物語っている。

 したがって、自己組織化原理など考え出さなくても、外部エネルギー(太陽エネルギー)によってエントロピーの減少をうることはできるのである。」

 そして佐藤進氏は、プリゴジンの仕事(散逸構造論)について、こう述べています。


 「プリゴジンのこの仕事は、平衡から遠い物理系の構造についての理解を深め、無生物系から生物系へのパターンを認識する上で、大きく寄与したが、それ以上のものに進むことはできなかった。」


 たしかに、プリゴジンのいうように平衡系から遠い非平衡系においては、混沌から何らかの秩序構造が自発的に生まれてくる事実はあります。この自然界の現象である渦潮や竜巻、あるいは芸術的美しさを思わせる雪の結晶などです。しかしスチャート・カウフマンなどの科学者がこの自己組織化論・散逸構造論の発見を、「創造のプロセスの科学と読み直すことができ、科学は手を出せずにいた『生命の神秘』におおきく前進した」、とまで過大な評価をすることには、とても同意するわけにはいかないのです。

 というのも、物理現象の中では最も複雑で精密な構造物といわれる雪の結晶でさえ、生命現象の複雑さ、そのあまりに高度な秩序形態に比べたら、気の遠くなるようなへだたりがあるのを無視しているからです。

 その点について、前掲の『人間原理の探究』のなかで渡辺久義氏が、ディーン・オーバーマン著『偶然と自己組織化への反論』の「秩序」についての文章を紹介しており、全く同意できるので、その部分を転記します。


「自己組織化シナリオ問題は、秩序と複雑性の区別をしないこと、また無生物の中に十分な情報を生じさせるもっともらしい方法をもっていないことにある。・・・平衡状態から遠く離れたシステムは自発的に秩序を生み出すかもしれないが、生命構造に要求される情報内容の複雑性を生み出しはしない。・・・生き物の基本的な特徴は特殊化された複雑性ということであって、単純な繰り返す秩序ではないということを我々は知った。DNA配列は伝達文の文字列と同じく、高度に不規則的で反復性がない。これに対して結晶体は、単純な周期的に反復する秩序をもつが、その構造を特殊化するのに要求される指令というものはほとんどない。

 イリヤ・プリゴジンやA・G・ケアンズスミスの理論は、結晶体の秩序のようなシステムに要求される単純な指令と、DNAに含まれる膨大な量で(かつ複雑精緻な)指令の間の莫大な懸隔を無視しているのである。
 DNA配列がいわゆる自然現象で生ずるものでないことは、シェークスピアのテクストが自然現象で生ずるものでないのと全く同じことである。にもかかわらず、これをあくまで自然現象としてみようとする人々がいるのである。それを幸運なランダム現象と見るのがダーウィニストであり、自力到達現象と見るのが「自己組織化」信奉者である。ともに『自然主義者』、すなわち、既知の物理力(必然=物理的法則と偶然)しか我々のこの宇宙に働いていないという固い信念の持ち主たちである。」


 まことに的確な指摘と、私には思えます。
 先に述べたように、無秩序と混沌の中に常にある「ゆらぎ」が「ポジティブ・フィードバック」を引き起こしたときに「自己組織化」が生じるという場合、そもそも「ゆらぎ」というものはどのような方向性も意図もないものです。

それがたまたま偶然に「ホジティブ・フィードバック」を引き起こしたからといって、さらに、たとえそこに恵まれた環境と連動する幸運が重なったと考えるとしても、それによってできるであろう秩序が、物理現象とは異なる生命現象のような高度な秩序形態を作り出すとまで考えることには、驚きを通り越して唖然とするばかりです。

そもそも生命という研究対象についての認識が実体から遊離している感があり、論理も飛躍しすぎており、粗雑さが見えて仕方がないのです。これもやはりオーバーマンが指摘するように、宇宙には物理力しか働いていないとする、すなわち唯物論的先入観念のなせる技としか考えようがありません。

 実際、科学は生命体の自己組織化現象のメカニズムについては、何一つわかっていない現状にあるのですから。筑波大学の村上和雄名誉教授が、著書『生命の暗号』で述べているように、


「今科学者は生命について、いろいろなことを知るようになりましたが、それでも一番単純な、わずか細胞一個の生命体である大腸菌一つつくることができません。」


 まさに科学は、大腸菌一つつくることができないのです。佐藤進氏も、前掲書『立花隆の無知蒙昧を衝く』の中で


「大腸菌の遺伝子ゲノムは、460万塩基対であり、全部解読されている。また、大腸菌のエネルギーの利用方法も、エネルギー代謝も知りつくしている。さらに、細胞膜の機能もわかっている。大腸菌を形成しているタンパク質も全部わかっている。にもかかわらず、大腸菌一つができないということは、「『生きている原理』が何一つ判明していないことによる。」


 こう述べています。こうした指摘が示すものは、生命体誕生に結びつく自己組織化論がいかに飛躍した無謀な論理であるかということです。
 太陽エネルギーが注がれているとは言え、広大な宇宙から見れば微少な一部にすぎない地球という星に、そのような生き物に見る超弩級の複雑な構成物を生み出す作用こそが、まさにここでいう生命の働きなのです。

 シュタイナーが生命の働きについてよく取り上げる例に次のようなものがあります。生命的要素が物質の性質や物質界の法則を変化させる卑近な例として、生命のない高所にある物体はその支えが外されれば重力の影響で必ず下に転げ落ちるけれど、いのちある植物は重力に逆らって大地から太陽に向かって上に伸び生長するものだと。

 シュタイナーは言います。こうした現象をとらわれのない眼で観察するなら、生命の働きが物質の性質や法則とはいかに異なるものであるか、物理法則を超えた複雑高次な働きをするものであるかが認識できるはずだと。



生命と水と重力のかかわり
 シュタイナーの生命観を述べるには、まだまだ多くの事柄が取り上げられなければなりません。しかし、ここではもう一つの事柄を取り上げてこの論を切り上げ、先に進むことにします。その事柄とは、とりわけ生命の特徴的と思える事実、「生命と、水および重力と浮力とのかかわり」についてです。

水が生命にとってどれぐらい重要な役割を担うものであるか、また水という液体が不思議と思えるほどの諸性質を持つ物質であるかは、誰もが日常生活の中でもそれとなく感じているのではないかと思うのです。

 シュタイナーは言います、生命のあるところには必ず重力を克服しようとする傾向が見られ、その際に欠かせないのが水(液体)であると。そのことについて、F・W・ツァイルマンス、ファン・エミショーベン著『ルドルフ・シュタイナー』(人智学出版社)に、比較的まとまった記述があるので、それを要約して以下に示します。

 鉱物がある種の安定性、形状普遍性に特徴づけられるのに対して、水の特徴は絶えざる運動にある。水は雲から落下し、大地を流れ下り、山から谷へ流れ、集まって湖や海となり、蒸発して空に上り、凝縮して再び雲になるが、そのことで分かるように水は地表に拡散するだけでなく、天と地を上昇したり下降したりして絶えず動いてる。液体は天と地の間で普段の運動状態にあるのだ。

 ところで重力というものがあって、それは中心的・求心的な力であり、地球の中心に向かって作用する。その一方で、この重力とは別の力があって、それが浮力であり、地球外に発生源を持つもので、その力は地球の外へ、宇宙に向かって作用する周辺的・遠心的な力である。それは重力とは逆の作用をもたらし、この力が水に作用しつつ、生命にとって重要な役割を演じているのである。

 さらに水がほどよい液体として保たれるためには、高い膨張率やほどよい熱伝導性や摂氏四度以下での膨張など、水が取らねばならない特性を備えていなければならない。また、水はあらゆる外部からの刺激に開放的であり、つねに特定の形態を取る用意のある未形態の媒体であるということ。さらに、水は分裂しているものを絶えず接続し、それらを循環的に結合することで有機的な統一体を形作ろうとすることなど、水はさまざまな驚異的特性に満ちたものである。

 上記に要約した認識を前提に、前掲書にはさらにシュタイナーの生命観についての、以下のような文章があるので引用します。

 「死を特徴づけるものが形の変わらなさと硬直性であるとすれば、生命力の特徴は運動と形状の変化である。どんな小さなものであれ、地上の生物のうち、流れる液体を内部に保有していないような有機体など考えられない。最小の単細胞生物においてさえ、中心から周辺へ、周辺から中心へと環流する液体が見出される。有機体の生命は液体の運動によって特徴づけられているといえる。

 また、生命の生ずるところでは、それが植物であれ、動物や人間であれ、どこにおいても重力を克服しようとする傾向が見られる。この重力を克服しようとする力こそが生命力であるともいえ、大地(地球)に拘束されることなく大地と宇宙の間を運動し、流れ下り再び上昇する液体と結びついている。植物、動物、人間内部のすべての液体が、有機体の形成者であるこの生命力によって貫かれている。この有機体の形成者(生命力)は、液体を貫通している諸力の複合体という形で現れる。この諸力の複合体をシュタイナーは生命体(Lebensleib)・エーテル体(Atherleib)と名づけ、物質素材とその力だけから作られた物質的身体と対置した。」

 さらに他の書でも、重力との関係で取り上げている水についての見逃せない重要な記述があって、それは以下のものです。

 「浮力を通じて物体を軽くし、それを天界(上方…筆者)に持ち上げる水の能力は、地球上のすべての生命にとってきわめて重要である。・・・自然界の至るところで水は宇宙と地球との間の仲介者として位置し、固体が重力の桎梏から逃れるのを助け、宇宙的現象と地球との関連を保持しているのである。」(『カオスの自然』テオドール・シュベンク著、工作舎)


 こうした私たちが普段思いをめぐらすことのない特殊で重要な水の性質と重力の関係が、宇宙現象とも関連して生命の働きを地上において可能にしている、という驚くべき内容にシュタイナーの生命観は結びついるのです。

 それにしても、生命の出現にとってこの欠かすことのできない水は、地球に近い惑星においても痕跡以上のものはないというのに、この地球上には何と豊かにたっぷりと恵まれていることかと思います。地表の七割が海で覆われ、太平洋でいえば平均水深が4000メートルもあるのですから。この一点からだけでも、地球が生命の発生と存続のために圧倒的に恵まれた、きわめて特殊な惑星であるということわかります。

 以上のように、シュタイナーのいう生命の働きは、他の物質とはかけ離れた特有の性質を持つ水と結びついて発現するものとされているのです。総じて、シュタイナーの生命論は、物質原理を超越する生命力が、特有の性質を持つ水を媒介に物質体に一定の形態を与えて肉体を形成し、体液の循環や栄養の摂取と消化、生長と生殖活動など絶妙な働きをするものとしてとらえられているところに特徴があります。

さて、すでに述べたように、シュタイナーの言う生命そのものは物質世界を超えた次元、精神世界(叡知界・霊界)から流出するものですが、その点では生命が「不可視の究極的全体」に源を持つという渡辺久義氏の考えに本質的に重なるものです。しかしそこまでは一致していると言えても、実はシュタイナーの生命観には渡辺久義氏のそれとは異なる部分も含まれています。その違いは人間観とのかかわりで重要になるので、つぎはその点にふれることにします。

(ところで、シュタイナーが生命などを論じる際に用いられる「不可視の」という言葉は、たんに肉眼で見えないというだけのものではなく、電子顕微鏡やfMRI〈核磁気共鳴画像装置〉などどんな精密な計測器を使っても計測できない性質のものを指します。言い換えればけっして数量化できない現象や存在をいうのです。生命の働きがそうですし、心の中に現れる五感の働きに伴う様々な表象、また様々な喜びや悲しみ、あるいは感動や思考など、これらの表象はどのように精巧な観察器具を用いても、けっしてじかに観察することはできないものです。それは本人のみが直接に体験する〈直観する〉世界だからです。)










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