シンボリックセラピスト齋藤浩美です。
※シンボリックセラピーとの出会いのきっかけとなったうつ病介護の母との生活のお話を書いております。
2007年のお話で、今と少しギャップがありますことをご了承ください<m(__)m>。
某百貨店勤続約40年。家事と仕事を両立し、職場や周りからも明るくて誰からも好かれた母。
そんな母が胃のポリープの発見をきっかけに会社を休み、床に臥(ふ)せるように。
食欲も落ち、人が変わったかのに何も話さなくなり、病院からは「うつ病です。」と診断。
母娘二人のうつ病介護生活が始まりました。
【2016年度版】シンボリックセラピーとの出会いを振り返って・その1
【2016年度版】シンボリックセラピーとの出会いを振り返って・その2 母の異変
【2016年度版】シンボリックセラピーとの出会いを振り返って・その3 母、うつ病と診断される
この頃、私を育ててくれた叔父が他界。
母を一人にしておくことも出来ず、嫌がる母をお葬式に無理やり出席。
泣きっ面に蜂とはまさにこのことだと思いました。
食事も水分もほとんどとらなくなり、普通の食事から赤ちゃん用の流動食に変わっていきました。
同時に飲み込む力が弱くなっていき、病院の許可を頂いて、薬を包丁で砕いて飲むようになりました。
食事もせず水分もロクにのまない状態での一日三回の薬の服用。
『こんな薬飲んだって治らない。死んだほうがましだ』
いつからか母は全身で私を睨むようになりました。
そして、その薬まで飲むすらも拒否し始めました。
飲んでも吐き出すのです。
とうとう母娘だけの二人の生活は限界にきて、ついには叔母を呼び、二人がかりで母を抑え込んで薬と水を飲ませるようになりました。
私の気持ちは…常に罪悪感と、どうにもならない現実にイライラがMAX
『でも…お母さんを、ここまで追い詰めてしまったは私だ』
『もうこの人は、私がいないと生きていけない』
私の人生は母の介護で終わり。
もう思考は堂々巡り。(笑)
大袈裟ですが、本当にこれしか思い浮かばなかったのです。
一方病院は毎日のように通院していた為、主治医が付いていないような状態でした。
なかなかお薬の効果が見られない、相変わらずの食事と水分補給の拒否も変わらず、母は衰弱の一途をたどっていきました。
立ち上がることもままならず、ついには赤ちゃんのように四つん這いになって、トイレに行くようになりました。
間に合わず、布団に粗相をしてしまうこともありました。
病院では、『抑うつ状態』と診断され、食事は栄養を取るためのドリンクをとるだけになりました。
※抑うつ状態とは?
新聞を読んでも文字が頭に入ってこない。TVを観るのも辛くなる。
身体的な疲労感・不眠・食欲減退・興味喪失・自責・希死念慮の症状がみられる状態。
病院は入院設備もあるのですが、なかなかベットの空きがなく通院を余儀なくされていました。
ゴールデンウィーク前は、点滴で一日の栄養を補給するまでになっていました。
休みに入ると病院がお休みになるため、市内の救急のある病院に行き、点滴を打ってもらう日々。
何時間もかかるため、病院から出たらすっかり辺りが暗くなっていました。
ようやく入院ができたのは5月末。それまではずっと病院に通っていました。
初めてみる入院手続きの書類。
その中には娘が母の保護者になる申請のものもありました。
書類を揃え、手続きを家裁に郵送申請。
ついに私は母の保護者となったのでした。
診断の結果、2週間の検査入院が決まりました。
病院は、完全看護のため、母と離れることに。
怒涛の日々もようやく終止符が打たれ、入院の準備が終わると家に帰り、ぐっすりと眠るようになりました。
親戚の家に電話で報告したり、父の墓参りに行ったりとしばらく何も考えないようにしながら生活をしていました。
これから先どうやって暮らしていこう…?
答えは出ないままでした。
母の入院も延長が決まり、それと同時に自分の中の罪悪感も再燃。
当時のスピリチュアル的なブームで『癒し』という言葉をよく見かけるようになったことから、
母を癒してあげたい。
いつからか、そんな思いが私の中で生まれてきたのです。