【2016年度版】シンボリックセラピーとの出会いを振り返って・その3 母、うつ病と診断される | うつ病母の介護生活を経て、自分らしい人生へ

うつ病母の介護生活を経て、自分らしい人生へ

3年にわたる壮絶な介護と7年の施設と精神科の通院付き添いの後、親から卒業し、40代にして自分の人生を歩み始めた私が
幸せに生きるヒントをお届けします。

シンボリックセラピスト齋藤浩美です。
※これから何回かに分けて、シンボリックセラピーとの出会いのきっかけとなったうつ病介護の母との生活のお話を書いていきたいと思います。2007年のお話で、今と少しギャップがありますことをご了承ください<m(__)m>。

 

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懐かしい写真が(笑)。

11年前、母がまだ元気だったころのものです。

私が苦手だったため、家族と写っている写真は貴重です。

私は、本が好きだったので、高卒後から印刷会社に就職~書店販売~出版社と本に関連する仕事をしておりました。

 

この写真の頃は、デザインに興味を持ち、働きながらDTPデザインの勉強をしていました。

私と母は、お互い働いていたので、週末と夜に会う程度でした。

周りからは、親子というよりもサザエさんとワカメちゃんのような年の離れた姉妹のようだねと言われていました。

 

母、うつ病と診断される

 

2006年の12月は、母の体の回復を重視して、会社はお休みをいただくことになり、ゆっくりと年越しを迎えようということになりました。

 

朝起きてくるのがやっとで、いつも聴いていたラジオの音も『うるさいショボーン』とその一言だけでラジオを止めてしまい、無言でご飯を食べる母。

 

ご飯を食べては、部屋に戻り、布団にもぐってしまう…これが日々の繰り返しになっていきました。家事も段々できなくなり、私が少しずつ行うようになりました。

 

病院病院は、年末年始のためおやすみ。

診てもらうことができませんでした。

 

こういう母の姿を見たことのない私は…

大丈夫。少し時間が経てばよくなる。真顔

と自分に言い聞かせていました。


親子二人家族。

他にあてになる人はいない中で、そうするしか、自分を奮い立出せる方法がなかったのです。

年が明けて2007年正月。

少しリビングから離れていたところ、『ひろみちゃん、もうだめだ』とおせち料理の前で伏せてしまった母。

 

その姿がとても怖くて、叔母(母の妹)に電話電話を入れました。

『お正月なのにごめん、おばちゃん!お母さんが大変なの!どうしたら良いの?えーん

『とりあえず、休み明けに一緒に病院に行こう!』

 

となり、お正月三が日は、ドキドキしながらその日を待っていました。

 

そしてお正月明けの1月4日。

心伏せている母の様子をみて、うつ病の子を持つ叔母の直感で内科と精神科のある病院に行くことになりました。


正月明けの混雑した病院の待合室で、『おかあさん、大丈夫?もう少しだからね』と一分が経つのが長く感じられました。


先生に今までの様子と話しながら触診を行っていただき、少しして私だけが呼ばれました。


『娘さん、お母様はうつ病ですね。』

 

その言葉に私は、ガタッと力を落としたのでした。