【2016年度版】シンボリックセラピーとの出会いを振り返って・その2 母の異変 | うつ病母の介護生活を経て、自分らしい人生へ

うつ病母の介護生活を経て、自分らしい人生へ

3年にわたる壮絶な介護と7年の施設と精神科の通院付き添いの後、親から卒業し、40代にして自分の人生を歩み始めた私が
幸せに生きるヒントをお届けします。

シンボリックセラピスト齋藤浩美です。

 

※これから何回かに分けて、シンボリックセラピーとの出会いのきっかけとなったうつ病介護の母との生活のお話を書いていきたいと思います。

2007年のお話で、今と少しギャップがありますことをご了承ください<m(__)m>。

 

母の紹介


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まずは母おばあちゃんのご紹介から…

母は、昭和16年2月生まれ。

酪農農家の6人姉弟の真ん中で育ちました。


10代の頃から某百貨店に働き始め、定年退職後のシニア派遣まで約40年間勤めあげる。

 

定年退職までは朝8時に出掛け、夜20時に帰宅し、その後に夕食の支度をするというパワフルな女性。

家事も近所の付き合いもそつなくこなす人でした。

 

私が幼い頃は一緒に居る時間は少なかったです。

けれど、おもちゃを買ってくれたり、休みの日には行きたい所に連れて行ってくれたり、夜さびしい時は一緒に眠ってくれる優しい人でした。

 

父が他界した時からは、世帯主として家を支えながら働いていました。

 

働くだけではなくて、ゴルフや好きな演歌歌手のコンサート、お芝居やサーカスを観に行ったりと順風満帆な生活を送っている母を、私は心の底から尊敬していました。

 

●2006年12月 異変

そんな順風満帆な生活を送る母が急におかしくなったのは、2006年の12月でした。

体の調子が良くないので、会社を早退すると私の携帯携帯に留守電を入れて来るようになりました。


60歳の定年退職後、これからどうするの?という娘の問いに

 

家にいるよりも会社に行ってたほうが楽しいわおねがい


を口癖のように言っていた母。

あまり普段から愚痴をこぼすよりも、人の話を聴く方が多い母。
滅多に弱気なことを言わないのに珍しいなと感じながらも、冬の寒さもあったので『風邪』だと思っていました。

 

食事の量も段々と減っていって会社を休むようになり、明るかった母が何も話さなくなってきました。

さすがにこれは様子がおかしいということで、近所に住む叔母に病院病院に連れていってもらい、診断したところ『胃にポリープができている』ということで、幸い日帰り手術で取れるものでした。

 

ああこれで良かった笑い泣き

もう母は大丈夫だと安堵した私。

 

しかし一週間後、この安堵感は音もなく崩れ去っていきます。