私的三韓以前の朝鮮の歴史 その3 | momongaの雄たけび・・・なんてね(*^-^*)

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気持ちは永遠の淑女・・。妻であり母でもあるmomongaが子育てに政治に思うところをぶつけてみるブログです。調べるほどに嫌いになる韓国に怒り爆発!!!ピグはちょっと無理よ・・。

またしても前回の続き

項羽を滅ぼして前漢を建てた劉邦。
やっとこさっとこ中国国内は少しづつ落ち着きを取り戻します。
劉邦の皇后の呂雉は大変臆病でかつ猜疑心の強い女性だったようで
次々と功臣が殺されたりするトラブルはあったものの、
民はまあ久方ぶりの平和を満喫したそうな・・。(←史記より)

中国はそれでよかったんだけど、
朝鮮半島の方はというと、
まるでドミノ式のように
政変が起きて大変
だったようで・・。


(紀元前195年)
この年は朝鮮は大変な年だったと思うわ・・。

まずは劉邦によって燕王にしてもらってた盧綰と言う人が
劉邦に反逆して自分は匈奴に逃亡しちゃうの。

劉邦・・この時には即位してたから漢の高祖は、盧綰が
逃亡した後の燕の旧領は実質漢の直轄領にしちゃいます。

この時、
燕の将軍だった「衛満」
という人がいたのだけど
1000余騎を率いて
朝鮮に亡命しちゃうのでした

この時、
朝鮮北部には
「箕氏朝鮮」という国があり、
当時の王は「箕準」でしたよね。

前回の記事↓
http://ameblo.jp/sunakake-beaver/entry-11950163599.html

衛満は箕準王に
「私を朝鮮の西側に居住すること
をお許しください。
さすれば、逃亡してくる中国からの
流民をここでまとめ、
朝鮮の西側国境を守る垣根と
することをお約束します。」

と、申し出たわけよ。


箕準王は快くそれを許可して、衛満に国境を通過して
朝鮮国内に入ることを許可したのだけど、これは
衛満の策略だったの!!

衛満は何の妨害も受けずに国境線を通過して朝鮮国内
に侵入すると、今度は
「漢兵が攻めてきたので都に入りたい」
とか言ってそのまま、
朝鮮の都を攻め、
箕準は戦ったものの、
相手にはなりませんでした。

こうして「箕氏朝鮮」は滅び、
「衛氏朝鮮」の建国
と相成ったワケです。

「衛氏朝鮮」は
考古学的な裏付けが取れている
朝鮮のはじめての国家なのでした。

さて、「史記」には実は衛満が朝鮮の地に亡命して
そこで「衛氏朝鮮」を建てたという記述だけしかありません。

ここからは「魏略の逸文」や「魏志韓伝」「後漢書」
による異説なのですが・・。

衛満に敗れた箕準は、
左右の宮人たち数千人を引き連れて
海に逃れ、韓の地に入ってそこに居住し、

「韓王」を自称した。

「後漢書」の記述になると
箕準は馬韓を攻めて、これを
打ち破り韓王として自立した。後に箕準の家系は断絶、
再び馬韓人が辰王になる・・という記載になってるの。

ここまで書いていてなんですが、
実は箕準ですが、
「朝鮮王準」とか単に「準」とか
書いてあるだけで姓が「箕」と
確定してるわけではありません。


箕氏朝鮮に関しても
建国後の800年間のことが
何も書かれていなくって

いきなり、
否や準という朝鮮王のことが出てくるの・・。
中国史書は当然「箕氏朝鮮」の末裔として
扱ってるんですけどね。

あと、今まで「真番」って呼んでたハズの南朝鮮が
いきなり「韓」になってるってのも不思議な話です。

衛満の進撃に追われた北朝鮮の政権・・
まあ箕氏朝鮮だったのかも
しれないんだけど、
南朝鮮に逃れて
「韓王」を自称したのは
もともと「韓」姓の誰かだった・・
という説も有力

なのですよ。

なんせ後世に漢の武帝によって設置された楽浪郡では
「韓」姓の者が2番目に多かったっていうことが
考古学的に分かっているのよね・・。

いずれにせよ、「衛氏朝鮮」の建国により、
ドミノ式に南朝鮮に逃れた中国系の氏族が「韓王」
を名乗ったことにより、南朝鮮は「韓」と呼ばれる
ようになったのだと考えられます。

一応史書通りに話をすすめると・・・。

この後、
遼東半島に強制移住させられていた
楚や越の
流民の一部が
「韓」の地に逃れてやって来る

ということがあったようです。

「後漢書」や「魏志韓伝」には
馬韓は
秦による使役を避けて
逃れてきた人たちに
東の地を分け与えた

と記述されています。
そして
彼らがいわゆる
辰韓・弁韓の祖に
なっていったようです。


分け与えた馬韓っていうのが箕準だったのか
どうかは分かりませんが、韓王は西側の馬韓の地に
本拠をおいていたような記述です。

実際「魏志韓伝」でも馬韓が最大で、東の辰韓や弁韓を
支配しているような記述になっています。
また、馬韓と、辰韓ならびに弁韓では言語も
違ったようですね。

辰韓・弁韓は中国系の言葉に近かった・・・秦語に
近かったんだって。
辰韓は秦韓とも呼ばれて、秦の流民からできたと
されてるんだけど、この場合の秦語ってのは中国系の
言葉って意味だと思うのだけどね。

また、この韓に逃れてきた流民に関しては
もっとはっきりと
越人は辰国(辰韓)、
楚人は弁韓(弁辰)

という記載のある史書もあるようです。
たぶん史記のどこかに書いてあると思うんだけど。

さて一方「衛氏朝鮮」の方では衛満は「中国の辺境を
荒らさない」「他の国の漢への朝貢を妨げない」
などの約束をすることで漢の外臣としての地位を
約束され、周囲の小国を従えて国を安定化させることに
成功したのでした。

やがて時代は下り、衛氏朝鮮の王は衛満の孫の
右渠の時代になります。

中国の漢は武帝の時代・・。
また歴史が動くのでした。