「史記」などによると紀元前220年代の中国では以下のような
ことが起きていたわけなのよ。
(紀元前223年) 秦が最大の敵であった楚を滅ぼす
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/037.gif)
ついで同じく江南にあった越も滅ぼす。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/037.gif)
(紀元前222年) 秦が遼東を攻め、燕を滅ぼす。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/037.gif)
(紀元前221年) 秦が斉を滅ぼし、ついに中国を統一。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/280.gif)
秦王・政は自ら皇帝を名乗る(いわゆる始皇帝)
秦の天下統一に向けた
一気呵成の攻勢が続いてますね。
そしてこのことが
朝鮮にとってはすべての始まり
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/254.gif)
だったっていうか・・。
天下統一はいいんだけど、
大量の難民流民を
生み出すことになっちゃいます。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/152.gif)
通常は一時的に流民が生じても
統一国家が安定した政治を行えば
やがて事態は落ち着くもの・・。
なのにそうじゃなかったわよねえ・・。
秦の始皇帝ったら
土木工事がだ~~~~い好き
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/036.gif)
まだ国が安定もしてないのに大規模土木工事を
連発!!
(紀元前213年) 始皇帝、万里の長城を築かせる。
おそらく同時並行で始皇帝陵の建設工事もやってたハズ。
大変だったでしょうねえ。
どっちにしてもこの土木工事には大量の人民が動員されました。
特に万里の長城の建設には、
遠く離れた江南の
楚や越の
住民たちが強制的に
遼東半島に移住させられて
工事に従事させられてた
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/152.gif)
みたいなの。
さてここまでの文献は主に「史記」に依ったもの。
あの有名な司馬遷が著者ですね。
ここで長城の建設に関係があるんだけど
はじめて「史記」以外からの引用をします。
「魏志韓伝」「魏略の逸文」より。
そのころ朝鮮半島北部には
箕子朝鮮という国家が
まだ続いていました。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/188.gif)
前回記事参照↓
http://ameblo.jp/sunakake-beaver/entry-11949886774.html
戦国時代には燕に服属してたみたいなんだけど、
秦が天下統一して万里の長城を築くと、
その版図は遼東半島を超え、箕子朝鮮と
国境を接することになります。
その当時の
箕子朝鮮王・箕否は畏れて、
秦に服属することにしました。
その後、
箕否の後は箕準が継ぎます。
ところが秦の天下は長くは続きませんでした。
法律でぎゅうぎゅうしぼって窮屈な生活、
負担のかかる大規模な土木工事。
誰だって嫌になりますよね!!
そして
(紀元前210年) 始皇帝薨去。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/254.gif)
まってましたとばかりに中国各地で
反乱がおきるのですよね。
(陳勝・呉光の乱)
始皇帝が死んで反乱が頻発すると、
中国の流民は朝鮮に向けて移動を始めます。
箕子朝鮮王・箕準は
逃げてきた
燕・斉・趙の流民を
西方に居住させます。(←「魏志韓伝」「魏略の逸文」より。)
たぶんね、前に「韓」の語源の話で
書いたんだけど、↓
http://ameblo.jp/sunakake-beaver/entry-11947192512.html
この時に
河北省に多くいた
周の時代の韓由来の
「韓」姓をもつ人々も大勢
朝鮮北部に入り込んだ
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/143.gif)
と思うんですよね。
そしてさらに、
逃げたのは万里の長城の建設のために
強制的に遼東半島に連れて来られた
楚や越の人々も同じでした。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/201.gif)
遼東半島の東に逃れた
楚の流民たちは
(紀元前207年) 濊建国(←史記より)
これ、結構重要なんです。
なんせ
濊から
扶余、高句麗、百済が派生していく
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/141.gif)
んですから・・。
さて、一方秦では章邯を将軍として討伐軍を送るのですが、
最後は項羽にやられちゃって
(紀元前206年) 秦の滅亡
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/036.gif)
ということになります。
このあたり司馬遼太郎さんが小説「項羽と劉邦」で
書いてます。
歴史ファンにとってはたまらない展開ですよね。
その後は、秦の次の中国の天下をめぐる
「項羽」と「劉邦」の戦いになり、
最終的には劉邦が垓下の戦いで
項羽を打ち破ったんでしたよね。
(紀元前202年)
劉邦が項羽を破り、前漢を興す。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/242.gif)
劉邦は盧綰という人をを燕王として、
大同江を朝鮮との国境としました。
そして漢の初期のころに
楚の流民が建国したと
いわれるあの濊国の王に
「濊王之印」
が授けられた
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/304.gif)
といわれているのです。
ところがその後、
燕王・盧綰が漢に反逆し、
匈奴に逃亡するという事件
が起きます。
これも司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」に書かれている
ことですが、盧綰って劉邦がまるで弟のように可愛がって
いた人なんですってね。
漢では最初、先の項羽との戦いで功績のあった
家来たちに広大な領地を与えていました。
でも国が安定すると、広大な領土を持つこの功臣たちの
ことが邪魔になり、難癖をつけては殺して領土を奪い、
劉邦の親族でこれらの土地を独占していくようになります。
さすがの盧綰も反逆をせざるを得ない
雰囲気だったのですかねー!!
そしてこのことが、
それまでは新盤とか辰国とか呼ばれて、
その存在すらあったかどうか分からなかった
人外の地・朝鮮南部に
ついに歴史家の目が
そそがれることになるのです。
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/188.gif)
あーしんど。
続きは次回です。