古典派経済学は、アダム・スミスに始まる、とされています。アダム・スミスは、1776年に著した国富論において「見えざる手」という概念を提出しました。すなわち、個人が自由な市場において、個々の利益を最大化するように“利己的”に経済活動を行えば、まるで見えざる手がバランスを取るかのように、最終的には全体として最適な資源の配分が達成されるというものです。この「見えざる手」は、現在では「価格メカニズム」と呼ばれています。見えざる手は、日本では「神の見えざる手」と紹介されることもあります。現代日本における経済学の主流派である「新古典派経済学」の人間観、人間像というのは、アダム・スミスがいうところの「人間は、利己的であってよろしい」という説を十分な検討や批判にさらすことなく受け入れたものといってよいと思います。
しかし、ある社会に属する各人がもし、自己の利益だけを追求して他を顧みようとしなければ、はたして“最終的には全体として最適な資源の配分が達成される”ものでしょうか?
人間がただ自己の欲求を満たすことにのみ忠実に利己的に行動してよいのだとすれば、他人を騙したり、暴力をもちいて力づくで財物を奪うことも最適な資源配分”とされるのでしょうか?たいていの人は、そうは考ないでしょう。
原料や品質、数量などをごまかして、不相応な高値で売りつけるようなことをみんながやろうとすれば、まともな市場も円滑な経済取引も成立しがたいでしょう。信頼と相互互恵、たとえば、昔の日本の近江商人の商道徳である「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」のような商いのやり方のほうが持続性もあるし、関係する者のすべてが応分に利益を分け合うことができるでしょう。そのような相互の信頼に基礎をおくような経済システムに一人でも嘘やごまかしをもちいて不当な利益を得ようとする者がいると、高度な信頼のシステムに破れを生じさせ、経済活動は停滞を余儀なくされます。つまり“取引費用”を増大させてしまい、本来の経済活動の健全性や円滑性を損なってしまいますから、信頼や信用にあたいしない者には、厳しい制裁を課し、経済活動から締め出すことにより、経済システムの信頼性を守ろうとしたと言われています。
古典派経済学や新古典派経済学が薄っぺらで浅はかだと思うのは、「人間は自己の利己的な欲求にのみ忠実であれば、それでよい」と考えるところにあると思います。主流派経済学、すなわち新古典派経済学や新自由主義がモデルとする人間像が、自己の利己的な欲求の充足を常に最優先させ、他者の利益を顧みようとせず、自分の利己的な行為によって他人がどれほど傷つこうが、ダメージを被ろうがまったく意に介さないし、良心の痛みを覚えない人たちなのだとすれば、そういうタイプの人たちには、「サイコパス」あるいは「ソシオパス」、精神医学における人格診断基準に従えば「反社会性人格障害者」と名付けられた人たちにきわめて近接したものとなるだろうと思います。脳科学者の中野信子さんは、その名もズバリ「サイコパス」という著作の冒頭で典型的なサイコパスがどういうものかについて、次のように書いておられます。
─ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目にさらされても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振る舞いさえする。残虐な殺人や悪辣(あくらつ)な詐欺事件をおかしたにもかかわらず、まったく反省の色を見せない。そればかりか、自己の正当性を主張する手記などを世間に公表する。外見は魅力的で社交的、トークやプレゼンテーションも立て板に水で、抜群に面白い。だが関わった人はみな騙され、不幸のどん底に突き落とされる。性的に奔放であるため、色恋沙汰のトラブルも絶えない。経歴を詐称する。過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。矛盾を指摘されても「断じてそんなことは言っていません」と、涼しい顔で言い張る。─
「サイコパス」とはどんな人たちなのかについて書かれた本はいくつも存在しますが、本稿は、おもに、脳科学者の中野信子さんがお書きになられた「サイコパス」という著作と米国の心理療法家であるマーサ・スタウトが書いた「良心をもたない人たち」、および異常心理学の専門家である杉浦義典さんがお書きになられた「他人を傷つけても平気な人たち」という著作をもとに考察して行きたいと思います。
サイコパスというと、なにやら恐ろしい猟奇的な重大犯罪を犯す特別の人のように思えるかもしれませんが、サイコパスの中にはそういう人もいますが、そういうのはむしろ少数派で、たいていのサイコパスは目立たないように正常な人々の間に紛れ込むのがおそろしく巧みであるとされています。これは、サイコパスが他人を獲物にして、利用し、奪い、操作することで喜びと報酬を得ようとする人間を主食とするプレデター・補食者であるからだと考えられます。深い森に棲息する虎は、森の木立に同化しておのれの存在を隠す体色や縞模様をしていますし、開けた草原を棲息地とするライオンもまた周囲の景色に同化するような体色をしています。それと同じように人間を補食するプレデターであるサイコパスは、狙いをつけた獲物である通常人に警戒されないように自分の正体を偽装することにきわて長けているからだと考えられます。サイコパスは日常のごく身近なところに、それとは気づかない仕方で潜んでいて、餌食とする人間を見定めようと虎視眈々と目を光らせていると考えたほうがよいと言えるでしょう。
サイコパスのもっとも顕著な特性のひとつは、自分以外のあらゆる他者にいかなる共感も同情心も覚えないことでしょう。つまりサイコパスは人間を物とみなし、どんな扱いをすることにもタブーがないという異常な性質を宿しているのだそうです。サイコパスは、サイコパスではない普通の人間が持っているような良心や他人に対する共感や同情心、愛着といったものを持ち合わせていませんが、それを隠してあたかも同情心にあふれた善良な人間であるかのように装うことに非常に長けているのだそうで、あたかも、食虫植物が獲物が好みそうな匂いや色で獲物をおびきよせることに似て、サイコパスは獲物となる人間を油断させ、無防備にさせてしまう手練手管をよく心得ているのだそうです。
自分がもっていないもので喉から手が出るほど欲しいものがある時、サイコパスでない人の多くは、自分の良心がとがめることがない仕方で、合法的に手に入れる方法があるのなら、手間と労力はかかってもその方法を選択しようとするでしょう。ところが、サイコパスにはもともと良心というものがないか良心がほとんど、もしくはまったく機能しませんし、衝動を押さえるということがサイコパスにとっては大の苦手ときていますから、手っ取り早く力づくで奪うか、騙して手に入れることを選択するでしょう。サイコパスの場合、奪うという行為や騙すという行為、それ自体に無上の快楽を覚えるという困った性質があって、サイコパスの違法行為にブレーキをかけるものはサイコパスの内面には存在しません。サイコパスは非常に狭い思考枠で特異的に偏った集中力を発揮することが知られているそうで、中・長期のタイム・スパンと広い視野でものごとを総合的に考えることが苦手で、おそろしく短絡的な思考を顕著な特徴とするそうですから、なおのことサイコパスは法や社会規範から逸脱しやすいと言えるでしょう。サイコパスにかんする脳科学の知見は、サイコパスの脳は社会規範や道徳を内面化して自分のものとするようにはできていないことを強く示唆するようです。ですから、サイコパスは、なぜ他人のものを力づくで奪ったり騙し取ってはいけないのかがそもそも理解できないのでしょう。以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」ということを公言する人物が現れ物議を醸したことがありましたが、通常人の道徳観念や良心が忌避することが理解できない人の中には高い確率でサイコパスが存在していると思います。
サイコパスが不道徳な行為や犯罪行為を思いとどまるとすれば、それは良心に従うからではなく、不道徳や犯罪行為が発覚した時に罰を受けることを予想するからでしょう。そして、サイコパスの思考パターンからして、不道徳な行為や犯罪行為は発覚するから罰っせられるのだから、発覚しないようにすればよい、という方向に強く導かれるもののようです。ゆえに、サイコパスは不道徳や犯罪行為を常習的かつ反復的に行う傾向が顕著で、ほとんど矯正は不可能とされているようです。サイコパスの場合、不道徳な行為や犯罪行為それ自体を思いとどまるのではなく、どうすれば発覚しないで済むかに知恵と努力を注ぐようです。
サイコパスが生存戦略上、もっとも発達させ、洗練させたもののひとつが“口の達者さと表面的な魅力”なのだそうです。また“病的に”“まるで息をするように”嘘をつき、人を騙すことも際立った特徴とされているようです。
サイコパスは、他者が経験する悲しみや痛みに共感する能力を欠くそうです。自分自身の痛みや恐怖も感じにくいとされています。しかし、サイコパスは他の人間を獲物として騙したり、奪ったりすることで喜びを感じるわけですから、他人の感情に共感はしないとしても理解する能力には長けていることになるでしょう。
以下にサイコパスに顕著とされる特徴を中野信子さんの著作の中から抜き書きして示しておきますので、参考になさってください。
サイコパスを見分けるためのチェック・リスト
対人面に関する項目
・口達者(雄弁、巧みな話術)/見かけの良さ(表面的な魅力)
・誇大的な自己価値観
・病的な虚言
・偽り騙す傾向/操作的(人を操る)
情動(感情)面に関する項目
・良心の呵責(かしゃく)、罪悪感の欠如
・浅薄な感情
・冷淡で共感性に欠ける
・自分の行動に対して責任が取れない
生活様式に関する項目
・刺激を求める/退屈しやすい
・寄生的な生活様式
・現実的、長期的な目標の欠如
・衝動的
・無責任
・放逸な性行動
反社会的な面に関する項目
・行動のコントロールができない
・幼少期の問題行動
・少年非行
・仮釈放の取り消し
・多種多様な犯罪歴
・数多くの婚姻関係
サイコパスについての医学的・生理学的観察データによると、サイコパスのアドレナリンやセロトニンなどの神経伝達物質の代謝(分解、同化)は、サイコパスでない人より遅いことが知られているそうです。アドレナリンは、興奮や攻撃性にかかわる神経伝達物質ですし、セロトニンは、不安を抑制する神経伝達物質です。それらの神経伝達物質の代謝、つまり分解が遅いということは、サイコパスが、普段から退屈しやすいことや、スリルや強い刺激を好むことをある程度説明できるかもしれません。また、サイコパスが、ときに過剰な暴力を抑制できないことや、向こう見ずで大胆な行動を取ることの生理学的裏付けとなりうるのかもしれません。
これに加えて、サイコパスの心拍数は、サイコパスでない人より低い、という観察データも存在するのだそうです。
緊急事態や迅速な行動を必要とするとき、人体はアドレナリンを放出して、心拍数を高め、迅速な行動を可能にしようとするわけですが、平素、日常的に心拍数が低いサイコパスにとっては、日常生活は退屈なものに感じられ、アドレナリンの放出を促す危険な状況や行為を好むということと有意の関連があると考えられます。緊急事態や危険な状況、普通の人なら緊張を強いられるような状況がサイコパスにとっては、“平常運転”状態になるわけです。高度な緊張を要する場面、たとえば、困難な交渉や一か八かといった博打的な大勝負をサイコパスは苦にしませんから、そういう職業に向いているとも言えるでしょう。
小説や映画、ドラマに登場するサイコパスの例としては、トマス・ハリスの小説で映画化もされた「羊たちの沈黙」に出てくる“ハンニバル・レクター”やイギリスの小説家アンソニー・バージェスによるディストピア小説で映画化された「時計じかけのオレンジ」に登場する“アレックス・デラージ”などをあげることもできると思います。ハンニバル・レクターは、精神科医でしたし、アレックス・デラーはいまだ何者でもないただの不良少年ですが、このところよくドラマ化される池井戸潤さんの小説にも、これはサイコパスだな、と思われるような人物が必ずと言っていいほど登場しますね。たとえば、TBSでドラマ化された「下町ロケット」に登場する“椎名社長”なんかがその好例と言っていいでしょう。
池井戸さんの作品に登場する“サイコパスタイプ”の人物の多くは企業経営者であったり、ビジネスマン、ときには、外科医であったりしますが、中野信子さんは、─サイコパスは、人々が喜ぶ虚構がどんなものかを知り、作り出す能力に長けています。ですから、小説家には向いているでしょう。……強い刺激に飢え、浮気性である特徴を活かすとすれば、流行のサイクルが早い業界に身を置くのもいいかもしれません。魅せる能力が活かせるスタイリスト、時流の読みと会う人によって顔の使い分けをすることが重要な選挙プランナー、マスメディアの世界もいいかもしれません。一般人では不安や痛みを感じてしまいとても手を出せないようなことでも平気でやり遂げることができるという才能は、外科医などには適性があると考えられます。また、公安警察や情報機関のエージェント、ジャーナリストなど、人間心理のダークサイドに突っ込まなければならず、時には法律スレスレの手段(あるいは明白に違法な手段)を駆使してでも情報を入手する必要があるような仕事も適任だと思います。サイコパスは報酬が約束されている状況では大きな成果をめざし、脅威に直面しても冷静さを増して行動ができます。そのため、証券トレーダーや投資銀行マンのような仕事もよいかもしれません。サイコパス特有の「リスクを低く見積もる」欠点が裏目に出て、巨額の損失を蒙る危険性もあります(けれども)。
運動神経がよければ、不安を感じにくい点を活かして、登山家や冒険家、危険度の高いエクストリームスポーツ(スノーボード、モトクロス)、あるいは格闘技やモータースポーツに挑むのもいいでしょう。─
と書いておられます。“ゴルゴ13”別名“デューク東郷”は、殺し屋で、凄腕の狙撃手ですから、サイコパスにはうってつけの職業と言えるでしょう。サイコパスの多くは、不安や恐怖を抱きにくく、集中力が高いことからしばしば優秀な兵士であるそうです。
お若い方はご存知ないかもしれませんが、中里介山の小説「大菩薩峠」に出てくる“机竜之介”や柴田錬三郎の小説に登場してくる眠狂四郎(ねむり きょうしろう)なんかは、人を人とも思わずに冷静に切り捨てて平然としている異常人ですから、サイコパスのひとつの典型といってよいと思いますが、サイコパスが狙撃手や殺し屋のような者たちばかりかと言ったらそんなことはなくて、ほぼあらゆる職業分野に散在していると言ってよいと思います。
前掲の「サイコパス」という著作の中で著者の中野信子さんは、英国の著名な心理学者であるケヴィン・ダットンによるサイコパスが多いとされる職業のトップ10とサイコパスが少ないとされる職業のトップ10を紹介しておられますので以下に示します。
サイコパスが多い職業
1位:企業の最高経営責任者
2位:弁護士
3位:マスコミ、報道関係
4位:セールス
5位:外科医
6位:ジャーナリスト
7位:警官
8位:聖職者
9位:シェフ
10位:公務員
サイコパスが少ない職業
1位:介護士
2位:看護士
3位:療法士
4位:技術者、職人
5位:美容師、スタイリスト
6位:慈善活動家、ボランティア
7位:教師
8位:アーティスト
9位:内科医
10位:会計士
サイコパスが多い、ということは、サイコパスがなりたがる職業の堂々の一位は、なんと企業経営者!なんですね。これについて中野さんは次のように書いておられます。
──アメリカの産業心理学者ポール・バビアクによれば、サイコパシー尺度のスコアはエグゼクティブ層の方が高く、世間一般の方が低いという結果が出ています。言いかえれば、「出世した人間にはサイコパスが多い」ことがわかっています。ということはサイコパスは仕事ができるのでは?と思うかもしれませんが、必ずしもそうではありません。
サイコパスが高いプレゼンテーション能力を持つことは確かです。相手が喜ぶことを言って巧みに心理を操る、あるいは逆に相手の弱みを見つけて揺さぶる………そうした話術は得意中の得意です。
また、サイコパスは急激な変化に対応し、変化を糧(かて)に成功する、ともバビアクは指摘しています。組織の混乱はスリルを求める彼らに刺激を与え、大胆な変革も臆することなく実行します。しかも混乱に乗じて不正行為をしてもバレにくいため、非常時・緊急時には向いている、と。
一方、サイコパスは経営管理やチームでの作業は苦手です。彼らは誠実さを欠き、批判されてもピンときません。だから平気で仕事を先延ばしにしたり、約束を破ったりしてしまいます。衝動性が高いため、几帳面さを求められる仕事や、協調性や忍耐が求められるチームワークが苦手です。しゃべりは得意で存在感はあるのですが、よくよく精査してみると、意外と業績は低いことも少なくありません。つまり口ばかりうまくて、地道な仕事はできないタイプが多いというわけです。バビアクによると、当初まわりが期待していたほどには仕事ができないということが、後になってわかる、というのです。ただ、口先だけで仕事はできないサイコパスは少なくありませんが、起業家としてのセンスは持っている“勝ち組サイコパス”も存在します。なぜなら彼らは、リスキーなことに踏み出す力があり、アイデアやビジョンを魅力的に語る能力に長けているからです。
たとえばアップルコンピュータ(現在のアップル)の共同創設者の一人、スティーブ・ジョブズは、世界でもっとも洗練された勝ち組サイコパスだったのではないかと考えられます。
彼は卓越したコンピュータの知識があるわけでもなく、デザインその他の実務的なビジネススキルさえも持ち合わせていませんでしたが、天才的なプレゼンとネゴシエーションの才能によって全世界の人びとを虜(とりこ)にした人物でした。……一方で、アップルの元・技術者や妻子に対する容赦のないふるまい、追い詰め方は相当なものだったことが知られています。利用できると感じた人間に対しては「すばらしい」と言ってすり寄り、しかし、利用し終わった人間や対立した相手に対しては舌鋒鋭く攻撃し、その時々で付き合う人間をどんどん変え、古い知り合いを切り捨てていきました。
下級エンジニアとして働いていた若い頃、ジョブズは与えられた仕事をこなせず、友人のスティーブ・ウォズニアック(のちのアップルコンピュータの共同創設者)にこっそりやらせたことがあります。ウォズニアックは難なく仕事をこなし、その対価としてジョブズは5000ドルもの報酬を手にしました。ところがジョブズは「報酬は700ドルだった」とウォズニアックにウソをつき、ウォズニアックに半額の350ドルを渡し、残りはすべて自分の懐に入れてしまったのです。
アップルが成功して組織が大きくなり、ルーチンワークが多くなってくると、細かい事務作業や労務管理、地道な人間関係の信頼を築くことなどが重要になってきます。しかし、そのような組織は肌に合わなかったのか、ジョブズはアップルを追放されます。そしてアップルが危機に陥った時、再びジョブズが必要とされたのです。シリコンバレーの起業家に求められる気質は、サイコパスの性質と合致しています。バビアクは“起業家のふりをしたサイコパスについて”3点まとめていますが、それを見れば一目瞭然です。
第1に、彼らは変化に興奮をおぼえ、つねにスリルを求めているので、さまざまなことが次々起こる状況に惹かれる。
第2に、筋金入りの掟破りであるサイコパスは、自由な社風になじみやすい。杓子定規(しゃくしじょうぎ)なルールを重視せず、ラフでフラットな意思決定が許される状況を利用する。
第3に、自分で仕事をこなす技量よりもスタッフに仕事をさせる能力が重視されるリーダー職は、他人を利用することにかけては大得意なサイコパスにもってこい。スピードが速い業界や土地においては、メッキが剥がれる前に状況やポストが次々と変わっていくことが幸いする。
サイコパスは状況がどれだけ混乱していても、周囲が新しいビジネスモデルに対応できずに拒否反応を起こしていても、冷静でいることが可能です。皆が自信を喪失している状況の中でも、自信満々にふるまいます。それを評価する人は多いでしょう。──
時代の変革期には、サイコパス、もしくは、サイコパス傾向の強い起業家が頭角を表してくる傾向があると思います。アメリカの産業形成期に彗星のごとくあらわれ、一代で巨富を築いた“鉄道王”コーネリアス・ヴァンダービルトや“石油王”ジョン・ロックフェラーなんかはサイコパス傾向の強い人たちだったと思いますし、日本においても、西武グループの創業者の堤康次郎氏や東急グループの創業者である五島慶太氏は強引なビジネスのやり方から、それぞれ“ピストル堤”、“強盗慶太”と呼ばれていたそうですし、五島慶太氏の手下となって働き、また白木屋デパートの乗っ取りを画策して騒動を起こし、後に自身が経営者となったホテル・ニュージャパンで数々の行きすぎた合理化を追求し、徹底的なまでに改修費用を節減するため、スプリンクラー設備等の消火設備を整備せず、内装も耐火素材にしていなかったため、火災発生時にホテルを全焼させ、33人の死者を出すという事件に大きく関わった横井秀樹氏などもサイコパス傾向の強い人物だったと思います。
サイコパスが多い職業の第二位は、やっぱりというべきか、なんと弁護士!なんですね。金のためではなく、弱者のために、あるいは、真実と社会正義のために尽力する弁護士だって、いないこともないでしょうが、弁護士も商売ですし、それに、真実の追求を目的とするのが仕事というわけではなく、あくまでも依頼人の利益を図ることを目的としますから、事実や真実が依頼人にとって不利益なら、ためらうことなく、事実や真実を覆い隠し、ねじ曲げてでも依頼人の利益をはかろうとすることに一片の良心の咎めも覚えないサイコパスにとっては、適職なんだろうと思います。
サイコパスが多い職業の第三位に、マスコミ、報道関係およびジャーナリストがランクされていますが、世の中の人びとに知らせるべき意義のあることを報道しようとはせず、興味本位で芸能人や著名人のスキャンダルを暴くことや事件や事故の真相および深層に迫ることよりセンセーショナルな報道ネタばかりに飛びつくようなマスメディアやジャーナリストなんかもまた、平穏な日常が退屈でたまらないサイコパスにとっては、もってこいの職業なのかもしれません。サイコパスは、藤井聡さんが言われる真・善・美なんてものになにほどの値打ちも認めないでしょうから。
サイコパスが多い職業の第四位は、セールスマンとなっていますが、サイコパスにかんする興味深い実験データを中野さんは紹介しておられます。それによると、人間の顔を写した写真の目の周辺だけを見せて、その写真の人物の感情を読みとらせるという実験で、サイコパス以外の人は的中率が30%のところ、サイコパスはその2倍を超える70%を記録したのだそうです。
サイコパス自身は他人の感情に共感することはないとされています。サイコパス自身には固有で独自の感情があるはずですが、なぜかサイコパスは自分以外の人間の感情に共感することはないのだそうです。でも、他人の顔の表情から、悲しみや喜び、不安や怒りといった感情を読み取り、それを他人を操作し支配するための材料として活かしているのだそうです。そのサイコパス特有の特異な能力は、本来、他人を食いものにするために発達させたものでしょうが、それをセールスのような仕事に応用すれば、絶大な効果を発揮する、ということなんでしょうね。
サイコパスは他人の表情から当人が抱いているであろう感情を読み取ることに卓越した能力を有する反面、表情以外の声などの調子から感情を読み取ることには不得手だとする研究成果もあるのだそうです。他人が発するうめき声やすすり泣きに鈍感でいられるのは、そのためかもしれません。他人の感情を無視したければ、見なければいいとう理屈がサイコパスには容易に成立するのだろうと思います。
サイコパスが多い職業の第5位は外科医なんだそうですが、これはとても怖いことだと思います。中野さんは、サイコパスは外科医に向いていると書いておられますが、人の命を預かる医者という職業にサイコパスは、絶対に向かないとわたしは思います。以前、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組で取り上げられた日大板橋病院の高山忠利さんは、肝臓の手術数で年間トップを走り続けるスゴ腕の外科医なんだそうです。無数の血管が複雑に入り組み、「血の塊」と言われる肝臓は、最も手術が難しい臓器と言われ、わずかな狂いが大出血を引き起こすのだそうで、30年前には、手術で5人に1人は亡くなった肝臓がんを高山さんは不可能と言われた手術法(尾状葉:びじょうよう単独全切除)に世界で初めて成功し、治療の可能性を大きく広げたのだそうです。
血管の塊と言われている肝臓の手術は、手術中の出血量がその成否を分けると言われているのだそうです。たとえ腫瘍が取り切れても、出血が多ければ、回復が遅れたり、命にかかわることもあるそうで、高山さんは出血を抑えるために、過剰とも思えるくらいに慎重を期するのだそうです。
“出血を多くすると、いくらがんがうまく取れても、患者さんはへたっちゃって、元気に帰れないから、1滴でも出血を少なく。多くの人が(そこまでやるのは)意味がないって言うけどだめ。一個「この(血管の)レベル もういいや」と思ったら、次に太いレベルもまたいいと思ってきちゃうから。妥協しない。だから例外は作らないです。僕は全部やる。できることは全部やる。”と高山さんは語っておられるそうです。
見つけては縛り、見つけては縛り、その数は200本以上に上るのだそうですが、。『遠回りこそ、最良の近道』というのが高山さんの信念なんだそうです。高山さんは次のように語っておられるそうです。
「がんをきちっと治すっていうことと、患者さんを元気にするってこと、二つが一緒にならないと、本当の意味の手術の成功にならないので。ですから(患者に)絶対安全確実なルートに行くんですよ。危険なルートに入らない。多分、危険な方が短時間で(腫瘍を切除する)目的が達せられて、楽なんですけど(自分の)メンタルにも体にもね。でもその苦労はいとわずに、とにかく遠回りして、すごく遠回りでもそっちに行く」
高山さんはご自分のことを極度な心配性だから、不安をなくすためにも徹底的に準備するし、慎重の上にも慎重に、丁寧の上にも丁寧に執刀するんだそうです。
こういう真似はサイコパスにはできないだろうと思います。サイコパスは不安を感じにくい上に、スリルや緊張感に人並み以上に快感を覚えますから、あえて不必要な危険を冒す可能性が高いでしょう。サイコパスは基本的に無責任ですから手術が失敗したところで何とも思わないでしょうし、まぐれで成功すれば、儲けものみたいな感覚で実力不相応に難度の高いオペに挑戦する可能性は非常に高いと思います。いくら、サイコパスがプレッシャーに強いからと言って、責任感も患者の命を大切にしようという気持ちもなく、スリルと成功による快感と名声だけを求めて、不必要な危険を冒すような医者に自分の体を委ねたいとは普通、だれも思わないと思います。そして、外科医に限らず、どんな仕事でもディテールが大切で、“神は細部に宿る”ものなんだろうと思います。臆病なまでの細心さと几帳面さこそが大事を成し遂げることができるのだろうと思います。それは、サイコパスがもっとも苦手とするものの一つに違いないと思います。
サイコパスが多い職業の第第7位に警官、第8位に聖職者、第9位にシェフ、そして第10位に公務員がランキングされていますが、これについては、マーサ・スタウトによる次の考察を読めば、なるほどと腑に落ちるかもしれません。
──野心は満々で、成功のためなら、良心をもつ人たちが考えもしないことを平気でできるが、知能的にはそれほどめぐまれていなかった場合。
IQは平均以上で、人からは、頭がいい、切れ者だなどと思われることもあるかもしれない。だが、心の奥底で、自分にはめだった財力や独創性がなく、ひそかに夢見ている権力の高みには手が届かないとわかっている。その結果、世の中全般に怒りを抱き、周囲の人びとをねたむようになる。
このたぐいの人は、自分が少数の人びとをそこそこ支配できる穴場に身を沈める。この立場は権力にたいする欲望をあるていど満足させるが、それ以上に進めない不満が慢性的に残る。他人の足をひっぱるなとささやくばかげた良心から完全に解放されていながら、究極の成功を手に入れる能力が自分自身に欠けている。これほど癪(しゃく)なことはない。ときおり自分にもわからない欲求不満が原因で、怒りっぽく不機嫌になる。
だが、少数の個人ないし小さな集団を自分が管理し、支配できる仕事を楽しんではいる。相手としては、比較的無力で弱い人びとが望ましい。教師、心理セラピスト、離婚弁護士、高校の体育コーチ、それとも何かのコンサルタント、ブローカー、画廊のオーナー、福祉施設の所長かもしれない。有給の仕事ではなく、マンションの管理組合の会長やボランティアの病院職員、あるいは子どもの親という可能性もある。
いかなる職業にあっても、自分の支配下にある人たちを操作し、いばり散らす。解雇や譴責(けんせき)処分にならないていどに、あくどいやり方を度重ねる。行為そのものに意味があり、たんにスリルを味わうことが目的となる場合もある。人がびくつくのは、自分に力がある証拠だと考える。人をおどすとアドレナリンがどっと流れ出す。とても愉快だ。
多国籍企業の最高経営責任者にはなれないだろうが、少数の人びとを怯えさせ、おろおろと走りまわらせ、彼らから盗んだり─理想的には─彼らに自分が悪いのだと思わせる状況をつくり上げることができる。それは力を意味する。操作する相手が、自分より優れている場合は、とくに。何より気分がいいのは、自分より頭がよく、教育程度が高く、階級が上で、魅力があり、人気が高く、人格的に優れた相手を打ち負かすことだ。これは愉快なだけではない。存在者にかかわる復讐も果たせる。
良心が欠けているので、実行は驚くほどたやすい。上司または上司の上役にそっと嘘を耳打ちし、同僚の企画をぶちこわし、患者(あるいは子ども)の期待を打ち砕き、甘い約束で人を釣り、自分が情報源だと絶対にさとられないように誤報を流す。──
ヒトラー自身も社会的に疎外された人物で、うだつの上がらない下級士官でしたし、ヒトラーの手下となった者たちの多くも学歴や社会的地位や名声とは無縁なものだちだったことは、よく知られています。彼らは自らの社会的に疎外された者としての恨み=ルサンチマンをドイツ民族のナショナリズムの高揚という文脈を利用して社会階層を駆け上ることによって晴らしたと考えてよいと思います。彼らの愛国者的言辞の裏には、彼らの犯罪者としての、サイコパスとしての正体が隠されていたと思います。
2007年1月号の「論座」という雑誌に「『丸山眞男』をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争。」という論文が掲載され、各方面で物議を醸したことがあります。この論文は2007年10月に出版された「若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か」(ISBN 978-4902465129)に収録されているそうです。
これは当時、非正規雇用であった赤木智弘氏によって著された、その立場からによる社会論で、この論文によれば、著者は「日本が戦争をするということを希望している」ということのようです。現代の社会は地位が固定されており、戦争が勃発したならばこの固定された地位が流動化すると考えたからなのだそうです。これは著者の属している非正規雇用という下の地位に就いたならば、地位が固定された現代では上の身分に上がることが不可能であり、戦争が起きたならば自身が上の身分に上がれる可能性が出てくると考えたからだそうです。「丸山眞男をひっぱたきたい」というタイトルは、当時の社会学者であり東京大学卒の丸山眞男が、かつて戦時中、軍国主義の日本を批判したということから政府に嫌われ徴兵され二等兵という軍隊では最も低い階級に置かれて、当時の中学校も出ていない上級兵にいじめられていたから付けられたということです。戦争が始まったならば貧困に置かれている自身が兵士となり、後輩として入ってくる丸山眞男のような政府に嫌われたがために二等兵とされた高学歴の部下をひっぱたきたいという願望をそのまま論文のタイトルとしたのだそうです。
今は亡き山本七平さんも、ご自身の従軍経験からお書きになられた「一下級将校の見た帝国陸軍」の中で、旧日本帝国陸軍、そしておそらく海軍においても下級兵士層において、先輩や上官による後輩や部下にたいするいじめや体罰が常態化していたことを告発しておられますが、そのような状況のもとでは、サイコパスは嬉々として部下や後輩をサディスティックにいじめ、傷つけることを存分に楽しむでしょう。テレビドラマになった小説家の花登 筺(はなとこばこ)さん、女優の星由里子さんの旦那さんの作品に「どてらい男(やつ)」というのがあるんですが、これに出てくる“坂田軍曹”は軍に召集される前は、ろくな学歴も腕に職もないため風呂屋で三助や風呂焚きをしていて世間からは見下されていたその劣等感を新兵をいじめることで晴らそうとしていました。ちなみにドラマで“坂田軍曹”を好演していた藤岡重慶(ふじおか じゅうけい)さんは、アニメの「あしたのジョー」で“丹下段平”の吹き替えをしておられました。旧帝国陸軍の下級兵は、マンガ「嗚呼、花の応援団」で後輩が先輩の理不尽で無意味なしごきやいじめに苛(さいな)まれたように先輩や上官からのいじめに日夜さらされていたわけです。
そして、これは下級兵に限った話ではなく、士官学校を卒業し、陸軍または海軍大学校で学んで将官や高級参謀になった者たちの中にサイコパスが紛れ込んでいたことは、あらがい難い事実だろうと思います。
高木俊郎さんは「戦死」という著作で、連隊長、参謀を次々と自決に追い込んだ鬼師団長・花谷正中将の常軌を逸した暴虐ぶりを描いておられます。インパール作戦の前哨戦であるビルマ・アキャブ方面の戦闘は、インパール作戦の大失敗を暗示させる負け戦でしたが、これを指揮した師団長・花谷正という人物は、まさしく正真正銘のサイコパスといって間違いない人物だろうと思います。また、陸軍の高級参謀として無謀な作戦を立案して、実戦部隊に押し付けて多数の戦死者を出した挙げ句に責任もとらず、敗戦の後は臆面もなく国会議員となった辻政信なんてのもサイコパスの疑いが濃厚だと思います。無批判に旧帝国陸海軍を持ち上げるような方たちは、ぜひともこういう“不都合な事実”にも目を向けて欲しいものだと思います。もちろん、日本軍に限ったことではなく、日本軍が敵として戦った連合軍にだってサイコパスはいくらでも存在しただろうとは思いますが。
サイコパスやサイコパス傾向が強い者に戦争や重要作戦を担当させるとどういうことになるか、日本人は痛い思いをして学んだはずですが、教訓は十分に活かされていないと思います。司馬遼太郎さんは優れた戦略家、軍人は臆病なほど慎重であるはずだ、というようなことを書いておられますが、サイコパスは、元来、不安を覚えにくく、無謀なまでに大胆不敵であるばかりでなく、自分に都合のよいことだけに集中して、他のことを一切無視して物事を考える癖がありますから、一戦闘者としてならともかく、一軍の指揮者には不向きでしょう。サイコパスに部隊や軍を指揮させたりすると、壊滅の危険性がきわめて高いと言ってよいと思います。そして、それは、軍人に限った話ではなく、一国の命運や荒廃にかかわる選択や決定を下す立場にある政治家や高級官僚たちにも言えることでしょう。
マーサ・スタウトは前掲の「良心をもたない人たち」の中で、戦場においてどれほど訓練された兵士であっても、ためらいなく敵を殺せる者は百人に一人くらいだ、との軍事教練の専門家の言葉を紹介しています。
サイコパスが不安や緊張、恐怖を感じにくいという特徴および、他の人間を物とみなしていかなる同情心も感じないという特性は、サイコパスが戦場において優秀な兵士でありうる可能性を強く示唆すると思います。
サイコパスにとってもっとも居心地のよい環境というのは、内乱や内戦によって秩序が崩壊し、サイコパスが本来の性質すなわち、他人を殺傷し、犯し、奪っても非難されることのない暴力が支配する世界であることは、まあ、間違いないだろうと思います。そのような環境で、殺人にためらいも良心の痛みも覚えないサイコパスは、きわめて有能で頼もしく思われることでしょう。
戦国の乱世を切り開いた織田信長は、おそらくサイコパスであった可能性がきわめて高いのではないかと中野さんは考察しておられます。
かつて“国民的作家”と称された司馬遼太郎さんが描く織田信長は、まさにそんな人間像なんですね。司馬さんは、作品中で秀吉の口を借りて「上様(信長)は、使える道具がお好きなのだ。だから、わしのような使える道具を殺すはずがない」と語らせています。本当に秀吉がそう言ったかどうかは大した問題ではなく、信長なら秀吉にそう言わせてもおかしくないと思わせるところに信長のようなタイプの人物に凝縮された、サイコパスが人間を物扱いするという顕著な特徴を見て取るべきだろうと思います。
信長は、おのれの意にそわぬ者は、容赦なく殺したり、追放したりしていますが、そういうところが明智光秀の謀反を誘発した可能性は高いでしょう。サイコパスの末路はけっして平穏なものではないことの例でしょうね。
マーサ・スタウトは、なんらかの権威をもつ者に命じられると、とくにサディスティックでない人でも、何の罪もない人を傷つけたり、苦しめたりすることになる命令を拒むことができない人がおよそ8割に及ぶという心理実験について言及しています。もちろんサイコパスなら、そもそも良心がありませんから、誰かを痛めつけ、苦しめるようにという命令に喜んで従うでしょう。しかし、それ以上に、もし、なんらかの権威を有する立場や地位にサイコパスが就いたとすると、サイコパスでない人のおよそ8割は、サイコパスのサディスティックな命令を拒むことができない可能性があります。そして、知能の高いサイコパスの場合、往々にして指導的立場や地位にサイコパスでないものよりも就きやすいという背筋の寒くなるような問題もあります。ヒトラーとナチスによる犯罪やオウム真理教とはまさにそういうものだったでしょう。
さて、先頃、“生活保護を受給している人たちの支援にあたっている神奈川県小田原市の職員らが 不正受給は許さないという趣旨の文言が書かれたジャンパーを着て受給者の家庭を訪問していたことがわかった”というニュースが報道され、物議を醸しましたが、生活保護の不正受給それ自体は、不法行為もしくは違法行為であり、“勝ち組”でないサイコパスが福祉制度にフリー・ライド(無賃乗車)している可能性はきわめて高いと思いますし、生活保護の不正受給は許されるべきではないと思います。しかし、本来、生活保護というのは、日本国憲法第25条第1項の条文、すなわち「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の規定を事実上、実効あるものとするための制度でしょう。しかし、昭和末期から平成にわたって歴代政権は、財政赤字を理由に社会補償費を削減してきました。その流れの中で、生活保護受給要件を満たす者にさえ、詭弁をろうしたり、言を左右して本来、受けられるはずの生活保護の申請を却下したり、保留にしたりする福祉課職員も存在すると仄聞(そくぶん:また聞き)します。生活保護の受給を決定する職員の中にサイコパスが就いていたら、情け容赦なく、申請を却下し、困窮のうちに餓死もしくは、衰弱死させたとしても、蚊にさされたほどにも感じることはないでしょう。あるいは、生活困窮者にたいする住民税滞納を理由とする差し押さえや料金滞納による国民健康保険証の取り上げなどということもサイコパスなら嬉々としてやるでしょう。
ランキングされていませんが、サイコパスのような極端な自己中心主義者は、政治家や歌手や俳優などの芸能人にも多いのではないかと思います。サイコパが外見を魅力的に見せかけることに長けていて、人間の心理を巧みに操ることにも長けていることから、サイコパスのもっとも適した職業は不特定多数の人びとにアピールする人気商売なのかもしれません。サイコパスが実務的な作業をコツコツとこなして、現実に役立つ成果をあげるよりは、卓越したプレゼンテーション能力や人を強く惹きつける巧みな話術に長けていることから、芸能人や政治家などの職業にサイコパスが多く存在する可能性は否定できないと思います。
歌手や俳優などの芸能人がサイコパスであったとしてもたいした実害を社会が被るわけではないでしょう。しかし、一国の国運を左右したり、多数の人びとの平穏で安全な暮らしに影響を及ぼすような職業や立場にサイコパスが就くとなると話は違ってきます。つねに刺激とスリルを求めるサイコパスにとって、緊急事態や危機存亡の瀬戸際というような事態においてプレッシャーを感じたりせす、生き生きと水を得た魚のように活躍し、驚くような大胆不敵な決断や選択をやってのけることは、サイコパスの得意とするところでしょう。しかし、サイコパスは、他人の生命や幸福といったものに無関心で、かつ無責任ですから、自分の選択や決断の結果が大勢の人たちに不幸をもたらしたとしても少しも気にしないでしょう。一か八かの大勝負に臨むことよるスリルと高揚感に快感を覚え、到底、成功のおぼつかない賭けに出ることも大いにありうることでしょう。そして、うまくいけば、賞賛と名声をものにできますが、失敗して大勢の人びとが悲惨な目に遭うとしてもサイコパスの知ったことではないわけですから、このような人物が国家や国民の興廃を決するような決断や決定を下しうる立場に立つと往々にして悲惨な結果がもたらされてきたことは、歴史上、枚挙に暇がありません。悪いことに、サイコパスは、決して自分の失敗を認めようとはせず、失敗を巧みな弁舌や詭弁によってごまかすことの達人で、ありもしない自分の功績を他人に信じ込ませることの名人ですから、多くの人びとがサイコパス特有の魅力に魅せられて、本来就かせるべきでない立場や地位にそのような人物を就かせてしまうことも、事実としてあったでしょうし、これからも頻繁にありうることでしょう。このことのゆゆしさについては、あらためてサイコパスとともにダーク・トライアッド(闇の三つ子)の仲間である自己愛性人格障害やマキャベリストの問題として検討してみたいと思っております。長文にお付き合いいただきましてありがとうございました。