バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

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             哀悼


漫画家の谷口ジロー(たにぐち・じろー、本名・谷口治郎=たにぐち・じろう)さんが11日、死去。69歳。

「犬を飼う」、「神々の 山嶺 いただき 」(同・夢枕獏)など。町の飲食店を一人で食べ歩く「孤独のグルメ」(同・久住昌之)は、94年に始まり、2012年からドラマ化…

フランスの芸術性の高い漫画に影響を受け、「  はる  かな町へ」をはじめ、海外でもファンが多かった。ヨーロッパ各国で多くの賞を受賞、仏芸術文化勲章シュバリエも受章した。

鳥取県出身。京都の会社員生活を経て上京し、1970年代初めに「嗄れた部屋」でデビュー。動物ものやハードボイルド、SFなど幅広く作品を発表した。代表作に手塚治虫文化賞マンガ大賞などを受けた

「『坊っちゃん』の時代」(原作・関川夏央)↓


(゙ `∇´)/ 本当の日本人は”明治維新”なんてことばは使いません…


この漱石や鴎外のように”瓦解”と呼ぶものなんです…




明治のとりとめのない”欧化”…(いまなら”グローバル化”、”IT化”でしょうか)…のなかでも…


日本人としての”自分の姿”を見失うことのなかった樋口一葉の死ををふたりは惜しみます…


資本主義の激流…それは日本に何をもたらしたのか…



日本を理解し、愛し、日本に帰化したアイルランド人ラフカディオ・ハーンも…


”欧化”を急ぐ日本においては、不要な人材とされてしまったのです。




月給400円で請われて東大に雇われたハーンでしたが、200円への減額を示され、退官。


後釜に入ったのが、夏目漱石でした。



漱石を雇うための給料減額提示に、ハーンはあっさり身を引いて、翌年狭心症で他界するのです。

「日本、ますます 悪い なりましょう」と、日本の行く末を心配しつつ…



いま…日本にいる多くは、こうした人たちではありません…


ニセ日本人ばかりが、「自分は日本人」と錯覚しているのです…


明治維新の物語からして、すべてはデタラメ…茶番でした…


そういうことを知っていてこそ日本人なのではないですか?



こんなインチキ日本は…こちらから”願い下げ”…


すでに”ない”のであれば、新しく作るまでです…


新しい人たちとともに…


$バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇ $バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇

人間が、組織という「巨人」に喰われていく…

1%課税せよ!不平等是正!ゲームではない経済を!

$バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇

グローバル・ハゲタカ資本から国民の財産を守れ!
権力・・・とは、欲で釣り、暴力で脅すこと。ゆえに無欲で死を恐れぬ者は無敵である。

それが絶対的自由を得た完全に自立した個人である。

自立した個人とは、ことば(マコト)の刀を差したサムライをいう。
法にしたがうとは、自らの良心にしたがう・・・ということ。





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かつて、『朝日ジャーナル』に『諸君!』ありしころから比べると、近頃の『正論』の劣化は目を覆うばかりとなっている。

 

ネットが普及して、言論の質が上がるのかと思いきや、ますます”白痴化”の一途を辿っているようだ。

 

この宮脇氏の議論(→ 非民主主義者になっている自己矛盾を認めぬ日本のリベラルたち

 

…なんぞは、アホ中二レベルではないか?

 

 

「保守」を自称している連中の多くが、単なる中二病というのでは、現代日本も末だなあと思う。

 

 

かつて、『正論』で論陣を張っていた方々は、それなりに歴史に詳しく、また「ユダヤ陰謀論」でも出てくるような「歴史の真実」についても、そこそこ触れていたのである。

 

現在の「アホ種」とは違って、

 

アメリカが「人工国家」であることや、「民主主義」が本当の意味では、どこでも実現していないということや、女権運動が「家庭に”革命”という権力闘争を持ち込んだもの」であることなどを「保守」が論じていたのである。

 

現在の自称保守のように「アメリカは味方」と決めつけて思考停止しているような”お花畑”とは違い、どうやってこの”ならず者国家”とつきあっていくべきかを真剣に論じ合っていた。

 

ネトウヨのうすらバカどもは、ふたことめには「お前はなに人だ」などと聞いてくるが、厳しくアメリカ批判をしていた当時の「保守」からみれば、アメリカのポチであるネトウヨ、あべサポどもに対してこそ

 

「おまえら、なに人だ?」と聞きたいはずである。

 

宮脇氏は、竹田なにがしのことばを引くが、なにがしですら「意味がなくなった」という「左派」「右派」の選別仕分けに結局こだわっている。

 

戦争というのは、まず情報の錯乱から始められる。

 

「放射能安全デマ」や「慰安婦はなかったデマ」は、そうした”陰謀”の流れの中から流布されている。

 

「陰謀論」自体も、そういう意図でデタラメが流されていたりするのだが、現在はテレビの伝えることが「事実」と信じ込んでいるチンパンレベルの国民が圧倒的多数なので、「”陰謀論”はデタラメ」などと妄信していると、実はそっちの方がよっぽど真実に近いということがままある状況である。

 

宮脇氏も、そうした国際的諜報戦のなかで情報をかく乱させることを任務とするスパイ勢力に利用されているクチであろう。

 

ウブな新入りの共産党員が、上部に乗せられて知らず知らずカルトで熱心な”党員”となっていくように…

 

また、「キリスト教」や、なかには「仏教」の看板で活動して、やはり世間知らずの”おネンネ”ちゃんを熱心な信徒にしていくがごとくに、「信仰」に生きておられるのであろう。

 

 

そもそも共産党に公安警察がつくのは、暴力で国の財産を奪った薩長財閥支配層が、これまた暴力で反対派の政治運動を弾圧した歴史に由来している。

 

それを共産党の方が暴力組織であるかのように言うのは、白を黒と言いくるめるネトウヨ話法、ヤクザ話法そのものであろう。

 

ヤクザどころか、警官にも婦女暴行しておいて、自分が誘われた被害者であると裁判で主張する者がいるくらいだから、こういう”虚言癖”人格というのは、日本人にはけっこう「ふつうのこと」のようである。

 

また、共産党のような組織には、必ずといっていいほど、どこぞのスパイが潜り込んでいる。

 

戦国時代でも、「一向一揆」というのがあったが、背後に侵略を狙う隣国の工作が入っている場合が少なくなかった。

 

日本とロシアが接近するようになると必ず共産党がスキャンダルなネタを暴露するのはなぜであろう?

 

どこのスパイが、事実上現在の共産党を動かしていると思うか?…

 

「左だ、右だ」という単純な”仕分け”で政治状況を判断していては、こういうところに決して気づけない。

 

宮脇氏は、ほかのネトウヨ同様、都合の悪いネタは必ずスルーして、朝日新聞のごとくに、論破され尽くされた妄言をいま初めて論じるがごとくしゃあしゃあと述べ立てるクチなので、工作員なのだろう。

 

工作員の使命は、議論ではなく、”宣伝”だからである。

 

空理空論でも、百回千回と繰り返すことに意味がある。

 

 

それと共産党が公安から狙われるのは、「地球は誰のものでもない。みんなのものだ」とする共産思想が、利権や財産を腕づくで占有している特権階級にとって「都合の悪い」ものだからだ。

 

「持てる者」と「持たざる者」の厳格な格差を作ることで、支配層の富と権力は生まれる。

 

よって、日本だけではなく、アメリカでもとくに戦後はレッドパージがひどかった。

 

支配層は、人身売買や麻薬売買、武器売買等で成り上がってきた連中である。共産主義者や平和主義者の主張は自分たちの悪事を追及し、富と権力を自分たちが占有していることの正当性に核心的な疑義をつきつけられることになる。

 

それを避けるために、支配層は共産思想と暴力を結び付け、自分たちが暴力すべてを奪ってきた歴史を捏造しようとする。

 

「日本の文化」だ「日本の伝統」だというのも、そういう意図で捏造されているものばかりではないか?

 

 

そうした支配層によって捏造される「日本の文化や伝統」ではない、人民による(本当の「日本の文化や伝統」をということで、プロレタリア文化運動なんてのも行われた。

 

それで、演劇や音楽をやる者とかが特に団塊世代あたりに多かった。

 

 

しかし、支配層は文化芸能のビジネスをも支配している。

 

「よいもの」が育ってくれば、カネで買い取ってしまう。スポーツでも同じ構造になっている。

 

 

「あしたのジョー」でも、丹下段平から、日本有数の大富豪である白木財閥に引き抜かれる格好になるストーリー展開になっている。

 

芸能やスポーツのビジネスが、何のために存在しているのかが、よくわかるのではないか?

 

 

マンガにしたって、著作権を保有することになるのは最終的には「会社」である。

 

「進撃の巨人」だって、アニメ化などすれば、フジ傘下のポニーキャニオンなどが「著作権者」となるのだ。

 

 

「所有権」というものを設定することによって、「カネですべて買える」世の中となり、富と権力を独占するところには、すべてのものが集まってくることになるのだ。

 

共産主義は、個人の所有権ではなく、集団的組織的な巨大な所有権を否定したり、そこに疑義を突きつける。支配層のビジネスにこれほど「都合の悪い」思想もないということなのだ。

 

だが、一般市民からすれば、どうであろう?

 

「持たざる者」からして「地球は誰のものでもない」という思想は「都合が悪い」ものだろうか?

 

 

しかしながら、資本主義誕生以前の時代から、ビジネスが発展していくと、ゲマインシャフトはゲゼルシャフトに”淘汰”されてしまうのである。

 

現代日本でも、巨大ショッピングセンターが進出してくると、家族経営的な店は競争に負けていく。チェーン店方式の店に、個人の店が負けていく。

 

古代ローマにおいても、ローマが発展するにしたがって自由民は没落して土地を手放すハメになり、その土地を耕作したのは奴隷たちであった。

 

奴隷のように人間を使役する組織、そして、奴隷でもできる労働内容で職人に負けない品質と、価格を実現するビジネスモデルを開発した事業家が経済競争を征していったのであった。

 

フォードの成功もシロウトたちを集めて単純作業の流れ作業化を実現したことにあったとされる。

 

当時は、「ファクトリー」と呼ばれて、職人の手作りよりも、工場製品の方が品質が良くってイケているというイメージが大衆に共有されていたほどらしい。

 

そうした現象が、世界的規模で加速的に進行しているのが、現代である。

 

 

技術革新とグローバリゼーション…それを怠れば競争に負ける…

 

だが、それを進めれば進めるほど「格差」は拡大し、労働力も”奴隷化”していく。

 

 

中産階級の没落は、日米に留まらない。「歴史的必然」として、現実だけが進行していっている。

 

「右だ、左だ」などと幼稚な議論をやっている場合じゃないだろう。

 

 

とはいえ、議論は相手を選ばないと生産的にならない。日本人どうしが「議論」しても決して「生産的」にならないのは、総じて日本人のレベルが低すぎるからだ。

 

そして、レベルが低ければ、いずれ競争に負ける…淘汰される…

 

…ま…それだけのことではある…

 

 

さて、あともうひとつ宮脇氏の救いがたい無知を指摘しておかねばなるまい。

 

民主主義というのは、「法の支配」なくば機能しない。

 

そして、「法」とは、「合意」のことである。

 

似非保守の「アホ種」たちに共通するのは、ここの部分の無理解無知である。

 

 

「話し合い」は、民主主義ではない。そんなものは「軍議」でも行われている。

 

「軍議」は「民主主義」か?

 

17条の憲法なんぞ持ち出して、それでできるのは”律令国家”であって、”法治国家”ではない。

 

 

宮脇氏の先の議論には「社会契約」に触れたところがひとつもない。

 

法の正当性は何に由来するのかがまったくわかっていないチンパンレベルの国民である。

 

法の正当性は、「相手との合意」である。

 

「みんなで話し合って決めた」ことであっても、自分が合意していないことにしたがう義務はない。

 

それが、民主主義だ。

 

つまり、強行採決などで、「はんた~い」とデモをして意思表示をするのは、「それに私は合意していない」という意思表示であり、当然の権利なのである。

 

それを宮脇氏は「結果に従うのが民主主義」だなどと根本的に民主主義を履き違え無知を晒している。

 

「結果に従う」というのは、海賊や山賊の文化である。つまり、倭寇の文化、倭人文化である。

 

民主主義と言うのは、そんな野蛮なものではない。だから、明治のときから日本人が欧米のマネをすると「サルマネ」とひんしゅくを買った。それを単に「差別」と解釈しているから、いまだに進歩がない。

 

「結果に従う」義務があるのは国家機関などの権力機構である。

 

よって、行政機関は選挙の結果に従わざるを得ない。が、大衆にそんな義務はない。

 

宮脇よ、義務もないことを力や詐術でやらせるのは「強要の罪」等の刑法に触れることだぞよ。

 

 

基本的人権を尊重する市民社会においては、「結果に従う」必要はなく、「結果を尊重」すればよろしい。

 

「他者の自由意思を尊重する」のが、法治国家の基本であるから、「結果に従え」ではなく、国は「はんた~い」と意思表示している人々を「尊重」しなければいけない。

 

それが日本国憲法の定めなのだが、これを変えて十七条の憲法みたいにして、いったい日本をどうするつもりなのだろうか?

 

ともあれ、「左派」と自分が勝手に”仕分け”している人々の「非民主性」なるものを指摘するにしても、もうちょっと根本的なところを理解しておくべきではないだろうか?

 

 

いまの雑誌「正論」に、いかに「読む価値」がないかを証明してくれた貴重な一筆であった。

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「オールジャパン」などと植草教授…

 

フランスの選挙などでも、「分断」をかわして「団結」できたことで「勝利」したと述べる。

 

しかし、そもそも選挙に勝って何が変わるというのか?

 

まあたしかに、株価や為替は選挙の行方次第で乱高下を繰り返している。

 

しかし、そこまでだ…個人の賃金や物価までは「乱高下」しないのだ。

 

 

オバマが大統領になったとき、「イェス、ウィーキャン!!」と大衆は狂喜した。

 

米国経済の好調などの実績も残したようだが、彼に投票した人々の期待したものは実現したのか?

 

実現しなかったからこそ、トランプが大統領になったのではないのか?

 

しかし、そのトランプには何の実行力も伴ってはいない。

 

いよいよロシアゲートで弾劾を受けかねない状況になり、市場も「リスクオフ」となったが、それにしては底堅い。世界経済の好調ややたら膨らんだETF買いが株価を下支えしている事情もあるが…

 

市場は「ペンスになったら、もっとうまくいく(=トランプ弾劾は好材料)」と判断しているからだそうだ。

 

大統領には大きな権力があるとはいえ、何でもできるわけではない。

 

トランプ自身が、それを証明してくれている。

 

テレビや新聞だけで判断すれば、「トランプが新米だから」ということなんだろうが…

 

「大統領でも逆らってはいけない人たちが、あちこちにたくさんいる」

 

…という認識の方が、より”正確”なのではないだろうか?

 

 

要は、選挙に勝ったところで、「大統領よりも強い人たち」がたくさんいて、その人たちの利益や意向を考慮してみせなければ、思うような人事すら貫徹できない。

 

もっとも、この先、トランプが「あべ化」して、メチャクチャな「おともだち体制」を作り、次々と強行突破していくなんてことも、あるのかもしれないが…

 

仮にそうだとしても、トランプに投票した人たちが「報われる」ことはあるのだろうか?

 

 

 

日本でも、民主党政権ができたときには「世の中が変わる」と信じた人々も少なくなかった。

 

しかし、出来たてで権力基盤の弱い民主党では、財務省や米軍関係者たちなどの「裏の権力者」に対抗することはできず、緊縮財政で財界の支持も得られずで、結局瓦解した…

 

 

選挙に勝っただけでは、何も変わらない…

 

この間、日米をはじめとして各国で見られた事象である。

 

 

それでは、何が足りないのかということで、私は最近は「人権論」「憲法論」をやっている。

 

 

そもそも人民が、人権や主権在民の何たるかがわかっていないし…

 

主権者としての義務を果たしていない。

 

 

自分たちのやるべきことを政治家や運動家にやってもらおうとしている。

 

甘ったれるのもいい加減にしなければなるまい…

 

 

政治家や官僚は何をしている!…なんて以前に…

 

日本国民は、何をしている?…なのだ。

 

 

怠慢と腐敗は、政治家や官僚よりもひどく、ウソも平気でつく…

 

そもそもリテラシーが皆無で…

 

本当のことを言えば、怪訝に思われて攻撃され、ウソを言えば笑顔で信じ、

 

しかもあとで騙されたとわかっても、忘れているか、赦しちゃっているかだ…

 

 

マジメに国民本位で取り組もうという政治家は日本では決して報われない。

 

国民をいじめる政治をすると人気者になれる倒錯した人々の国なのだ。

 

 

国民自体が、魑魅魍魎の類であるのに、「国民の声を国会に~」って…

 

お前はアホか?!

 

と思うのである。

 

 

「人権的な生き方」をしろと、最近は言うようにしている。

 

人権とは、”他者を尊重する権利”だ。”自分を尊重する権利”と思っていると間違いやすい。

 

 

「尊重する」とは…

 

 

屈服することではない…

 

無条件に認めることでもない…

 

リスペクトするということでもない…

 

 

「あなたの言い分を尊重しましょう、でも、私の側にもあるのですが、聞いていただけますか?」

 

という感じである。

 

 

私は日本国民が、あべ破滅政権を支持することを「尊重」している。

 

だが私は、「尊重」するのであって、「支持」はしないのだ。

 

 

どうぞどうぞ、あなたがたの選択ですから、滅亡してくださいってことである…

 

「相手を尊重する」ということは、このように「自己責任原則」であり「個人主義」なのであって…

 

日本人的な感覚からすれば「冷たい」と感じたりするのかもしれない。

 

 

だが、集団心理と情動にひきづられた日本社会のありようは、「真理に基づいた政治」にとっては”阻害要因”にしかならない。

 

 

それでも、自ら「自分たちは”家畜”だ。”家畜”でいい」と日々宣言している日本人たちにとっては、別に「真理に基づいた政治」など必要もないに違いない。

 

牧場の牛が、ある日権利に目覚めて「真理に基づいた政治」を志しても牛肉にされる運命を変えられるとも思わない。

 

そういう意味では、テレビを見て、精神に麻酔をかけている方が”現実的”とも言えよう。

 

 

また、そうであるならば、日本人民のための政治など考える必要すらないということである。

 

 

私の関心は、この牛豚国民のなかで、それでも人間として生きたいと願う人たちにある。

 

他は、全部死んでもらってけっこう…滅びてもらってけっこう…

 

 

「仲間」だとも、「同じ日本人」などとも思ってはいない。

 

 

羊の群れの中で人間が生きていくには、”羊飼い”になる以外にないのだ。

 

 

オオカミのように群れを作って羊を襲うわけでもなく…

 

牧場主として、富や権力のために羊を飼うのでもない…

 

 

だが、羊飼いはときどき羊を殺して食べることもするのだ…

 

その意味では、羊飼いと羊も「仲間同士」というわけではない。

 

敵対関係とまではいかないかもしれないが、常に平和な共生関係というわけでもない。

 

そう…「みんな敵」なのだ。

 

「戦い」なのだ…「地獄」なのだ…

 

 

さあ…だからこそ…「人権的な生き方」を…と述べているのだが…

 

 

人は、

 

「”よい人”には、”よい”ことをしてやり、”わるい人”には”わるい”ことをするものだ」

 

…と考えている。

 

それが「しつけ」や「教育」だと思っている人までいる…

 

 

上の信念は、

 

「”味方”には、”よい”ことをしてやり、”敵”には”わるい”ことをしてやるものだ」

 

…という考えに転換、応用される。

 

 

しかし、ソクラテスは、

 

「相手が悪いことをしたといって、こちらが悪いことをしていいわけではない」(悪法も法)

 

と言ったわけだし、

 

イエスは、

 

「汝の敵を愛せ」と言ったわけだ。

 

 

また、中国の思想には「恨みに報いるに徳をもってす」というのがあり…

 

「自分がやってほしくないと思うようなことは人にもしてはいけない」と孔子が述べている。

 

 

古今東西に変わりなく…

 

相手が”よい人”だろうと、”わるい人”だろうと…

 

相手が”味方”だろうと、”敵”だろうと…

 

こちらは”正しい”ことをするだけだ…と…

 

(「正しい主張をすること」ともちと違う…主張するなら正しくなければいけないが…)

 

 

だいたい凡夫が、「正義」や「仲間意識」に訴えるのはなぜなのかを考えてみよう。

 

だいたいの人間は、先のように「”わるい人”や”敵”には、”わるい”ことをしてやるべき」だと考えている。

 

 

ゆえに、「みな敵」の現実の前では、相手に自分が「よい人」「味方」であると認知してもらう必要がある。

 

そこで皆、ごまをすったり、取り入ったり、キレイゴトを述べたり、手練手管をつかうのだ。

 

 

しかし、「人権的な生き方」では、「お互いが敵同士」というのは前提になっている。

 

「お互いが敵同士」であることを前提に”対話”を重ね、”合意”を重ね、”法”としていく…

 

そのために行使する権利が人権なわけである。

 

 

だから、「仲間意識」だの「愛国心」だの、そんなものはかえって邪魔になる…

 

自然に芽生えるものまで否定はしないが、仲間意識でお互い依存しあい、縛り合うというのは、実に愚かなことだと私自身は考えている。

 

 

闇株新聞が、実に幼稚な憲法認識を披露していたのでリンクを貼っておく…

 

憲法改正はここで一気に行うべき

 

 

「諸君!」「や「正論」を愛読していた私は、この手のお花畑な憲法論は聞き飽きている。

 

闇株は、とっくの昔に論破され尽くされている議論を、ただ蒸し返しているだけだ。

 

これで金融の分析なんぞできるのかね?????

 

 

いま述べたように、人権も憲法も、とても「戦闘的」なのだ。

 

憲法や人権にかぎらず、日本人はいろんなことを理解していないし、履き違えている。

 

 

まずはみな、竹林に籠ってひたすら勉強すべきではないのかね?

 

 

 

 

 

 

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最初に少し復習しよう。

 

被害者が「お互い様」と言う場合と、加害者が「お互い様」と言う場合では、

 

ことばの意味は反対である。

 

患者が医者に、生徒が教師に「おかげさまで」と言うのはふつうだが、医者が患者に、教師が生徒に

 

「おかげさまで」と言えば、「はて、どういう意味か」と首をかしげねばならない。

 

 

「自由主義」も…

 

「相手の自由を尊重する」のが、リベラリズムで…

 

「自分の自由を尊重する」のが、新自由主義や帝国主義である…

 

 

人権も、しばしば「自分たちの自由を尊重しろー」とやるからファシズムになっている。

 

護憲派がいちばん実質的な憲法改正の実行者だったかもしれない…

 

 

さて、そして「愛」も…

 

相手に愛を求めれば、呪いに変わってしまう…

 

最上の愛は、自分のいのちを差し出すことであるから、これを相手に求めることは…

 

「私のために死んでくれ」という意味となるので、「殺してやる」と言われているに等しい。

 

 

そうしたことを考えながらディズニー映画も見ていないと、相手に自己犠牲を平気で求める鬼畜になりかねない。

 

「愛する者のために自分を犠牲にすることは美しい…」

 

そうやって、「愛国心」とやらが植えつけられていった時代から、まだ百年と経ってはいないのだ。

 

 

「愛」とは、相手に求めてはいけない。(求める場合は、相手の自由意思が尊重されねばならない)

 

「愛」とは、相手に求めず、自分から一方的に行うのみで、しかも、目立たず、さりげなく…「右手の下ことを左手に知られないようにせよ」とキリストが説いたようにやるものである。

 

悪いことをするときには、その教えを守るみたいだが?…(それではダメだ)

 

 

さらによくないのは、「愛すること」は、簡単だと思っている人が多いことだ…

 

「愛」を感情だと思っている…「好きになること」だと思っている…「憐れみをかける」ことだと思っている…

 

 

さだまさしの歌だったか?…関白宣言?…「簡単なこと、愛すればいい」みたいなセリフがあった…

 

家族や祖国が「存在」し「機能」していたときは、実感もあっただろうから、家族愛や同胞愛を”踏み台”代わりにして、「愛」の実践の練習をしてもよかったのだろう…

 

しかし、機械文明が発展し、家族も学校も地域も、そして「国」も、グローバリゼーション、市場化とともに溶解しつつあるなかで、郷愁や感傷から「愛」を取り戻そうというのは、多分適切ではない。

 

家族愛や同胞愛を信じたがるのは、ある種の「依存症」とも言えるだろう。

 

 

個人主義で生きる者に、集団の溶解は致命傷とはならない。

 

家族愛や同胞愛が消えたとしても、淡々と隣人愛を実践していくだけだからである。

 

 

そう…、本当の「愛」とは、淡々としているものであり、欲情や恋慕のような”気の迷い”とは異なる。

 

しかし、人は身を焦がすような熱情に正気を失っている状態を「愛」と呼んで、恋焦がれている。

 

麻薬とどこが違うのだろうね?

 

 

「愛」は、ドキドキもワクワクもしない…

 

人々は、メモリアルをもって、ドキドキ、ワクワクを思い出して「愛を取り戻そう」とするが、淡々としたなかにこそある「愛」に気づけずして、どうやって「愛を取り戻す」ことができようか…

 

 

エーリッヒフロムも言っていたことだが、「愛する」ということは、ひとつの技術だ。芸術だ。

 

簡単にできることではない。

 

「愛情があればできる」などと考えていること自体、「愛を知らないウツケ者」である証拠なのである。

 

 

「好きになること、嫌いになること」などは、自分の自由意思でコントロールできることではない。

 

自分にコントロールできないものが「本当の自分」であるなどというバカげた考えをなぜするのか?

 

空腹になれば、からだは食事を要求するが、それが「自分」と何の関係があるのか?

 

それが「本当の自分」だってのか?

 

 

欲求や衝動は、自分の、とりわけ肉体に由来する(ときに魂にも由来する)状態にすぎない。

 

それは刻々と変化して、とりとめがない…

 

そんなものが、「本当の自分」なのだろうか?

 

 

感情や、好き嫌いは、ひとつのシグナルであって、真理真実を表しているとはかぎらない。

 

 

「愛する」ことについて、感情はとくに必要ない。

 

しかし、「愛」=「感情」「好き」と考えている俗民たちは、「愛すること」について勘違いする。

 

 

「汝の敵を愛せ」とは、「敵のことを好きになれ」という教えではない。

 

「罪びとを赦せ」というのも、罪びとや仇きのことを好きになれ」という教えではない。

 

 

そもそも感情なんぞ思いどおりに出来やしないのだから、教えの守れる保証がない。

 

 

ところが、多くの人々は、宗教家に相当する人までも、自分の感情を「好き」の方向へもっていこうとする。実に愚かなことである。

 

 

ディズニー映画をみて、人は泣いたり、笑ったりするが、感情とは、そこに現実がなくても生じうる。

 

外部から簡単に操作されてしまうのである。

 

また、役者などは自分で情動をコントロールして、本当に涙を流したりする…

 

 

つまり、人は”演技”をするのである。

 

すなわち、ウソいつわりを行うのである。

 

 

感情を拠り所に「愛」を実践しようとすれば、自分を偽り、”演技”することになってしまう。

 

人々が「愛」と言われて、それらしく想起するイメージを演じようとするようになる…

 

 

俗民や宗教家の「愛」の実践、「愛の境地」なんてものは、」ことごとく演技であり、自己欺瞞と言わざるを得ない。

 

 

あるいは、そうでなければ、「愛」というより「奴隷根性」であろう…

 

主人に「かわいがられた」奴隷は、主人のために命を投げ出すことも珍しくなかったという…

 

それが、本当の愛ゆえのものだったケースもあるだろうが、とことん飼いならされた結果だったのかもしれない…

 

およそ”自己犠牲”なんてことに及ぶ場合は、往々にして平常心ではないだろうし、武士の主従関係のように、半強制的な”しばり”があったがゆえのことであろう。

 

それを「愛」と錯覚して、「美しい」と涙を流すことほど滑稽で残酷なこともあるまい。

 

 

だから、みなさん気をつけないと…

 

ディズニー映画を見て涙するだけで、地獄に落ちてしまいますよ…

 

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「平和的解決」というと、「”話し合い”による解決」と日本人は思うようです…

 

しかし、現実世界に生じている問題というのは、「オオカミと羊の関係」みたいなものばかりで、

 

どうやってオオカミと羊が”話し合い”をして、何を「解決」するんでしょうねという話になります。

 

 

現実世界で「オオカミと羊」の問題は、どう「解決」しているかというと、たとえば…

 

「羊のどれかが犠牲になって、オオカミの腹が満たされる」ことで「解決」しているのです。

 

 

人間の世界でも、けっこう同じようなことではないのですか?

 

 

こうした現実とマトモに向き合って、人は「大いなる悲しみとそれを知るこころ」をもつようになります。

 

慈悲心、愛というのは、こうした”かなしみ”から生まれてくるものです。

 

 

まあ、そっちの話をする前に、”話し合い”なんぞで「解決」はしないって話を続けましょう…

 

 

”対話”というのは、「平和」よりは「戦争」に近い…

 

囲碁やその他の”ゲーム”の方が、”対話”に近い…

 

外交交渉、商談交渉…そうした”駆け引き”に近いものです…

 

 

背理法や応報法にしても、「自己主張することなく相手を論破し、自ら裁くことなく、相手を裁く」のです。

 

暴力を用いない「戦争」と言ってもよいくらいでしょう…

 

 

日本人の”話し合い”って、どうですか?

 

「ま、ま…むずかしいことは、おいといて、まずいっぱい」などとやって、むしろ、”対話”を封じます。

 

いっしょに飲み食いして、”仲間意識”みたいなものを作って、敵対心を取り除き、”甘え”が通じる間柄になっておこうみたいな”したごころ”がありますね?

 

相手の感情をくすぐって、そこに訴えて、主張を引っ込めてもらおう、こっちのムリを聞いてもらおうなどと考えますね?

 

だから、鹿鳴館みたいなものを作って、欧米人のマネをして「サルマネ」と嗤われた…

 

 

だから、”仲間意識”が形成できず、情で動かすことができず、”甘え”も通じないとなれば、交渉決裂で、あいてを「悪いやつ」ってことで実力闘争か、絶交かって局面に進みます。

 

「ちゃんと話を聞く」「ちゃんと話をする」ということが、とても少ない…

 

まあまあ…で何でも誤魔化して、表面だけ取り繕い、「事なかれ」に徹するのです。

 

そうすると、いつまでたっても、「問題」は解決せず、ただみんなが忘れているだけなのですね…

 

 

日本人の”話し合い”は往々にして、”対話”を封印し、”問題解決”を”棚上げ”するものです。

 

ますます「解決」するわけがないですね?

 

外交などでも、こういう発想でやるから”対話”自体成立しないのでしょう…

 

 

”対話”というのは、”仲間”ではない人たちとの間でこそ行われるものです。

 

感情に訴えても、それは”対話”の阻害になる場合が多い。

 

まして、”甘え”など…交通違反の切符とかが、”話し合い”で回避できるのか?

 

回避できるとすれば、”対話”のみでしょう。

 

 

報道されている「日米対話」というのも、そういう次元の話のはずです。

 

まさに反則切符を切ろうとしているお巡りさんに対して交渉を始めるようなものです。

 

どう考えてもお巡りさんに落ち度がなく、自分に非があるなら、切符を切られることまでは、どうしようもないですね…では、何を「交渉」しましょう?…

 

そういう緊張関係を伴う、真剣勝負が”対話”ですよ。

 

 

日本人が、すぐに徒党を組んでギャング化するのは、”仲間意識”に訴え、”感情”に訴え、相手と自分の”甘え”を通したり、受け入れたりする日本文化があるからですね?

 

こういう野蛮な文化を”美”と勘違いするところから、日本人の倒錯は始まっているのではないですか?

 

日本人の”話し合い”からは、法というものが出てきません。”契約”が成立しません。

 

 

日本文化を受け継ぐ日本人には”法の支配”などはムリなのかもしれませんね…

 

 

しかしながら、日本人に「法の観念」がないのかというと、そうでもないのですよね…

 

 

人権思想が欧米由来のものだと、盛んに宣伝洗脳されておりますが、「人権」という表現の仕方や歴史過程が異なるだけでして、日本人のなかにも人権思想的なものはありました。

 

中江兆民やその弟子筋の幸徳秋水が人権を理解していたのも、

 

あるいは遡って自由民権運動のなかで今日的な憲法の素案が市民のなかから提出されたのも、

 

人権を速やかに理解するだけの基礎がすでに日本のなかにもあったということです。

 

 

「人権思想は欧米のもの」という宣伝は、「日本は別」という話にしたいがゆえのものです。

 

 

ところが、真理真実は、古今東西を問うものではありません。

 

数学をフランス語でやろうと、中国語でやろうと別の学問になるわけがないのといっしょです。

 

 

ですから、日本人のみながみな”対話”を理解していないわけではないでしょう。

 

 

理解力のない人にかぎって、「日本は別」「それは欧米由来」などといって「日本文化」を強調して、さも自分が物知りかなんかのように述べる「識者」と呼ばれる動物たちがおりますが…

 

自分のオツムの程度が低いだけのことを「日本文化」のせい、その「独自性」のせいにするのは、これ以上に「反日的」なこともないのではないかと思いますよ…

 

「99%」が「立身出世」などして「識者」などになれる”甘い”世の中では、「法の支配」は実現しないってことなのかもしれませんねぇ~

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相手が「敵」だろうと「味方」だろうと…

 

相手が「悪」だろうと「善」だろうと…

 

ただ、ひたすら自分は「徳を積む」ことに集中する…

 

 

それが、人権的な生き方であり、「隣人愛の実践」なのだと解説してきました。

 

「愛」などというと、人は甘っちょろいものを夢想する…

 

一時の気の迷いや感情を「愛」だと勘違いしている…

 

ディズニー映画なんぞはとくにそうで、ウソの愛のメッセージを人々に刷り込んでいる…

 

 

正しい教えの中に、微妙にウソを混ぜて、話を反対方向へもっていくので要注意だ。

 

たとえば、「お互い様」ということばは、

 

加害者側が使うのと、被害者側が使うのとで、意味が正反対になる。

 

「おかげさま」ということばも、たとえば、医者が使った場合と、患者が使った場合で意味が変わる。

 

「自由」ということばも、「自分の自由」なのか「相手の自由」なのかで方向性は反転する。

 

「愛」ということばだって、そのテクニックで正反対の意味にひっくり返すことができてしまう。

 

思考のちからを使うことなく、映画などの雰囲気に浸っているだけでは、知らず知らずのうちに倒錯の世界へと引きづり込まれてしまうのだ…

 

 

よくよく”愛”というのは、”利他的行為”や”自己犠牲”を意味することが多い。

 

”愛”とは”与える”ことであり、なかでも”自分のいのちを与える”ことが最上である…

 

 

しかしながら、これを他者に対するメッセージとして発信してしまうと…

 

 

「お前は、(家族や国など)愛する者のために犠牲になれ。いのちを捧げよ」

 

…という意味になる。

 

これは、奴隷主が、奴隷に求めることである…

 

↓ 非常に「資本主義的」ですね…

↑妻が夫をこんな感じでみているところもあるよね?

 

↑「日本人であること」に優越感を持たせるなんてのも、この手法の応用か?

 

 

それで、ディズニー映画を見ても人は愛でいっぱいになることはなく、家族や他者に向かって、

 

「お前には”愛”がない。なぜもっと私を”愛”さないのか?」と裁きを始めるのだ。

 

 

世界はディズニー映画によって、奴隷主で世間をいっぱいにするのである。

 

そして、奴隷主は”愛”を示さない”悪い奴隷”に”拷問”を加える…

 

 

かくして、「愛国心」や「家族愛」「同胞愛」に満ちた者たちが”裁き”を始めるのである…

 

 

仏教は、”自他不二”という。「合わせてひとつ」だと。

 

「人々は倒錯していて、相手の利益になることは自分の不利益になると考えているが、そうではない。

 

本当に自分の利益になることは、相手にとっても利益になることだ。」

 

…と説いているので、「利他」や「自己犠牲」を勧めているわけではないのである。

 

 

人が「利他的」と思うことでも、実は「利己的」なのだということを示している例のひとつが「利己的な遺伝子」であろう。

 

「利己的な遺伝子」は、人間のように「利己心」がなく、欲の目に惑わされないので自滅の道を選ぶことなく「利己」に徹することができる。

 

人間のように、倒錯しているままで「道徳心」をもつこともないから、変に迷いもしない。

 

 

「敵」は、滅ぼすべきなのに、「仲よくしなくちゃ」とか「罪を赦さねば」と思うこともない。

 

但し、「敵を滅ぼす」ために剣を取るのではなく、裁きにかけるのでもなく…むしろ…

 

「右のほほを討たれたら左側も向けてやれ」「汝の敵を愛せ」…となる…

 

「愛」をかわいがるとか、なかよくするとか、世俗的な意味で考えるからわからないのだ。

 

 

新約聖書を読めばわかるが、イエスは激しい呪いの言葉を吐いている。

 

どんな人間に対して、その言葉が向けられているかと考えてみると、人類のほとんどが該当するような気がする。

 

すなわち、人間のほとんどは救われはしない。滅ぼされる対象なのだ。

 

仏教だって同じだ。仏の知恵は偉大で摩訶不思議。とても凡夫には理解できないと、釈迦は法華経を説くときに言っている。

 

悟りを開いた弟子たちが多く集まっていたが、法華経を説き始めた御釈迦様に疑問や反感を抱くようになってほとんどがその場を去っていった。

 

その時、釈迦は「クズがいなくなった」と述べたのだ。

 

 

悟りを開いて仏道を歩んだものさえ「クズ」ならば、それ以外はいったい何なのか?

 

だれも救われなどしない…

 

 

このことは肝に銘じなければならない…

 

「神を信じる」「仏を信じる」ことは、実は「クリック」ひとつするくらい簡単なことなのだ。

 

常に、道は開かれ、通じており、導きもある…

 

しかし、ほとんどの者が辿りつけない…「クリック」ひとつできないのである…

 

 

「隣人愛の実践」というのは、敵を滅ぼす行為であり、戦いであるということを、

 

きょうは応報法の応用法から示しておこう…

 

 

背理法も応報法も、相手の言動が相手を滅ぼす材料になる…

 

よって、相手になるべく自由に行動させる…(とはいえ、こちらも備えをして守りを固め罠をはるのだ)

 

そこは前回解説したとおりである。

 

 

応報法のコツは、とにかく相手との間に「合意」をつくること。

 

シャイロックがアントニオを追い詰めたがごとくにやるわけである。

 

 

相手との合意、それが「ルール」になる。

 

そして、それを自分は順守する。しかし、おかしな「ルール」なら相手が自滅するであろう。

 

 

予め「合意」するさいに「そのルールでいきましょう。但し、こういう条件をつけてもらえません?」という具合に、自分がその「ルール」を守る際に障害となるものを取り除いておくのだ。

 

これはビジネスの交渉などでもふつうにあることだよね?

 

 

「相手のルール」に応じて、自分たちが常に”無罪”であるように努める

 

これが、応報法の戦い方の基本である。

 

 

そして、相手が「有罪」になるのをじっと待つ…まさにシャイロック戦法…

 

じっと守りを固めて持久戦に持ち込むことで陸遜は玄徳を、仲達は孔明を撃退した…

 

 

世俗の人間は、相手のルールに従うことを「屈服」と考える。それではこの応報法は使えない。

 

勝ち負けや勢力の大小のこだわっているようでは、相手を自滅に導けない。

 

 

人権的な生き方では、「相手のルールに従う」ことは「相手を尊重する」ことであって「屈服」ではない。

 

そこが戦いの起点になるに過ぎない。その「ルール」がたとえ「共謀罪」のような悪法だったとしてもだ。

 

 

応報法や背理法では、矛盾や過ちのない者は倒せない。

 

そして、過ちを認めて修正した者も、それ以上の追撃は出来ない。

 

 

このことをイエスは「相手が過ちを改めたら赦すのだ」と教えたのだ。

 

それは応報法による敵との戦い方を教えているのである。

 

 

以前にも言ったことだが、生物が”多様”なのは、多くが”淘汰”されるからであり、”共存”というのも、そのなかには「敵対関係」や「喰う喰われる関係」「支配ー被支配の関係」が含まれる…

 

三国志で、死闘を演じた呉と蜀は劉備玄徳の死後は同盟を結ぶ。

 

この国どうしの関係にしても「なかよく」はするが、「いつかは滅ぼす」とお互いに思っている関係だ。

 

「敵」とは、緊張関係を保ちつつ手を結び、お互いに利用し合う関係となることも少なくない。

 

 

もっと別な言い方をすれば、我々が「社会のルール」を共有するのは、お互いが「仲間」だからというよりは、いつかは滅ぼさねばならない「敵どうし」だからと言った方が現実に近い。

 

「敵どうし」だから、無闇に敵対し合っていては、どこぞのだれかに”漁夫の利”を得られてしまう…

 

 

さあ、世間が人類が…

 

いかに「愛」を勘違いし、「人権」を勘違いし、キリストや釈迦の教えを勘違いしてきたのか…

 

少しは謎が解けたであろうか?

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昨今は、世界中が「日本人化」というか、ギャング化している…

 

徒党を組んで、「敵」をみつけては、皆で攻撃を加えている…

 

 

周囲に対しても、「お前は”敵”か”味方”か、態度をハッキリしろ」と踏み絵を踏ませる。

 

要は、自分たちに「服従」するかどうかと迫っているわけである…

 

 

韓非子は、国が亡ぶ兆候として、”遊侠の害”を上げている。

 

国が亡ぶときは、このようなチンピラどもがのさばるようになるのである…

 

 

しかし、”学園紛争”華やかなりしときも、似たような状況が起こった。

 

それには、若者たちの古い考えの大人たちへの反乱という意味があった…

 

新しい考え方、新しい生き方を求めるグループによって、新しい文化も作られたが、

 

…ヘイトや暴力も少なくなかったのである…

 

 

昨今でも「運動」といえば、「勝った」「負けた」にこだわっている…

 

「運動」などに対する「支持」や「参加」の数を求めている…

 

 

それは結局、自分たちの陣営の勢力の拡大、縄張りの拡大、服従者の拡大の追求である。

 

「平和」「民主主義」「反帝国主義」を求めていながら、帝国主義的な「運動」である。

 

 

いくら組織を大きくしても、そこの頭にスパイが送り込まれたり、あるいは頭が買収されれば、まるごと組織は”敵の手”にわたってしまう。

 

大きな勢力ほど、政治にも影響を与えるので、そうした工作を受けやすくなる。

 

 

また、会社でもそうだが、規模が大きくなれば風通しも悪くなり、機敏さを失い、衰退する。

 

 

サヨクたちの大いなる勘違い…

 

自分たちの勢力(=自称w民主勢力)が大きくなれば、民主主義が実現する……

 

 

民主主義というものを履き違えているから、そういう考え方になる…

 

デモや集会などの直接行動は、ゲバルトの一種で、支配層の警察権に対応する。

 

 

ゲバルトを拡大し、過激にしていけば、自分たちの力の大きさを誇示できて快感を覚えるであろう…

 

しかし、ゲバルトが強ければ民主主義が実現するという考えは、支配層が警察権を容赦なく使えば治安が維持されると考えるのと同じことだ。

 

 

「民主勢力」などというギャング団を組織して「勝利」できたとしても、それらは海賊みたいなものだから、みんな、「自分の分け前をよこせ」と言うであろう。

 

その「分け前」はどこからくるのか?

 

 

共産党などがよく「要求実現運動」なんてものをやっていたが、あれだけでは衆を頼んで物取りをしているにすぎない…それをしつこくやれば「乞食運動」だろうし、過激にやれば「強盗運動」だ。

 

「勝つ」ことが大事なのではない。「実現」することが大事なのではない。

 

きちんと”対話”が成立すれば、おのずと「収まるところ」にものは収まる…

 

もっとも権力というのは、常に”対話”を拒否し、阻害しようとしてくるものだ。

 

だからこそのゲバルトの行使なのであって、自分たちから”対話”を破壊して、腕づくで我が意を通そうとしたのでは、本末転倒なのである。

 

 

大衆ばかりか、運動家までも「勝利」や「勢力拡大」ばかりに注意がいき、

 

支配層との間に、どんな”対話”が成立したのか、しなかったのか、あるいは…

 

運動母体と大衆のそれぞれの個人との間にどんな”対話”が成立したのか、しなかったのか…

 

に注意が向かないのでは、その「運動」はすでに死んでいるのだ。

 

 

人権的な生き方には、「敗北」はない…

 

たとえば、裁判を闘っていて、敗訴したとしよう…

 

 

”対話的な生き方”にとっては、控訴することは、さらなる「対話の継続」を意味する。

 

控訴しないで受け入れる場合は、「判決を尊重する」ことを意味する。

 

 

その判決が過ちであるならば、その判決を確定させた裁判所の”負け”なのである。

 

「判決を尊重」することは、必ずしも「敗北」や「服従」を意味しない。

 

いかに裁判所が間違いを犯しているかということの証拠を確定することにほかならない。

 

 

裁判所に”トンデモ判決”をいっぱい下させることは、背理法、応報法の使い手にとっては裁判所を攻撃する材料をそれだけ蓄積することにほかならない。

 

 

ゲバルトだけが「戦い」の武器になるのではない。

 

一見友好的、一見服従のようにみえても、”対話法”は、その使い手にとっては攻撃の一環にすぎない。

 

敵対的な相手には、それこそ致命的なダメージを与えることが可能なのである。

 

 

裁判所は”トンデモ”判決を確定させて「一件落着」「戦闘終了」と思っている。

 

しかし、そこからが本格的な戦いの始まりなのだ。

 

 

それを国民までが、新聞などで報じられたら「決着がついた」と思っている…

 

そして、その訴訟自体を忘れてしまう…

 

いつまでたっても国民は、司法権力の監視という「主権者の義務」を果たさない…

 

 

それで、いまなおますます”トンデモ”判決が乱発されているのである。

 

 

相手にやりたいようにやらせることで罠にハメるのは、兵法の極意でもある…

 

 

関羽の仇を討つべく、75万の大軍で進撃してきた劉備玄徳の軍を前に、呉は風前の灯。

 

起死回生の願いを込めて呉が起用したのは陸遜…関羽を葬った男…

 

陸遜の策は、単に戦いを避けた臆病者の戦法のように受け取られたがさにあらず…

玄徳が兵法に通じ、いかに呉軍が攻めてきても返り討ちにできるように備えて布陣していることを陸遜がよくよくわきまえてのことであった。

 

そんなところにうかうか飛び込んでいけば、死ににいくようなものだ…

 

 

日本の裁判所も、被告人がどう動こうが有罪になるように仕組まれている…

 

ただ突っ込んでいっても、玄徳軍に突っ込んでいった呉軍と同じ運命が待っている…

 

しかし、「法の番人」としては、そのような裁判は自らの権威を否定する自滅行為でもあるのだ。

 

 

そして、ついに玄徳軍に綻びが出始める…陸遜はそれを見逃さなかった…

 

また、当時の魏王だった曹丕も抜け目なく機会を窺っていた…

背理法も応報法も、相手が動かなければ、技をかけられない…

 

相手に過ちがなくても、やはり技を仕掛けられない…

 

 

しかし、相手に綻びが生じたときに”対話法”の使い手は、そのスキを逃さない…

さあ、いまこそ”敵”を滅ぼそう…

 

 

 

 

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「ボンジュール!」「マドモアゼル!!」…って言うもんだから、

 

フランスの映画なんだって思って聞いていたら、あの鼻濁音がちっとも聞こえない…

 

あ…これ、ディズニー映画だもんね~と納得…

 

 

定番のお城や王子様が出てくるストーリー、ミュージカル…

 

中世のオペラとかも、こんな感じで人々が劇場で楽しんだのだろうね~

 

実写版『美女と野獣』…

 

どうも人が感動するツボというかパターンというのは決まっているようだ。

 

 

銭湯だって、流行ってるところはやっぱ”定番”だしさ…

 

風俗や、いやいや毎晩の”秘め事”だって、同じパターンでないと…ってか…

 

最後のシメは、アレでないとさ…(何の話だってのww)

 

料理でも、音楽でもそうだしね…

 

 

「泣けるドラマ」も「ヌケるエロ動画」も、同じ道理がはたらいているんだろう…

 

「興奮するものか!」と思ってても、そうはいかず…

 

「泣くものか!」と思ってても、そうはいかないもんだね…

 

 

野獣役のダン・スティーヴンスは毎日重たい野獣コスチュームを着ての撮影で気を失いそうになるほど大変だったって言うのだけれど、ちょっと打ち解けてからみせるやさしいまなざしがなんとも言えない。

 

「こんな化け物からの申し出を、ベルは受け取ってくれるだろうか?」と悩む気弱な表情…

 

自分にも覚えのあるような狂おしい思いの記憶が甦ってきて涙してしまったよ…

 

 

「一瞬を永遠に変えるのは愛」とか、「内面の美しさ」とかね…

 

これらは「真実」なのか、それとも人々が「信じたいもの」なのか…

 

そんな都合のいい「愛」など存在せず、「永遠の愛」なんかも存在しない…

 

だから、ひととき”夢”をみて、慰めるってことなのかな…

 

 

やっぱ、風俗だの、エロ動画だのと、どこか共通している…

 

 

みんなそんなものどこにもないと思いつつ、

 

ないはずのものを提供してもらって「気持ちいい」と思うわけでしょ。

 

 

風俗嬢が、ときどき本当の愛とは何かわからなくなってしまうように…

 

映画なども、現実の愛というのが何かわからなくなってしまうようなことはないのだろうか?

 

 

こうしたエンターティンメントは、人々の快感不快感や喜怒哀楽の感情を動かす…

 

そして、虚構をいまそこに存在するように映し出す…

 

 

感覚や感情というのは、このように”操作”されうるものでもある…

 

現実にないものでも、感覚や感情を、そこに喚起させることができる…

 

だから、自分の感覚や感情に頼りすぎるのは危ないよね…このマンガのように…

たとえば、こんなふうに別れてみて、涙が出たかどうかなんて”証拠”になる?

 

初めからわかっていたことだけど、理由をこしらえただけのような気もするね…

 

 

だいたい…

 

悲しいから泣くとか、寂しいから泣くとか、ホントにそうなんだろうか?

 

一般の人々は、感情を何かの”証拠”としてみようとばかりするんだけど?

 

 

妻や子供と別れたからといって、私は泣きはしなかった…「ああ、そうか」と思っただけだ…

 

しかし、この前夢に子どもが出てきて「お父さん」と呼んでくれた時には、涙が出た…

 

これって、悲しいわけでも寂しいわけでもないんだよね…

 

 

『君の名は。』で、入れ替わっているときに涙が出るって話が合ったけど…

 

映画を見ているときなどは、たとえば「野獣」がそのまんま自分のなかに入ってくる

 

あるときは、日本兵たちの人生が、走馬灯のように走って呆然とするんだよね…

 

お経を読んでいたって聖書を読んでいたって、突如別の人生が入ってくる…

 

その人々の生きた万感の思いが様々に湧き上がって、こみあげてきて…

 

気がつくと泣いているんだ…

 

 

いろんな思いで胸がいっぱいになるとき、怒りも悲しみも喜びも、すべてないまぜになって…

 

ホントに呆然とただ立ち尽くしてしまうんだけど…

 

 

涙が出るときって、そういうときじゃあないのかな~

 

 

 

 

 

 

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イギリスの植民地統治のさなか、ガンジーはインドを独立へ導きました…

 

すべては法律で雁字搦めの当時…インド人は人間扱いされていませんでした…

 

 

憲法が改正され、共謀罪が成立すれば、日本もそのような状態になるかもしれません…

 

 

北朝鮮などにはれっきとした”思想警察”がありますが…

 

よくみると、日本にも同じ機能のものがあります。

 

すぐに見当違いのいちゃもんやクレームをつけてくる人たちが、そうですね…

 

 

自分が常識だと思っていて、人の話はろくろく聞かず、そもそも理解できず…

 

日本の裁判と同じように最初に「有罪、無罪」を決めてしまって、それにあった都合のよい理屈をつけて、

 

本来は検察の側の主張の証明力を判断しなければいけないのに、被告人の主張を「信用できない」と問答無用で却下してしまって法を発動してしまう…

 

 

昔から、奴隷には問答無用で拷問し、屈服させるものですが、その拷問係の役を日本では裁判所や工作員、「空気」を作り出し、「同調圧力」を掛けてくる一般市民が担っているのです。

 

ヤクザや右翼も、民営の”思想警察”として機能していると言えるでしょう。

 

 

この腐りきった現代日本の状況…

 

ガンジーが戦った時代のインドの状況と、さほど距離があるわけでもないでしょう…

 

 

人権のない、自由のない…クソな輩らばかりの社会…

 

 

しかし、そういう状況から人権思想や非暴力不服従の戦いは生まれてきました…

 

それらは、すべて理に適っているからこそ、大きな効果を生みだし、世の中を変えたのです。

 

 

逆に、サヨクやウヨは、思想がどうこう以前の態度や考え方が間違っているために廃れていきます。

 

そして、それらの「間違い」のパターンは、先に述べた日本の裁判所と同じなのです。

 

 

最初に「白か黒か」決めてしまい、「悪」または「敵」に仕分けした側に徹底的なDVを加えるのです。

 

マスコミの犯罪報道もそうですね?

 

 

「99%」の多くは、このように最初に結論を決めてしまって、あとから理由を考えています。

 

 

「テレビが言っている」「みんながそうしている」…あるいは、自分の感情を拠り所にし…

 

ネトウヨの場合は、国籍とか、自分たちの主張とかを”踏み絵”にして(学園紛争当時のサヨクもこれ)

 

 

何の根拠も証明もなく…結論を決めて、思い込みと勘違いで押しとおってしまう…

 

これは”虚言癖”と呼ばれる人格障害者の言動と共通するものです。

 

 

そういうやり方で、モノを考え、判断し、人生を送っています…違いますか?…

 

 

宗教においても、まず「この神様を信じる」と決めて、理由を「世界をおつくりになったから」とか「日本の古来の神様だから」とか、「聖書やら歴史書にこうあるから」と、理由を探していくのです。

 

そして、本当は何もわかってない(ゆえに”信じている”わけもない

)空疎な”信仰心”を誤魔化すために、儀式に熱心に参加したり、お題目を繰り返したりして、

 

”信仰心”を”演じる”のです。

 

 

最近は、どうも日本人だけではないようなのですがね…

 

 

そこで、

 

「いかなる”正義”も掲げない」

 

「いかなる”裁き”も行わない」

 

…としてみてください。

 

 

”正義”も”裁き”も、暴力を正当化するものです。

 

 

ですから、どうしてもやむ得ない場合以外は、”正義”も”裁き”も掲げない、やらないと決めてください。

 

 

そうしますと自然に老荘的な”道”に適った生き方をやることになります。

 

例えば、人の本性に善も悪もない。それら合わせて人の”さが”なのだと捉えてみる。

 

「性善説」でも「性悪説」でもない…「全性説」に基本の軸足をおくのです。

 

 

何が真実か」などというのは、「結局わからない」ことだからです。

 

とりあえずは、こういうことにしておくが、違うかもしれない…と、「決めつけない」ようにするのです。

 

こうすると、判断が間違っていた時柔軟に軌道修正できますし、予め備えもできます。

 

自動車の運転でも「予防運転」というのは、まさにこれです。「危機管理」も同じです。

 

 

「自己批判」とか「批判的にものをみる」というのは、こういう態度のことを言います。

 

全く間違って世間には伝わっていますよね?

 

 

どこかおかしなところはないか、間違いはないか、見落としなどはないか…

 

お出かけ前に鏡で自分のみなりをチェックするのと同じです。

 

 

「安全運転」も「危機管理」も「身だしなみ」も、不断の「自己批判」「批判的にみる、考える」ことで達成されるのです。

 

常に自分の主張に対して、この「批判的に考える」ことを重ねていけば、少なくともすぐにだれかに「間違い」や「矛盾」を指摘されるようなことはなくなるでしょう。

 

少なくとも練り込んだ分だけ、真理真実に近い主張になっていることでしょう。

 

そうであれば、説得力もあり、現実を変える力をも備えているでしょう。

 

 

実践から仮説や計画を立て、それを実践して反省点をみつけて修正していく…

 

ビジネスにおけるプラン・ドゥー・シーサイクルがまさにこれですし…

 

科学における経験→演繹→経験→演繹→…のサイクルもそうです。

 

 

我々は、真理真実に到達することはできませんが、こうしたサイクル、ステップを踏むことで、

無限に真理真実に近づいていくことは可能なのです。

 

「批判」の積み重ねによって、経営においても学問においても、成果は実際に出せるのです。

 

 

「批判的に考える」というのは、具体的には「背理法」を用いることになります。

 

「背理法」は、相手の主張を相手の論理を用いて打ち砕く論法です。

 

一度相手の主張を受け止めて、詳細に研究し、矛盾や疑問をみつけて返していきます。

 

 

これを自分に対して行えば、「自問自答」「自己批判」ということになり、

それの繰り返しは先にも述べたように経営におけるプラン・ドゥー・シーサイクルや科学の経験→演繹→経験→…のステップを踏むことですから、自分の学問が日々前進していくことになります。

 

 

「背理法」は、一度相手の主張を聞かねばならない、理解せねばならない…

 

ですから、「対話法」の一形態です。相手が主張してくれないと技が使えません。

 

また、相手の主張に矛盾がなければ、やはり「不発」です。

 

 

しかし、全然それで構わないわけです。相手の主張を素直に認めるだけのことです。

 

相手の考えから自分がいろいろ学ぶことになり、自己成長につながります。

 

また、相手の主張を「自分のもの」にできてしまえば、相手の力を取り込んだことになります。

 

 

そして、矛盾がみつかったときだけ、「それはこうではないですか?」と議論するのです。

 

 

 

つまり、兵法としても「背理法」「批判」は、「理に適っている」のです。

 

普段は聞き役、学び役で、自分が自己成長するわけです。相手が正しい間は議論しません。

 

相手の主張に矛盾があったときだけ、質問や反論をしていくのですから、「勝てるときだけ戦う」ことになるのです。

 

また、十分相手の主張を学んでいますから…

「相手を知り、おのれを知れば百戦危うからず」なのです。

 

 

しかし、世間においては「相手を黙らせる」「自分だけ声高に主張する」ことがまかり通っています。

 

これって、「テレビの影響」なのでしょうかね?

 

 

「背理法」の使い手がいなくなり、「批判的に考える」人がいなくなった…

 

つまりは、ますます日本社会は真理真実から遠ざかろう遠ざかろうと動いているわけです。

 

 

また、個人レベルおいては、「負け組」への道をひた走っていることになるのです。

 

 

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5月3日ともなれば、さっそく朝から街宣カーががなりたてる…

 

あの右翼にカネを出しているのは、”財閥”だそうである。

 

日本の支配層にいる方々は、天皇の親戚であり、あべやあそうの親戚なのである。

 

そして彼らが、東証一部上場の「優良企業」のオーナーたちなのである…

 

 

もっとも、この財閥も人の集まり、個人の集まりであって、皆が皆”軍国主義者”というわけではない。

 

なかには、反戦平和を強く願う皇族の方々などもおられる…

 

 

また、CIAやKGB、モサドといった諸外国のスパイ組織や日本の政府系のスパイ組織…

 

いろんな勢力が、ここの言論に関わり、影響を与えている…

 

(たとえば、小林よしのりの言論をサポートしたのは、台湾ロビーだった)…

 

そして、財閥企業も自前のスパイ組織を持っており、バカを組織して「在日が~」などと言わせている。

 

 

「スパイ防止法」などの議論もされるが、こういう本格的スパイを取り締まることは決してない。

 

国民を「スパイ」にでっち上げるのが「スパイ防止法」の「正しい」使い方なのである。

 

官民のスパイ組織、そこには宗教関係やヤクザも混じってくるのだが、「スパイ防止法」の議論をもちあげてくる勢力が、そもそもスパイ組織なのだから、ろくな法律ではないことは自明であろう。

 

 

あべジミンが、ヤクザを雇って選挙運動をしているのは自明だが、宣伝工作活動を自前でやるとはかぎらない…ということなのである…

 

ヤクザも含めた民間組織をカネで動かし、工作を進めることだって普通にある…

 

そして、工作を請け負った団体や個人が、雇い主のことを知っているともかぎらない…

 

 

カネを出す先が、ヤクザや右翼ではなく、テレビ局や新聞社という場合だって普通にある。

 

 

これらぜ~んぶ「スパイ」であり、情報宣伝工作活動をやっているのである…

 

ちなみに、戦争の手段としても噂を流すなどのスパイ工作は古来からある…

 

「平和ボケ」した日本国民は、こういうことがわかっていないから「報道は事実」と信じているわけだ。

 

すでに日本国民は、戦争に負けている…

 

 

「戦争に巻き込まれている」ということさえ、わかってはいない…

 

 

そうした一般国民の甘っちょろい認識に比べると「ユダヤ陰謀論」系の現実認識は、世界の現状にかなり近い…が、特有の民族、個人、財閥が一枚岩となって世界を「支配」しているわけではない。

 

「支配層」の個々のメンバーは、自分が世界を「支配」しているなどと思ってはいないだろう。

 

何も思いどおりにいかずにイライラして、「もっと権力の中枢へ近づかねば」と日々悶々としているのではないだろうか?

 

 

人々は、どこかの「組織」に所属し、そこの「細胞」として日々の仕事をやっている。

 

管理職たちの世界を知っている者など絶対少数であって、興味すら抱いていない。

 

お役所の上部が何をやっているか…

 

会社の上部が何を見て、何を考えているのか…

 

宗教や政党の上部が何を志しているのか等々…

 

一般の国民は、ただ知らないだけでなく、知ろうともしていない…

 

そんなことで「主権者」など務まるわけがないとも、考えがいたらない…

 

 

 

トランプがトマホークを59発発射して、軍産共同体と手を結んでからは…

 

北朝鮮をダシにして、あべ政権と、その憲法改正を”援護”している…

 

 

かつて、冷戦のさなかに、アメリカとソビエトは共謀して次なる”世界秩序”を構想した。

 

世界の支配層は、一般の商取引のほかに、武器、麻薬、奴隷の売買で成り上がってきた…

 

自民がヤクザに選挙運動をさせるように、日本人が「在日」に汚れ仕事をさせてきたように…

 

支配層は”下請け”を使って、自分たちの本丸は手を汚さないようにして商売を続けてきた。

 

 

一般の連中は、

 

「アメリカ」とか「ロシア」とか「中国」とか、「陰謀論」同様にひとかたまりとして捉えがちだが…

 

そこに無数の財閥、無数の政府機関や民間組織、および個人が関わり合い影響し合って全体が動いているという認識が必要である。

 

戦国の歴史や「三国志」などをみても、敵国と次の日には同盟を結んだり、一揆などの裏には隣国のスパイのカネや工作が入っていたりしている話が出てくる。

 

それが、「むかしのこと」ではなく、「現在も変わらず続いている」と認識すればよいことなのである。

 

 

少し前には「人工衛星」と呼んでいたものが「飛翔体」と呼ばれるようになり…

 

そして、最近は「弾道ミサイル」と繰り返し連呼されている…

 

 

それをみて「北は何考えているかわからない」とか「やっつけてしまえばいい」とか言っている日本国民の姿は、憐れなほどに愚かにみえる…

 

アメリカも中国も北朝鮮も、表ではいがみ合いつつ、裏ではつながって利用し合っているという図がまったく彼らの低すぎる知能では思いつかないらしい。

 

 

政府が人民を統治するために戦争を煽るのは、かなり昔からの手法で、かのプラトンが大いに批判しているのだという。

 

2000年以上も、歴史を紡いでいても人類の知能がまったく”進歩”していないことがよくわかる。

 

同じ過ちを何度でも何度でも繰り返す…(ひょっとして、これを「輪廻転生」と言うのだろうか?)

 

 

本人に「成長しよう」という意志がないから、いつまでたっても”進歩”できないのである…

 

そして、2000年前から”進歩”していない連中が、「それはもう”古い”」とか言う…(おかしくね?)

 

 

さんざん、「北の脅威」だの「中国の領土欲」などを強調していたかと思えば…

 

「憲法改正に自衛隊明記」などと読売が見出しをつけて報じている…

 

 

ここまできても”やらせ”だと気づかない日本人というのは、サルよりも知能が低いのでは?

 

そんなもの明記しなくても自衛隊は戦える。

 

できないのは、アメリカなどに代わって侵略戦争に関わることだ。

 

 

それができるようになれば、アメリカは自分の手を汚さなくてよくなる…

 

日本と中国を戦わせて「漁夫の利」を得るのもよし、

 

いつぞやのように日本が勝ち進めば、中国を「正義」にして自分たちが日本を叩く…

 

 

まさに「いつか来た道」である…

 

 

かの世界大戦も、裏では支配層が入り乱れて操っており、莫大な利益を得ている。

 

今度はどんなシナリオでいくか、連中はそれぞれが構想を練っていることだろう…

 

 

何も学んでこなかった愚かな日本人どもには、これからさらに大いなる”天罰”が下るだろう…

 

自分たちで、それを”引き寄せ”ているのだから、救いようがない…

 

 

昨今は、ミサイルネタの他にも動物ネタや自動車突入ネタ、殺人ネタなどが取り上げられている。

 

自動車メーカーが自動運転をいよいよ本格的に開発し、あちこちで無人化、ロボット化が進められようとしている…(高齢者の事故も自動運転で減らせるみたいな希望を与える意図アリか?)

 

「テロ対策」には、こうした「自動化」がテロに悪用される懸念も含まれており、全部が全部、人民抑圧のための陰謀というわけでもないので、単純な反対運動は支持を得られないだろう…

 

 

運動家の「運動」自体も”進歩”がない…

 

実際、ネトウヨ、ネトサポがやっていることは、共産党筆頭にかつて「サヨク」と呼ばれた連中がやってきたことである。掲げる旗や叫ぶスローガンが違うだけだ。

 

これまでの「サヨク」「市民」の「運動」の何がダメだったのか…

 

ネトウヨ、ネトサポどもが実践して見せてくれているのだ…

 

 

一般国民は「問題外」のレベルだが、

 

比較的自覚的な市民においても、さらなる”進歩”が求められている。

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日本には、アホウ化学院やアホウ学部しかないのか、人権や憲法についてマトモに理解している人が少ない。

 

「体罰」をやたら騒いでクソガキを野放しにさせたのも、日教組じゃなくって法務省だしね…

 

よく自民の連中とかが言うじゃない。憲法は国家の形を決めるものだと…

 

聖徳太子の憲法や明治憲法などはそうなんだろうね…

 

 

しかし、高らかに「基本的人権の尊重」を謳った戦後憲法は、そうした憲法とは一線を画している。

 

むしろ、定義したのは「国家」ではなくて「人間」、「人民」の方だと言ってよいだろう。

 

 

では、どのように「人間」を定義したのか…

 

 

「人民は、国家の所有物ではない」

 

国家というのは、他民族を征服し、そこの人民を”奴隷”として再編成することでできあがってきた。

 

国家の「家」は、家畜や奴隷を意味する。「家族」「一家」とは、奴隷組織のことである…

 

征服した民族が自分たちに再び反抗しないように征服した側は徹底的に彼らを貶めた。

 

そして、”所有物”や”家畜”として扱われ、売買もされたのであった。

 

この歴史は、人類の古今東西に共通している。

 

しかし、近代資本主義の時代になって、地球規模で市場経済による植民地化が進んだことで、これに対する反発も地球規模に拡大したのであった。

 

機械文明と動力革命の進歩で絶大な支配力を手にした資本家だったが、支配地域が全世界に及ぶに至って、全世界の人民を”敵”に回すハメになったのである。

 

こうして、支配に抵抗する力も拡大し、それがリベラリズムである。”奴隷解放”の意味である。

 

 

「自由主義」といえば、アメリカや日本では、リベラリズムではなく、「他者を征服して自分の自由にする」という意味になっている。自分の自由の最大化を目指すという傍若無人な思想である。

 

リベラリズムは、「他者を奴隷扱いせずに、個人として尊重し、モノとして扱わない」の意味である。

 

日本やアメリカのような奴隷国家では、自分の思いどおりにならない「ダメなやつ」には、ギリシャやローマが奴隷に対して行ったように”制裁”を加えて、傷めつけ、「思い知らせる」ことになっている。

 

奴隷主が、拷問係に命じて行ったように、”悪”を懲らしめるわけである。

 

 

たしかに、クズというのは、どこにもいるので奴隷に対するような制裁も必要であろう。

 

しかし、一般人と、奴隷並みのクズというのは、どのように区別できるのであろうか?

 

ものすごく難しい問題が、ここにあるのに、アメリカや日本の一般国民は、あまり考えず、とにかく傷めつけて、思い知らせ、屈服させればよいと考えている者が多いように感じる。

 

 

これは、つまり日米の国民は、「人間をかつての奴隷のように扱ってよい」と考えていることになる。

 

そういった”奴隷化暴力”を容認していれば、当然ながら自分たちにそれが向いてくる…

 

 

日米の国民は、自分たちが宣言した法によって自らが現在裁かれているわけであり、自業自得というものであろう。

 

アメリカや日本は、「自由陣営」で「民主国家」だとされてきた…しかし、実際は他者を奴隷として扱う鬼畜の国である。

 

ご立派な憲法を掲げているにも関わらず、国民自身が踏みにじっているのである。

 

そして、”オレ様ルール”を「よいものだ」として他者に強要する夜郎自大の帝国主義国である。

 

 

憲法は、人間を「自由な存在」と定義した。

 

奴隷ではない、だれの所有物でもない、まして、売買される商品でもない…

 

名前のある個人として尊重される…ということである…

 

 

これが”基本的人権の尊重”の意味なのだ。

 

これが翻って逆に「国の形」を定義することになる…

 

 

そもそも「国家」というのは、人民を家畜のように支配するシステムのことだからである。

 

ある意味、「国家解体」なのである…(それゆえに支配層は人権を目障りに思うのだ)

 

 

日本国憲法によって、日本は初めて、それまでの「国家」とは一線を画した「国」となった。

 

さて、それを自民党などが壊そうとしているのだが日本国民には危機感があまりない…

 

 

それもそうだろう…

 

普段からお互いに”奴隷化圧力”をかけあい、お互いを踏みつけあっている…

 

人権を特権のように振りかざして、他者を尊重しない(自ら踏みにじっている)

 

憲法には、権利の濫用を戒め、「不断の努力」をするよう書いてあるが、だれが守っているだろう?

 

 

「主権者」というのは、「権力を監視する」のが務めであり、その義務を果たすために「知る権利」がある。

 

裁判官が必要とあれば、調査をしたり、証拠や証言を求めたりするのと同じである。

 

 

ところが、日本人にとって「知る権利」とは覗き見趣味を満足させることであり、いじめ対象のプライバシーをマスコミに暴露させて、いっしょになって蔑んで楽しむことである。

 

そこに憲法の定める「人間」はどこにもいない。

 

ケダモノ人民とケダモノ権力のコラボレーションが見られるだけである。

 

 

日本では、国民自身が憲法を踏みにじり、人権を侵害し、権力の監視を怠って暴走させている。

 

 

さて、そんな鬼畜な国民ばかりだというのに、「サヨク」は「国民の声を政治に」などと言う…

 

数の上では、奴隷の生き方を自ら選択し、家畜ライフを楽しんでいる連中の方が多い。

 

 

好きにさせたらよいのではないのか?

 

人間ではない者たちが、「自分たちは人間ではない」と、晴れて名実ともに宣言したいというのだから。

 

 

前にも述べたが、人権はいかなる特権でもない…だからこそ”天与の権利”なのである。

 

この先、いくつかの法律上の後退はあるかもしれないが、人権は奪われも分割もされない。

 

 

奴隷解放の戦いは、常にたったひとりの戦いから始まったのだ。

 

救世主を頼み、何もせずに幸運だけを希う怠け者は、ずっと奴隷でいるべきなのだ。

 

 

また、自民の連中などは、「自由が悪い」などと言う…

 

だが、日本人が善良な存在であるならば、自由になればなるほど、よいことをするはずである。

 

日本人が邪悪で卑しい存在だからこそ、自由にすればするほど世が乱れたのである。

 

 

つまり、「悪い」のは、憲法ではない。「日本人」という存在、民族が「悪」なのである。

 

 

それに第一、「集団主義」の日本人には「自由意思」がない。

 

我執に囚われてはいるが、決して日本人は「自由」ではない。

 

 

要するに憲法を守るどころか、理解すらできなかったわけで、それで世の中が悪くなったとすれば、どう考えても、やはり日本人という存在が悪なのだ。

 

奇しくも、日の丸振りかざして「反日が~」と騒いでいるような連中が、日本人というのがいかにクズな民族かということを、百聞は意見に敷かずとばかりに証明している。

 

 

このような人たちが、一人前に「人間」として認められる世の中こそが狂っているのであるから、希望通り憲法を改正して、こころおきなく家畜ライフに邁進してもらったらどうだろうか?

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