綾子へ  〜妻を看取った夫・三浦光世さんのことば〜 | LEO幸福人生のすすめ

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わたしは三浦綾子さんのファンなので、その綾子さんが重い病で亡くなる直前の描写を読むと、胸につきささる。

 

夫の光世さんはキリストへの信仰篤く、綾子さんをしばしば驚かせるほどのエピソードも多い。

綾子さんにして、夫の深い信仰心には自分は到底及ばないと、心から言わしめたほどの人だ。

その光世さんにして、綾子さんが亡くなる数カ月間のことを思い返しては、自分の愛の少なさを後悔しているのだ。

 

二階から降りる最後のときに、綾子さんは立っているのもつらく、1段1段降りるごとに尻もちをついてしまったという。

そんな綾子さんに光世さんは、その都度、腰をおろしちゃダメだ、なんで尻もちをつくんだ、と言っては叱ってしまったという。

家での最後の夕食になってしまった食事も、綾子さんは四時間かかっても食べ終わらず、ちょっと休みたいわ、と言ったのだという。

ふだんだったらソファで休ませてあげることもあったのに、その日はなぜか、食べ終わったら休めるからといって、休ませてあげなかったのだという。

 

その後、綾子さんは光熱を出して入院。

数ヶ月の闘病ののちに、亡くなってしまう。

 

自宅に亡骸を迎えて隣で一晩を過ごした光世さんは、数々の思い出を振り返っては後悔し、何度も綾子さんに語りかけたという。

悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。後悔先に立たず。

自分の愛が足らなかったと言うしかない。光世さんは、そう述べている。

 

献身的な介護をつづけて、周囲の人からは、あなたはよくやった、という人にしてこうなるのである。

誠実であればこそ、足らざる愛への後悔の念は深くなるのだろう。

 

人は死んで肉体を離れる時、なぜもっと優しく生きられなかったのかと後悔するのだという。

毎日毎日がふつうに過ぎてゆく日常の話だったら、そんなこともあったねと、二人のあいだの笑い話で済んだのかもしれない。

しかし片方が亡くなってしまったら、そういうわけにはいかない。

もはややり直すこともできない、後悔の思いでもってこの身が苛まれてしまう。

 

愛する人と共に暮らせる期間は、永遠ではないのだ、限られた時間なのだ。

だから悔いのないように、その日々を大切にしないといけない。

 

妻の書き残したわずかのメモでも、その死後となったら、捨てがたい大切なものになったと、光世さんは言っている。

その気持はとてもよくわかる。

 

当たり前に思っていた日常が過ぎ去り、もはやその日常が戻らないのだと知った時、人はそのかけがえのなかった日常のよすがを、わずか一片のメモであっても大切なものであったことを知るのだ。