自分の至らなさを素直に認めて、これを改めるのが反省 | LEO幸福人生のすすめ

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自分の至らなさを<素直に>認めて、これを<改める>のが反省というものだと、わたしは思う。

 

素直でなく、しぶしぶ、とか、仕方がないので、なんていうのでは、反省には程遠いのだし、

改めるつもりがなく、人前では仕方なく、しているふりのパフォーマンス、言葉だけで、俺も反省してるんだよ、私も反省してるのよ、なんて言い張ったって、そんな見せかけの行為には何の意味もないと、わたしは思う。ここには、その非を改める、という努力がないからである。

 

たとえば、会社で働き始めて、そこで働くのが性に合わないと感じて、退職したとする。

理由はいろいろとあるだろうけれども、円満退社ではなく、不満を抱くばかりで辞めた人の場合、その会社の、あそこが悪い、ここが悪いといって非難して、そうして辞めていった人の場合、

 

この人には、自分自身の側に問題は無かったのか? という反省点も有るはずである。

なのに、自身の非や問題点はまったく知らんぷりで気づきもしないで、辞めた会社を非難するばかりであっては、この人は自己変革の貴重な機会を失っていることになる、とわたしなら洞察する。

 

他者に責任転嫁をして、自分の問題点は顧みない。会社を辞める際にも、会社を非難するばかりで、自分側の問題点は顧みない。宗教組織に関しても、そこを脱会するのは勝手だが、その組織の悪口を言うばかりで、自分側の問題点への反省が無いのなら、この人は根本的に言って、自己中人間にすぎない、という自身の問題を放置していることになる。

たとえ、それが悪い会社であり、邪まな組織からの脱退だったとしても、自分がそこで、社会人としてまっとうな働き方が出来ていたか、仕事をこなすうえで他の人に優った優秀性を発揮していたか、豊かな人間関係を築くための自分側の努力をきちんと成していたか、という自分側の努力の有る無しは、やはり問われるはずである。

あそこには、ろくな人間がいなかった、と言って非難する人は、果たしてその人自身、そんなに優れた人間なのだろうか、他の誰にも勝って優れたる人格者であり、まっとうな人間であるのか、と問うてみたら、そんなことはないだろう。

わたしがその人を観察したら、そう言うだろうなと想像できる。その人の問題点を指摘したら、幾らでも欠点は指摘できるだろうなと容易に想像できるのだが、その人間自身はおそらく、自身の欠点に気づいていないのかもしれない。

 

働いていた会社や所属していた宗教組織を批判して退会する。退会だけならまだしも、そこの悪口ばかりを言って、自分側の問題点、反省点をまったく述べないどころか、自分は間違っておらず正しいからこそ、その間違った組織をやめることができたのだ、という自分勝手な言い分には致命的な問題点がある。

自分正義で、他者への責任転嫁ばかりであって、自己への反省が無いという点が致命的なのである。質の悪い狡猾なタイプになると、間違ったところに入ってしまった自分の不明が恥ずかしい、といって、そこに入ってしまった自分を後悔していることを、自身への反省のごとく摩り替えて、自他を欺く人間もいる。

こういうタイプこそは最もたちの悪い人間というべきで、実際は自己反省ではなく、どこまで行っても他者批判、他への責任転嫁、会社が悪い、宗教が悪いといって他を難じているだけ。

自分の問題点や性格の欠点を反省など全くしていないのに、判断ミスをしたことが間違いであった、と言う自己弁護にすぎない発言を、さも反省のように見せかける狡猾さこそは、卑しい自己正当化と他者への責任転嫁そのものであって、そうした詭弁や誤魔化しがあればこそ、いっそう邪悪な行為になっていることに、この人は気づいていないのだ。

いるでしょう。辞めた会社の悪口ばかりを言い、宗教であったら組織批判ばかりをして、じゃあ貴方自身はどんな心の反省点をそこで自分に向けたのですか、そこには問題はなかったのですか、貴方自身の心の問題、未熟は本当にこれっぽっちもないのですか、と問うてみたら、他の人から見たら、その人の人間的な問題点、たぶんいっぱい出てくるだろうと、わたしは思うんですよね。

 

こうした、他者に責任転嫁して、自分を顧みないタイプというのは、基本、自分に甘く、他者に厳しい、典型的な自己中性格の持ち主、その比重が大きい人だと、私的には観察します。

その鋭い他者批判の物差しを、自分自身に向けて、自分自身を厳しくえぐって、自己の非を追及する、という自分自身への厳しさは、まぁ持っていない人が多いように思います。

 

たとえその会社がブラック企業であっても、そこで働いている人がすべて皆、悪人のような、奴隷根性のような持ち主であって、付き合うに値する人が独りもいない、ということはないでしょう。

そうした環境であっても、豊かな人間関係は築けないはずはないし、そのための努力はするべきだというのが、その人当人への課題であり、それが出来ていないのなら、やはり反省すべき問題点、欠点は有った、と言うしかないでしょう。

その努力をしないで、ろくな人がいなかった、と文句を言うだけなら、それは己だけは健全でまともな人格であって、だからそこで働く人や仕事に対して拒否感を抱いたのは、正しい判断であったという自惚れですね、そうした他者を見下す傲慢、これがある。決して褒められた心境で無いのは、そこを去って批判ばかりしている人間も、同じことであるし、そうした心が善なる気持ちで満ちているとは、とても言えないはずでしょう。

 

こういう自己反省を欠き、他者批判を正当化して、会社や組織を立ち去る人間は、己の非を認めて改める心構えを持たない限りは、どこへ場所を変えても、同じことを繰り返す可能性が高いでしょうね。何処へ行っても、自分は高みに立って見物で、周りを見下してあれこれ批判は言うが、自分の非は顧みないのだから。

そうすると、周りの人間からは、なんだあいつは偉そうに、と思われて嫌われるだろうし、与える愛の正反対の気持ちで生きていれば、当然そうなる、周りから受け入れられず拒否される、という因果が巡ってくるわけでしょう。

 

他の人を愛する、他の人とより良い関係を築こうと努力してゆく、豊かな人間関係を築く、というのは、自分を甘やかし他者を裁く心の持ち主であっては、行なうことの出来ない課題なんですよね。

そうではなくて、自分に厳しく他者に優しく生きようと思えて、初めてその実践の第一歩が踏み出せる。

己を厳しく律するからこそ、この人は他人に迷惑をかけずに、より善い仕事を真剣にやるようになる。仕事に対する真面目さは、着実な仕事につながり、他者を思う気持ちは、協調性をこの人に備えさせて、仲間と協力して楽しく仕事をこなしてゆく、そうした職場環境を築く能力を、この人に与えることでしょう。

他を愛して、自己をよく律する心があればこそ、互いを尊重して、よく親しめる、調和された人間関係を生み、幸福な人間関係をそこに構築することにつながる。

それが出来ないのは、まわりにろくな人間がいないからではなく、自分の側に自惚れや甘えがあって、そうして他の人に対しては要求ばかりする、自分勝手な人間であるから、そうした対人環境が現れない、生まれない、ってことだと、私は思うんですよね。

原因は、まわりや他の人間にあるのではなく、自分自身の問題です。

 

会社に対する不満や、宗教団体に対する不満というのも、究極を言ったら、どんな悪しき環境のように見えたとしても、そこで自分自身が何かしらの善行為を努力して行なうことは可能なはずで、その努力の量はここまでやったからいいや、などといって言い訳できるものでもなくて、本当に偉大な人であったなら、悪魔が支配するような国家の中にあっても、決して逃げ出さず、それを改革して、そこに囚われた不幸な人たちを救うべく、命を懸けて働くことだってあるのですから、言い訳は効かないと言うべきでしょう。

もしそこを立ち去るにしても、自己正当化の言い訳で自己反省が無く、組織批判ばかりして他者への責任転嫁ばかりに走るなら、その精神態度自体が問題であって、立ち去ったことが、その人の幸福につながるものでないことは、結局は自分自身で思い知ることになるだろうなと、わたしは思う。

 

自己責任の世界で生かされている以上、他者にすべて責任転嫁して罪をかぶせて、自分には過ちは無いかの如しの自他への誤魔化しで、人生の課題から逃れて、幸福なる人生が拓ける、などということは決して無いでしょう。そんな甘い世界にはなっていないし、神仏はそんな甘やかしを全生命に与えているわけではないのだから。

 

その反対に、自己責任の原則を本当によく、魂の底からの理解として獲得した人は、どんな逆境の中にあっても、そこに自分自身の魂の問題、課題を見つけて、そこにみずからの魂の成長の機縁を見つけることでしょう。

そうして、自分の足らざるところを改め、さらに精進を積み重ねてゆき、そうした人生を生き切れば生き切るほど、魂の器は大きくなってゆき、他の人を益することの出来るような、そうした人格の醸成が出来てゆくものだと、わたしは信じるものです。

宗教修行の真髄はここにあり、魂を根本から磨いてゆく、という道であるがゆえに、もっとも尊く、最大最良最強の教育機関であること、教導の場であり機会であることを、深く思い致して、感謝しながら学ぶのが肝要なのだと、あらためて思うのです。