チャレンジ精神や勇気と、自己責任や潔さ | LEO幸福人生のすすめ

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心理ゲームではないけれど、「心の要素」というのは、互いに密接に関わり合っていて、ある要素があれば、それにつながる別の要素も同時に兼ね備えている、そういう関連性があるように、わたしには思える。

 

例をあげれば、チャレンジ精神や勇気と、自己責任や潔さ、などといった精神的態度の関係性を思う。

積極果敢に物事にチャレンジする人は、勇敢な人であるし、たとえその結果が当初望んでいたような理想的な結果でなくとも、最悪の場合、現状より悪化するような結果になったとしても、そのチャレンジを悔いないであろう。

チャレンジするだけの気概があり、勇気があり、その結果を受け止めようとの潔さも、この人は持っているであろうと、心の諸要素の関連性を、そう読み解いてみる。

 

どんな結果が出ようとも、潔くその結果を受け止めよう。自分で選んだ決断であるし、突き進んだのは自分の意志なのだから、誰の責任でもない、この自分自身の責任として、潔く受け止めよう。

その覚悟と自己責任の気持ちこそは、人としての潔さ、覚悟そのものであるのだと、わたしは思う。

 

この反対に、自分の決断とその結果に対して、責任を負う覚悟の無い者、受け止める気概の無い者は、先が見えないことがらに対して、勇気を持って突き進むことは出来ないに違いない。

この手のタイプの人は、慎重居士となり、保証がなければ動けない、石橋を叩いてでなければ進めない、といって、誰か他の人がそれをやって成功すれば、自分も後を追ってやらないではないけれど、などという、後追いの行動に走って、自己の保身や、安全性の確保を優先するだろう。

結果がどうなるかわからないことであっても、勇気を持って突き進む、だとか、チャレンジしてみて、その結果は甘んじて受け止めよう、それが自分としての自己責任というものだ、といって、勇敢に物事に対処したり、先例がないことであっても、自分の信念がその道を指し示すなら、あえてその茨の道へ踏み込んでみよう。そういう決断は出来ないに違いない。

 

勇気、気概、自己責任、潔さ、覚悟、胆力、英断、決断力、こういった魂の特性は、慎重居士、優柔不断、臆病、消極的、安全保障を求める自己保身、そういった心の傾向性とは対極にあるだろう。
そうして、この両極端の双方ともを使いこなせる人、両者の長所・短所を巧みに使い分けつつ、双方ともを兼ね備えた魂というのは、そうそう多くはいないと思われる。

長所は欠点となり、欠点と見えしものが長所となることは、慎重さは無鉄砲より確かであるし、臆病であるがゆえに無謀な死を避けることが出来る、ということなどからも、容易に考察することが出来るものだ。

しかして、あまりにも臆病に過ぎて、勇気が無い。自己責任の覚悟が無くて、言い訳や言い逃ればかりをする。潔さが無く、往生際が悪くてジタバタしてみっともない。決断力が無くて、いつもあーでもないこーでもないと優柔不断で物事を決断できない。

などなど、度が過ぎた極端さは、やはり偏り過ぎた魂の欠点というべきで、それと対極にある性質が欠落していることは、やはり中道から外れた、その魂の弱さ、弱点となるだろうと、わたしは考える。

 

臆病な人は、やはり勇気とは何か、ということを、もっと自らの魂に強く問うて、自身にもっと強さを備えるべく、自己変革すべきだと思う。

優柔不断で煮え切らない人間は、物事は決断すべき時は決断すべきで、その結果がどう出ようとも、自身の決断の結果を潔く受け止める覚悟の心が大切なのだ、ということを学ぶべきなのだと思う。

消極的に過ぎるのなら、積極性とは何かを自らの魂に問いつつ、足らざるを学ぶべし。

他の人に責任転嫁する卑怯な心は、自分の責任を受け止める勇気の無さ、から生まれる言い訳の心、逃げの心だと悟るべきだし、その自覚を得るところから、自分で責任を負うという覚悟の心と、さらには勇気の心も芽生えるのだ、ということを知るべきだろう。

 

基本的に言って、自分に甘く、言い訳や自己正当化をする悪癖があるかぎりは、人は自分を厳しく見つめて、自分の足らざるを潔く受け止めて、それを改める、という道へは絶対に進めないものだ。

自分の足らざるを改めるには、まず自分に欠けていること、欠点となっているところ、至らざるところ、ダメなところを、潔く受け止めるところから始めないと、なにも始まらないのではないかと思えて仕方がない。

言い訳ばかりしている人が、自分の何を改めて、改善できると言うのだろうか。自分の至らないところを認めたくないから、人は言い訳をしたり、誰かのせいにしたりして、自己責任として受け止める責務から、なんとかして逃げようとするのではないだろうか。

けれども、そういう卑怯なる心、逃げの心自体が、根本からして誤っているのであって、それは一言でいって、自分に甘い心、自分を甘やかす怠け心以外のなにものでもない、と思うのである。

自分に厳しくあれ、自分の足らざるを潔く受け止めるべし、というのは、これは自己責任と自己変革のための大前提とも言うべき、鉄則ではないかと、あらためて思うのである。