善き人間関係を築くこと――愛を与えることによって | LEO幸福人生のすすめ

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他の人と、善き人間関係を築くこと。

それが、日々の日常において、いちばん重要視している自分のモットーだと、いまは思っている。

信頼されること、親しまれる人柄であること、一緒にいると楽しいと思われるような人間であること、頼りにされる人材であること、一目置かれるような存在であること、いずれにしても、多くの人と善き人間関係を築けるような、そうした人柄・人格・心でもって生きること。

これらの事項をみずからに課した基本ルールとして、いまの自分は生きているという自覚がある。

 

以前はそうではなかった。

知力を磨き、知において貢献できる人間となりたい、という気持ちが強かったし、その時の自分は、一目置かれることはあっても、親しげに近づきやすいような性格ではなかった。

あるいは、芸術的な才覚を発揮して、その力によって生きたいと思ったこともあったが、その時の自分は、孤高のなかでの探求という気持ちが、外側にも出ていてしまっていたはずで、だから一種近寄りがたい孤高のタイプに見えていたに違いない、とも人生を振り返って思うことがある。

 

いまのような性格や生き方を、10代20代から実践できていたならば、自分の人生は、それも人間関係における幸福感は、もっとずっと多く、楽しい日々を生きられたに違いない。

しかして、そうではなかったので、若き日の自分は、独り静かに、知識を積み重ね、人格を独りよがりな気分で磨いているつもり、のような日々をおくってしまっていたような気がする。

 

そうではなかった。

他の人に関心を持つこと、他の人のために、ささやかであっても、貢献し、協力の手を差し伸べ、笑顔を向け、楽しい話題をみずから提示して、ともにいることが楽しい、それだけで楽しい時をわたしたちは過ごせるのだ、ということを心掛けるだけで、人生のトーンはまったく違ったものになることを、この歳になって痛感している、今日この頃である。

 

他の人に対して、冷たい人間ではなかったはずだけれども、積極的にアプローチする性格ではなかったし、引っ込み思案な性格は、自分から一歩を踏み出すのではなく、受け身の姿勢で生きる臆病さ、自己保身の気持ちであったのだろうと、今にして思う。

いまは、自分の方から、初対面の人に対しても積極的に声をかけ、笑顔で接し、楽し気に話しかけ、ともに仕事をしても、みずから進んで協力してゆくし、損得勘定で生きて自分の利害損得を気にするのではなく、他の人にどれだけ奉仕の姿勢で生きられるかを、みずからに課してチャレンジするかの如く、そういう修行の意味もあると信じて、そうして生きてきたものだ。

そういう自己変革の努力を、数年というだけでなく、10数年、20数年と続けているうちに、いつの間にか、人と親しむことが難しく感じない、むしろ楽しく感じられるような、そうした心の余裕さえ生まれてきて、現にいまは、そういう境地で多少なりとも生きられているという自覚がある。

これは自分勝手に思っているわけではなく、自他ともに、この自分に対する評価が変わっているのだから、客観的に見ても、自分は確かに変化したことが、わかるのである。それも、より幸福なる生き方、より豊かな人間関係を築くのに得手な方向へと、確かに変化して来た、という実感をともなっている、そうした自己変革の成果だと思っている。

この変化をもたらしてくれた、いちばんの思想的根源は、大川隆法先生が説いてくれた仏法真理であり、そこでさまざまに教わった、善き心の在り方、他の人と対する際にもつべき心構え、愛を与えるという生き方を、自分なりに咀嚼して、消化して、こうではないかといって、チャレンジの人生をおくってきた、その結果だと思っている。

 

これからまだ、あと何年、何十年の人生が残されているのかは、わからない。

日本のみならず、世界全体がおそるべき時代を迎えつつ、そのなかで自分が神仏からどのような生き方を期待されているかも、定かにはわかっていないけれども、人間としての基本姿勢、他の人との人間関係において、何が大切であるのか、どのような気持ちで人と対するのが、よりよい人間関係を築くための秘訣であるのか、自分なりに、それなりの発見は出来たのではないか、という喜びは抱くことが出来ている。

 

生まれ落ちてよりの、若き時代の葛藤や悩み、人間関係における難しさ、それがわからないことへのもどかしさ、というものも、今では幾らか解けたような気がして、いまの自分が、10代20代の自分にアドバイスをすることが可能であるのなら、その時の自分に、そこはこう考えるようにした方がいいんだよ、いまのお前は自分を中心にしてあれこれ考える狭さから抜け出せていないが、そうした自己中心の心こそが、他の人を理解できずに、距離を縮めることを阻害して、豊かな人間関係を築くことに、自分自身で勝手に難しくしているのだよ。

もっと大らかな心を持て、ささやかなことでいいから、一日一日を、いまその場でお前と共にいる人たちに、あたたかな気持ちと、積極的なる協力の手を差し伸べなさい、自分が何を得られるか、損か得か、なんてことはどうでもいいことだ。

人が嫌がる仕事であっても、あえて自分が率先して引き受けるような君であれ。

そのようなことをさまざまに語り掛けられてあげたらなー、などと思ったりもすることがある。

ひょっとしたら、自分が10代20代を生きていて、悩んでいたその時に、まさにそうしたインスピレーションや導きを、眼に見えず、耳には聞こえないながらも、与え続けて、見守ってくれていたのが、自分の守護霊や魂のきょうだいたちだったのかもしれないなー、とも思う。

彼らの導きがあったからこそ、自分はこのような方向へと変わってこれたのかもしれない。

だから、このような心の変化や、修行の成果、修行だと思って歩んできた道自体もまた、自分一個の判断でなしてきたわけではなく、眼に見えない世界からの導きに拠っていたのであり、ゆえに、そのことへの感謝の気持ちを、忘れてはいけないのだと思うのである。