他の人を、心身ともに苦しめた罪は、どうやって償われるのか  ~愛は憎しみを超えて~ | LEO幸福人生のすすめ

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他の人の身体に危害を加える。

あるいは、他の人の心を傷つける。

そうした行為を行なって、人を苦しめた場合、それが不当なる仕打ちであった場合はなおのこと、その罪の重さは計り知れない。

 

戦争においても、敵の兵士を殺したり、殺さずとも身体に損傷を与えて不具とした場合、そうした加害行為は、現実に行なわれた「業」として、刻印される。

被害者は、その心が受けた傷、身体が蒙ったことから生まれる苦しみを背負い、

加害者は、与えた被害の大に比例して、それが身体的な加害行為であろうと、心を痛めつける行為であろうと、他を苦しめたという現実の行動に伴う、そういう責任が生じる。

 

いまだに世の中で生じている、信じがたい犯罪や凶行。

被害者は理不尽にも命を奪われ、その人の親族や知人は耐えがたい悲しみと苦悩を背負わされ、その後の人生を生きねばならない。

被害者自身も、たとえ霊魂の生命は不滅だといっても、苦しみは苦しみとして残るし、悲しみは簡単に癒されることなく残ってしまう。

それらの、心に刻印された事実、過去に行なわれた犯罪、凶行、その事件で蒙った苦しみは、何年何十年あるいは何百年という時が経過したとしても、ああ長い歳月が過ぎたので時効ですね忘れましょう、もう過去のこととして風化するに任せましょう、などということにはならないのだ。

これは、その凶行を行なった犯人、加害者にとっても同じことで、たとえその人生において、逮捕もされず、刑務所にも入ることなく、人生の最期まで逃げ続けることに成功したとしても、魂が犯した罪からは、逃げることは出来やしないのだ。

魂が犯した罪に関しては、時効などというものはない。罪に対しての償い、罰を十二分に受けて、それでよし、お前は罪を償った、ということを神仏の基準からして認められるまでは、決して犯した罪の償いは終わっていないのだ。

 

だからこそ、人は何度も生まれ変わり、さまざまに転生しても、前世に犯した「業」を背負って、生まれざるを得ない。

その人の魂に刻印されているものだからこそ、たとえ表面意識の記憶には残っておらずとも、過去に蒙った苦しみ、その反対に他者を傷つけた残虐性、そうした心の特徴は、ずっとその人の魂から消されることなく付いてきているので、それ相応の現象や魂経験をせざるを得ない、そういう運命が待ち構えているのだ。

 

もう覚えていない、遥か昔のことだから、わたしは知らない。そんな言い逃れは通用しない。そんな言い逃れの言は、今回の人生で犯した罪から、逃亡し続けている犯罪者でも言うセリフに過ぎないではないか。

自分は確かに、かつて人を殺したことがある。しかしそれはもう何十年も前のことだ。そんな昔のことは、もう過ぎ去ったことだから、俺は知らん、だとかなんとか。

あるいは、確かに過去にそうした悪事を働いたが、刑務所で罪は償ったので、俺はもう責められる覚えはないし、罰は十分受けたから知らんよ、などという言い逃れの言。

果たして、その程度のことで、犯した罪は償われるであろうか。

 

被害者の魂は、その犯罪者を許しているだろうか。被害者の親族や友人・知人は、許しているだろうか。許せるはずもないし、大多数の被害者は、いまだ許すことなく、その加害者が与えた苦しみを担って、数十年の時を悲しみとともに生きてきたに違いないのだ。

そうした苦しみを生み出した張本人が、当人だけの手前勝手な自己主張で、自分は罪を償ったなどと言ったとて、この世の法で裁かれたからもう許してくれ、などと言ったとて、たかがその程度では罪の償いを十分に行ったとは言えないのだろう。

 

この犯罪者は、死後、たとえ地獄に堕ちて苦しむことになったとしても、そこで数百年、犯した罪の償いとも言うべき、苦しみの時を過ごしたとしても、あの世で担った罰だけでもっては、この世で犯した罪は償えないのだろう。

その人は、反省して、ふたたびこの世に、別の名前をもって生まれ変わってくる。その新たなる人生においても、過去世において犯したことの罪、その「業」というのは、いまだ消えずに残っていて、潜在意識の記憶の中に残っていて、それゆえ、そのカルマの刈り取りのための運命は、その人自身に襲い掛かってくるに違いない。

この世で犯した罪は、この世で償わねば、真の意味での償いとはならない。三次元世界で犯した罪の償いは、三次元世界のやり直しによって償わねば、本当の意味での償い・やり直しにはならないからだ。

 

それでは、許しというのは、どういうことなのだろうか?

神仏による許しと、人による許し。

被害者自身にも、かつての加害者を許すべし、という課題があり、被害者の親族や知人にも、そうした許しを与えるべし、という課題があるのだろうか、と考える。

これは、有る、とやはり思わざるを得ないと、わたしは考える。

人間心でもってみれば、そう簡単に許せるものではないし、だからこそ、許す愛の境地というのは、相当、難度の高いハードルを乗り越えないと、到達できない境地なのだと、自分としては想像する。そんな簡単な話ではないのだ、許す愛というのは、と思わざるを得ないし、安易に「許す」という言葉と思いを使うのは、それこそ考えが甘い場合が殆どであろうし、その言葉を使う以上は、本当にどれだけ深い意味で自分がそれを語っているのかを、よくよく自己反省しないといけないのではないかと、そう思うことも多い。

 

単純に、長い年月が経てば、すべては許される、忘れ去られて風化してゆく、なんてものではないはずである。

歳月が流れても、過去起きたあらゆる事象は、別に風化したりなどはしていない。三次元的なる物体や、肉体、建造物、その他の物質的なるものは風化して消えていくかもしれないが、それにまつわって生じた事件、そこで生きた人たちに起きた心の変化、影響、というものは、何かしらの形で残り続けていて、その残像は、数百年数千年、あるいはそれ以上の年月を過ぎてもなお、まるで現在か直近に起きたことのように、魂の奥底では生々しく息づいていて、だから消滅などはしていないのだ。時が過ぎたからといって、自然消滅などはしていないのである。わたしは、そう理解している。

 

すべてを認識しないといけない、ということでもないし、それこそ、そんなことは普通の人間には不可能でもあろうけれども、償うべき時、償うべき課題が生じた場合には、それがかつて自分が行った「業」から生じた、カルマの刈り取り的な課題なのだということを、潔く受け止めて、対峙することが肝要なのだと、そう思うのである。

 

理不尽な運命に見舞われる、なぜ自分がこんな目に、こんな苦悩に遭わないといけないのか、他の人にはそうした運命は生じていないのに … と思う時には、上に述べたような因果が、その人固有の課題があるのかもしれない、と考えるべきなのだと、わたしは思う。

それは何も、途方も無い悪事を、かつての自分、前世の自分が犯してしまった、と過度に自己反省する必要がある、と述べているわけでもない。

ヒトラーやスターリンが償わねばならない罪の重さに比べたら、いくらなんでも、そこまでの途方も無い悪事を犯した人間である可能性は、滅多にないはずであろう。

しかして、多くのカルマ的な苦しみの原因は、他者に与えた苦しみであり、心身を傷つけた行為であり、あるいは肉親同士の憎しみや争い、ということもあっただろうし、それがふたたび今世にも同じような境涯がめぐってきて、憎み合っている相手をも、今世は努力して理解せよ、もっと愛をもって相手を受け入れ、互いに許し合いなさい、という課題なのかもしれないと、そういう対人観、他の人を観る眼を養いなさい、ということなのかもしれない。

 

他の人を許すことは、自分自身をも許すことにつながる、ということを、わたしはとある場で聞かされた。

どれほど憎んでいる相手であっても、永遠に憎しみ続けてはいけないのだろう。それが同じ、神の子供であり、魂の兄弟姉妹である相手であったならば … 。

憎しみは、憎しみによっては解消されない、と言う。

憎しみを消せるのは、愛のみである、とも私は教わった。

それを、言葉として聴くのは容易だが、魂の理解として自分が実践できるようになるかは、また別だ。

途方も無く難しいことのように思える。

現に憎んでいる相手であってみれば、その相手、どうして許せるものか、と思ってしまう。

しかして、愛は憎しみを超えて、という教えもあるように、愛によって憎しみを超えなければならない、憎しみを乗り越えるためには、愛を深める道を進む以外にないのだと思っている。

世界の憎しみ合いを克服するには、愛を深める以外にないように、自分一個の魂の課題としても、愛を深めて憎しみを超えてゆく、そういう魂になれるよう、自分を磨くことが大切なのだ、と思うのである。