過ちを犯した時に、巻き戻しorリセットができたらいいのに … ? | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

 … と道を歩きながら、考えていた。

 

SF小説やSF映画などでは、過去にさかのぼって、その時点で犯してしまった失敗や取り返しのつかない事件などを、やり直す、という話がよく描かれていたりする。

 

愛する家族や恋人を、事故などで失ってしまった時――。

その事故の直前に舞い戻って、救いの手を差し伸べて、事故そのものを阻止してしまう。

それが出来れば、その人を喪うことなく、一緒に生きてゆくことが出来るのに、という願い。

 

人生のリセット、やり直し、それが出来たら、どんなにいいことか、と思ったことはないでしょうか?

いつでもどこでも、それが許されなくてもいい、自分にとって本当に大切な、このことだけはやり直させてほしい、人生にワンチャンスでもいいから、それが出来たなら!

 

そう願っても、実際には、人生にはやり直しは効かないし、どんな悲しい事故や過ちが起こってしまって、わずか数時間、数分でも戻すことは、許されない、という世界のなかで、わたしたちは生きている。

悲しいけれども、神さまは、そうしたリセットを決して許してはくださっていない、そういう世界ということを知った上で、わたしたちは生きてゆかねばならないことになっているのだ。

 

それを指して、神さまを冷たい御方だとなじることが、正しいことだろうか、といったら、わたしはやはり、否と答えようと思う。

安易なリセットが許されてしまえば、人は、注意ということをしなくなるだろう。

すぐにリセットをして、やり直せばいいのだから、多少のミスや失敗など、いちいち気にしないで、伸び伸びと、何も怖れることなく生きてしまうのではないだろうか。

 

人生には、リセットは効かない。覆水は盆に返らない。

これだけでいいから、やり直しをさせてください、わずか数十秒さかのぼるだけでいいので、このミスが起きなかったように、その瞬間からやり直させてください、と幾ら願ったとて、そんな願いは許されはしない。

 

やり直しが効かないからこそ、この人生の一瞬一瞬が、過ぎ去ればそれは、すでに確定事項となって、リセットは効かないようになっているからこそ、人は今という時を、真剣になって、注意力をもって、他の人に対する配慮の気持ちを十分に持って、そして自分自身は、決して後悔するような事態を起こさないように、そのような注意深さをもって、生きようとするようになるのではないか、と、道を歩きながら考えました。

 

リセットが効かない、ということは、あまりにも悲しい、少し前のことですら、もはやこぼしてしまった水は、盆に元の状態で戻すことは出来ない。割ってしまった花瓶は、原型に戻ることは無い。事故や怪我、死をともなう悲しい事故、事件でさえ、それをやり直したり、時間を遡って防ぐことは出来ない。悲しいことだが、それがこの三次元世界の現実であることを思う時――、

 

そういう世界であるからこそ、その人生経験で学ばねばならない、枢要な意味があるのだ、ということに、理解を向けないといけないのではないかと思う。

 

肉体生命の死は、取り返しがつかない。

魂は永遠で、死んではいない、とはいっても、不慮の事故や、不幸な死、などは、当人の魂にとって、深い心の傷とならざるを得ないし、愛する家族たちにとっても、その死は耐えがたい苦しみであるはずだ。

それは、たとえ魂としての命が不滅であっても同じことであって、肉体としての死は、死としての悲しみは伴うのが当たり前であって、魂の永遠性を知ることでもって、悲しみが全て消えるということはないのだ。

しかして、この世での不幸、過ち、取り返しのつかない失敗やミス、やり直したいけれどもやり直せないような後悔の連続、そうした経験を重ねて、その重圧に耐えながらも、人は生きてゆかねばならない。

重荷を背負って生きながらも、そうした忍耐のなかで、魂がなにかを学んでいるのだろうと推定するしかないところがある、と時折、考えることがある。

 

そうしたなかで生きる時に、人は、自分自身の人生を、厳しい目でもって見つめ、過ちをなるべく犯さぬように、注意して生きるようになるであろうし、それが自己保身という自分だけを守る方向ではなく、他の人を愛しながら、その他者を害することの無いような、自分を戒めて、己を律する責任感というものを、いっそう深く自覚するようになるのではないかと、そんな風にも、道を歩きながら考えてみた。

 

安易なリセット、やり直しが出来るような世界であったなら、人は、自分を律するということにもいい加減な気持ちで臨むであろうし、他の人に対しての配慮においても適当なレベルで甘んじてしまうような、そうした人間レベルで留まるのではないだろうか。

ミスったと気づいた時に、すぐにリセットが出来るのならば、ミスることに過剰に警戒心を持つことはなくなってしまって、それはいわば、無責任で放縦なままに、人間をとどめてしまうかもしれないのだから。

 

厳しい世界で生きるからこそ、そのなかで生きる自分は、よりしっかりと己をよく律し、他の人に対しても、意識的に深い配慮をもって生きられるような、そうした自分づくりをしなければならないのだ、という自覚を、人に与えるものなのかもしれない。

 

神さまが作られた世界というのは、神の深い叡智でもって創られている世界なのだから、理不尽と一見思えてしまう、人間心にはそう思えてしまうようなことであっても、裏をよくよく考えてみれば、実はその方が、より人間を強く、逞しく、優れたる精神の持ち主へと成長させる、そうした学びの効果がある、そういう理由があって、そのようになっていることが多いに違いない。

宗教の勉強をすればするほど、そういう視点で、人間と世界を観察するようになってゆけるようにも思えるし、そうした神の叡智の発見が出来れば出来るほどに、人はいっそう、神への感謝と、まったき信頼を寄せることがいっそうよく出来るようになるのではないか、などとも思うのである。

 

 

※ 大きな意味でのやり直しは、転生を通して、行なうことが出来る。あるいは、その人生のさなかにおいても、何かしらの代替行為におけるやり直しは、可能とも言える。

けれども、その時々にやらかしてしまった失敗、ミス、事故、事件、そのものは、やり直すことは出来ない、という意味において。