スウェーデンボルグ ~臓器移植、ユートピア建設、信仰と愛と救いについて~ | LEO幸福人生のすすめ

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臓器移植について。

スウェーデンボルグの時代にはまだ、臓器移植という医療技術自体なかったので、スウェーデンボルグ自身が直接、臓器移植の是非を語っているわけではない。

 

スウェーデンボルグが語っているのは、魂と肉体の関係。

そうして、死とはいったい何であるのか、といったら、心臓が鼓動を停止した時がそれで、心臓が動いているあいだはまだ生きている、とのこと。

そのことを踏まえて、以下の著者の言葉を読んでみると、

 

脳死とは、脳機能の停止=人格の消滅=人間の死であるとする医学的主張である。むろんこの場合、心臓は動いている。

 

何らかの病気や事故によって肉体がその霊と一致して活動できないような状態に入ると、分離、つまり死が起こる。そのとき照応が消滅し、それとともに連結が消滅するからである。その消滅は、呼吸が停止するときではなく、心臓の拍動が停止するとき … 

 

心臓が動いているかぎり、愛はその生命の熱として留まって、生命を維持しているからである。

 

魂の本質は愛であり、人の心、愛の鼓動と心臓とは、密接な関係を持っている。

心臓がまだ動いているあいだは、愛の鼓動は生きている、生命活動は続いている、魂はまだ肉体と切れてはいない。

 

そういう状態で、脳が死んでいる脳死状態だからといって、心臓を取り出して他の人に移植したりするのは、これはどうなのか、という問題提起を著者はしている。

 

心臓が動いている。心臓は、魂の中核部分、心と密接なつながりを持つところ。

その心臓がまだ拍動しているのに、これを抜き取るとは、どういうことなのだろうか?と、現代の医学知識を踏まえて、著者は霊的な観点から問題を投げかけているのである。

 

彼は心臓の拍動の停止をもって、肉体の真の死と考える。スウェーデンボルグの見地から死をとらえるならば、臓器移植のために脳死を死と判断することの是非も、あらためて問い直す必要があるだろう。

 

 

話が飛びます。

別の論点の箇所になりますが、

 

人類は相互に愛し信じ合える理想的な世界を夢見て、そうした世界をユートピア、地上天国、桃源郷などと呼んでいる。スウェーデンボルグは、人類が創られた目的は、人類の永遠の生と幸福が実現される天界の創造にほかならないと言う。天界こそは人間性のあらゆる理想が実現される、永遠に続く至福と平安と美の世界なのである。

 

人類が互いに愛し合い信じあえるユートピア世界。

 

人類の永遠の生、幸福なる生、そういう天界をつくるのが、神が人類を創られた目的なのだ、とスウェーデンボルグは言う。

天界の幸福というのは、あの世における天国の幸福であると同時に、この地上世界においても、天国の写し絵のごとく、素晴らしいユートピアを作るべし、という意味にも理解することが出来るだろう。

あの世の天国は、すでに幸福な世界であると言えばその通りなのかもしれず、しかして、あの世の天国もさらに成長発展して、より素晴らしい展開へと成長できるとも言われているし、

いま地上に生きている私たちにとっては、この地上世界、人間の目にはさまざまな不幸で苦しむ人間の姿が見えて、とてもユートピアとはまだ言えない、そんな世界をも、天界の理想をここに降ろし来ることでもって、地上ユートピアをつくろう、つくるべし、という使命があるのだと、この箇所を読んでいると、そう理解することが出来ると思う。

 

そのために必要なのが、愛。他の人を愛する気持ちを持つこと。

愛に生きることの必要性。

 

「愛とは、自らを他者に与えようと願うことであり、自己ではなく他者に仕えることに喜びを感ずることである。こうした者が多くいるとき、そこに相互的な愛が生まれる」(『霊界日記』)

 

全天界で天使はみな同一の言語を持つ。彼らはどの社会に属していても、みな互いに理解し合っている。天界の言語は学ばれるものではなく、各自に生まれつきそなわっており、彼らの情愛と思考そのものから流れ出ている。彼らの話し言葉の音調はその情愛に照応し、音が分節化した単語は、情愛から発する思考の観念に照応している。こうした照応ゆえに、言葉そのものが霊的である。なぜならその言葉は、情愛の響きであり、思考の語りかけだからである。 (『天界と地獄』)

 

 

情愛から発する思考、という箇所にわたしは注目したいのだが、

 

愛の気持ちの無い冷たい思考には、エゴの心と他者への無関心さから来る、他人事意見の考えや無責任な主張しか生まれない。

そういう意味で、情愛から発する思考、という箇所に注意したいと思うのだ。

 

愛無き思考は空しいし、そうした思索が、真に他の人を活かし、世の中を平和にする知恵を生むとは思えない。

利己心、打算、自分さえよければいいという身勝手な考え方の数々。

こうした思考は、情愛から発している思考ではなく、エゴの心から出た利己的思考にしか過ぎないのではないか。

真に豊かな思いと言葉は、情愛の心をベースにして、その思いのもとで生まれてくる思考でなければならないのではないか。

そんな風に思うのでありました。

 

他にも、興味深いテーマで語られている箇所が、たくさんありますね。

以下の引用箇所などは、女性にとっての福音にもなる言葉ではあるまいか。

 

年老いたり老衰で世を去った女性でも、主への信仰を持ち、隣人を愛し、夫との幸福な結婚の愛に生きたならば、天界で年を経るにつれて、青春の花盛りだった頃の美を回復し、地上で見られるどんな美の概念をも凌駕する美へと前進してゆく。善意と愛こそ、この美の形態をとらせるものである。ひとことで言えば、天界で年をとることは若返ることなのだ。 (『天界と地獄』)

 

 

信仰心を持って、愛に生きること。善意と愛によって生きるところに、美が生まれる。

外面の美とはいっても、それが内心の豊かさ、善と愛と神への信仰から生まれてくるものであったなら、その美は真実の美であると言えるでしょう。

美しいだけでなく、若さも取り戻せるのだ、ということ。

 

あの世に帰れば、自動的にみな、若い姿に返るわけでもないらしい、というのは、たとえば地獄に堕ちて迷ったままだったら、年老いて亡くなった人はそのままの容姿でいるらしい、という話をきくと、そんな都合よくいくわけでもないのだな、ということがわかりますね。

 

 

地上で生きている人の、本人の意識と、そこに関わってくる善霊と悪霊の関係性。

 

使者としての霊たちを通して、地獄からの絶え間なき流入があり、他方、天使たちを通して、天界からの流入もある。天使たちは地獄からの流入を絶えず抑制して、これを脇へそらそうと努めている。しかし天使たちが流入するのは、人間に刻印されている信仰の真理や仁愛の善の中へである。それゆえ、もし人間がそうしたものを持たず、またそうしたものを顧慮しないなら、天界からその人間にはどんな援助も与えられず、その人間の思いは地獄によって、流れにさらわれるようにさらわれてしまう。

 

 

信仰心を持って愛に生きている人には、天使たちは愛の導きを与えることが出来るし、実際にそうしてくださっている。天からの助力あり。

 

信仰と愛の心なくば、そうした人には地獄霊からの影響が流れ込んでしまう。これを避けようとしても、当人に神への愛も他者への愛もなければ、助けることも難しい。

 

天使たちが救いたいと思っても、善導したいと思っても、地上に生きる人間がそれに相応しい心をもっていなければ、どんな援助も得られない、ということも語られています。これも悲しいかな、霊的世界の真相として、まさにその通りなのでしょう。