スウェーデンボルグの評伝を読む ~愛と知、天国と地獄~ | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

 

 

スウェーデンボルグの評伝。

著者は 『天界と地獄』 の翻訳もある高橋和夫さん。角川文庫でも出ていたと思います。

 

スウェーデンボルグの主要著作は、今のところ殆ど電子書籍化されていないので、読みたくても読むことが出来ない。

 

欧米とは異なり、わが国でスウェーデンボルグが思想界や宗教界に確たる位置を占めることはなかった。

 

本当にこの通りで、

 

私は幸運にも、中学生の頃にこの人の名を知って、霊界探訪の抄訳を読んだけれども、周りにはこのスウェーデンボルグの名を知っている人はいなかったし、誰も教えてくれることはなかった。

たまたま雑誌 『ムー』で記事を読んで知れたからよかったものの、そういう摩訶不思議な雑誌を購読していなかったら、その名を知るのは、もっと先のことになっていたに違いない。

 

霊界の創造は自然界の創造に先立ち、霊界は自然界を内部から不断に維持している。霊界によって生気づけられなければ、自然界すなわちこの世の宇宙は「無限の死体」にすぎないのである。

 

あの世とこの世、霊界と三次元現象界の関係。

 

霊界からのエネルギー流入があってこそ、この世は存在し得ている。あの世がなければ、この世も無い。

霊的世界があったればこそ、この世の自然界は存在している。あの世とこの世の分かちがたい関係性。

 

あの世からの流入がなければ、この世の自然界は死体に過ぎない、とあるように、

もし人間の肉体に、魂が宿っていなければ、その肉体は生命活動を行なえない、生きてゆくことさえ出来ない、ということ。

 

「霊たちの世界」はそれなりの秩序によって成り立つ共同体であるから、個人として限度を超えた振舞いができるわけではない。ここに一つの重大な問題が生じる。  

先述したように、霊界は心の内部が直接、外部に流れ出て、霊の周囲に独自の環境を産出する世界である。これは、霊界では心の意図や思いを隠せないことを意味する。この世では心で悪意を抱いても言葉や行動でこれを隠して善意を装うことができるが、霊界では、思考と言葉、また意図と行動は必ず一致することになる。 「霊たちの世界」とは、このような一致の法則が徐々に自覚されるようになる世界であり、この過程で新参の霊は少しずつ自分の本性を 顕 にしてゆく。  

 

あの世には、秩序がある。

霊的世界は、そこに住まう各人の心が投影されて出来ている、そういう世界でもあるのだから、

心美しき人が集まれば、そこには光り輝く外的世界が現出するであろうし、その反対に、心醜きエゴイスティックな人が集まれば、そこは殺伐とした世界になるであろう。そういった関係性もあるように思う。

それは同時に、光り輝く世界に住まうためには、そこに住むに相応しい心の持ち主でなければならない、ということでもあって、不調和を起こすエゴイストは、そこから弾き出されるし、そもそも中に入れてもらうことさえ出来ない、ということでもあるのだろう。

 

肉体に宿っている間は、心を隠して、内面を秘匿して、外面だけ善くする、見せかけの笑顔や人当たりの善さげな行動を取ったりも出来るけれども、あの世に帰るとそうした偽善は通用しない。

心の綺麗な人はすぐにわかるし、心が醜い人もすぐにばれてしまう。欺くことは不可能で、心が赤裸々に露呈してしまうのだろう。

霊が欺けるのは、肉体に宿った人間に対してのみであって、肉体に宿って認識の力が落ちた地上の人間に対しては、霊は嘘を言って欺いたり、騙してみたりと、そういう悪辣な行為を行なうことが出来るし、そうした嘘や偽りを地上人が見抜くのは、簡単なことではないらしい。

相当なる霊的知識と、真実を見抜く直観力・洞察力・分析力が必要であって、自己に甘く自惚れた人間であっては、悪霊の唆しを見破ることが出来ず、いいように操られてしまうことだろう。

しかしそうした悪霊悪魔の本性は、霊的世界ではあからさまにその姿を現すので、高級霊を騙すことは出来ないし、ふつうの天国霊であっても、その相手が悪しき霊であることは、すぐにわかるようであるし、だから彼らは同じ次元では暮らしていない。

 

スウェーデンボルグは、人間の真の性格を決定づけるのは、各人の「優勢となった愛」(amor regnans) だと考える。愛とは、意欲・意志・情愛・感情・情動などの総称であり、知性的な機能よりも根源的なものである。

 

人間の本性、その人の性格の中心部分、魂の本質とも言うべきは、各人の「愛の心」であると言っている。

愛、情愛、感情、そうした「情」の部分こそが本質的に大事な部分であって、その魂の気質、愛情の深さとして、これは霊格そのものにも直結する、そうした魂の本質要素なのであろうと思われる。

 

この「愛」の気持ちというのは、知性的な機能よりも根源的、ともある。

愛が深い人は、それ自体がすでに天国的なので、たとえ知性が優秀でなくても、光り輝く天界に入れる、そういう魂であることだろう。

しかして、いくらこの世的には知識豊富で、知的であるように見られる人であっても、愛が薄い、情愛が薄い、そうした心であっては、その人は天国の門をくぐることさえ難しい、ということにもなりかねない。

万巻の書籍を読破して、知識豊富な学者であっても、その心に他の人への愛が欠けていれば、この手の人は天国の入り口にさえ立てない、ということなど幾らでもあるのだろう。

思想を間違った思想犯になってしまうと、地獄の一番下に堕ちるのは、この原理原則からしても、なるほどそうなるのも致し方なし、と言うしかない。

知を磨く前に、愛を深めよう。愛あってこその知、というのは、スウェーデンボルグの霊界探訪体験からしても、真理である、ということだと思う。

 

愛は四つに大別される。「神への愛」「隣人愛」「世俗愛」「自己愛」がそれである。神を信じて神の 戒めを守り、隣人愛を実践することが、神への愛である。広く社会や国家、さらには人類へ向けられた愛が隣人愛であり、富・名誉・地位などへの執着が世俗愛、いわゆるエゴイズムがある。

 

4つの愛をスウェーデンボルグは述べている。

神への愛、すなわち信仰心。そして隣人愛、他の人への愛の大切さ。

4つのうち、上の二つは天国的なる愛であって、より高次の愛ということ。

その下にある、世俗への愛、自己愛。

富や名誉を求める気持ち、地位を欲する気持ち、これはいま現在、世間的には決して悪いものとは言われていない。富や名誉や地位を求めるのは、ふつうではないか、と思われているかと思う。

けれども霊的に言ったら、これはきわめてこの世的なる気持ちであって、執着という言葉も見えるように、ただ己一個の立身出世や成長欲、利己心に基づく金銭欲・名誉欲でしかなかったなら、この世の栄達のみ求めて、あの世的なる視点を忘れている状態に過ぎないであろう。そこに神への愛と隣人愛が無いのなら、信仰と愛無き心の、名誉欲・金銭欲でしかないのなら、これは決して褒められた気持ちではない、ということだと思う。

最後の自己愛になってみればなおのこと、信仰も愛も無い心の状態で、ただ己のみを愛する自己愛に埋没すれば、それはエゴイズム以外のなにものでもなくなる。

 

この世では、野心に燃える政治家が国家のためといって私腹を肥やしたり、内心は嫉妬に満ちているのに世間体を気にして友情を装ったりすることができる。霊界ではこうした隠しだてが徐々にできなくなり、心の表層にある仮面が剝げ落ちて心の深層が顕になる。

 

この世に生きているあいだは、すべての人が肉体の目で晦まされているので、他者を欺くことが出来るし、表向きは偽善行為に励み、しかして心の内は醜い野心とエゴでドス黒い人というのが、言葉巧みに世を渡っていけるようにも見えてしまう。

しかしそれが通用するのは、その人が地上で生きているあいだだけのことであり、死んで魂だけの状態になったら、その本性が顕わとなって、あの世では他者をあざむくことは出来なくなる。

 

こうして、「優勢となった愛」が衝き動かす自由によって、善人は天界へ、悪人は地獄へと向かうのである。この過程に関与する唯一の者は自分自身であり、地獄に落とす審判者も、何らかの教条的な「信仰」や呪文で悪を抹消し天界へ引き上げる絶対者もいない。

 

その人の心が、どれほどの愛を持っているか、愛の気持ちを持っているか、愛の深さがその人の自由の範囲を決めることになる。

愛ある人は天国へ入れるが、愛無きエゴイストは、天界へ入ることを許されず、地獄という閉ざされた下位世界から出られない。狭められた世界の中でしか生きられない。すなわち自由は制限される。

天国的なる人の自由と、地獄に堕ちる人の不自由とに、自由の概念の本質をわたしは観る。

自由とは好き勝手に生きることを言うのではなくて、真実の世界を魂が悟れば悟るほどに、自由の範囲は拡大され、自由の何たるかを悟ることが出来る。

ワガママ勝手を自由とは呼ばないのであるし、ワガママな人間は実際は、刑務所に入れられて不自由になったり、あの世においては、隔離された地獄から出られないという、不自由の中に置かれるのであって、それはすなわち、ワガママは自由の反対であって、みずからの自由を阻害する、真逆の行為であると、わたしは分析する。

 

あの世に帰った魂は、愛の深さによって、善人は天国へ帰り、悪人は地獄に堕ちる。

そうした裁きと判定は、あの世の裁判官や審判者が行なうのではなくて、当人がその心の赴くままに、自ら自身に相応しいところに引き寄せられて、善人はみずから天国へ上がってゆき、悪人はみずから地獄へ堕ちてゆく。

これは、スウェーデンボルグの霊界観察における、もっとも肝となる特徴的な解説であったと、当時の読書体験を振り返ると思い出す。

 

浄土教の教典『無量寿経』には、一種のエゴイズムが自らを地獄に落とすという自己審判の思想が色濃く出ており、その点、スウェーデンボルグの思想に類似している。

 

大川隆法先生の霊査では、スウェーデンボルグの前世は、日本天台宗の僧侶、源信であるという。

源信は「往生要集」で地獄の諸相を描いて有名だが、天台宗の僧侶でありながら、中国発祥の浄土教を天台の教えのなかで取り上げて、のちに出る法然や親鸞の浄土系の宗派を準備した、とも言える。

そういう意味では、親鸞の浄土真宗がもっとも重んじる浄土経典「無量寿経」の思想が、スウェーデンボルグの霊界観と一致しているのは、なるほど、である。

 

エゴイストは自ら自身の仏性がみずからを裁き、そうしてみずから地獄へ赴く、堕ちてゆく、というのは、スウェーデンボルグの地獄観でもその通りであるし、浄土経典の「無量寿経」でも同様のことを言っている、ということだろう。

 

 

 … つづく