読書も波長同通、学びの姿勢と理解の深さは比例する | LEO幸福人生のすすめ

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本棚(電子書籍の)を眺めていると、ずいぶん色んな本を今まで読んできたなー。

当時はこんな本を一生懸命読んでいたのか、とか、あの時読んでいたのがこの作者の本だ、とか、いろいろと考えていたら、

 

本を読むというのも、その著者と読み手の自分が、ある意味で波長同通というか、シンクロする、ということなのかもしれないなと、ふと思った。

 

著者が訴えたテーマ、あるいはつづった物語に、興味を覚える、魅かれる、そして読んでみる。

夢中になって読めるようなら、その人は、その作者の意図に、メッセージに、深く共感しつつ読んでいる状態なのだろうと思う。

共感的に、賛同しながら、深く感応しながら読んでいるかどうか、というのが肝で、

深い内容を持った思想書などは特に、共感的に読んでいるか、賛同しながら読めているか、正しく理解しながら読めているか、というのが、この読書のシンクロ度にはきわめて重要なのではないか、と思う。

 

どんな内容なのか読んでやろう、だとか、冷ややかな目で批判的な気持ちで読んでいる人は、共感的に読んでいるわけではなく、むしろ反発しながら読んでいるので、著者の心の波長とは全く正反対の状態にあって、だからそこに書かれたメッセージを、正しくキャッチすることは出来ないだろうと思う。

 

聖書や仏典などの聖典は、その著書に対する敬意、学ばせてもらいますという敬虔なる態度こそが、こうした共感的な読書姿勢を促すための、基本中の基本なのだと思えてくる。

軽々しい気持ちで読み飛ばしたり、参考として一応読んでおこう、などという態度では、その著者の発する波長の中に入って読むこととは違っているのであって、そこからは程遠い離れた心境で読んでいるだけなので、字面は読み通したとしても、おそらく真の意味での理解は出来ていないであろうと思われる。

 

仏典を読んで激しく魂が感応する。聖書を読んで深い感動を覚える。

こういう読書体験が出来ている人は、仏教精神やキリスト教精神の光の中に入って、そうしてその光の輪の中で、真剣に、正しい気持ちで学べているから、すっと素直に教えが心に入ってくるのだろう。だから素直に感動できるのだし、感動できるのは教えを正しく理解したからだ、ということだと思う。

 

大切なのは、偉大なる書物を読む時には特にそうだと思うが、

その著者に深い敬意を持って読む、ということ。

初めからそういう気持ちで読むということは難しいけれども、読んでいるうちに、その内容の深さに驚嘆し、そこから先は、威儀を正して丁寧に読む、真剣なまなざしで読む、心に深く受け止めながら読む。そういう読み方に徐々に変わっていったのなら、その人は、その書を正しい光の中で読んでいる、と言えるのではないかと思う。

帰依の心をもって仏典を読む、信仰心をもって聖書を読む。読む前提としての基本姿勢が大事。

冷ややかな批判的な気持ちで読んでも、仏典の真義はわからないし、聖書の光も感じ取ることは出来ないであろう。

文字を読むというのは、単に活字の並びを読んで目を通すことではないし、一度目を通したからといって、その本の概要を知った、ということにはならないのだ。

読んでも、そこに書かれた意味を正しく理解していなかったり、曲解していたり、あるいは当人自身はなるほどなるほどなどと合点がいっているつもりであっても、それはその人の読み違いであったり、自分勝手な独りよがりの読み方であった場合には、これまた正しく読めているとは言えないのであって、それはすなわち、その本や著者に、心が同通できているわけではない、ということを意味すると、わたしは思う。

 

偉大なる思想家の本を読む、というのは、その著者が発するところの光の流れに入る、ということだと思うし、聖書を読むときに、白色光線の中に正しい気持ちで入って、その書を読むのか。はたまた仏典を読む時に、黄金光線の光の中に入って、正しい帰依の気持ちを持ちつつ、学ばせていただくという姿勢をもって学んでいるのか。そうした姿勢の有る無しが、その読書の意義を、高める、あるいは無意味としてしまう、分岐点になるのではないかと思う。

 

先生と呼ばれる方々の著作を読む。その波長の中に入って、その下位に立って、謙虚な気持ちで学ぶ。

まるで同志のごとき人の書いた文章を、わがことのように感じて、共感的に読む。これもまた波長同通であって、書き手と読み手はシンクロして、同じような興味関心の状態になって、同通するであろうと思う。

これに対して、反感を基調とした読書、批判的な気持ちで読む読書というのは、作者の真意を共感的に読み取れるような読み方ではないので、字面を読んでも、その心は離れていて、決してシンクロ・同通していない読書に過ぎないだろうな、とわたしは考えますね。

論語読みの論語知らず、と同じことで、文面を読んで、暗唱したり、言葉の上では解説めいたことをやれたとしても、その真意を理解し得ていない、間違った読み方をしている、あるいは曲解をしたり、自己都合の誤読を踏まえて解説している場合には、これは本当は、論語を読んだようでいて、実は読めていない、という心の状態なのではないかとも思います。

万巻の書を読んでも、その心まったく悟っていない、というのは要するに、偉大なる書を山ほど読んでも、斜め読みしたり、ひねくれた読み方をしていたり、あるいは古代の書物だといって軽く見て、単なる情報処理や知識の蓄積程度の捉え方で幾ら沢山の本を読んでも、それは空しいのだ、ということではないかと思いますね。

 

敬意をもって、威儀を正して、心を正して、素直に、自分をあらためようとの意識をもって、真剣に読む。

同じ本を読むにしても、この根本姿勢がどこまで出来ているかどうかが、その著者の発する光の中に入れるかどうか、その著者の発している波長の中に入って、シンクロしながら学びの世界へ入れるか、ということを分けるカギになるのではないかと、ふと思ったのでありました。

 

 

偉大なるもの、天国的なるものには、共感的な理解を! それが天国的な心を持って生きてゆく、ということにつながってゆく。

 

一方では、その真逆のもの、過てるもの、地獄的なるものに共感してしまうのは危うい。それは地獄に同通するということなので、弾くのが正解!