右脳と左脳のはたらきの違いって? | LEO幸福人生のすすめ

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魂の右脳が、エゴの左脳と調和を保つようになります。魂のこもった関係は、私達の生活に真の喜びをもたらします。

 

これは 『前世療法』で有名なブライアン・ワイス博士の言葉。

 

魂の右脳と、エゴの左脳、とありますが、厳密に言えば、右脳が魂の働きで、左脳がエゴ的・自己中心的、という意味では必ずしもないと、わたし的には思われます。

左脳ばかりの発達では、この世的な思考が優位になりすぎて、だから個人主義的・利己的、エゴイスティックになりやすい、という意味合いは有り得るかもしれません。
左脳のみではエゴに至りやすい、この世人間になってしまって霊性を忘れる、という意味では合っていると言えなくもない。そういう理解をしています。

しかして、ニュアンス的には、このワイス博士の表現は、非常にわかりやすい、というか、心と頭脳の関係を語っていて、勉強になります。

 

右脳は、直観的、イメージや想像力、感情、感動、感覚的な認識や、感性の力などに関わっていると言われていて、

左脳はそれとは対照的に、論理的な思考、分析力、計算力、言語処理能力、といった方面での役割を担っている。そんな風に比較されますね。

文系頭脳、理系頭脳、なんていった比較でも使われるかと思うけれども、文学的才能や芸術的才能と、理数的な頭脳とでは、使われている頭脳がどちらであるか、といった違いがあるようにも言われていたりする。

 

そういう理解から入っていったら、どちらか一方が発達してよく働いていても、もう片方がまったく機能していないような偏った頭脳になってしまうのでは、健全な発達とは言えない。

感性豊かで直観で動くが、論理がまったく通じない人になってしまったり、その反対に、論理的な思考や理屈を述べることは達者だが、まるで感情が無きが如しの冷めた心の、ロボットのような人間になってしまう、みたいなことにもなりかねない。

 

心と頭脳の関係という意味でいったら、心は右脳に所属しているわけではなくて、胸のあたりに中枢があると言われているし、頭脳は出先機関のようなものとも言われているので、ワイス博士が述べているような、右脳が心的で左脳がエゴ的というわけではないのだと、わたし的には理解するものです。

心と頭脳の関係、エゴと無我、あるいは心の関係はどうなっているのか、というのは実際には非常に複雑で、右脳的なら無我の人で、左脳的だと自我人間になってしまう、というような単純なものではないようにも思います。

 

結論を言えば、どちらも大事で、右脳がよく働いていれば左脳は抑制された方がよい、とか、左脳こそが大事で右脳に頼りすぎるのはよくない、とかいうような、どちらが優位でどちらがダメ、ということではない、というのが霊的なる洞察から見た結論のようです。両方必要があって、だから人間には、右脳も左脳も備わっている。どちらも鍛える意味があり、鍛える必要性がある。

 

 

以下、最初の引用文に続いていた、以下の文章を3つまとめて引用しつつ、あらためて上の考察をつづけます。

 

魂の右脳が、エゴの左脳と調和を保つようになります。魂のこもった関係は、私達の生活に真の喜びをもたらします。

 

頭ではなく、心、それも本当の心から行動しなさい。疑いがある時は、心の方を選びなさい。

 

頭と心の間に、バランスと調和を育てるのです。直観がはっきりと呼びかける時、それは愛に基づくものなのです。

 

最初にも書きましたが、

厳密に言ったら、最初の文章にある部分、右脳が魂のはたらきで、左脳はエゴ的な思考をする、というのは、ちょっと違うのだとは思います。

けれども、右脳が直観的・感性の働きに通じていて、左脳が知性的・論理的思考・情報処理などの働きに通じている、というニュアンスで言ったら、

たしかに、心から感動する体験や、魂の悟りに通じてゆくのは、右脳を経由して胸につながっている方での体験が優位、というか、基本のようにも思います。

 

学校の勉強がよく出来て、知識は豊富だが、心が冷たい人間、そういった個人主義者、利己主義者あるいはエゴイストタイプ、というのは、頭脳を調べたら、左脳中心で、右脳の働きは弱い、という結果が出るかもしれませんね。

右脳は芸術的才能や感性の豊かさ、情動、といった働きにつながっているのだとしたら、こちらの働きもやはり、必要不可欠の働きと言わねばなりません。

こちらを疎かにして、もう一方の左脳ばかり鍛えてしまい、この世的な情報処理や頭脳訓練ばかりやっていても、心の修練はぜんぜん出来ていない、そういう偏った心の持ち主になってしまう危険性は確かに大きい。

現代社会は、特に日本は、知を重視するが、感性の発育はおろそかというか、学校教育その他でも二義的にされてしまっている恐れがあるし、だから左脳型は学歴社会では優位とされる。

一方では、右脳型の芸術家がとびぬけた才能でもって、そうした学歴社会のエリートコースとは全く別のルートから世に打って出て、かけがえのない存在として大活躍する、という道も別途ありますけれどね。

 

本当はどちらも大事で、右脳だけでも偏りがあるし、左脳だけでも同じく偏った人間になってしまう。両者のバランスが大切で、どちらかが優位であっていいけれども、その場合は、もう片方もそれなりに鍛えてバランスを取らないと、一方のみ発達した偏った人間になってしまう危険性がある、ということでもあるのでしょうね。

 

幸福の科学の会内経典の、とある宇宙人の霊言で、右脳と左脳の働きが語られたものがありましたが、あれ、とても重要なことを述べていると、わたしは思いましたし、信者必読ポイントじゃないのコレ! とさえ思いましたけれど、

 

過去にも、大川隆法先生はさまざまに教えてくださっていて、心は胸のあたり、魂の中枢である「心」は、やはり胸のあたりに中心があって、頭脳というのは頭の方にある出先機関である、という表現もあったと思うし、

右脳と左脳の関係で言ったら、愛と反省、知と発展、という位置づけからも考えられるといった教え方もしてくださったことがあったかと思います。

宗教的人格や霊的なる生き方をすることと、この三次元世界でさまざまな情報処理をしたり、そうした仕事モードで働く際の頭脳の使い方とは、また役割分担の違いがあって、そのどちらも鍛えつつ、魂全体のバランスを取れる方向を目指すことが課題、という論点も踏まえたら、

これは、右脳も大事だが、左脳も大事であって、両者は互いに助け合って、補助しあって、そうして統合的な働きを目指していけるように、自己完成の道を歩むことが大切なのではないか、とも思いますしね。

芸術的感性や情緒の世界に親しみ、それを理解する心を持つことは、とても大切な心の修養であるのと同時に、知的な世界を理解したり、情報処理をテキパキとこなして、仕事をスピーディに正確に行えるような頭脳を鍛えることも大事、両者があって初めて、あの世的であると同時に、この世でも十分通用する人間となれる、ということなのだと、いまの自分は考える者ですね。

 

そういう理解で、最初のワイス博士の3つの文章に戻ってみれば、

 

心(胸のあたりにある魂の中枢)と、出先機関である脳(頭の方にある)、いずれもよく鍛えて、両者の連携、バランスを確立することが大事。

心が中心だけれども、出先機関である脳も訓練する必要がある。

心だけだと、お寺に籠ったお坊さんのように、霊的には磨かれても、この世に対しては力が足りない、ということになってしまう。

一方で、頭脳だけ鍛えても、心がなおざりになってしまったら、単なるこの世的な人間に堕してしまって、ビジネス世界で働いたのはいいが、心が空っぽだった、なんて人生で終わってしまう危険性が非常に高い、ということになるのでしょう。

心と頭脳、魂と頭脳、あの世的なる魂の働きだけでなく、この世にも適応して頭脳をよく働かせることのできる思考訓練も必要、ということなのかな、と考えますね。

 

ワイス博士は、魂の右脳、エゴの左脳、といった言い方をしてしまっているけれども、実際はそうではなく、魂は胸のあたりで、その出先機関の脳が頭脳的な働きをしていて、その中でも右脳は、感性的・悟性的な方面での出先機関であり、左脳は、知性的・理性的な働きをしている出先機関、という意味合いで理解すればいいのかな、というのが、わたし的な現時点での理解ですね。そんな風に、いまのところは考えているところです。違っていたらゴメンなさい。そのときは後々、修正するかもしれません。

 

便宜上、さまざまな言い方や説明で語れるのかとは思いますが、心と頭脳の関係、知性・感性・理性・悟性の関係、文系的・理系的、とか、さまざまな比較表現があるけれども、どこからどこまでが明確に二分されて、というような図面的なものではないのでしょう。

もっと立体的・複合的、たがいにまじりあって境界線を示すのは難しい。なぜなら魂というのは、全体でひとつの統合体なのだから、ここに知性があって、ここから先は感性で別物、というわけではないのでしょうからね。

ただ、あえて説明すると、このあたりがこういう働きをしている、ここがこれをつかさどっている、といった部位説明によって、わたしたちが理解しやすいように、便宜上、言葉や概念説明をして、聖賢たちはさまざまに教えてくださっているのかと、わたし的には理解するものです。

 

以上、研究&学び途上の、自分なりの探究結果の報告として。