このお話は今年の1月に書籍化した「私が夢見た『優』」。私の大学時代の実話です。
出版に際し、大人の事情によってブログ上から姿を消していたのですが、再UPできることになったので、読めていなかった読者用にもう一度順次公開していきます。
発売中の書籍は、このブログバージョンにいろんなエピソードが追加された完全版になっています。
目次はこちら
私が夢見た「優」
第二十二話「四年間」 (第二十一話「消えてゆく灯り」はこちら )
真夜中の薄暗いマンションの階段を下りて行くと、自分の靴音がやけに大きく響く。
私は原付バイクのエンジンをかけた。
二人の部屋に、一人で取り残されるのは、耐え難かった。
黄色い街路灯が、ぽつんぽつんと続く海までの道を、バイクは夜を真っ二つに裂き進んでいく。
叩きつける風で、耳がちぎれそうなほどに悲鳴を上げた。
倉庫が立ち並ぶ道を左に抜けると、海に大きく架かる橋が見える。
私はバイクを停め、防波堤にのろのろと上った。
海面はゆらゆら凍りそうに揺れて、いくつもの明かりを、滲ませながら反射していた。潮と油の混じった匂いが肌を撫でていく。
どうして海を見ると人は少し安心するのだろう。
海は決してすべてをとり去ってはくれないけれど、抱えた荷物をふっと少しだけ軽くしてくれる。
それは、きっと体が・遺伝子が覚えているから。
ヒトが海から生まれたこと。
そして、またいつか還っていくこと。
深い水の底に、ひっそり沈殿する泥のように沈黙した私とトモの毎日は、どこへ向かうのか。その時の私はもう知っていたのだと思う。
けれど私はその水の底、ふわふらと流れに揺れながら、かすかに差し込む水面からの光に希望を見い出そうとしていた。
……大丈夫。大丈夫。四年間。私たちには四年間がある……
四年間。
二十歳過ぎの私には、トモと付き合った四年間は絶対的な重みがあった。四年間も一緒にいたのだから大丈夫だと。
薬指の指輪だってトモがくれたものだし、
部屋のソファーも予算の中から少しでも座り心地のよいものをと、二人でいくつの店を回って買った。
毎年秋になると、紅葉を見に行く滋賀の神社。
婚前旅行の越前も、
何気なく過ぎる身近な毎日も、ずっと一緒だった。
だから大丈夫。
トモの生まれ育った街にも行くって、絶対一緒に行くって約束した。
後ろ手に地面についた、手のひらに食い込む小石の感触。
素足にそのまま履いた靴の底から、きりきりと這い上がってくる冷気。
防波堤から見上げた空にはガラス玉のような星がいくつも輝いていた。
部屋から見るよりも、ずっとたくさん星は見えた。ひとりトモの影を待つふたりの部屋よりもずっとたくさん見えた。
トモのお母さんは、少しずつ元気になっていった。
それに従って、トモが実家に通う頻度も少なくなっていったけれど、彼の目の奥でくすぶり続ける暗い光はいつまでも消えなかった。
テレビを一緒に見ても、冗談を言い合っても、楽しい時間がひとつひとつ蓄積されていくことは・なかった。
空寒く冬の空に立ち上るたき火の煙のように、次の瞬間には風の向こうにあっと言う間に見えなくなるのだ。
「なんかない?」
ミキがズケズケと冷蔵庫を開け、聞いた。
「そやなー。材料ないしどっか食べに行こかー」
私はダイニングテーブルに頬杖をついて、昼ドラを見ていた。
お互いが非番の日、ミキが部屋に遊びに来た。
春がはらはら舞い降りる音が聞こえてきそうな薄飴色の空が、午後の静けさにぐっと押されて静止しているようだった。
「あ、なんかあるやん。野菜炒め?」
ミキは目ざとく見つけた皿をとり出した。
ラップのキュウキュウ鳴る音が、耳に障った。
「うん。でも昨日作ったやつやからおいしくないで」
「そんなん大丈夫。食べていい? てか楽しみに残してたん?」
色とりどりの野菜が入った野菜炒めなのに、私の心細さを全部吸いこんだかのように蒼白に見えた。
ミキがコトンと皿をテーブルに置いた音が・私の中の何かを動かした。
「トモが、帰って来えへんねん」
それまで誰にも言ったことはなかったし、言うつもりもなかった不安の言葉が出た。
「え? トモ君帰って来ないん?」
ミキの問いに私がうなずくと、
「ケンカしたん?」
と、彼女は神妙に聞いた。
かぶりを振った私は、しばらく黙り込んだ。
何か重い空気を嗅ぎとったのか、ミキは言葉を選ぶようにに言った。
「そんなにしょっちゅう帰って来ないん?」
「うん」
「連絡は?」
「ない」
「帰って来るか来ないかわからんのに毎晩ご飯作って待ってるん? 最近も仕事終わったらふつうに買い物して、早く帰ってたやん」
「うん」
「トモ君は、自分が帰らん日もあんたがご飯作って待ってるって知ってるん?」
「知らんと思う。いつも次の日にはこっそり捨ててるし。……もったいないな」
ミキはすっと立ち上がり、流しに皿をがちゃん、と置いた。
「こんなん捨て。みじめなことしなや。帰ってくるかどうかもわからん人の帰りを待ってご飯なんか作りなや」
言葉の最後の方は、涙声になっていた。
私は、そんなミキを見て、
もしかしたら私とトモはもうダメなのかもしれない
と、ぼんやり思った。
私は、キラキラした二人の思い出を抱いて、遠く沈んでゆくピンクや金の夕日を見つめて立ち尽くしていた。
その上に覆い被さる灰色の雲を連れた濃い闇から目を背けて、滑稽なほどに綺麗な思い出だけを見つめ続けていたのだ。
私はその夜、長めの手紙を書いた。
トモがくれたたくさんの幸せのこと、いつか話した三人の「優」のこと。変わらず愛しているという思い。
そのときに書ける精一杯を書き綴った。
私は、死にかけた二人の未来を、何度も揺り起こしてはしつこく抱きしめていた。
イカナイデ
ワタシヲノコシテイカナイデ
翌朝、まだトモが眠っている間に、その手紙をいつものように彼の財布に入れようと開けると、札入れの端には、私が前に入れた手紙がそのまま入っていた。
私からの手紙を読み終えると、いつもタンスの引き出しに大切にしまっていたトモが、財布に入れたままにしていたのだ。
しばらく動けずに固まった後。そっとその手紙を抜きとり、前夜に書いた手紙と一緒に自分のポケットに入れ、財布を元に戻した。
もし、私の手紙が、彼の財布を重く重くしていたのなら。
私はその日を最後に、手紙を書くのをやめた。
今でもそれは正しいことだったと思っている。好きという気持ちが人を幸せにし続けるように、傷つけ続けることだってあるのだと。
第二十三話「イカナイデ」 へ続く