このお話は今年の1月に書籍化した「私が夢見た『優』」。私の大学時代の実話です。
出版に際し、大人の事情によってブログ上から姿を消していたのですが、再UPできることになったので、読めていなかった読者用にもう一度順次公開していきます。
発売中の書籍は、このブログバージョンにいろんなエピソードが追加された完全版になっています。
目次はこちら
私が夢見た「優」
第二十一話「消えてゆく灯り」 (第二十話「永遠が、見えた。」はこちら )
「おとんや」
言いながら、トモは携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし?」
トモのお父さんと、二人のいる部屋が電話で繋がっているのかと思うと、緊張した。私は息を殺して、シチューを口に運んだ。
「うん…うん……え? マジで?」
トモが声を荒げた。ただならぬ雰囲気に息を飲んだ。
「それって悪性? 転移とかは? おかんは知ってんの?」
その言葉に、部屋の空気が鋭く・触れそうなくらいに張り詰めた。
ついさっきまであたたかく部屋を包んでいた明かりが、一段も二段もトーンダウンした気がした。
全神経がトモと彼のお父さんの会話に集中する。
「うん……うん……」
トモはしばらく絶望的に暗い声で相槌を打ち、電話を切った。
「どうしたん?」
私はすぐに聞いた。
「おかんがガンやって。診断で見つかって。進行性やからすぐ手術やって」
「それって……手術したら大丈夫なん? どうなん?」
「今のところ転移はないらしいから、ガンを切除したら大丈夫らしい。すぐに手術の準備に入るって」
言い知れない不安がお腹の底でドロドロと渦巻くのを感じた。
「お母さんは知ってるん? 悪性やとか…」
「うん。知ってる。なんかオトンとかより全然元気みたいで。手術なんかすぐ終わるから俺には知らせるな言うたらしいんやけど、オトンが内緒で連絡してきた」
「そっか……」
ガンなど、テレビの中だけの病気だと思っていた。
自分の周り、ましてやトモの親にそんな不幸が降りるとは想像もしなかった。
先ほどまでの楽しい夕げはどこにもなく、緩慢に、けれど確実にすべてを覆いつくしてしまいそうな闇、どこにも身の置きどころがない焦りを肌で感じていた。
私たちは何をすればよいのかわからないまま、テレビ番組の笑い声がむなしく響く中、すっかり冷めたスープを前に途方に暮れた。
「大丈夫や。お前は心配せんでも。しばらく俺忙しくなるけどごめんな」
彼は自分を励ますように言った。
それからすぐにトモのお母さんの手術は行われた。
成功はしたけれど、お母さんは胃の半分を失くした。再発の可能性も否定できないと告げられた。
トモは術後、体力的にも精神的にも弱ったお母さんの様子を見るために何度も病院に通うようになった。
そのまま実家に泊まり込んで、会社に出る日もあった。
私はガンのことをたくさん調べて、再発防止のために少しでも役に立ちそうなものをピックアップしてまとめたり、トモの体が壊れてしまわないよう、家での食事は前よりも栄養に気を遣った。
私には何もできなかった。
だからといって、何もしないよりは何かをしていたほうがよかった。
そんな毎日を続ける中で、トモの笑顔が少なくなっていった。
家にいてもぼんやりとタバコを吸っていることが多くなった。
私がいろんなことを話しかけても、彼の心の表面をただつるつると滑っていくような感じだった。どんな言葉もトモの中に入れなかった。
彼の、私を見る目に、ある種の光が宿るようになった。思いを凝縮した光。
私はどうしようもなく不安な気持ちを抱えながらも、努めて平静を装っていた。
少しずつ何かが狂い始めていたのだ。
ある夜、トモは酔っ払って帰ってきた。ソファにうつぶせに倒れこんで、動こうとしなかった。
「飲んでるやん。どしたん」
トモはお酒をほとんど飲まない人だった。
彼はそれには答えず、クッションに顔を埋めながら
「なぁ……ごめんな…ごめんな…」
と何度も謝った。その言葉の裏に何があるのか、私は薄々わかっていた。
侵食するように迫ってくる大きな何か。
どちらかが、本音を口にすれば一瞬で崩れてしまいそうな、危ういバランスだった。
その後、何の連絡もないままトモが家に帰ってこないことが増えた。
病院や実家に寄ったり泊まったりするときはもちろん、つきあいなどで遅くなるときも必ず携帯で連絡をくれていたのが、はっきりと減っていった。
一人でトモの帰りを待つ、夜の部屋が嫌で、私は眠くなくても無理やり眠るようになった。
トモが帰ってくればいつでも食べられるように、食事の用意をすると、テレビもつけず・部屋の明かりを消して、ベッドに入った。
無理にかたく瞼を閉じて、スプリングの上で小さくなる。
道路を走る車の音以外は無音の世界。
それでも、耳は離れた玄関に集中していた。トモがカチャカチャと鍵を開ける音をずっと待ち続けた。
私は、トモとの関係が少しずつズレはじめてから、彼に関係する夢をよく見るようになった。
すべて覚えてはいなくても悲しい青色を、夢から連れて来ていたように思う。
目が覚めると髪が涙で濡れていることがよくあった。
その日も、ようやく訪れた浅い眠りの中で、トモが帰ってくる夢を見た。
トモは屈託のない笑顔で、
「ただいま」
と笑う。
「おかえり」
私は夕飯をあたためはじめる。
トモは朝に私が財布に入れた手紙を、丁寧にタンスにしまう。
テレビ、
ガス、
二人がいる部屋で出すすべての音が、調和のとれた綺麗な音色に聞こえた。
「今日な、会社でよー」
トモは着替えながら話し出す。
「そうなんやー」
私は適当に相槌を打ちながら、茶碗に白いぴかぴかしたご飯をよそう。
よかった なにも かわっていない
けれど、私はしゃもじを使いながら、ある影に怯えている。
大きな渦のように、何度も私を巻き込んでつれていこうとする影。
「これは、夢」
連れて行かれまいと、私は必死で抵抗する。
テーブルに並んだあたたかいおかず、
トモの笑顔、
低い音で回り続ける換気扇
……回る回る……
真っ暗な部屋で目を覚ました私は、夢か現実か一瞬わからなかった。枕元にある目覚ましのLEDが示す時刻を確かめ、そっとキッチンに向かった。
フローリングがひんやり素足に冷たかった。
窓から差し込む青白い明かりの中、私が作った料理がラップに包まれたまま沈黙していた。それを確認した時の脱力感。
まだ、帰っていない
トモの帰りを待ちながら作った料理が、テーブルの上で冷たくなっていた。死んでいるように。
そういうことが、帰ってこない事実よりももっと悲しいことのような気がした。
二人でひとつずつ点していった明かりを、今度はひとつずつ吹き消していくようだった。
私が気に入ったキッチン。
そこに立つだけであたたかい気持ちになれた場所。人の血となり肉となる物を作るその場所が、この世のものとは思えないほど、無機質な場所に変わっていた。
窓の外を見ると、枠に切りとられたような家並みの上、冬の澄んだ夜空が広がり、星が二つ、三つ潤んで瞬いていた。
薄暗いキッチンは私の心の風景を映し出す鏡だった。
このままではダメになってゆく
体いっぱいに飽和した不安と寂しさが溢れ出してしまわないように、私はコートを羽織って、バイクのキーを掴み、玄関を出た。
第二十二話 「四年間」 へ続く