教育に愛と信頼を | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

先日も書いたが、神戸市の小学校教諭が先輩教諭らから、いじめを受けていた問題がどうも腑に落ちない。

 

本来、児童·生徒の手本となるべき教師は「いじめ」をなくす立場なのではないか?それが教師が同僚をいじめているとは開いた口がふさがらない。

 

ところで、以前にも書いたことがあるが、教育、educationとはラテン語のe-ducereという言葉が由来。もともとは「引き出す」という意味だ。教育は詰め込むものではなく、引き出すもの。内面的なものが引き出され、それが「自信」となった時、人間は喜びとともに、静かに心の中で、パン種のようにじわじわと大きく膨らみ、やがて美味しいパンとなり、周囲の人々の心も体も満足し、喜びを満たすものとなる。

 

これは賛否両論だと思うが、日本の学校教育は非常に画一的だと思う。「落ちこぼれ」や「受験戦争」対策として、徐々に教科内容と授業数が減らされ、「ゆとり教育」に転換されたけれど、結局は学習指導要領が改定された。いずれにしても、教師と児童·生徒との心のふれあいがなければ、子供の良いところを引き出すことは出来ない。つまり「愛」と「信頼」だ。

 

この春、苦しい受験を乗り越え、都内の私立中学に入学した甥っ子が夏休みの終わりがけにミラノにやってきて数日共に過ごした。大学付属の中学ではないので、また5年後には大学受験をめざさなければいけない、というのだ。まわりも皆そうなのだと。

 

以前ミラノで一緒に過ごした友人のお子さん達は、日本に帰国し、中高と過ごし、出来が良いからなのだろうが、皆一流大学へ入っていった。やりたいことがあるならそれでよし。しかし、大学に入るまでが大変な日本と、出るのが大変なイタリアの教育の違いを思うとどうなのだろうな...と思う。

 

話は変わるが、作家であり、長年にわたり、ハンセン病患者の治療にあたった精神科医の神谷美恵子女史は、患者との交わりを通して、<生きがい>の真意をさぐり、『生きがいについて』を著された。そこには、

 

『人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない(中略)。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。』

『愛するとは相手をいとおしみ、相手をその最も本来的使命に向かって伸ばそうとする心』

 

と書いている。

 

親や教師たちは、子供をその本来的使命に向かって伸ばそうとしているのだろうか。自分たちが見たい姿、させたい姿に向かって子供を引っ張っているとしたら、それは大人のエゴだろう。

 

教育とは、子供達一人一人をいとおしみ、愛し、信頼することによって、その子の可能性を引き出してあげることができるのだと思う。たとえ、子供は親や教師の期待から大きく外れても、自分のしたい道を歩めるのならイキイキと生きていけるのではないだろうか?

 

上記甥っ子が帰国する際、別れ際に声をかけた。「自分のやりたいことを見つけて、やりたい道に進むんだよ。自分の人生なんだから!つまずいたらまたミラノにやって来なさい!」軽く背中を叩くと、「ありがとうございました」と頭を下げていった。

 

 

 

ミラノの日常「反面教師」

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12534093512.html