高野山武将の墓 | 結城秀康の石廟 - 徳川家康の次男なのに天下を継げず! | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
高野山にある結城秀康の石廟の紹介です。

人物名墓のある施設住所
結城秀康高野山奥之院和歌山県伊都郡高野町高野山
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結城秀康の墓は高野山奥之院にあります。
右地図は奥之院の弘法大師御廟をマークしてありますが、墓は一の橋から弘法大師御廟へと続く参道にあります。
くるまr高野山周辺には数か所の無料駐車場があります。

現在とは異なり、武将の墓は一つとは限りません。
ゆかりの地であったり、死亡した場所であったり、子孫が治めた地であったり、日本全国に墓が数箇所存在する武将も少なくありません。

高野山にも、理由は様々なようですが数多くの武将や藩主の墓があります。
一度にたくさんの武将の墓を見るならば、高野山がお薦めですよ。

天下を継げなかった非運の将・結城秀康
結城秀康(ゆうきひでやす)は徳川家康の次男です。
幼名は幼名は於義丸(おぎまる)。
母は家康の正室・築山殿の侍女・於万の方です。
秀康は、築山殿への配慮から、浜松城内ではなく家臣の家で産まれています。
しかも三歳になるまで、家康への目通りも許されませんでした。

天正7年(1579年)、家康の嫡男・信康が織田信長の命により自刃させられます。
それにより、本来ならば、次男である秀康が家督相続の第一候補となるはずでした。

天正12年(1584年)、家康は羽柴秀吉と対立し小牧・長久手の戦いが起こります。
両者は後に和睦しますが、秀康は秀吉のもとへと人質に出されます。
秀吉は秀康を養子とし羽柴姓を与えますが、それにより徳川家の継承権は異母弟の秀忠へと移ってしまいました。

その後、秀康は結城家の養子となり、秀吉一族としての栄光も失ってしまいました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは上杉景勝の抑えとして宇都宮に留まり、大戦には参戦しませんでした。
関ヶ原の後、越前北ノ庄へと転封となり68万石を領します。
しかし、34歳の若さで亡くなってしまいました。


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結城秀康の石廟。



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別アングル。
左の石廟は母・於万の方のものです。


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奥之院にある武将の墓一覧です。

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