城めぐり | 十河城!讃岐を領した鬼十河の居城! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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お城めぐりの旅、十河城の紹介です。

城名(別名)住所関連する人物
十河城(西尾城、十川城)香川県高松市十川東町十河一存、十河存保、十河存之、長宗我部親武
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十河城本丸には現在称念寺が建っています。
くるまrお寺の駐車場があります。

十河(そごう)城は、十河氏が南北朝時代に築いたといいます。
以降代々十河氏の本城でした。
お寺の案内板によると、十河氏は景行天皇の末流だそうです。
十河景滋(かげしげ)の代に子が無く、三好長慶(みよしながよし)の実弟が十河家を継ぎます。
以降、十河氏は安宅氏(あたぎし)とともに三好の両翼として活躍します。

十河城に危機が訪れたのは、天正10年(1582年)のことでした。
香西氏(こうざいし)を降した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が一万を超える軍勢で城へと迫ってきたのです。
城は城代の十河存之(まさゆき)で、城兵はわずか一千ほどでした。
大軍で攻める長宗我部軍でしたが、必死の抵抗を前に城を落とすことはできませんでした。

しかし、天正12年(1584年)、再び攻め寄せた長宗我部軍によって落城。
城は長宗我部親武(ちかたけ)が入ります。

1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐によって再び十河存保(まさやす)が入城を果たします。
知行は2万石でした。

しかし1586年(天正14年)、十河存保は秀吉の九州征伐に従軍し、
戸次川にて討ち死にしてしまいます。
存保の子は幼かったため、生駒正親に預けられ、十河城は廃城となりました。

開拓され、かなり地形は変わってていますが、それでも称念寺の北側に十河城の遺構を見る事ができます。


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称念寺山門。



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称念寺本堂。この地が十河城の本丸でした



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お寺にあった案内板。



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堀跡。



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この感じ、まさしく城ですね(^_^)


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残る土塁。


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土塁。



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堀、土橋、段状の曲輪がなんとなく分かります。



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