【大神記5】アベノ封印解除記と新発見 | 螢源氏の言霊

【大神記5】アベノ封印解除記と新発見

【大神記】目次はこちら



久々の大神記シリーズである。

2015年3月18日に、大阪の阿倍野でアストロ総裁 と行った御用の記事が完成したので、ここにまとめておく。




アベノ封印解除記




このようにかなりオカルトチックな内容である(笑)



【アベノ封印解除記1】~天命の再会~

5月4日 更新
鬼将軍とアストロ総裁が2年ぶりに再会。総裁は阿倍野の変貌に唖然とする。



【アベノ封印解除記2】~解き放たれた大蛇~



5月24日 更新
大蛇事件の現場を視察し、無人の総裁の祖父母宅へ。そこで「三輪の天啓」を得る。



【アベノ封印解除記3】~供物交換の儀~


5月26日 更新
互いに献上品を交換。大神信房の遺影を設置して、ここが彼の戦没地であると示す。



【アベノ封印解除記4】~龍王の眠るところ~


8月11日 更新
ついに封印解除を実施。石宮龍王祠の惨状、そこで総裁と鬼将軍がみせた「振る舞い」とは…!?



【アベノ封印解除記5】~阿倍野を清める雨~


8月15日 更新
阿倍野の街をパトロール。歴史に思いをしのばせた、封印解除とは…!?



【アベノ封印解除記6】~阿倍野を鎮める楼~

8月28日 更新
古代より戦乱の絶えることのなかった阿倍野の地。鎮魂が目的の「現代の摩天楼」の正体!



【アベノ封印解除記7】~兵どもが夢の跡~



9月3日 更新
万代池に降りた鬼将軍。実はまだ、もうひとつのアベノ封印解除御用があった!




大神記

このように今更感があふれる中、密度的な関係でかなり執筆が大変だった記事をまとめたわけだが、実は完成後に新たな発見が4つあったのでそれをまとめてみよう。


もちろん、大神信房(おおみわのぶふさ)に関連した新発見である。ここからが「大神記 シリーズ 」の続編にふさわしい内容である。




話を進める上でわかりやすくするための前提。


大神信房

・南朝の武将、大神神社の神官。
・蛇、龍の化身。
・北畠顕家と同じ日(1338年6月10日)に阿倍野で戦死。
・石宮龍王、万代池、桃ヶ池、封印された怨霊。
・隠蔽のため顕家とすりかえられた。

石宮龍王の祠
・大神信房の戦没地。
・今は無人の総裁の祖父母の家。
・昭和に霊媒師の指導で祠が設置された。
・心霊現象が多発していた。


アストロ総裁
・楠木正成の子孫。
・正成は南朝なので、信房と親交ありと予想される。
・封印解除=旧友(信房)への弔い。
・天啓による大発見が多い。

細川鬼将軍
・信房と顕家を討ち取った武将、細川顕氏の親戚の子孫。
・封印解除=被害者(信房)への慰謝?
・歴オタであることを生かし謎を解く。




発見① 伏見稲荷・眼力社との類似点


8月15日、京都の伏見稲荷山の眼力社(がんりきしゃ)というところに行ってきた。



そこに面白いキツネ像がある。



実はこの眼力社、別名は石宮大神(いしのみやおおかみ)といい、実は信房を祀る石宮龍王の祠の総本山的な場所なのだ。



これのボス。


そこにあるいわば「反りキツネ」とも言おうか、この変な形のキツネ像。どこかで見たことあるのだ。


そう、大阪阿倍野は安倍晴明神社のキツネ像とそっくりなのだ。



こんな変な形のキツネ像は伏見稲荷とここぐらいしかない。安倍晴明神社の方は稲荷社ではないが、もしかしたら過去は稲荷社だったのかもしれない。

阿倍野と伏見稲荷の関連性が伺える。



2014年10月21日にも訪れた安倍晴明神社。




今年の8月。構図がかぶってる(笑)




発見② 万代池の「三つ鱗」


三つ鱗
(みつうろこ)紋といえば、三角3つの家紋である。




大神氏の家紋である三本杉が元となったシンボルである。



北条氏の家紋、ゼルダのトライフォースとしても有名だが、水神や龍神系の神社に多い神紋である。



石宮龍王祠もこの三つ鱗であり、今回のロゴはそれも意図している。



桃ヶ池には大神信房の下半身が埋まっていると我々は推測しているのだが、桃ヶ池の股ヶ池明神にも三つ鱗があった。



この三つ鱗こそ、大神信房との関連の"証拠"であると睨んでいる。



万代池にも大神信房の胴体が埋まっているのではないか?と推測しているが、万代池の社には証拠となる三つ鱗紋がなかった。


しかし、スマホでグーグルマップを見ていると発見した。



石宮龍王祠の方角から見たら、万代池の3つの島が三つ鱗の形をなしていたのだ。



橋がかかっている島に古池龍王という祠がある。ここには三つ鱗は無いのだが、島全体が三つ鱗だったのだ。

「三つ鱗島」と名付けよう。



三ツ星という家紋にも似ているが、三つ鱗の陣形である。





これで、この三箇所に信房が封印されている"証拠"が揃った。





発見③ 幻の「石宮池」

ネットで明治時代の阿倍野の地図を発見すると私は目を疑った。


なぜなら石宮龍王祠の場所に池があったからだ。



これには本当に驚いた。ホンマに池があったんかよ!!と。


というのは、8月13日に夢の中に大蛇が現れたのだ。赤い水溜まりに大蛇は佇み、私の股の下をくぐろうとして来たが、すぐに水たまりに戻った。蛇に敵意はなく、不気味な場所だったが私もそれほど恐怖は抱いていなかった。



起きてすぐにイメージ画像を書いた。



夢の内容は、どこかの古いビルを探索していたら、いつの間にか自分の家、しかも一軒家っていう設定(実際はマンション)になっていた。自分ちの害虫駆除のために床を剥がすと、地下に廃坑のようなものを発見。そこに血のような赤い水溜まりがあり、大蛇がいたのだ。



これは信房のことだと直感した。信房は龍=蛇の化身だからである。このことを電話で総裁に話すと、「実際に石宮龍王祠に井戸とかがあって、大蛇がいるのかもしれないですね~。」とおっしゃっていた。実際に池は昭和まで残っていたらしい。

龍王が祀られてるところは大抵が水源であり、三つ鱗紋なんかもそれの目印である。



そんな矢先に明治時代の地図である。



1885年(明治18年)、今から130年前である。明治でこれだけの池ということは、その前の時代から池があったのだろう。

名前が不明なので仮に「石宮池」と名付けておこう。真ん中に島があるのが気になる。



現代の地図と重ね合わせた。



ちなみに、石宮龍王祠の場所は総裁の祖父母の実家跡なので、プライバシー保護のために微妙に位置をズラしてある。しかし、池のすぐ隣であることには違いない。

明治の地図でこそ池の隣だが、昔は池の中だったかもしれない。埋め立てで池の面積が小さくなることはよくあることだからだ。



地図の地形を見るに、石宮龍王から万代池にかけて微妙に谷だったことがわかる。



ここで地形&ため池マニアの私の勘が炸裂した。


石宮龍王は水源地・泉であり、万代池まで川が流れていたと。



雑だが、そのイメージ図を描いてみた。



おそらくは石宮龍王から川が流れて谷ができたのだろう。流れた水が溜まったのが万代池である。

農地に送る水を確保する灌漑のために、石宮水源はせき止められてため池となり、明治の地図にあるように石宮池となった。これが私の考察である。



まさしく水源なら聖地である。



なんでこの場所で大神信房が戦死したかも説明できそうである。おそらく石宮池ができたのは江戸時代~明治時代だろう。それ以前の地図には池が見当たらない。龍王は泉もしくは井戸があったのだろう。

合戦において拠点にするなら水源があるところである。喉が乾くし、傷の手当てでも水が必要だからだ。傷を負った信房は、一時的な陣地のあった石宮泉に戻ってきて息絶えたのだろうか。



昔の石宮龍王のイメージ。



古代~南北朝時代→水源地、泉、井戸。川が流れ万代池に通ずる。
江戸時代~明治時代→池になる。川はなくなり谷だけ残る。。
昭和→埋め立てられる。石宮龍王祠が建てられる。



中学校の校庭は池を埋め立てたものであることがわかる。



地形から当時の様子がわかることが多い。小・中学生の頃、よく地元の地形を調査して古代のイメージ図なんかを作っていたものだ(笑)



調べてみると、万代池は谷をせき止めて作られたことは確かなようだ。




よくみると、明治の地図によると万代池の島は1つしかなかったようだ。しかも、古池龍王祠のある島は当時なく、地図に載っているのはまた別の島のようだ。

つまり、万代池の三つ鱗島は割と最近になって作られた人工島であるということか。



ちなみに私が大蛇の夢を見た日、なんと家族が龍の絵を買ってきた(笑)



しかも、見る角度によって絵が変化するやつである(笑)割と安かったので、3つも買ってきて部屋に飾ったようだ(笑)

ん、待てよ。龍が3つってことは、石宮龍王祠と万代池と桃ヶ池の三龍王のシンクロではないか?(笑)信房を封印した犯人は我が先祖(の親戚)である細川顕氏であるという説があるので、ついに我が一族にも蛇=龍を祀る時がきたということか…(笑)



すごいシンクロなのでその日に、我が部屋にも龍と三つ鱗ピラミッドの祭壇を設置した(笑)


ちなみにガラスのピラミッドは百均で買ったやつ、龍のオブジェはゴジラシリーズの怪獣「マンダ」のフィギュアである(笑)マンダって万代池とシンクロするな…(笑)

二つとも元々、部屋にあったやつで作った簡易祭壇だが、これだけのことが続けば「龍を祀れ」という天からのメッセージであると受け取った。


このように私は連続シンクロにより"天啓"を得たわけである。考察は時間がかかるが、天啓の速さはすごい。



我、天啓を得たり。by 『龍が如く 見参』



私は霊感も超能力も無いので、そういう突飛したことではなく、ごくごく感覚的なものなのだろう。




発見④ 大神信房と兼好法師の関係


8月1日、大阪阿倍野にある聖天山(しょうてんやま)に行ってきた。



山といっても住宅街のど真ん中にある小高い丘で、京都の船岡山に雰囲気が似ている。

ここは信房の戦没地である石宮龍王から割と近く、前々から重要スポットのような気がして気になっていた。



案の定、龍王社があり三つ鱗もあった。



さすがに、埋まってるとか封印されているとかはないと思うが。


見渡しの良い高台なので、信房や顕家が陣として使用していた可能性がある。


先には阿倍野ハルカスが見え、ちょうど四天王寺の方角である。信房たちは四天王寺奪還のための兵の陣をここ聖天山に置いていたのかもしれない。


山に正圓寺という寺があり、そこに「兼好法師の藁打石」という石碑がある。



あの兼好法師がここに住んでいたようである。しかも、1338年に阿倍野の戦いで戦死した北畠顕家を弔うために、戦没地から近いここ聖天山に菩提を建て、藁を打ちむしろを編んで暮らしていたそうである。

実は兼好法師は顕家を息子のように可愛がっており、若くして戦死したことを大変悲しんだそうである。






…って、ちょっと待て、顕家が死んだのは阿倍野じゃなくて、堺の石津ですから!!残念!





確かに歴史小説・太平記には顕家は阿倍野で死んだと書かれてあるが、さすがに兼好法師ぐらいの知識人となると顕家が死んだのは石津であることぐらいは知っていたはずである。

では、聖天山に兼好法師が顕家を弔い住んだというのは嘘っぱちなのだろうか?いや、こう考えることもできる。






実は兼好法師が息子のように可愛がっていたのは北畠顕家でなく大神信房であり、兼好は信房を弔うために聖天山で暮らしたのだと。

それなら全てが説明できる。彼の本名は卜部兼好(うらべかねよし)といい、神職の家柄だったそうだ。ならば、神官である信房と交流があってもおかしくはない。


ちなみに吉田とは一度も名乗ったことはないらしいので、吉田兼好と呼ぶのは間違いである。





それに兼好は、あの有名な『徒然草』の第二十四段で、オススメの神聖な神社の一つとして大神神社をあげている。言うまでもなく大神神社は信房の実家であるが、そこに兼好が実際に訪れていた証拠だろう。


やはり、信房の存在を隠蔽するため、何者(北朝・室町幕府?)かにより顕家とすりかえられているのである。兼好法師も謎の人物であり、信房との関係はまだまだ不明だが考察を続けていきたい。



2011年8月19日、高1の時の私も訪れている。




同じ場所だが、後ろの木と私の髪がボーボーに伸びて様変わりしている(笑)


ちなみに兼好は晩年、信房を殺した武将である高師直に接近して、スタイリストやゴーストライターを担当していたそうである。なぜ兼好は、言わば息子の仇に接近したのだろうか?謎は多い。





天啓と考察の二刀流


そういえば、信房や顕家が戦った南北朝時代(1338年5月頃)の地図を作った。



その名も畿内子細絵図。顕家が軍事目的で作らせた地図という設定。単なる地図ではなく、当時の軍事的な勢力図も兼ねている。

当時の地形、街道、国境、勢力、合戦を私が調べてわかる範囲内を集約させた。この時代の地図を再現したのは史上初だろう。



大阪部分の拡大。

×…合戦
…南朝勢力
…北朝勢力
…顕家軍の陣地


書籍で当時の史料を調べたり、ネットから色んな時代の地図を何十枚も重ねて作ったりしたので、かなり神経を使った力作である。


まだ未完成だが、ここに拡大画像と参考資料があるので是非見て欲しい(笑)
http://shohgun-satanic.seesaa.net/article/426328705.html?1442604892



例えば大神神社は三輪明神、千早城は千剣破城、六甲山は武庫山、国は國など今とは違う地名・表記にしている。

これさえあれば南北朝時代にタイムスリップしても生きていける(笑)




現代の地図。



大神信房を主人公にした短編小説、その名も『大神記』をこのブログで掲載する予定だが、やはり歴史考察には地理を完全に把握しておく必要がある。

1338年の信房と顕家の活躍を描く必要があるからだ。顕家や信房がどのルートを通って進軍したのかを特定できつつある。



最近、重宝している史料『南北朝編年史 上』(著:由良哲次)



大学の図書館は史料の宝庫なので非常にありがたい。



信房に関連する人物をリストアップした。



大神氏から瀬戸内の海賊まで。登場人物は50人はいきそうだ(笑)



それぞれのキャラクターのセリフ。




ほかに制作の裏側の資料としては、顕家の進軍ルート年表も作ってある。



このように無い頭を使って作業をすることもあれば、現地を歩く御用のように感覚で得る作業をすることもある。


我々のやっている御用とやらは一見、コジツケに見えるが、実は直感(=天啓)による解釈や推論の方が的を得ていたりして、我々の歴史探究は頭で考える事より、実際に身体で感じ取ったものの方が大きい。ヒントは意外と分かりやすい形で示されている。






しかし、大学の図書館にこもってガチの史料を探すという歴史研究家みたいなこともしている。そもそもだが、学問による情報も得なければ歴史を解く上では話にならないからである。



天啓は右脳的、考察は左脳的な作業といえる。天啓と考察の二刀流であることが大切なのだ。






右脳は左脳の100倍の処理能力があると言われているが、確かに御用で起こったシンクロが大蛇の夢のように天啓のほうが先にやってきて、考察で証拠を得て裏付けているので確かだ。

逆に考察をしているなかでの、直感やひらめきなどもある。だが、先にやってきた天啓のほうが的を得ていることが多いのは確かなので天啓、天流れなどといった天(=神・自身の潜在意識や集合無意識)からのメッセージはあなどれない。それか天啓とは両脳が統合された時に起こる現象なのかも。



御用とは何か?いわばシンクロにより天啓、考察により証拠を得る作業である。




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