『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


テーマ:
5月1日に神戸にて行った統心の講演「地球精神の覚醒…自我は確立され、そして解体され、これからどうなっていくのか」の報告パート3のさらに【後半】です。

あまりにも長くなってしまったパート3、アメブロの仕様により【前半】と【後半】に分けてアップをすることになりました。昔で言えば「プログレ2枚組アルバム」です。「海洋地形学の物語みたいな」。(笑)(←分かる人には分かる)。

ここからやっと結論の章に突入です。そして最後は感動的なグランドフィナーレを迎えます。

【前半】でも書きましたが、しばらくは執筆活動に集中する予定なので「長文ブログ」は今回で一旦お休みにします。それもあって少々力みすぎた最終章ですが、じっくり味わって頂ければ幸いです。

それではさっそく、【後半】をどうぞ。

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【ブログ後半】

★【第3章 『反・キリスト期』から『超・キリスト期』へ 】

●私の『反・キリスト期』(現代の始まり)

現代が『反・キリスト期』であったということを今まで説明してきました。『反・キリスト期』とは「相対化」の時代であり、神の死、絶対的なものが地に落ちていく、もう何も信じられなくなり、やがてニヒリズムに向かっていく……つまるところ、現代はニヒリズムの時代です。

そして、その次に来るのが『超・キリスト期』。これは今までの文脈から言えば、ニヒリズムを克服して新しい大地に立つ「超人」の時代です。そしてヌーソロジーで言えば「変換人」の時代であり、その幕開けが2013年であった……ということです。

ですから私の場合、30歳以降にキリスト教信仰を離れて『脱・キリスト期』に入り、近代精神さながらビジネス・お金に邁進します。その後に『反・キリスト期』に入って、それが2013年まで続いたというストーリーです。では『反・キリスト期』に入ったのはいつの頃か。

私の『反・キリスト期』はインターネットを通して「ある情報」に出会ったことが始まりだと思います。インターネットは1999年頃より始めました。その頃はまだ仕事目的で使う程度のものでした。ネットによって仕事上の調べ物が随分楽になりましたし、買い物や銀行支払いなど、商行為のほとんどをネットで済ませるようになって、徐々にパソコンの前に座る時間が長くなっていったのを覚えています。

しかしながら精神世界を一切拒絶して、物質主義絶賛キャンペーン中だった私は、ネットでその種の情報を検索することなど滅多にありませんでした。そんな私でも2005年あたりから、ネットサーフィン中に精神的なもの、それも「かなり深い情報」にちらほら触れるようになります。

「これはかなり深いな……」。既に精神世界をさんざんやり尽くしてきた感のある私でしたが、そんな私でも「おや?これは?」と思う情報が目に付くようになりました。そして「ある情報」との出会いを境に私の認識はガラリと変化するのです。

「ある情報」とは……911ニューヨーク同時多発テロの真実を暴露したあの「LOOSE CHANGE 911の嘘をくずせ」の動画です。

911

(まだ見ておられない方は必見の内容です。確かに今となっては、この動画中にいくつか偽証があったり、故意に編集した部分が指摘されています。しかしそれも含めてすべて自分自身で検証すべきかと思います。まずは何が実際に起きているのか感じることが重要です。)

●ネットサーフィン開始!

正直驚きました。陰謀論に関しては、小学生の頃から月刊ムーの愛読者で、既にかなり詳しい訳です。中学生の時にはフリーメーソンやユダヤ関連の本をむさぼり読んでいましたし……授業中に教科書で隠しながら。

そんな私でも……確かにその前5年間は「脱・精神世界」だったので、その種の感覚は鈍っていましたが……本当に驚愕しました。今まで知識でしかなかった陰謀論が現実に展開していること、世界がここまで末期的状況にあること、そしてこれほどの情報が有意の人によりネットを通して世界中に拡散されているということに!

そこから一気にネットサーフィン開始です。当時は陰謀論の大家であるリチャコシさんが出始めたところ。まだリチャコシさんが誠実でマトモな時代です。ブレイク前の人は一生懸命でとても好感がもてます。ブレイク後はたいてい「?」です。なぜかな。

さてさてネットサーフィンをしながら出るわ出るわ、ディープ情報の連続!陰謀論をはじめ、芸能ゴシップ、とある事件の真相とかそういう下世話な内容も時には織り交ぜつつ、精神世界においては秘教的内容に至るまで、事情通でなければ知り得ない情報が、デスク上のPCからどんどん入手できるのです。もちろんそれら情報には取捨選択が必要であり、もともと懐疑心の強い私でしたから、最初からネット情報は「95%の嘘と5%の真実」と見ていました。しかし5%も真実があるということは凄いことです!だってテレビなんてほぼ100%虚構なのですから。

ネットサーフィンを開始してさらに驚いたのは、「日本人の意識レベルが上がってきている、それも急激に!」ということでした。これは良い意味で本当にショックでした。あまりにも驚いて放心状態になったのを覚えています。その時にはっきり思いました。これから「覚醒する人」が急激に増えてくるだろうと。

いてもたってもいられない。私はもう一度「精神世界」に戻らなければならないということを理解しました。この時期はネットサーフィンを通して、これまでの自分自身をどんどん「相対化」していったように思います。

『脱・キリスト期』において極端に物質志向に走った私ですが、それは「神からの逃走」でもありました。まだまだ続いていた「神の支配」に対する反動だったのです。「神の支配」、そしてその神にとって代わった「理性の支配」の終了とは、「相対化」によって起きます。ネットサーフィンによって内外の膨大な情報に一気にさらされることが、「自身の相対化」をもたらしました。私自身に起きたこの状況が、現代哲学における「構造主義」登場に至る流れの反復であったと理解しています。

スピ

●構造主義の本質

先に構造主義とはもともと文化人類学者レヴィ=ストロースに端を発するということを書きました。レヴィ=ストロースと言えば「野生の思考」が有名です。少数部族の現地調査を通じ、彼らの風俗・習慣、そしてその思考を深く深く理解し、そのことで今まで西洋思想史の文脈で流れてきた思考方法自体が西洋的であったことに気づくわけです。西洋の「相対化」。西洋中心主義からの脱却。自分自身のいる領域の「外部」に出ることで、閉ざされた領域から視点が出て、その領域を包摂している上部の構造に視点が移動する。「相対化」によって、いままでいた領域の何たるかがより分かるようになる。「自分自身を知る」ということですね。これが構造主義の本質です。

『反・キリスト期』は「相対化」によるニヒリズムの進行と、「構造主義」的思考の成熟、この二つが大きな特徴です。そしてその延長線上に「ヌーソロジー」が登場してくるのです。私がヌーソロジーに出会ったのは2009年4月、「人類が神を見る日」をネット書店から入手しました。

プロフィールのところにも書いていますが、ヌーソロジーとの出会いによって、これまでの全てのパズルのピースが揃ったように思いました。恍惚恍惚、そして快感快感!!!数行読んでは目を閉じ、また数行読んでは目を閉じながら、我を忘れて読みふけり、思索にふけってはまた読みました。そして思考実験を繰り返し、ガシャンガシャンと音を立てるかのように、自分自身がトランスフォーム(変容)して行ったのを覚えています。

その統合の中で見えてきた方向性を、2013年から始まった『超・キリスト期』として、関西ヌーソロジー研究会を立ち上げ、そこでの研究内容を皆さんにご紹介しているのがこのブログ「自分教ガイド」というわけです。ここで全てがキレイにつながりましたね。

さて最後に「構造主義」の文脈から得た大切な知見を二つ、「不可知論」と「多様体」についてご紹介し、その先に見える「地球精神の覚醒」まで、何とかお伝えしたいと思います。

k-noos

●不可知論

不可知論とは何でしょうか。

不可知論というのは、事物の本質は認識することができない、とし、人が経験しえないことを問題として扱うことを拒否しようとする立場である。(wikipedia)

不可知論とは1868年にイギリスの生物学者ハクスリーが自身の態度を表現した言葉です。ハクスリーによって改めて定義されたのですが、不可知論的態度としてはそれ以前のカントによる「モノ自体」という思考が有名です。カントは純粋に客観的な「モノ自体」は認識することも経験することもできないし、それが存在するという証拠もない、としています。単なる「分からない」という放棄ではなくて、もっと積極的に「分からない」ことを主張することがポイントです。能動的不可知論と言ってもよいでしょう。

さて現代はニヒリズムの時代です。神が死に、理性主義が死んだ時代。理性には限界がある、理性が全てを知ることはできないということが証明されたとお伝えしました。それが量子力学における不確定性原理であり、数学における不完全性定理です。

ところでかのアインシュタインは何故に量子力学に対して反発したのでしょうか。アインシュタインは特にこの「不確定性原理」が気に入りませんでした。彼の「神はサイコロを振らない」という言葉は既にご紹介した通りです。

アインシュタインのこの言葉を受けて、ボーアが返したとされる次の言葉が残っています。

「アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない」(wikipedia)

ボーアの弟子ハイゼンベルクはこれを以下のように書き記しています。

ボーアはそれに対してただ次のように答えるしかなかった。
「しかし神がいかに世界を支配されるべきかを指図することは、われわれの課題ではありません。」

(ハイゼンベルク「部分と全体」 pp.131)

アインシュタインの神は不確定性を受け入れることができませんでした。しかし本当に神がそれを拒んだのでしょうか。ボーアに言わせれば、それはアインシュタインが神に指図をしているのと同じだというのです。ボーアに信仰がないと言ってしまえばそれまでですが、ここではアインシュタインを通して信仰の何たるかを知ることができます。

それは、「信仰は、神の立場には関係がない」ということです。信仰はどこまで行ってもその人の世界なのです。その人の考え方であり、その人の神なのです。それが良いか悪いか、それが義か不義か、それが真実か否か……そんな事をここで問うているのではありません。アインシュタインは「神はこうあるべきだ」と神に対する自分の理想を持っていたし、その理想を信じていた。不確定性を受け入れなかったのは神では無く、そんなアインシュタインであったということです。

後に数学の分野において不完全性定理が証明されました。これにより、いかなる体系にも矛盾が入り込むことが証明されたのです。つまり完全な理念体系は存在しないということ。これはアインシュタインの信じた神の死を意味します。

ニーチェの予言はゲーデルの不完全性定理によって確定したのです。ここから先はニヒリズムの世界に突入します。神は既に死んでしまったのですから、もう何も信じることはできません。何も信じることのできなくなった精神は、次第にニヒリズム(虚無主義)へと吸い込まれていきます……しかし、果たしてそうなのでしょうか。それに抗うすべは全く無いのでしょうか。

ここに私たちは、先のボーアの態度からヒントを得ることができます。

「神がいかに世界を支配されるべきかを指図することはわれわれの課題ではない」

これが不可知論的態度です。能動的不可知論です。ボーア達は不可知論的態度をもって量子力学を開拓していったのだと思われます。

ボーア


●群盲象を評す……部分情報と全体情報

「群盲象を評す」という有名なインド発祥の寓話があります。インド発祥ですが、さまざまな思想を背景にそれぞれ改作されて、ヨーロッパをはじめ世界中に伝わっています。
内容は図を見れば明らかです。

群盲象


上図では4人の盲人がそれぞれゾウを触り、「ヘビだ」「ロープだ」「木の幹だ」「巨大な葉だ」と論じています。彼らは目が見えないので、全体像であるゾウが認識できません。全体情報が分からないので、自分の得た部分情報も、誤認識していることに注意してください。
ここでのポイントは二つです。
 
 1:部分情報しか分からない。全体情報は認識することができない。
 2:全体情報が分からない立場では、部分情報も誤認識してしまう。

ということです。すると何と言うことでしょうか。あの大天才アインシュタインですら、自分は全体情報が分かると「盲信」してしまい、「不確定性原理」という部分情報を誤認識して受け入れることができなかった言えるのではないですか。盲信とは、彼の神に対する信念のことを言っています。

アインシュタインですらそうなのですから、凡人の私たちなどほぼ全滅でしょう(笑)。かつて古代ギリシャのデルフォイの神殿において、「ソクラテスが一番の知恵者である」という神託が降りました。これに納得のできない謙虚なソクラテスは、その後いろんな人物と会って問答を繰り返し、やがて自分だけが「自分は本当は何も知らない」ということを知っていたと気づきます。それこそがデルフォイの神託の意味することでした。このように「無知の知」に至るというのは並大抵のことではありません。

ところで知識のある人達が己の知識を過信してそうなるのは分かりますが、知識のない人達もそうなっているというのはどういうことでしょうか。

これに対して私は言いたい。現代社会において知識のない人など果たしているでしょうか。現代はテレビという恐ろしい機械があるではないですか。失礼ですが、知識的でない人ほどテレビの前にいる時間が長いと言われます。テレビはイメージ情報であっという間に膨大な情報を脳にダウンロードしてきます。現代においては世界中の情報が、総天然色カラー・音声多重にて休み無く降り注いでいるのです。ほとんど全ての人がテレビを通して得た情報を根拠に、世の中とは、世界とはこういうものだと判断しているのではないでしょうか。それがどれほど部分情報であるかも知らずに。しかも大抵は偏向し、歪曲し、偽装されているにも関わらず、です。

神が死に、ニヒリズムが進行する時代において、まずこの「不可知論的態度」ほど重要なことはありません。

ところで不可知論には能動的不可知論があり、それに対する受動的不可知論があります。前者は「私は知らない」ということを能動的に認めることであり、後者は受動的に認めることですが、両者の違いについては以下の図を見て下さい。

不可知論


構造主義は能動的不可知論に通じています。全体情報の探査に能動的に取り組み、自己の位置を積極的に「相対化」し、自己が部分情報であったということを進んで認める態度です。この一連の思考活動そのものが構造主義なのです。

それに対して受動的不可知論は、自身が経験できないこと、知覚し得ないことには言及するな、思考するな、という態度です。能動的不可知論から見れば消極的に見えますが、原始仏教の伝統的な態度でもあります。ブッダによる八正道の教えがそうです。そして現代的スピリチュアルで流行している「ノンデュアリティ」もまた、このような態度を滑走路として「覚醒」へと飛翔していく道です。

それぞれに長所短所があるでしょうが、受動的不可知論の方は、下手すると主体性(自我)が強化されるように思います。上図ではその辺りを表現しています(自己が黒丸)。左の能動的不可知論においては、主体性が解体されていく様子がイメージできます(自己が白丸)。自己が部分情報であるという認識の方が、自我が解体されやすいということです。一方の受動的不可知論の方は、下手をすれば魔境に陥るリスクがあります。

●多様体

さてここにもう一つ大事な構造主義的知見をご紹介しましょう。それが「多様体」です。能動的不可知論を進めて行く為には、必要となる知見です。この多様体を理解し、生の現場にて実感していくことが「能動的不可知論の実践」となります。

ところでヌーソロジーが卓越している点は「視覚化」です。オコツトは「意識進化は空間認識の進化」として伝えて来ました。

オコツト:「変換人型ゲシュタルトとは、あなたがた地球人が21世紀以降に持つ空間認識のプログラムです」(「2013:人類が神を見る日」より)

多様体はこれからの私たちに必要な空間認識となっていきます。

【多様体】
多様体(たようたい、英語:manifold)とは、局所的にはユークリッド空間と見なせるような図形や空間(位相空間)のことである。多様体上には好きなところに局所的に座標を描き込むことができる。(wikipedia)


多様体1


多様体とは数学の用語ですが、ようするに「好きなところに座標を描ける」カタチということです。では座標とは何でしょうか。

座標

座標とは、上図のように原点を中心として、面ならx軸とy軸の二軸、立体ならx軸とy軸とz軸の三軸と原点を直交する軸を描けるということです。グラフの計算の時に出てくる図ですね。ここでも大事なポイントは二つです。

 1:必ず原点があるということ
 2:x軸、y軸、z軸など、軸はどこまでも、±∞まで伸ばす


数学的には厳密ではないかもしれませんが、実践上のポイントとしてはこの二つです。どこにでも座標を描けるということは、どこでも「中心」になれるということです。

とりあえず直観的に分かるのは、「地球は多様体である」ということです。地球においては、どの地点においても、そこを中心とした地図を描けるということになります。

地球多様体

上図を見て下さい。「地球が多様体である」ということは、要するに「地球上のどの点を中心としても地図が描ける」ということです。どこでも中心になり得るということです。これがどれほどの意味を持っているかご理解頂けるでしょうか。

世界地図

私たちは普段、世界や日本をこのように見ています。小さい頃から慣れ親しんだ地図ですから、いつでも北が上にあり、すると日本やユーラシア大陸はこのようなカタチになります。

しかしここにもう一つの地図があります。

upsetworld

どうでしょうか。これは南半球で観光用に売られている地図だそうです。地図の上が南方向になっているので全ての表記が逆になっています。日本も反対になっているのがよく分かります。これはジョークの地図ということですが、では次に下の地図をご覧下さい。

逆日本地図


これは「ホツマツタヱ」を読み解いて作られた古代日本の地図とされているものです。古代日本では太陽を重視したので南の方角が重んじられ、南を上に記すのが常であったと言います。

もしも生まれた時からこのような逆の地図を使っていたのなら、その人の日本観はどうなるでしょうか。世界観はどうでしょうか。少なくとも、空間的には逆のイメージになる筈です。そしてそこからくる日本や世界への印象は全く違ったものになるでしょう。

私が言いたいのは、私たちがいま「これが日本だ」とか「これが世界だ」「これが地球だ」と思っているカタチは、その空間認識としても「部分情報」でしかない、ということなのです。

地球


この地球の写真をみて、「地球はこのように丸くて青い星で……」とあなたは分かったつもりになるかも知れません。しかしこの姿もまた、「ある人が、ある時刻に、特定の場所から見た、特定の方向の見え姿」なのです。「真実の地球」の姿から見れば、ものすご~く部分情報なのです。

先の「群盲象を評す」を思い出してください。「全体情報を知らない=いま見ているのが部分情報だと気づかない」という認識では、ゾウのしっぽをロープだと、鼻をヘビだと誤認識してしまうのです。例え全体情報を知ることは無理だとしても、部分情報を見ているのだと知ることは出来るはずです。そのことで最低でも誤認識からは逃れられます。これが「無知の知」です。

●宇宙も多様体

「宇宙は多様体である」というのは、宇宙を思考する上での大前提となっています。これを宇宙原理と言います。宇宙の場合はxyzと3軸の立体座標をどこにでも描けますから、「三次元多様体」と言います。これに対して地球は「二次元多様体」です。

宇宙

「宇宙が多様体」であるということで、一番重要なポイントはこれです。

 「どこにでも原点をおける→どこでもが宇宙の中心である」

このことがどれほど重要なことを物語っているかお分かりでしょうか。どこでも宇宙の中心であるということは、あなたがいるその場所が宇宙の中心であるということであり、そして全宇宙を統括する主宰者たる神がもしもいるとするならば、それはあなたの只中である、それ以外の場所はあり得ないということです。

分かりますか?スピリチュアル界ではいまだに「セントラルサン」だとか「ハイアラーキー」だとか、「階何位に位置するナントカ評議会」などという知識を振り回す人々がいます。ですが、それらはみな「宇宙は多様体」という構造に反しています。私と一緒に西洋精神史を一通り見て来られた皆さんならもうご理解頂けると思います。それらは「古い神」なのです。そして「古い神は死んだ」のです。自分の外部に何らかの権威を置く思考には、必ずルサンチマンが隠されているのです。

ついでに言わせてもらいます。自分以外の別の人間をメシアとか救世主として盲従する精神も、これから廃れていきます。そこに隠されたルサンチマンがその精神的腐敗を加速させていくことでしょう。2013年以降はすでにそのような時代に入ったのです。自分の内側を開拓しない精神は、やがては全てニヒリズムに回収されていくことでしょう。

以上のことは、「とうしん」という狂人の戯れ言で終わるでしょうか。確かに100年前のニーチェは狂人のまま生涯を終えました。しかしながら、私が本日このブログで辿ってきた知見の数々は、どれも当代の天才達が頭脳の限界に挑戦しながら獲得してきたものです。そうやって最終的に辿り着いたのがヌーソロジーだというのは少し手前味噌になるかも知れませんが。

ヌーソロジーは、スピリチュアルにありがちな検証不能な聖なる?知識を上から神秘的に垂れ流しするようなものではありません。きっかけこそ半田広宣氏に突如おきた超越的チャネリング情報でしたが、その情報を解読するために、人類の叡智を一つ一つ拾い上げながら、下から地道に構成されてきたものです。半田さんや私の作業というのは、まだまだ「けもの道」程度でしかありません。後はそれを通して方向性を感じ取られた皆さんが、それぞれの知見を持ち寄りながら、このけもの道を拡大し、舗装し、立派な高速道路になるように仕上げていくものです。その為にも半田さんは、この情報を私物化することなく、まして特許など申請することもなく、「無断複製を命ズ」と時には冗談めかしながら、これまで全ての情報をオープンにして来られました。そのお陰で私も自由に研究させてもらっています。

2013


★【最終章 地球精神の覚醒へ 】

ようやくこのシリーズのフィナーレに辿り着きました。

最後にもう一度全体を振り返ってみます。

○講演報告パート1 2016年5月18日のブログ

パート1ではアニマンダラの知見をお借りして、「意識進化」の意味を明確にしました。
アニマンダラによると、生物進化のゴールは人間であり、その進化の道のりを人間は自我という情報空間を舞台に反復するということです。そのゴールは言わば「人間の中の人間」。しかしそれは一体どのようなイメージでしょうか。

次に人間の「意識進化」は先に物質世界において「物質進化」として反映していくということを見ていきました。その「物質進化」のゴールはずばりコンピュータ。「物質の中の物質」とも言えるコンピュータは、さらに自身の進化の中にそのプロセスをすべて反復していきます。

つまり、「意識進化の様相は、コンピュータ進化に反映される」ということです。

そこでコンピュータ進化の最終形……コンピュータが知能を持ち、さらに発展して自我をもつに至るというイメージを、SF映画をヒントに描き出していきました。それは「コンピュータネットワーク全体で自我を持つ」という姿でした。

この「全体の目覚め」を人間においては「地球精神の覚醒」の比喩とし、この「地球精神」が目覚めるとき、個人の自我は自然に役割を終えて解体されるというオコツト情報をお伝えしました。そして人間の「意識進化」の最終段階である「ψ7空間の顕在化」=自他が統合され、自我が消滅する空間について、少しご紹介しました。

○講演報告パート2 2016年6月21日のブログ

パート2では「情報空間」についてのさらに突っ込んだ考察をしてみました。そして自我とは他ならぬ「情報空間」の存在であり、「意識進化」の舞台は「情報空間」であるということを明確にしました。さらに「情報空間」における進化は「人類の精神史」として反映され、その中でもこの6500年は「西洋精神史」が中心であったということを論じました。

○講演報告パート3 2016年7月23日 今回のブログ

古代ギリシャに始まった西洋精神は、その後の中世キリスト教社会における抑圧を経て、近代精神として目覚め、物質文化を高度に発展させて、環境破壊や大量殺戮を経て、最終段階に入ります。最終段階とは西洋精神自身が西洋を相対化し、解体していくという構造主義の時代であると論じました。

しかしながらそれは同時にニヒリズムの時代になると。各分野に「相対化」の嵐が吹き荒れ、ついには神が死に、神に取って代わった最後の理性主義自体も死ぬという結末を迎えます。人間の精神はよりどころを失い、荒野に投げ出されてしまいました。しかし……このようになることは100年前のニーチェによって既に予言されていたのです。そして、その後に来る「別のもの」についても……。

ニヒリズムの時代を克服して現れる「別のもの」とは何でしょうか。それがニーチェの言う「超人」です。今回のブログでは、「超人」のことや、「超人」が目覚める条件としての「永遠回帰」については詳しく説明できませんでした。これについては後日じっくり考察することにしましょう。そして「超人」こそはヌーソロジーにおける「変換人」のイメージに近いということで、ここでヌーソロジーとのドッキングに成功しました。

以上、西洋精神史の流れを、私自身が生涯を通じて反復してきたということを、幼少の頃からヌーソロジーに出会う現在に至るまで、ざっと見てきたわけです。これすなわち、ここまでこのブログを読んで下さった皆さんご自身も、共に西洋精神史を反復してきたということです。

グランドフィナーレ


●地球精神の覚醒

いよいよグランドフィナーレです。意識進化のゴール、それは「地球精神の覚醒」。

この最終イメージは私たちのこれからの課題となります。
ここではこれに関するオコツト情報を掲示するのみにとどめておきます。

この世界を探求していくことを、私はこれから皆さんと共にやって行きたいのです。

ヌーソロジーの元であるオコツト情報において、それはψ7の顕在化(球精神)として伝えられました。


【ψ7の顕在化(球精神への反転)】

位置の変換(ψ7)とは、位置の等化(ψ5)と位置の中和(ψ6)を行った後に生まれるシリウスの調整作用です。空間の曲率が完全に自己の質点側に反転してしまうことを意味しています。

例えば一つの対象を複数の人間が取り巻いている状態を想像されると良いでしょう。現在のあなたがたの意識では対象が一つで、それを見ている主体が多数いるとしか見えないはずです。しかし位置の変換が起こり始めると進化の方向性が顕在化するために、それらの関係性が反転した空間も見えてきます。

つまり対象が一つならば、主体も一つのものとして感覚化されなければいけないと感じてくるのです。この感覚によって人間の内面性に見出されていた個我の位置、つまり身体の位置はほとんど意味を失い、自我は自然消滅していきます。

シリウスファイル19911122



この情報を図示したのが次の図です。

球精神への反転


球精神ψ7を目覚めさせるということは、「地球精神」が覚醒するということに他なりません。そうです、まもなく「真実の地球」がその姿を現すのです。それは一体どのような姿なのでしょうか。

このブログでは、そこに参入する為には各自が内側を開拓しなければならないこと、「内外反転」を達成しなければならないこと、能動的不可知論者として生きることの必要性を論じてきました。

そうやって意識進化した「超人」達によって、「真実の地球」という「新しい大地」が目の前に現れてくるのでしょう。

あのバックミンスター・フラーは「宇宙船地球号」を提唱しました。地球規模での存続と平和を真剣に考えた、在野の天才的クリエイターの魂からの訴えが「宇宙船地球号」という言葉で表現されたのでしょう。

しかしながら、「宇宙船地球号」にはまだまだ物質的イメージが残ります。そして時代は進み、1990年頃から「地球生命体ガイア」という概念が支持されるようになりました。地球を生きている一つの生命体として捉え、そして地球と私たち生物が相互に関係しあってこの環境を作り上げているという思いから、エコロジーへの積極的な意識も次第に共有されつつあります。

そして「地球精神の覚醒」。
そこでは私たちと地球はもう別々の存在ではありません。
そして地球を舞台に生きる私たち自身は自我を解体させ、
すでに主体は「別のもの」に移行しているのです………。

ガイアを経て



最後にもう一度オコツトの言葉です。


つまり対象が一つならば、主体も一つのものとして感覚化されなければいけないと感じてくるのです。この感覚によって人間の内面性に見出されていた個我の位置、つまり身体の位置はほとんど意味を失い、自我は自然消滅していきます -オコツト-


わたしの拙い文章に最後までお付き合い下さり、ほんとうにありがとうございました。

2016年7月24日
すべてのものに対する限りなき感謝をこめて

とうしん



【お知らせ】

●現在とうしんは、これまでの研究をまとめる為に本を執筆中です。
これからしばらく執筆活動に集中したいので、長文シリーズは今回でしばらくお休みとします。
短めテイストの記事はそれなりにアップしますので、今後ともよろしくお願いいたします。

●関西ヌース勉強会(京都)…7月26日(火)18時半~
※場所はウィングス京都です。

●関西ヌース勉強会(大阪)…7月30日(土)13時半~
※場所は江之子島芸術文化センターです。

※お申し込みは関西ヌーソロジー研究会のHPへ

●アニマンダラレクチャー第3回(シリーズ全5回)
7月31日(日)13時半~ 神戸・六甲サラシャンティ
※詳しくはアニマンダラのHPへ
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テーマ:
みなさん、こんにちは。
7月になり、梅雨もあけて本格的な夏が到来しています。毎日暑い日が続いていますがお元気でお過ごしでしょうか。

さて、GW期間中に神戸で開催された「己読みシンポジウムⅡ」。その第三日目である5月1日に行った統心の講演「地球精神の覚醒…自我は確立され、そして解体され、これからどうなっていくのか」の報告として、前々回から2回に渡り書いてきましたが、今回で3回目となります。

このシリーズは今回で完結です。そしてしばらくの間、私は本の執筆に集中したいと思いますので、いつの間にかこのブログ恒例となった「長文シリーズ」もひとまず今回にて終了とし、次回からは短めの記事をアップするスタイルに移行するつもりです。

ところで今回はいつも以上に長文となっています。いま文字数を調べましたら前回の2倍になっていました!(汗)。それで、長すぎてアメブロにアップできなくなってしまったので、【前半】と【後半】で二つに分けました。【後半】は日をまたいでアップします(明日7/24午前中にアップ予定)。

長くはなりましたが、【後半】にて何とか結論まできちんと辿り着いています。自分で言うのも何ですが、結構感動的なフィナーレとなりました。

【前半】の最後に、コマーシャルを入れています。7月31日(日)に神戸にて行われるアニマンダラレクチャー第三回のご紹介です。読んで下さると分かりますが、このPRもまた今回のブログの内容と密接に連動しています。

では前置きはこのぐらいにして、さっそく始めることにしましょう。

ソクラテス


【ブログ前半】

☆【序章 前回ブログの概要】

~「西洋精神史」を反復させられた私の人生~ の続きから

●前回ブログの概要

前回の概要をざっくり説明すると、

①生命進化のゴールは「人間」である
②人間は「物理空間」から「情報空間」へと進出した
③人間は「情報空間」において「生命進化」を今度は「意識進化」として反復する
④人間の「意識進化」は「思想史(精神史)」に反映される
⑤人類歴史6500年(調整期)の主流は「西洋文明」である
⑥よって「意識進化」の主流は「西洋思想史(西洋精神史)」に反映される
⑦私自身が生まれてから現在まで「西洋思想史(西洋精神史)」を反復してきた

というものでした。
そして西洋思想史(西洋精神史)の流れを統心流に

◆前・キリスト期(古代)
◆従・キリスト期(中世)
◆脱・キリスト期(近代)
◆反・キリスト期(現代)
◆超・キリスト期(いまココ:2013~)


と5つの区分に分けました。それぞれ、

○私の『前・キリスト期』
幼少~小学生の頃、「生と死」について考え悩んだ時代。古代ギリシャにおける哲学の黎明期のように、真理についての探究心が芽生えた。真理を求める場合、次の二つの立場がある。ひとつは「実体はある」とする立場、もうひとつは「実体はない」とする立場。私は期せずして「実体(永遠に変わらないもの)」を追い求めていたので、その探求は自然に「神の存在」へと向かうことになる。

○私の『従・キリスト期』
中学生になって聖書と出会う。真理を求める姿勢は自然に「唯一絶対の神」を求める姿勢となり、クリスチャンとしての信仰を持つようになった。その後、紆余曲折を経ながらも「唯一絶対の神」への信仰が中心となって暮らした30才前までの時代。

○私の『脱・キリスト期』
アトピー性皮膚炎の重傷化と入院をきっかけにそれまでの人間関係をリセット。「今のままではダメだ」という慢性的かつ脅迫的な向上心を手放すことでアトピーから解放され、その経験をきっかけに「精神主義」から「物質主義」へ急速にシフト。社会における現実的成功とお金を求めてビジネスに没頭した時代。

前回のブログでは、ここまでの時代を説明しました。

最後の『脱・キリスト期』においては、「精神世界」の本はおろか「自己啓発本」すら読まない徹底ぶりで、私の得意とした「抽象思考」も形而上学的なことには一切使われず、もっぱら「ビジネスモデル」の構築に費やした記憶があります。まあ普通の社会人はそうなんでしょうけどね(笑)。偉そうに書いてますが、労力の割にそれほどの成功はしていません。そこそこ食べていくことは出来ましたが。

そのような生活でしたから、クリスチャン時代から続けてきた「信仰生活」はここで全て止めてしまいました。神に祈りを捧げる習慣も止めたので、心は次第に神から離れ、やがて全く顧みることもなくなりました。この時期の私の精神は、ルネサンス以降、神に代わって人間の理性を信奉し、人間性の回復と社会改革、そして科学技術の発展をひたすら進めていったヨーロッパにおける啓蒙思想の精神そのものでありました。

キリスト


★【第1章 現代は『反・キリスト期』 】

●『脱・キリスト期』から『反・キリスト期』へ

いよいよここから今回のブログの内容に入っていきます。

『脱・キリスト期』とは近代のことでした。それまで盲目的に従っていた神や教会組織に対する疑念が生じ、代わって「人間の理性」が台頭してきます。分からないことを神や組織に委ねるのではなく、自分で考えてみようと試行錯誤が始まります。その結果として文化芸術や科学技術が興隆し、社会制度においては革命がおきます。絶対王政が役割を終え、イギリスは立憲君主制に、フランスは共和制に移行した時期です。

この時期において、もっとも重要な点を一つ挙げるとすれば、人類が「人権」を獲得したことと言えるでしょう。人権……生命権や自由権など、全ての人間が生まれながらに持っている権利のことです。「生まれながらに持っている権利」のことですが、この時期に「人権思想」として確立されたということは、「それ以前の人間に人権はなかった」ということです。

実はヌーソロジーの元であるオコツト情報によれば、人間とはこの時期以降に登場したというのです。つまりそれ以前に人間はいなかったと。人権を有する個人を「人間」と言うのならば、オコツトの言うとおりそれ以前に「人間」は存在していませんでした。概念としての「人間」のことです。そして概念としての「人間」はやがて「終焉」を迎えるというのです。それを「最終構成」と呼び、2039年というその期限までオコツトは伝えてきています。あと僅か23年?ですね。

話を元に戻すと、人類は「人権」を獲得し、ようやく「人間」となりました。皮肉なことに「人間」とは神から離れることで確立された概念なのです。神の支配から逃れ、理性を発達させていくことで、科学技術が興隆し、物質面における発展が急激にもたらされました。しかしそれは同時に多くの問題を起こします。環境破壊、戦争による大量殺戮……神から離れた「理性」による暴走です。

やがて二つの世界大戦を起こし、全人類を一瞬で滅ぼせる究極の兵器「核」を生み出したことで、人間の暴走はピークを迎えました。ここから「現代」が始まります。『反・キリスト期』です。神から離れることで確立された人間の理性に対する反省が始まる時期です。

●『反・キリスト期』とは「相対化の時代」

『反・キリスト期』の「反」とは、弁証法でいう「正・反・合」の「反」です。英語で「anti(アンチ)」ですからアンチ・キリスト。アンチ・キリストと言えば、黙示録にある「666の名を持つ獣」とか、逆さ十字架の悪魔崇拝を連想する方もいるかもしれませんが、それとは関係ありません。そうではなく、キリストの対化、キリストに代わるものを探した時期……それは「キリストを相対化」するという意味です。

キリストの相対化。つまり「神の相対化」です。ユダヤ-キリスト教の文脈において、神とは絶対的なものです。その定義から言っても神は「絶対性」の異名です。その神が相対化するというのなら、それはもう神ではありません。「神の死」です。

「神の死」と言えば、「神は死んだ」という名言を思い出します。ニーチェの言葉です。哲学史においてはこのニーチェから「現代哲学」が始まったとされます。ニーチェはこの言葉によって、それまで西洋精神の中心にあった「キリスト教的価値観」の崩壊を宣言したのです。

ニーチェ


●ニーチェの説く「ルサンチマン」

ニーチェはキリスト教を「奴隷道徳」として批判しました。例えば聖書には「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。」とか「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい。」などの聖言があります。しかしニーチェはここにルサンチマン(弱者が強者に対してもつ怨念・ねたみ)が隠されていると指摘したのです。キリスト教が「清く正しく美しく」とどれだけ「善いこと」を教え伝えようとも、それを受け取る側の動機には必ずルサンチマンが隠されていると。死んでから天国に行ける、善く生きているのだからやがて報われるなどの信仰は、現状を肯定できない精神であり、確かにルサンチマンが隠れる余地があります。さらに聖職者や教会組織に従属したり、崇高な理想を追い求めたりする態度にもルサンチマンが隠れています。

つまり「救いを求める」という宗教の根本的な動機そのものにルサンチマンが隠されており、そのような信仰やそれに基づく行動・態度はすべて現実逃避に過ぎないというのです。ニーチェによるこの指摘を単なるひねくれ者の讒言と無視はできません。彼は自分の「外側」に力や救いを求める態度が問題であると言っているのです。事実、中世においてキリスト教社会は腐敗の極みに達しました。それは権力者の資質の問題以上に、それを下支えした民衆のルサンチマンがそうさせたというのです。これはキリスト教的価値観そのものに対する否定です。

またニーチェが否定したのはキリスト教的価値観だけではありません。キリスト教に代わって台頭した「理性」中心主義も全て否定したのです。理性中心主義とは、理性によって世界とか物事の真理をすべて認識できるという態度のことです。ではなぜこのような理性主義が否定されるのでしょうか。

それは理性主義もまた、「生きている自己」よりも崇高なものを追い求めていく姿勢が根底にあるからだといいます。例えば哲学者であるならば、この世にはない真理や崇高な価値を求めるでしょうが、そこには現実に満足できない弱い自分が隠れているというのです。科学者もそうです。現状を肯定できない精神に取り憑かれている、しかもその奥にはねたみや怨恨といったゆがんだ情念が必ず隠れているというのです。

これらはニーチェという狂人の単なる戯れ言なのでしょうか。実際にキリスト教にとって代わって登場した理性中心による近代社会においては、神の代わりに理性が、教会の代わりに資本家が、聖職者の代わりに有識者達が君臨し、傲慢な権力者と下支えする卑屈な大衆という構図で暴走を始めました。そして戦争による大量殺戮や自虐的な環境破壊は現代になっても未だに繰り返しています。

不幸な現実もダメ、不幸な現実に対抗しようとする精神もダメ……極論するとこうなるでしょうか。するとニーチェに言わせれば、フランス革命以降に人類が獲得した民主主義、基本的人権なども問題を抱えていることになります。何故って?まず民主主義を獲得するプロセスそのものがルサンチマンです。王をひきずりおろし、ギロチンで処刑したのです。そして王に代わって資本家や権力者が暴走をはじめます。そうやってできた社会は再び民衆を抑圧し、搾取するようになりました。いつまでたっても「奴隷精神」の繰り返しです。

そのような暴走を糾弾し、人類の理想世界である「共産主義」を実現しようという革命がロシアを中心としてこの時期に起こり、一時は東側諸国として世界を二分する勢力にまで拡大しました。しかしながらその共産革命がもたらしたものは、理想世界どころか大量殺戮と中世さながらの独裁と圧政でした。ソビエト連邦の崩壊によって、この壮大な実験も失敗に終わります。

ルイ16


★【第2章 20世紀から始まった「相対化」の波 】

●ニヒリズムの到来

ルサンチマン……強者におもねって自身の弱さを隠蔽してしまう人間の姿勢。弱者の強者に対する怨恨、あるいは現状を肯定できない精神が動機に隠れている限り、人間の行動は必ずや悲惨な結果を巻き起こすということです。これを単なる極論と片付けて良いのでしょうか。現代においても、物質的豊かさを極めた大金持ちが不幸な晩年を過ごすという話は枚挙に暇がありません。そこまでいかなくても、私たちの身の回りに真に快活で肯定的な精神に溢れた幸福そのものの人が見かけられるでしょうか。みんな何らかの悩み・苦しみをかかえて、ルサンチマンを隠し持っているのではないですか。そしてそのような心が集積して現代の社会を形作っているのです。

ニーチェはこの時すでに、外側に基準を持つ限り、人間はこの悲惨さからは逃れ得ないということを見抜いていたのです。そして人々はやがて、もう宗教もダメ、理性もダメだと徹底的に絶望することになります。伝統的な価値観への信用が全て失われていく……これが「相対化の時代」の特徴です。そして、人は人生の目的を見失い虚無に陥るようになります。虚無主義、ニヒリズムです。

ニーチェは「私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たり得ないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。」と述べて、20世紀・21世紀はニヒリズムの時代になると予言しました。

私の言う『反・キリスト期』とはまさにこのニヒリズムの時代のことを言います。それは徹底した「相対化の時代」としてもたらされます。これまで信じられてきたもの、当然と思われてきたものがぐらつき出すのです。それは徐々に進行していきます。実際に1900年以降、20世紀に入ってから21世紀の現在に至るまで、各分野において「相対化」が進んでいます。例えば……

●【アインシュタインの相対性理論】

アインシュタインにより、それまで絶対的なものとして捉えられてきた「時間と空間」が、相対的な「時空」であるという認識に変化しました。当初はあまりに難解でごく一部の天才的な学者しか理解できない相対性理論でしたが、今日では小学生向けの簡単な解説書が出るほど、広く知れ渡るようになっています。

アインシュタイン以前において宇宙とは「絶対時間」と「絶対空間」でした。時間には始まりもなく終わりも無く、空間は無限の広がりをもって、共に最初から備え付けられた不動の舞台として存在し、森羅万象や宇宙の歴史はその舞台の中で淡々と営まれていく……そのようなイメージです。これは絶対的な存在として君臨する神のイメージとも重なります。

しかし時間と空間が「時空」という相対性であるということが分かると、その相対性を表す方程式が示すものは、宇宙には始まりがあり、時空は連動し、時間の流れも一様でなく系によって異なるなど、統一的で不動な時間・空間のイメージは崩れていきます。これが「相対化」です。また宇宙に始まりがあったということは、神による天地創造を主張する人にとってはある意味喜ばしいでしょうが、同時にまったくの無神論者・唯物論者にとっても歓迎される内容になります。事実、ホーキングは神がいなくても勝手に宇宙が生じ、やがて滅んでいくイメージを語っています。

アインシュタイン


●【量子力学…不確定性原理】

アインシュタインの相対性理論から10年ほど遅れて、ボーアやハイゼンベルク、シュレディンガーらを中心に量子力学が確立されていきます。ミクロの世界を記述する量子力学もまた、それまでの常識を覆すような「相対化」を次々と提示しました。物質を構成する究極の粒子(素粒子)を探求していたら、それがいつのまにか「波動」という確率的な波になってしまう……このように粒子性と波動性という相反する二つの性質を合わせ持つ粒子を「量子」といいます。

量子の世界には物質世界の常識が通用しません。例えば電子は観測されるまではどこにも存在しません(非局所性)。位置だけでなく速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまでは物理的属性をもちません。観測されたときのみ、その電子は「実在物」となります。

1927年にはハイゼンベルクによって「不確定性原理」が提唱されます。粒子の位置と運動量を同時に知ることはできないという量子力学の基礎原理ですが、これによって量子状態とは位置と運動量が決まっていない確率的存在となり、それが観測によって粒子化する時には、偶然性が入り込んで因果律を無視することにもなります。

このような量子の奇妙な振る舞いは、「人間による認識から独立した客観的な世界が存在する」という「実在論」に反します。量子力学以前の物理学を古典物理学と言いますが、古典物理学は実在論に立脚しています。アインシュタインの相対性理論も実在論の立場ですから、アインシュタインは量子力学の展開に不満をもっていました。彼の友人であり、量子力学初期における立役者の一人ボルンにあてた手紙の中には、以下のような記述があります。

「量子力学はたしかに立派な理論です。しかしわたしの内なる声が、まだ本物ではないと告げています。その理論は多くを語りますが、わたしたちを本当の意味で、『神』の秘密に近づけてはくれません。いずれにせよわたしは、神はサイコロを振らないと確信しています。」

(アインシュタイン・ボルン往復書簡1926年12月)

その後、アインシュタインは量子力学の中心人物ボーアと長く激しい論争を繰り返すことになりますが、「不確定性原理」の矛盾を指摘しようとして提案した思考実験がボーアに反論され、論争に負けてしまいます。その後も量子力学は実験において次々と成功をおさめ、事実上この論争はボーア達(コペンハーゲン学派)の勝利となりました。

この論争のあった期間に、アインシュタインは彼の別荘を尋ねてきたインドの詩人タゴールとの会話の中で以下のように述べています。

「真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか?例えば、私が見ていなくても月は確かにあるのです。私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。」


タゴールはそれに答えます。
「人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。」
(NHKアインシュタインロマン)

以上の解釈に諸説はありますが、はっきり言えることは、量子力学の登場はアインシュタインの世界観自体を「相対化」させたということです。

タゴール

●【数学…不完全性定理】

この時期、数学の分野においても、大変な「相対化」が起きています。ゲーデルの「不完全性定理」(1930年)です。詳しいことはここでは省略しますが、「数学的証明がされれば、それは永遠不変の真理となる」というそれまでのごく普通の常識を当時25歳の若きゲーデルが覆してしまいました。すなわち「数学理論は完全ではない」ということを証明してしまったのです。完全と思われた数学に必ず矛盾が入り込むということを。

実際には1987年にチャイティンによってコンピューターのプログラムを使い、不完全性定理は数学全般に渡って証明されることになります。このことにより、数学だけでなく、哲学・科学・法律など、どんな理論体系にも必ず矛盾が入り込むということが証明されてしまいました。

「神は死んだ」に続いて「理性も死んだ」……ニーチェの指摘がここでも現実となりました。神にとって変わった理性中心主義は「不完全性定理」の証明によってここに終了したのです。「不完全性定理」が意味するものは「人間の理性はこの世界を完全に認識することはできない」ということに他ならないからです!

ゲーデル


●【哲学…現代哲学前半】

さて『反・キリスト期』の特徴をざっと見てきました。それはひと言で言えば「相対化」です。「絶対的なもの」が次々と姿を消していくということです。「神の死」や「理性の死」とはそういうことを意味しています。

哲学の分野においては、それがより明確に現れてきます。先に現代哲学の祖であるニーチェを紹介しましたが、その後の現代哲学の特徴として、ヘーゲルのように世界の全てを説明し尽くすような大系は批判されるようになります。その代わりに、世界の中で、さまざまな状況や条件の下で生きる人間一人一人の存在にそって思考していく方向をとり始めます。それが実存主義や現象学です。

マクロ宇宙を説明するアインシュタインの相対性理論に対してミクロ領域を説明する量子力学のように、この時期の哲学は世界体系よりも人間一人一人の内側を開拓し始めたと言えるでしょう。

また同時期に精神分析医フロイトにより人間の理性のさらに奥深くに存在する「無意識」の発見がなされたことは、その後の哲学に大きな影響を与えました。そしてこの他には言語活動に着目していった分析哲学や記号学などが登場し、これらの流れが20世紀半ば、1950年頃までにほぼ出そろって、現代哲学前半を形作ります。

●【哲学…現代哲学後半、構造主義登場】

1960年前後から展開した構造主義が、その後の現代哲学の大きな特徴となります。構造主義以前と以後で現代哲学は前半と後半に大きく分けることができます。

構造主義とは何でしょうか。ここで、同じく「己読みシンポジウムⅡ」の三日目に登壇された哲学者・甲田烈さんの表現をお借りすると

「西洋哲学の相対化が始まった…西洋中心主義からの脱却」
構造主義はフランスの文化人類学者レヴィ=ストロースによって提唱されました。サルトルの説く実存主義が、「自由で主体的な人間」という、西洋社会や先進国にしか通じないモデルから出発していることにレヴィ=ストロースは疑問を感じます。そして個々人の選択が表面的には意識していない「構造」によって決定されていると考えました。
(甲田烈著「手に取るように哲学がわかる本」より)

○構造主義の特徴とは、
 1:西洋哲学を相対化(西洋中心主義からの脱却)
 2:主体性の解体→人間主体(自我)にかわって「構造」が主体となる

西洋哲学がヘーゲルにおいて大成し、現代哲学はヘーゲル的な大きな物語を批判する方向に向いていきます。ニーチェの「神は死んだ」によって始まった現代哲学は、実存主義や現象学、「無意識」の発見を取り込みながら、一人一人の人間の生き様を掘り下げていきましたが、その頂点にあった実存主義の雄・サルトルへの批判から、構造主義が産声をあげます。要するに今までの全ての流れが西洋中心に偏っていたということを西洋哲学自身が言い出したのです。「相対化」です。

この相対化の矛先は、哲学をしている「人間主体」そのものにも向けられます。デカルト以降に確立した近代的自我「われ思うゆえに我あり」の「我」の解体を目指すのです。それが構造主義のもう一つの重要な特徴です。

その後は、構造主義自身をも相対化(脱構築)するというポスト構造主義に進みます。脱構築を提唱したデリダや、ヌーソロジーでお馴染みのドゥルーズらがこの文脈で登場してきます。

ドゥルーズ


さてここに来てヌーソロジーの名がようやく出てきました。冥王星のオコツトによる、まもなく到来するであろう『「自我の消滅」宣言』によって開始された半田広宣さんの宇宙論ヌーソロジーは、思想の流れで言えば構造主義・ポスト構造主義の延長線上にあります。中沢新一氏が定義する「新構造主義」の仲間であるとも言えるでしょう(半田さんご自身の言)。さてヌーソロジーの思考線はこれからどこに向かっていくのでしょうか。

●ノンデュアリティとニヒリズム

今まで見てきたように、現代はニーチェの予言通り、「神の死」「理性の死」によって既に「ニヒリズムの時代」が到来しているのです。もう何も信じることはできない、という時代です。

例えばスピリチュアルの世界では昨今、「ノンデュアリティ」という原始仏教的「悟り」がポップに表現され結構な人気を博しています。これなどは「ニヒリズムの時代」ならではの現象と言えるでしょう。「ノンデュアリティ」と「ニヒリズム」は紙一重です。双方とも本質的には「神の死」であり「理性の死」、良い意味でも悪い意味でも「自我の死」です。そのマイルドな装いとはかけ離れて、本質は相当に過激なものです。私に言わせれば「羊の皮を被った狼」です。

私の研究と体験によれば、この「ノンデュアリティ」には向いてる人と向いてない人がいます。はっきり2種類に分かれます。その理由を説明すると古代ギリシャにまでさかのぼります。前回ブログでご紹介した古代ギリシャの二人の哲人、パルメニデスとヘラクレイトスです。「実体はある」としたパルメニデスと、「実体はない」としたヘラクレイトス。人間にはどうやらこの二つのタイプがあるようです。孔子と老子もその一例。そして「ノンデュアリティ」に向いてる人はヘラクレイトス型の人です。その人が元来ヘラクレイトス的であれば、「ノンデュアリティ」体験は簡単におとずれる筈です。

問題はパルメニデス的な人。それも中間よりわずかにパルメニデス的成分が上回っていれば、おそらく「ノンデュアリティ」的方向には苦痛を伴うでしょうし、違和感を感じ、体験を拒むかも知れません。もっとパルメニデス的成分が多い人は端から近づきさえしません。

パルメニデス的成分が多い人は、こんな時代でも何かを信じたいと願うでしょう。しかしながら、「神の死」「理性の死」……本丸は既に倒されてしまったのです。後は局地戦や小さな小競り合いがダラダラと続くだけ。実際にいまの世界はそうなっていませんか?

●「グローバリズムと民主主義」は最終形態

皆さんの不安とは裏腹に、今後は恐らく世界全体を巻き込むような大戦は起きないでしょう。その代わりにテロや地域紛争が頻発します。しかしながらそれも徐々に衰退していくか、ガス抜き程度に起き続けるでしょう。そしてもがけばもがくほど、管理システムは強化されて行き、確実に人間は生気を失い、機械的になり、自ら進んで自由を失っていくことでしょう。

映画「マトリクス」において、人間はコンピューターネットのエネルギー源(電池)となって眠らされます。しかし眠っているバーチャル世界の中では自由で平和な日常が続きます。現実はまさにこの如くに進んでいます。やがてシステムにそぐわない人間を排除する方法も巧妙化していくでしょう。

徐々に気づく方が増えてきましたが、実は「グローバリズムと民主化」がその手先となっているのです。世界政府実現と歴史の最終形態とされる民主主義……ともに聞こえの良いこれら二つの体制のどこに問題があるというのでしょうか。それは、それらが均一化、同質化……同一性が支配する世界を目指しているからです。このブログでいつも指摘している「同質異体」の世界です。

私たちの精神の本質は「異質同体」にあります。「同質異体」とは精神の死です。精神の物質化です。そのような世界は、3S政策(SEX/SPORTS/SCREEN)によって末梢神経の快楽をコントロールされながら、消耗し廃人になるまでエンドレスに続いていくだけです。

これとは全く別の領域、別の大地を探さなければなりません。それこそが「異質同体」の世界であり、それは幅に対する奥行き方向にあります。そこに参入するには各自がまず「内外反転」を達成しなければなりません。それが「変換人型ゲシュタルト」です。

ニヒリズム時代の到来を予言したニーチェは、真っ暗な悲観論者かというと実はそうではないのです。驚くことに彼の思想はそれとは正反対の、とてつもなく前向きで肯定的な方向性を示しています。それが「能動的ニヒリズム」であり、それを体現した存在がニーチェの言う「超人」です。半田広宣さんによると、ニーチェの「超人」は「変換人」のイメージにとても近いといいます。

さて、ニヒリズムを肯定的に克服する「超人(変換人)」とはいったい如何なる存在なのでしょうか。そしてその「超人(変換人)」へと進化するには一体何から始めればよいのでしょうか。

それについては引き続き、このブログ【後半】において論じて行きたいと思います。

ちょうどここまでで半分ですから、ここで一区切り入れて下さい。
そこでちょっとコマーシャルタイム。

7/31(日)アニマンダラレクチャー第3回のご案内。

会場:健康道場サラ・シャンティ
開場 13:00/ 開演 13:30/ 終了予定 17:00
参加費:4500円/ 全回 20000円
(欠席分はDVDをお送りします)

アニマ

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「超人は大地の意義である」
「人間は動物と超人のあいだにかけ渡された一本の綱である」
(ニーチェ)

「生命進化」から人間の「意識進化」を読み解くアニマンダラ。
ご存じのようにヌーソロジーとこのブログ、そしてアニマンダラは同期しています。しかも何の打ち合わせもありません。それはあたかも「地球の意志」に動かされているかのようです。

「地球の意志」の元に自然に同期していく、これこそが「真のグローバリズム」であり、「異質同体」の世界です。そこでは各自がエンパス(共感力)でコミュニケーションします。余計な会話の必要がありません。調整する部分が必要な時にのみ対話があるだけです。堕落した人工的なグローバリズムである「同質異体」の世界とは全く反転した世界です。

ニーチェが指摘した「動物→人間→超人」の方向性を、アニマンダラは生物学的に解き明かしていきます!最高の知的興奮ですね。既に2回が終了しましたが、毎回我を忘れるほどに面白い!

全5回シリーズですが、各回DVD化されており、全5回まとめ払いで10%以上割引、大変お得です。未参加の回は代わりにDVDをもらえるそうですから、このブログを読んで初めてアニマンダラを知ったという方は、今からでも参加をご検討ください!とうしんも毎回参加しています。

※詳しくは主催者の観音企画さんまでお問合せ下さい。
企画運営 観音企画
kannonkikaku2013@gmail.com

**************《END》**************


※【後半】へ続く。いよいよグランドフィナーレです!!!
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テーマ:
みなさん、こんにちは。
前回ブログの続きを近日中にアップすると書いておきながら早くも1ヶ月が経ってしまいました(汗)。その間に日本は梅雨入りし、湿気とともに本格的な暑気が到来しつつあります。身体にとっては環境変化の大きい時期ですので、体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。

ところで今月は大きな節目がありますね。本日21日は「夏至」であり、30日は「夏越の祓」です。半年間に溜まった穢れやカルマをここで禊ぎ祓い、ゼロに戻して2016年後半の新しいスタートを切れる地点です。

さて今月のブログは前回の続きです。GW期間に神戸で開催された「己読みシンポジウムⅡ」の三日目、統心の講演テーマ「地球精神の覚醒・・・自我は確立され、そして解体され、これからどうなっていくのか」の後編となります。前回と同じく、講演内容をベースに新たな情報を付け足しながら文章として整理しています。それでは始めましょう。

己読みシンポジウムⅡ


【私の探求テーマは「人間の意識進化」】

●「生命進化のゴールは人間である」

私の探求テーマは「人間の意識進化」です。今まで寝ても覚めても「意識進化」のことばかり考えてきました。ところで「進化」というと、一部には否定的な方もおられます。「進化や進歩が必ずしも良いとは言えない」と。人間の「進化」が戦争や環境破壊をもたらし、あげくの果てはこの地球をも滅ぼしかねない状況であると。これらは概ね、西洋中心の物質文明がもたらした災禍に対する反動です。自然回帰やカウンターカルチャー(対抗文化)の主張がそうですね。

物質文明が病的・限界状況にあるのは今や誰の目にも明かです。フクシマがまさにその象徴。このように肩身の狭い状況にある「進化」という言葉に対して、新たなる見方を提示してくれたのが前回ご紹介した「アニマンダラ」ですね。そう、従来の定説を覆すところの「負け組進化論」です。

原初の単純生命が人にまで進化したのは「勝ち組・強者」の系統ではなく、「負け組・弱者」の系統であるという、まさにコペルニクス的転回の内容。先月26日に神戸で第1回レクチャーが開催されましたが、いわゆるヤバイくらいでした。知的好奇心旺盛の方は必見ですね。第2回は6月26日(日)午後1時半より神戸サラ・シャンティにて。私も参加予定です。

アニマンダラ紹介

さて「生命進化のゴールは人間である」、これは疑わないということでOKですよね。現代文明を否定し、人間を地球の寄生虫やガン細胞だと主張する人達はとりあえず別室へ行って頂くとして、話を先に進めます。それでアニマンダラでは「生命史上類を見ない人間の特殊性」として「自我」の役割に着目します。

『人間は【自我】により、たった一種で全生命に匹敵する以上の生き方の多様性を内包した存在』

(アニマンダラレクチャー第1回レジュメより)

生命進化史上で登場した全生命の生き方が人間種では自我として内包され、人間という同一種の中の「自我の多様性」として反映していると言います。例えば同じ人間でも狼的な人、鳥的な人、サメ的な人・・・etcがいるということですね。


●「情報空間」への進出

それで「自我」は一体どこで棲息しているのかと言うと、それは「情報空間」であるというのです。生物は進化の過程で「水中」から「地上」へと進出しましたが、進化のゴールである人間においては「物理空間」から「情報空間」へ進出したというのがアニマンダラの見方です。実にユニークですね。いまや生命進化の舞台は「情報空間」なのです!これは私的にはキター!

そう考えると私たちの人生、生まれてから死ぬまで、泣いて笑ってケンカして、恋いをし、家族を作り、仕事をし、娯楽を楽しみ・・・という人間模様のすべては「情報空間」での出来事であると言えます。そして個人的な出来事だけでなく、国家や世界の出来事までも・・・・・・そもそも国家や世界というのは「情報空間」です。物理的に存在するわけではない。これはすんなり理解できると思います。

すべてが「情報空間」?・・・・・・いやちょっと待ってくれよ、戦争とか環境破壊、原発事故とか大地震、それに深刻な病気や凄惨な事件など、この物理的な肉体や生活環境に危機的影響を及ぼすさまざまな事件までが「情報空間」ってことはないだろう?事件は実際に現場(肉体とか地球上とか)で起きてるじゃないか・・・と疑問を持たれる方がおられるかも知れません。


●すべては「情報空間」での出来事

私的にはこれらの出来事も全て「情報空間で起こっている」と思います。これは仏教的な見方かも知れませんが、そもそも全ての出来事は中庸・中立であり、本来は意味などなく「ただ起こっている」と言えます。自然界の生物にとって死は生と隣り合わせの日常であり、食物連鎖の中で生命を奪い奪われ、逃走し、捕まれば死にます。仲間が死に、家族は突然引き裂かれます。そんな出来事があっても淡々と日常は進んでいきます。大自然の律動に対してなすすべもなく受け入れるのみです。

快と不快、苦楽、好き嫌い・・・人間の感情や欲望を根底に様々な価値観が形成され、本来中立であった出来事に意味づけがなされていきます。その意味づけシステムが「情報空間」に他なりません。そのシステムの発展が人間の文明であり、その文明の中で起きる様々な事件なのですから、全ては情報空間での出来事です。

マトリクス

病気なども情報空間での出来事です。実際に西洋医学では分子レベルの情報として「それ」を捉え、新薬による化学療法を主に行いますし、東洋医学では虚実とか湿熱など抽象度の高い情報で「それ」を捉えて、「それ」に対する生薬を処方します。手術のような物理的療法であったとしても、その方法手順は人間の頭の中で計画・構成されるという意味で情報空間での出来事です。さらに別の見方をすれば、治療しようとする認識が病気を作り出しているとも言えます。「○○病検査」の実施が増えると「○○病患者」が確実に増産されます。

身の回りの品々、車も新幹線もコンピュータも、すべてのモノがそれを作った人間の意匠や使用してきた歴史の記憶など、情報空間に満ちあふれています。単なる物質などありません。カント哲学によれば純粋に客観的な物質を「モノ自体」と呼び、それは認識することも経験することもできないし、存在するという証拠もないとしますが、それと同じ見方です。

戦争も人間同士の争いであり、主張のぶつかり合いなのですから情報空間での出来事です。原発事故も、情報空間の中で「原発」という計画が進行し、内外の利害が絡み、杜撰な計画のまま実行され、事故を起こして今や人間全体に対する危機となっていますが、これに対する対策も含めて全てが情報空間での出来事です。


●「情報空間」は「観念論」ではない

「情報空間」を「机上の空論」みたく「観念論」として捉えないで下さい。そういう軽めの意味ではなく、ある意味もっと「現実的」な捉え方です。汗水垂らし、温度もニオイもする、生命活動の現場そのものが、人間においては「情報空間」になっているということです。さらに言えば、「生」だけでなく「死」も「情報空間」での出来事です。ここは一度立ち止まってよく考えてみて下さい。

汗水と言えば、脳機能学者の苫米地英人氏によると「暑いから汗が出る」という反応は「暑い」という「情報」に対するホメオスターシス(恒常性維持機能)であると言います。ここで、普通は「暑い」というのは外気の物理的刺激のように思います。しかしながら「暑い」は身体にとって「情報」なのです。身体が情報を受け取り、ホルモン分泌を経て生体を操作し、体温を調節しています。そこで、その情報処理に意図的に介入できれば、暑くても汗をかきにくいとか、「心頭滅却すれば火もまた涼し」となるのです。

情報空間への意図的介入が、科学の常識を越える例もあります。現代社会に降りてきたヒマラヤ聖者スワミ・ラーマは、積極的に自身の能力を公開実験を通して人前にさらしました。医師達の前で心臓を数分間止めたり、致死量を遙かに超える毒物を目の前で一気飲みして平然たる姿を示しました。この実験に立ち会った医師の方があまりの衝撃で気を失ったそうです。

ヒマラヤ聖者

スワミ・ラーマが見せてくれた数々の「奇跡」は、この世界のすべてが「情報空間」であるとすれば、違和感なく理解することができる


●「内部表現」・・・物理現象を含めすべては情報空間である

さて「ホメオスターシスは情報空間にまで広がっている」というのが苫米地理論の根本ですが、彼の画期的なホメオスターシス理論は誤解されています。大抵の人はこれを「割り箸を焼け火箸であると暗示をかけて皮膚に当てると水ぶくれができる」という催眠現象レベルでしか捉えていません。このメカニズムは「高所に行けばキン○マが縮み上がる」のと同じで当たり前の反応です。「高所」という「情報」に恐怖を覚える人は青ざめ震えるようになります。しかし苫米地氏を深読みすれば、彼は物理的現実も含めて「全てが情報空間である」という仏教的な世界観を根底に持っていることが分かります。彼はそれを「内部表現」と言います。

理論が現実に力を持つには例外を作ってはいけません。部分適用したところで大して効力を発揮しない。全部丸ごと根底から適用しなければ、現実は動かないのです。そこが一般人と前述のヒマラヤ聖者との違いになっていると思われます。苫米地氏の「強み」は、一見すると狂信的とも言える「極論」に秘密があります。極論によって自身のトランス状態をコントロールしているのです・・・おっと、少し脱線しましたが、ここで言いたいのは人間の営みは全て「情報空間」においてなされているということです。

これに納得できない方がいるかも知れませんが、その「納得できない感」こそが情報空間における出来事です。「納得」も「納得できない」も共に情報空間じゃないですか。

ちなみにヌーソロジーでは、苫米地氏の言う「内部表現」に当たるのが「人間の内面」になります。いままで外側、環境だとか物質だとか世界だと思っていた「自分の外側に広がる領域」のことをヌーソロジーでは「内面」と見る。これが意識進化へ向かう最初の「反転」となっています。今まで「物理空間」だと思っていた一切の事象をここでいったん「情報空間」だったと捉え直すのです。

少し「情報空間」に拘ってしまいましたが、進化の頂点である人間は、「物理空間」から「情報空間」に進出し、「自我」というカタチで全生命史を内包し反復して、いま「人間の中の人間」に向かって進んでいるというアニマンダラの説・・・・・・それがまさに「人間の意識進化」です。


【情報空間における「自我進化」を反映しているのが「思想史」】

情報空間に進出した人間は、そこで再び生命進化を反復する・・・単純生命が人間にまで進化してきたように、人間は「人間の中の人間」を目指して「自我」を進化させていく・・・その「自我進化」のイメージとゴールを、前回は「物質進化」のアナロジーで紐解いてみました。「物質進化」のゴールは「コンピュータ」であり、「コンピュータ進化」のゴールが「コンピュータがネットワーク全体として自我意識をもつこと」というSF映画からのイメージを取り上げました。この「ネットワーク全体の覚醒」が人間においては「自我の解体」と、全体としての「地球精神の覚醒」の比喩であるというのが今回の私の講演の主旨ですね。詳しくは前回ブログをご覧下さい。

それで自我の進化は「情報空間」での出来事ですから、それは主に「人間の思想史」として反映されている筈です。宗教や政治経済などの活動も全部含めた「人間の精神史」という意味での「思想史」です。

●西洋と東洋

思想史の流れは大きく西洋と東洋に分けることができます。ここでトポロジー的な見方、つまり抽象度を高くして俯瞰してみますと、ユーラシア大陸を舞台にざっくり四つの思想文明圏に分けられます(A図参照)。西洋はキリスト教文明圏とイスラム教文明圏、東洋はインド教文明圏と極東宗教文明圏です。また、西洋が物質文明で、東洋は精神文明だと言えます。西洋文明と東洋文明の特徴はB図をご覧下さい。岸根卓郎京都大学名誉教授が唱えられている西洋-東洋文明の対比です。そして西洋文明は西回りで展開し、東洋文明は東回りで展開しました。我が国日本は非常にユニークで、東洋と西洋の二つの流れが東西からぶつかり合流する位置にあります。

A図大陸トポロジー


B図二つの文明

●西洋と東洋がぶつかり合う「日本」の特殊性

日本には古代からずっと持続してきた精神的な流れがあります。「縄文精神」とか「上古代文明」・・・・・・日本人の精神の奥底にある深層底流がいま非常に注目されています。この古代日本精神を土台として、古神道・神道が生まれました。そこへ大陸から仏教が伝来し、その後に道教・儒教なども巻き込んで「極東宗教」が日本に根ざします。やがて時代を経て、キリスト教と西洋物質文明が日本に入り込みました。

まるで東洋と西洋の精神流が日本においてぶつかり合い、何か新しいものを、とてつもなく古くて新しい、「別のもの」の到来を意図しているかのようです。明治維新以降、日本は西洋物質文明にがっちりロックされ、外圧をかけられて約150年間、圧力鍋でコトコト煮込まれてきました。今や火は止められ、勢いよく蒸気が噴き出し、まもなくロックは解除され蓋が開けられようとしています。さあ中からいったい何が出てくるのでしょうか。「人間の中の人間」・・・意識進化の最終形態が到来する・・・そのような予感と共にこのブログもまた書いているワケです。

話を先に進めましょう。このペースだとまた次回に続くということになりそうです。
それで、文明にはざっくり西洋と東洋があるのですが、この西洋と東洋は対照的な関係にあり、それぞれ役割や性格にも対照的な違いがあります。B図の表を見るに、父性文明と母性文明という大きな特徴があります。ここでは父性文明である西洋の方を主流と見ます。これは今までの歴史を主導してきたのは西洋文明であるという意味です。西洋と東洋、どちらが覇権的かと言えば明らかに西洋です。覇権的な方が良いも悪いも歴史を主導しているのですから、これは普通の見方です。


●「調整期」を主導してきた西洋文明、その本質は「ユダヤ精神」

ヌーソロジーにおいては、次元交替化の図(下図)にあるように、2012年までの6500年間を「調整期」としています。この期間は進化の為の調整をしてきた期間であり、ちょうどタマゴの殻の中で雛が成長していくような期間です。無事に成長して殻を割り、外に飛び出して鳥になっていくのが次の「覚醒期」で、2013年から続く新しい6500年間です。今はすでに「覚醒期」に入って4年目ですね。

次元交替化

さてこの6500年の主流は西洋文明であり、さらにオコツトによればその主役はユダヤ人です。この6500年はユダヤ史を中心として動いてきた、あるいは動かされてきたとオコツト情報は伝えています。「ユダヤ・キリスト~一神教精神」です。ちなみにオコツトによれば、もっとも新しい民族がユダヤ人であり、もっとも古い民族が日本人であるというのです(半田広宣さんの講演より)。そして最終構成において両者が合流するという点で、「ユダヤと日本の統合」を伝えている日月神示の世界観とも妙に通じています。

以上まとめると、6500年という人類歴史の主流は西洋文明にあり、その中心は「ユダヤ・キリスト~一神教精神」であるということです。いまの西暦がイエス・キリストの生誕年を基準に数えられており、言語・服装・通貨などにおける世界標準のすべてが西洋文明のものである現在の様子を見れば、これは明かなことです。

●西洋思想史の流れを区分

ここで統心流に、西洋思想史の流れをざっくり区分すると

◆前・キリスト期(古代:ギリシャ・ローマ)
◆従・キリスト期(中世:キリスト教中心社会)
◆脱・キリスト期(近代:ルネサンス、宗教改革、科学興隆)
◆反・キリスト期(現代:構造主義登場、価値観の相対化・多様化)
◆超・キリスト期(いまココ:2013年以降の新文明到来)


ここでの「キリスト」とは「ユダヤ一神教精神」を象徴する言葉として使っています。イエス・キリストその人の事ではありません。「前・従・脱・反・超」という言葉はそれぞれ「一神教精神到来の前」「一神教精神に従属」「一神教精神から離脱」「一神教精神の反動」「一神教精神の超克」という意味です。

この分け方は哲学史的にもあながち外していないと思います。哲学の先生にも尋ねてみて下さい。但し、「2013年以降の新文明」という点は笑われると思いますが(爆)。

この西洋文明史或いは西洋思想史の流れを、私自身の今までの人生において反復させられてきたというのが今回の講演後半の論旨です。論旨紹介だけでここまでかかってしまいました。「次回に続く」ことになるのはどうやら確実です(涙)

さて気を取り直して何とか近代まで・・・・・・現代・構造主義登場の手前までは行きたいと思います。毎度ながら長文お付き合いご苦労様です。


【「西洋思想史」を反復させられた私の人生】

●私の「前・キリスト期」(古代ギリシャ・ローマ)

ゴーギャン


「死とは何か?」「宇宙の果ては一体どうなっているのか?」

私の記憶が確かであれば、物心ついた頃・・・幼稚園に通い出した頃より、頭の中でこの二つの疑問が首をもたげ始めました。死が怖い、そして空を見上げて宇宙の果てを考えると気がおかしくなりそう・・・。小学校にあがるとその悩みはさらに深刻になりました。隣の家に住む友達のお母さんが若くして病気により亡くなったのです。確か28才だったと思う。小学4年の時には違うクラスの同級生が事故で亡くなりました。全校集会での先生からの報告、すすり泣く女子の声、無人の机の上に置かれた大きな花瓶のお花・・・。

小学5年の時に家族の引っ越しで他校へ転校をしました。誰一人知人のいない、未知の環境に投げ出される恐怖・・・内向的な性格の為にとても辛い思いをしました。そんな不安な中、優しく声をかけてくれた友達は今でも忘れられない想い出です。その友達の中の一人が・・・・・・彼自身はとても元気なのですが、聞くと昨年にお兄さんを亡くしたという。年齢は数年上でまだ中学一年生。さらにその前の年には働き盛りのお父さんが亡くなったと。余りの衝撃に私は言葉を失いました。それから何日も何日もその友達のことで、彼の身の上に連続して襲いかかった悲劇について、ずっと考え続けました。悩みに悩みました。つとめて明るく振る舞う彼の笑顔がかえって胸に突き刺さったのを覚えています。

「死とは何か?」、そして私は一体何のために生きているのか。「死への恐怖」から、やがて私の関心事は「真理を知りたい」へ昇華されていきました。小学校高学年の頃には、私の関心事が「真理の探究」にあるということを既に自覚していました。哲学の始まりです。

子供ならではの素朴な疑問です。「死」のおかしさ、「宇宙の果て」のおかしさ・・・・・・素直に見れば、おかしいに決まっている、説明ができない事実。そして「大人は誰もその答えを知らないのだ」ということは子供でもすぐに分かりました。自分で考えるしかない・・・・・・この頃は期せずして、ギリシャ時代の精神を、私は反復させられていたようです。実際に中学1年生になり、世界史の時間に初めて学んだソクラテスの「無知の知」に感動し、これを「座右の銘」としたのを今でも覚えています。

●「実体」をめぐる二つの立場・・・パルメニデスとヘラクレイトス

「真理の探究」とは「真実を知りたい」ということです。そしてそれは「確かなものを見極めたい」ということになります。では「確かなもの」とは何なのか?・・・・・・いつまでも変わることのないもの・・・永遠であり不変です。それは本質ともいいます。そしてこれらすべての意味を含んだ最も的確な、思考対象としての単語が「実体」です。

「実体」・・・それは永遠に不変なるものであり、本質のことであり、実際に存在しているもの、実在するもののことを言います。これと反対の意味は「見かけだけで実際には存在しないもの」となります。仮相とか幻想と言えるでしょう。ですから実体とは実相のことです。

哲学の曙期であるギリシャ時代に、この「実体」をめぐって二人の相反する主張をする人物が登場しました。しかもこの二人はほぼ同じ頃、紀元前500年頃に生きたのです。

一人はパルメニデス。彼は「実体はある」という立場です。彼の主張を表す言葉として有名なのが、

 あるものはある、ないものはない

「真の存在とは、消えることも変化することもなく、永遠にあり続ける」という意味です。あるものは最初からあるし、ないものは最初からないということ。途中で変化したりしない。少なくとも本質は変化しない。ずっと変わらないから「本質」だということです。

そしてもう一人の名はヘラクレイトス。彼は「実体はない」という立場をとりました。彼の主張を表す有名な言葉が、

 万物は流転する

「すべては変化し続ける。永遠に不変の存在なんてありはしない」という意味です。すべてが刻一刻と変化しているのだから・・・例えば川は流れて一瞬たりとも同じ姿をしていません。私たちの身体もそうです。一瞬一瞬変化しています。物質のすべてがそうです。すべてが変化するのだから、そこに不変の本質なんてありはしないということです。

ギリシャ二人


●釈迦は「実体はない」という立場

この「実体」をめぐる二つの立場は、思想史においては必ず対化として現れます。「変わらないものを求める立場」と「最初からすべて変化すると見切る立場」。孔子と老子の思想もそうですね。孔子が「変わらない」ものを求める立場、老子が「すべて変化する」と見切る立場。

そしてもうお気づきかと思いますが、「実体はない」という立場で世界的に影響を与えた人物が釈迦です。釈迦の思想は「諸行無常・一切縁起・諸法無我」。すべては移り変わるものであり、縁起、つまり関係性でしかないと説明します。関係性でしかないということは、確固たる核というか芯のようなものを認めない考えです。ですから無我。当時のインドでは個人の本質を「真我(アートマン)」と呼びましたが、それすら認めないのが釈迦の立場です。真我すらないというのです。何もないのです。この釈迦の悟りがポップに表現されているのが現代の「ノンデュアリティ」でしたね。


●「実体はある」という立場は必然的に「神」に向かう

対する「実体はある」という立場。これは必然的に「神の存在」にいたります。この宇宙をもたらした第1原因としての神。「実体」について真剣に思考すれば、「神以外に実体はない」という結論に至るのは自然です。そこにイエス・キリストが現れ、神と人間の関係をさらに親密に説きました。イエスの死後、キリスト教が成立し、数百年後に覇権国家ローマの国教となってからは、西洋思想史はキリスト教哲学の時代に入ります。すべての思考がキリスト教の基に行われるようになりました。これが「従・キリスト期」です。この時期、「哲学は神学のはしためである」(トマス=アクィナス)という言葉が残されています。哲学は神学に従属するという意味です。

こうして見ると「実体はある」という立場は「信仰」につながり、「実体はない」という立場が「悟り」につながるようですね。「実体はある」が必然的に「神の存在」に至るように、「実体はない」は「神の不在」に至ります。釈迦のとった立場は無神論なのです。仏教の本質が無神論であるということに私が気づいたのは、恥ずかしながらここ十年以内のことです。私は中学生以降にクリスチャンとなり、長い間キリスト教の文脈でものを見るようになっていましたので、仏教の本質には全く思いが至らなかったのです。


●私の「従・キリスト期」(中世・キリスト教中心時代)

入学した中学校がカトリックのミッションスクールであったことで、「聖書」と出会うようになります。実体をもとめて悩みに悩んだ少年が神を求め、キリスト教の信仰に至るのは自然な流れでした。ここから私の「従・キリスト期」が始まります。私において、この時期は30才手前まで続きました。その間に、既成キリスト教会をはじめ、新興宗教などいくつか経験することになります。詳細はここでは省きますが、一貫して「唯一絶対の神」に対する服従の精神にありました。中世のスコラ哲学と同様、私の思考はすべて神を前提としたものとなり、「哲学は神学のはしため」を地で行く生活でした。

宗教においては主張の異なるいろいろなグループに所属してみて、様々な人に出会えたことが良い経験となりました。霊能者・能力者と言われる人達ともたくさん出会い、時には教えを請い、行動を共にし、親交を深めました。しかしながら持ち前の探求精神を押さえることができず、その結果、一カ所に留まることはありませんでした。しかし、そのような探究心があっても「唯一絶対の神」からは逃れることができませんでした。「ユダヤ一神教の呪縛」はこのあとの「脱・キリスト期」「反・キリスト期」まで続くことになります。「脱」も「反」も、まだまだ「一神教の手の内」にあったということです。


●私の「脱・キリスト期」(近代の始まり)

30を前にして持病のアトピー性皮膚炎が悪化し、三度のリバウンドを経て、最後のリバウンド期に重傷化し、病院に担ぎ込まれてそのまま長期入院をすることになりました。この時を境に私は「脱・キリスト期」に入ります。

療養に専念するため、それまでの人間関係をリセットしたこともありますが、重傷で入院することで、代替医療、いわゆる「アトピービジネス」の本質を知らされたということもその一因です。代替医療業界のウソに出会ったということでしょうか。これを端的に説明しますと、「私は治りました」という体験談はごくごく一部の特殊な事例であり、圧倒的多数が代替医療における失敗者となっていて、いくつもの療法を渡り歩き、たくさんお金を使い途中で挫折をするか、最後は病院に担ぎ込まれているという事実を知ったのです。少なくともアトピー界の現実はそうでした。

数少ない成功事例のみが華やかに喧伝され、圧倒的多数の挫折者・失敗者のケースは黙殺されています。当時の私は治りたくて必死でしたから、他の誰でもなく自分自身が失敗者の声を聞かないようにしていたのです。

ごく一部の成功者の特殊事例を誇大宣伝し、「今のままではダメだ」と思っている慢性的負け組の弱みにつけ込み、彼らを糧として、手を変え品を変え引っ張り続けていく・・・・・・宗教、ネットワークビジネス、自己啓発、代替医療・・・・・・これらすべての現場に共通する不健全な構造を、私はアトピー重傷化をきっかけに身をもって知ったのです。

「今のままではダメだ」という卑屈な上昇志向、強迫観念にも似たプラス主義・・・・・・「自分を認められない」ことで生じる絶え間ないストレスにようやく気づくことができました。代替医療信奉者にとって、病院及び西洋医学のお世話になることは敗北になります。しかしこの時の私は入院・収監(笑)されることでお任せの境地となり、屈折した上昇志向もついに敗北を認めることになりました。現状を受け入れることで気分が楽になり、焦ることがなくなって、かえって「自分の身体」を信頼でき、自然治癒力が解放されたように思います。このような精神面の変化と病院における的確な治療(西洋医学+漢方)により、私は重度のアトピーから脱出できたのです。

退院して以後、私はそれまでの「精神偏重」の考え方から極端に「物質偏重」の考え方へとシフトしていきました。やがて朝から晩までビジネス、お金を儲けることだけを考え行動するようになりました。それまでの反動なのか、それから数年間は精神世界の本を一切読まなくなり、好きだった自己啓発本すら手に取ることはなくなりました。精神論に全く興味がなくなったのです。意識は常に現実・現実・金・金・成功・成功・・・となっていました。それでいて、心は以前よりもスッキリ澄んでいたように思います。神をかえりみることのなくなったこの時期は、西洋史におけるルネッサンス(文芸復興)に相当するでしょう。それまで中世の間、キリスト教会の支配により抑圧されてきた民の精神が解放を求めて動き出した時期です。この時の私はまさにそのような精神状態にありました。

やがて近代的自我確立の契機となったデカルトが登場し、「物質」と「精神」が神に替わる「実体」となって、その機械的自然観により科学技術が発達し、物質文明が急速に繁栄していきます。そして物質文明が暴走を始めた頃から、その反省により、西洋思想自らが自身を相対化する「構造主義」が登場します。ここから現代(ポストモダン)に入ります。これが「反・キリスト期」ですが、この時代に相当する私の道のりと、そして最終結論である「超・キリスト期」、講演テーマである「地球精神の覚醒」まではさらに次回に続くとさせて頂きます。

このシリーズ、何とか次回には終了するつもりですので、よろしくお願いします。
それではまた~。

とうしん


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