『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


テーマ:

みなさん、こんにちは。とうしんです。
1ヶ月ぶりのブログ更新です。それにしても短い記事を多数アップするスタイルにはなかなか移行できませんね~。月刊「自分教ガイド」みたいになってますが、もう開き直ってこのペースで行くのがいいかも知れません。

 

さて本日3月20日は春分の日。太陽が春分点を通過し、ここから夜より昼の時間が長くなり始める日のことですが、仏教ではこの日を前後する7日間を「お彼岸」といいます。

 

ところで、彼岸(ひがん)の反対語は此岸(しがん)。

 

仏教での通俗的な意味としては、三途の川をはさんで手前側「私たちの住んでいる世界」を此岸(しがん)、その向こう側「仏のいる悟りの世界」を彼岸(ひがん)といいますが、この「彼岸と此岸」、実は本日のテーマである「他人はいない?」に大変密接な関係があります。

 

さてさて、今日はどのような展開になりますことやら。さっそく始めましょう。

 

 

テーマ:鏡の法則Ⅱ 他人はいない?(彼岸と此岸)


●鏡の法則Ⅰ 100%自分原因論

 

先月から毎月定例のヌーソロジー教室で「鏡の法則」を取り上げています。そこで解説したのは、「鏡の法則」を実践する上での本質は二つあると。ひとつが「100%自分原因論」。これは「目の前の現実はすべて自分が創り出している」というスピリチュアルにおける王道でして、古くは新訳聖書に出てくる以下の聖句が有名ですね。

 

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。(ルカ6章38節)

 

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。」の引用だけで本来充分なんですが、その後に続く「おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに」の部分が個人的に何とも好きでして。この「与えられるのが止まらな~い♪」みたいな、このウレシイ悲鳴みたいな感じがなんともfeeling good! でしょう? この幸せ病みたいな、幸せが止まらない、みたいな(しつこい)。

 

何というか、このあふれ出る感じ、というのは凄く重要なんですね。あふれ出るようになれば、それまで単なる量的変化だったものが、突如として質的変化へと転じることがあり、その変化の境目を「閾値」と言います。身近な例で言えば、花粉症などのアレルギー発症のメカニズムにもこの「閾値」がからんでいます。閾値を超える量のアレルゲンを取り込むと突然発症するとか。

 

閾値は質的変化をおこす奥義として、霊性修行においては重要視されます。能力的な進歩とかは当然そうですが、それとは別に愛とか欲望という人間の性(さが)に関しても、この閾値を超えないと性質が変わらないという事がある。例えば欲望は「満たされすぎ」までいかないとなかなか「卒業」に至りません。少しでも不足すればあとあと尾を引く。それが後に致命的だったりします。飽和状態を迎えないと反転しないんですね。愛に関して言えば、人間は必ず「洪水の如く溢れる圧倒的な愛」を体験する必要があります。

 

 

いきなり脱線気味なので話を元に戻します。上で挙げた聖句の最後にある「あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろう」も王道中の王道ですね。裁けば裁かれる、いわゆる「ジャッジ」です。人をジャッジするということは同時に自分をジャッジしていることになり、自分で自分を封じ込めることにもなっている。それは自由や解放とは真逆の方向です。「人を裁くな」は「隣人を愛せよ」以上にスピリチュアル実践における王道であります。

 

このように「鏡の法則」というのは「与えれば与えられる」「裁けば裁かれる」「剣を取る者は剣で滅びる」というスピリチュアルの伝統的な「因果応報」に始まると言えますが、最近では「目の前の現実が自分の内面を投影している」という「プロジェクション論」的な意味が加わってきました。これはフロイトの登場により「潜在意識」の研究が進んだからですね。そして潜在意識が現実を創り出すということは、成功哲学の祖と言われるナポレオンヒルの「思考は現実化する」などを通して多くの人々に共有されるようになりました。


●スピリチュアル1.0

 

伝統的な「因果応報」に始まり、潜在意識の作用にまで言及した「思考は現実化する」・・・ここまでをスピリチュアルの王道、原典という意味で「スピリチュアル1.0」と呼ぶことにしましょう。これは「自分教」において私が適当に定義しているだけですから悪しからず。

 

とにかくスピリチュアル1.0において、私たちは単なる受動的・結果的存在ではない、運命の被害者などでは決してない、ということの理解に至ります。全ては自分自身に原因があるのだと。それは現実を変える力が自分にはあるのだということを確信することでもあり、目の前の現実や運命に対して能動的な立場に立つことになります。積極的精神・ポジティブシンキングですね。

 

少し話がずれますが、キリスト教における「原罪論」について。人間は生まれながらにして罪があるという、キリスト教における伝家の宝刀ですが、元クリスチャンである私はこの種のドグマでさんざん苦しんだ過去があります。あまりにも苦しんだので私の魂は大いに反発し、ある時から真逆に考えることにしました。

 

それはこういうことです。原罪論によってキリスト教信者達は潜在的な被害者意識を持つようになります。このおかしさに気づいたんですね。あれ、原罪ってそもそも「加害者意識を持ちましょう」ってことじゃなかったの?って。罪があるということは加害者でしょう?でも先祖の罪とか、民族の罪とか、さらには原罪なんていう、人間として生まれたこと自体の罪なんて、本人にまったく身に覚えがない訳ですから、芯から納得していないのです。そもそも生まれたくて生まれてきたワケじゃないしって。いきなりハンマーで頭を殴られるような感じ。そうです、被害者意識です。

 

心理学に詳しい方ならよくお分かりでしょう。この「被害者意識」こそが人間を苦しめる全ての元凶なのです。人間の生活における三大問題と言えば健康・経済・人間関係。この三つに何か深刻な問題が生じているとすれば、その根元をたどれば必ず何らかの「被害者意識」に辿り着きます。必ずそうなっています。被害者意識ですから、被害者という状態を実際に顕在化しようとするのです。様々な問題を引き起こしながら。

 

原罪論を加害者意識と深く理解すれば、キリスト教やその他宗教はまた違った展開になったかも知れません。ですが実際はそれは難しく不可能に近い。なぜなら原罪論をかかげるほぼ全ての宗教において、実際には原罪を根拠として教団や教祖たちによる霊的・物質的な搾取が行われるからです。納得していない原罪によって、さらに被害者意識が作られていくのです。罪が罪を呼ぶ、何とも痛々しい展開。

 

さてさて、とにかく人間が抱える問題とは結局のところ「被害者意識」の問題なのです。それで「鏡の法則」はこの根本的なところをひっくり返そうとする魂の発露と言えるでしょう。鏡の法則の真の理解によって、人間は決して「被害者」などではないということを知るようになります。それに被害者は不自由です。自由と被害者意識は相容れない関係です。

 

と、ここまではいいのですが、被害者意識をもつことなく、自由で能動的な精神をもつようになったら、あとは行動しましょう・・・大抵はそうなります。あとは行動しかない、と。結果が出てないのは行動していないからだ~!、とおきまりの檄が飛ぶようになります。ここから出来る人と出来ない人に分かれてしまう。そして出来る人は「努力しておれはこうなった」「なのにおまえはなんで出来ないんだ?」「行動しなければ何も起きない」「出来ないなんて、そんなの言い訳だ!」などという勝ち組オーラを発散し、出来ない人はその出来ない自分を責めるようになります。ここにまた新たな被害者意識が生じます。

 

 

ここから出来る人による、出来ない人を集めての搾取システムが始まります。出来ない人はとにかくもがき苦しんでいますから、出来る人にすがるようになります。ここに様々なニーズが生じるため、このシステムは大きなお金とエネルギーの動くビジネスとして成立するようになります。

 

あれ?これだったら先ほどの宗教と何も変わらないのでは?と。原罪の本来的意味は加害者意識であり、それによって被害者意識からの根本的な解放を目指したはずだったのに、実際にはその原罪によって新たな被害者意識が醸成され、それが宗教的な搾取システムを顕在化させました。搾取システムは被害者によって成り立つからです。

 

同様に成功哲学・自己啓発系全般において、出来る人と出来ない人に分かれてしまい、出来ない人に潜む被害者意識が、出来る人によるビジネスのターゲットになって、そこに不健全な癒着関係が生じます。出来る人はますます横暴になる、出来ない人はますますみじめになる。それが「富が富をよぶ」「持っていないものは持っているものまで奪われるであろう(聖書)」という理屈で正当化されるものだから何ともタチが悪い。その形態はいつの間にか宗教システムそっくりになっていきます。

 

このような閉塞状況を打開するべく、ある日突然「まったく別のもの」「新種のもの」が降臨しました。2006~7年の頃です。私がスピリチュアル2.0と呼ぶそれは、短期間でインターネットを通じて瞬く間に世界中の人に知れ渡ることになります。それがハワイの伝統的問題解決法「ホ・オポノポノ」です。


●スピリチュアル2.0

 

ホ・オポノポノ、とくに現代的バージョンのそれは4つの言葉を唱えること、「ごめんなさい」「許して下さい」「ありがとう」「愛しています」・・・たった4つの言葉を唱えるだけで、目の前における全ての問題を解決してしまうという、それで実際に試してみると短期間で確実に効果がでるということで、ある種の魔法のようにも受け取られて、インターネットの急激な普及(ドッグイヤー)にも重なって一挙に多くの人々に広まりました。

 

しかしこのホ・オポノポノが以前のものと決定的に違っていたのは、その働きかける方向がどこまでも「自分自身の内側」であったという所です。先のスピリチュアル1.0においては、能動者としての意識の芽生えはあるものの、結局のところは「外側への働きかけ」という結論でした。ここにおいて出来る人と出来ない人の差が生じてしまい、出来ない人は被害者意識や劣等感を余儀なくされました。

 

しかしホ・オポノポノは、どこまでも内側へ働きかけます。途中から外側へ向けて行動せよなどとは最後の最後まで言いません。最後の最後まで、自分自身の内側に対する働きかけで万事終了するのです。4つの言葉を唱えると言っても、唱える対象が自分自身であるということがなかなか理解されず、念仏の一種のように誤解を招いたものですが(もちろんそれでは効果はでません)、いまやホ・オポノポノの本質は自分自身を癒やすこと、とくに自分自身の傷ついた内なる子供(インナーチャイルド)にむけての働きかけであるということはよく知られています。

 

 

またスピリチュアル1.0においては、何かを創り上げていこうという「プラスの努力」が提唱され、「結局は行動」論と共に勝ち組・負け組を作る原因となっていたのですが、ホ・オポノポノにおいては「クリーニング」という、うまくいかない原因の排除・浄化だけに専念するという、「マイナスの努力」が提唱されたことも大きな違いです。「クリーニング」をして浄化さえすれば、あとは全て自動的に解決する、すべてお任せであるという感覚は、スピリチュアル1.0とはまったく「別のもの」だと言えます。

 

このスピリチュアル2.0を語る上において、もう一つ重要な要素があります。それが「量子力学」です。宇宙は物質で出来ているのではなく、その本質は波動や情報であり、さらにそれは意識と密接な関係にあるという量子論的存在論が前提となって、意識の変化が現実に顕れてくる、意識が現実を形作るのだという認識が進みます。そこから「100%自己責任」を本質とする、鏡の法則の究極系亜種が次々と登場してきます。

 

ホ・オポノポノを代表する「鏡の法則」の究極系亜種の数々・・・ざっと挙げてみると「引き寄せの法則」「100%自分原因説」「ミラーワールド」「フラクタル心理学」「正負の法則」「トランサーフィンの法則」「マネーゲームからの脱出」・・・。どれもキャラの立ったお兄さんやお姉さんがきらびやかな衣装を着て活躍しているというのがお約束だったりします。

 

これらを総称してスピリチュアル2.0と呼びます(勝手に)。どれも「徹底した内側への働きかけ」「量子論的存在論」「100%自己責任」が特徴です。厳密に「鏡の法則」というワケではないですが、「100%自己責任」という時点で「鏡の法則Ⅰ」と見なします。

 

さあ、ここでやっと本日のテーマである「鏡の法則Ⅱ」につながりました。


●鏡の法則Ⅱ 他人はいない

 

はじめに「鏡の法則」実践には二つの本質があると言いました。一つは「100%自分原因論」。これはいままで見てきた通り。いにしえの「因果応報論」に始まり、現代になって「潜在意識の仕組み」が、さらには「量子力学」が加わることで、「100%自分原因論」として成熟してきました。ですがここまできてもう一つ、「鏡の法則」を実践する上でとても大切な要素が必要になってきたのです。それが「他人はいない」論です。これはスピリチュアル2.0におけるもう一つの大きな特徴であり、同時に大きなカベにもなっています。

 

「他人はいない」論。「現実の全ては自分が創り出している」ということを高らかに宣言しようとするとき、どうしても問題になるのが「他者」の存在です。目の前にで~んと「他者」が居座っているのです。ここには明らかにカベがあります。まともな神経をしているなら「現実は全て自分が創っている」と言っても「他者の存在」がブレーキをかける筈です。他者まで自分が創り出したというのか?それはどうかなぁ・・・と。そこでブレーキがかかって当然です。

 

ところがここをサクッと乗り越える人達がいる。せっかくホ・オポノポノまで辿り着いてようやく「万人に優しい霊的法則」へと昇華してきたのに、またここで出来る人と出来ない人の差が生じてしまいます。さらに厄介なことがあって、「他人はいない」、つまりそれは「独我」「唯我独尊」ということですが、これってビッチ達には標準装備の属性だったりするんですよね。なんとここでもまたビッチ達の台頭を許してしまうことになるのです!オオー神よ!過酷な競争となった結果、強者が弱者を捕食する場となり果ててしまったスピリチュアル1.0に傷ついて、ようやく辿り着いたスピリチュアル2.0だというのに、その優しさにほだされて、やっと自分も救われると思ったのも束の間、スピリチュアル2.0もまたビッチ達による捕食場となってしまった\(^▽^)/(ふざけてスミマセン)。

 

しかしながら真面目な話、「100%自分原因」という強力な「鏡の法則Ⅰ」を発動させる為には、「他人はいない」という「鏡の法則Ⅱ」が同時に発動されないと、その効果は期待できないのです。

 

一つの事例を挙げましょう。「マネーゲームからの脱出」。2011年にヴォイス社から発刊された「ザ・マネーゲームから脱出する方法」。作者ロバート・シャイフェルドさんは世界的有名な大富豪の孫であるだけでなく自身でも数々のビジネスを成功させた億万長者。そしてこの本の訳者である本田健さんは「幸せな小金持ち」シリーズで大ブレイクした作家・コンサルタント。もうスピリチュアル1.0のニオイがプンプンで、仁義なき競争に傷ついた心優しき子羊たちにとっては近寄りたくもない雰囲気を醸し出していますが、その中身は驚くほど違うものでした。

 

マネーゲームからの脱出(以後、マネゲ脱)は、一見すると成功哲学系の典型的な本に見えますが、その中身は当時最先端のスピリチュアル、超スピリチュアル本とでもいうべき内容だったのです。それは「ひたすら自分の内側へと働きかけること」や「浄化・クリーニング」、つまり「マイナスの努力」をその方向に持つという、ホ・オポノポノを成功哲学へと応用したような内容で「スピリチュアル2.0」そのものでした。「マネーゲーム」には結局のところ勝者など一人もいないのであり、そこからの根本的な脱出を解き、その脱出によって逆説的に真の豊かさを得るようになるという斬新な内容だったのです。

 

 

マネゲ脱では、スピリチュアル2.0の特徴である量子論的存在論が縦横無尽に説かれており、その結果としてこの現実はすべて自分の意識が創り出した幻想であるということを宣言します。まずその事に気づくことが大切だし、徹頭徹尾その意識および世界観の中で生活し続けることで、現実の様々な問題を劇的に解決していくことができるというのです。それも自動的に。働きかけるのは自分の内側に対してのみです。

 

「幻想としての世界」・・・それも自分が創り出した幻想・・・この世界観に完璧に埋没することによって、現実を動かす力を得るようになります。ただそこで首をもたげるのが「他者の存在」というカベ。ところがマネゲ脱はいとも簡単にこれを乗り越えようとします。マネゲ脱曰く、他者は自分が創り出した幻想の一部、自分が創り出したハリウッド映画に例えれば、主人公である自分のストーリーの為に自分が設定した配役に過ぎない、と。

 

他者はすべて幻想であり、自分が創り出し設定した配役に過ぎない・・・アッチョンプリケ~!な内容ですね。もの凄い大胆な宣言です。しかしこの本は浮き世離れした妄想家が書いたものではなく、現実のビジネス界で活躍し、実績もある御仁達が書いている本なので、その説得力は否定できない。

 

要するに「他人はいない」、他者は存在しないと腹をくくれというのです。


●まるで独我論

 

それを哲学では独我論と言います。自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけで、それ以外のあらゆるものは信用できない、というのが独我論ですが、この考え方は哲学においては「禁じ手」となっています。無謀というか、それを言っちゃあおしまいよ的な感じ。それもそうで、もしある人が独我論を主張し始めたら、もう何人もその人に語りかけることはできなくなりますから。過激な独我論者は「万能」になってしまうのです、悪い意味でね。

 

自分の精神だけが実在なのであって後は全て幻想・・・そんな独我論に対して普通の神経の持ち主ならばここでストップがかかるハズです。ところがスピリチュアル2.0は結局のところこの独我論的立場を要請するのです。というか独我論的立場に立脚しない限り、スピリチュアル2.0における真の効果は期待できません。やってみると分かります。必ずここがカベとなっています。

 

先ほど列挙した鏡の法則の究極系亜種たちの中には、この独我論をはっきり主張しているものが少なくありません。ある意味、本当に分かっている人たちはこのことを知っていますし、堂々と主張しているハズです。「他人はいない」と。それが原則であると。


●ノンデュアリティはある意味スピリチュアル3.0

 

スピリチュアル2.0が独我論を前提としている。このことにおかしさを感じない人は問題ないでしょうが、普通はこのカベを前にして立ち止まらざるを得ません。

 

この独我論にとまどう幼気な子羊たちに対して、近年まったく逆方向からこれまたトンデモナイものが顕れてきました。それがノンデュアリティ。これはずばり「無我論」です。独我論とは正反対の主張です。こちらは「他人がいない」だけでなく「自分もいない」ということになります。そしてただ世界だけがある。でもその世界を経験する「自分」もいないのですから、何も無いという方が正確な言い回しになります。

 

 

この主張自体は伝統的な仏教思想であり、「釈迦の悟り」そのものです。それが量子力学などの現代的な知見を得て、より身近で説得力を増したのがノンデュアリティ、「現代的悟り」と表現することができるでしょう。こちらをスピリチュアル3.0として、2.0より一つ押し進めたのは、スピリチュアル2.0が主に個人の潜在意識を扱うのに対して、ノンデュアリティでは潜在意識など一挙にかなぐり捨て、全人類共通の無意識領域へとその舞台を進めたからです。これに比べれば、スピリチュアル2.0における取り組みはすべて「個人的なもの」でした。個人の成功、個人の幸せ、個人における問題解決・・・独我論なのですから、個人即世界なのでしょうけど。この個人そのものを一挙に取っ払ってしまったのがノンデュアリティなのです。この意味で一歩進んだスピリチュアル3.0としています。

 

このノンデュアリティは既に「鏡の法則」とは関係の無い世界に吹き飛んでいますから、話を「鏡の法則」に戻しましょう。

 

「鏡の法則Ⅰ」が「100%自分原因」論で、「鏡の法則Ⅱ」が「他人はいない」論。ところが「他人はいない」は独我論であり、通常の神経ではストップがかかる。やりきれない。

 

さてさて、ヌーソロジストである私とうしんは、この難問をどのように解決しようと言うのでしょうか。


●ヌーソロジーと鏡の法則

 

ヌーソロジーと「鏡の法則」はとても親和性があります。なぜか。ヌーソロジーとは簡単に言えば「人間の空間認識の反転を試みようとする哲学」だからです。私たちの空間認識をひっくり返そうとしているのです。というか、そもそも「私たち人間の空間認識は転倒している」というのです。ですから私たち人間は、虚像を実像と勘違いし、実像を虚像として忘却してしまっているのです。つまり私たち人間が認識しているものはすべて虚像であるということ。これって「鏡の法則」そのものじゃないでしょうか。

 

「鏡」において、鏡に映っている虚像(幻想)の方を実像(現実)と勘違いしている。そして映し出す元の実像(真の現実)を忘却しているということです。それが人間の現状。

 

ヌーソロジーにおける最初の重要な反転として「内外反転」があります。内と外という概念をひっくり返すこと。この反転により、目の前が自分の内側になります。私たちは自分の内側を見ているのです。これについては前回ブログ記事「偽客観と真客観」でも丁寧に説明しました。

 

この時一つ重要なことがあります。「内外反転」とは「4次元対称性」を意味しており、4次元対称性においては「時間の流れ」の逆転が生じるのです。ここがとても大事。

 

人間は「空間と時間」を認識の枠組みとして持っています。認識には空間感覚と時間感覚が必ず伴います。ですから「内外反転」において空間だけ反転させても「臨場感」が伴いません。そうです、ここに足りなかったのは「時間反転」です。

 

「時間反転」とは「原因と結果」の順序逆転ではないでしょうか。私たちはふつう過去が原因であり、今はその結果であると認識します。過去から現在、そして未来へと時間が流れているように感じる。ここで、いまの自分が過去の結果的存在であるという認識が上述した「被害者意識」の温床となっています。それを逆転させる。それは「100%自分原因論」と同じことになります。

 

ところで鏡は一見すると左右が反転したように見えます。上下は反転しないのですが、左右だけが反転した像が目の前に映る。これが鏡の不思議なところです。

 

今日はいきなり結論を言いますが、鏡の本質は「前後反転」です。左右反転した像が見えるのはその結果に過ぎません。鏡は私の前後を反転させているのです。考えてみれば当たり前です。私は向こうを向いている時、鏡像はこちらを向いています。

 

 

そして前後とは、体感的には「時間の流れ」です。未来へ向かうのが「前向き」であり、過去に拘るのが「後ろ向き」であることから、一般的に時間は後ろから前へと流れる。鏡は前後反転なのですから、その時間の流れを逆転させると言えます。要するに鏡像と実像では時間の流れる向きが違う、原因と結果の関係が逆転しているということです。

 

ここに「100%自分原因論」の空間的根拠が出てきます。通常の認識は鏡像空間であり、現在の自分は過去の結果的存在。しかし実像である空間は反転した空間なので、時間の流れも逆。現在の自分は過去に対して原因的存在となっています。このようにヌーソロジーにおける「内外反転」は、「100%自分原因論」に臨場感を与えてくれます。ここまでが「鏡の法則Ⅰ」でした。先月のヌーソロジー教室ではこのことを詳しく扱いました。さて今日の話題は「鏡の法則Ⅱ」・・・「他人はいない」の説明まで行かなければなりません。


●ヌーソロジー的にみて「他人はいない」はどうなるの?

 

「鏡の法則Ⅱ」・・・もう一つの重要な実践原理である「他人はいない」論。


しかしこれは独我論となって哲学的な禁じ手。いわゆるトンデモです(ヌーソロジーが言うな、って突っ込まないように)。

 

だからと言ってヌーソロジーはノンデュアリティのような無我論という立場は取らない。これはこのブログで再三再四書いてきました。無我論は無実体論であり、結局は何も無いという立場。でもヌーソロジーは実体論、あってあってありまくる、ずっとず~とあり続ける、という立場です。

 

さてここをどう解決しましょうか。ここにどのような臨場感を伴った空間認識を持ち込めばいいのでしょうか。そこにちょうど本日「春分の日」、お彼岸に関係するワードが登場します。それが冒頭に出てきました「彼岸と此岸」です。

 

「彼岸と此岸」。この「彼岸感覚」がここから重要になって来るのです。


●「彼岸」「三途の川」は目の前にある

 

此岸(しがん)は三途の川の手前。いま現実に生きているこちら側の世界であり、よく知る世界です。対する彼岸(ひがん)とは三途の川の向こう。死の向こう側であり、「あなたの知らない世界」です。この「あなたの知らない世界」という感覚が大事。「絶対的外部」とも言います。それが実はすぐ目の前にあるというのです。

 

どういうことでしょうか。以下の図を見て下さい。図において私の内側(心の世界)と外側(外見)、向かい合う他者のそれを内側*、外側*と書くことにします。*というのはヌーソロジーにおける「他者側」の意味を示すお約束の記号です。

 

 

ここでもう一つ大切な認識上の区別、差異を持ち出します。それは「現実か幻想か」「リアルかイリュージョンか」ということです。「自分が直接観ているもの」をリアル(現実)とし、「自分では直接観れないもの」をイリュージョン(幻想、または架空の想像)とします。

 

ここで自分の内側、例えば心の中はいま直接観ているのでリアルです。しかし自分の外側、外見の方はどうでしょうか。いや今朝も鏡を見て手入れしてきたし、いまも目の前のガラスに映って確認してるから外見はリアルでしょ、いま何の服を着ているかも確認してるし・・・と言われるかも知れません。ですがよくよく考えてみて下さい。自分の外見は、自分自身で直接みることは決してできません。ここで外見と言えば手や足が見えてしまうので混乱するでしょうから、では自分の顔だとしたらどうでしょうか。自分は自分の顔を直接観ることができるでしょうか。

 

顔でもまだ鼻の一部がみえたり唇やまつ毛が見えたりするので合点がいかないとしたら、今度は目ではどうでしょうか。自分自身の目。それを直接観ることができるでしょうか。はい、観ることはできませんね。やっと納得して下さいましたね。

 

私たちは自分自身の外見、顔、目は直接みることができません。一時的にではありません。永遠にです。永遠に観ることはできないのです。このことがどれほど凄いことでしょうか。どれほど決定的なことでしょうか。私たちが永遠にみることができないソレがいますぐそこにあるというのです。「あなたの知らない世界」、つまり「彼岸」です。

 

 

図から分かるのは、私がリアルとして直接観ることができるのは、自分の内側と他人の外側だけだということです。それに対して自分の外側と他人の内側は直接観ることができません。それは単なる想像であり、現実ではありません。ここに現実としての「此岸」と、想像の域を出ない「彼岸」があるのです。こんな身近なところに「彼岸と此岸」の境目、三途の川があったのです。

 

私の現実とは「わたしの内側」と「他者の外側」だけだったのです。そこには「わたしの外見」はないということに特に注意してください。そしてその感覚をじっと感じてみてください。想起してみてください。その感覚は何かに似ていることに気づきませんか・・・そうです「夢見」です。夢の中の世界です。

 

夢の中で私たちは「わたしの内側」と「他者の外側」だけを純粋に経験します。しかし夢はとてもリアルな体験です。目を覚ましたらすぐ忘れてしまうという点を除けば、夢の中の感覚の方が、起きている現実の世界よりもむしろ臨場感があり鮮明であったりします。雑念が無い分、夢の中の方が直接的で敏感です。

 

そして夢はすべて自分が創り出した世界です。100%自分原因論の世界であり、他人のいない世界です。鏡の法則ⅠとⅡが完璧に適用された世界です。ここで、この夢見の世界と現実の世界とはまったく同じ構造であると考えることができるのではないでしょうか。

 

 

私たちがいま起きて生活している空間において、きちんと実像と虚像、現実と幻想の違いを認識したとき、その現実の方は夢見の世界と同じ構成になっていることに気づくはずです。そしてこのことに気づいた時、「鏡の法則ⅠとⅡ」が現実にも完璧に適用できるということが分かるようになるでしょう。そして実際にそうなのです。

 

これでビッチになることなく「鏡の法則Ⅱ・他人はいない」を思う存分適用することができます。もう諦めて無我論に流れる必要もありません。

 

以下の図において、目の前の三途の川という空間のねじれを認識して、互いを「彼岸」として、「あなたの知らない世界」として対峙するようになるとき、わたしはもう一人のわたし(わたし*)と対峙するようになります。ここにはわたしとわたし*の関係があります。「わたし同志」の関係です。

 

(他者側に立てば、向こう側が「此岸」でこちら側は「彼岸」になってお互い逆の関係になっていることに注意)

 

人間は想像でしかない外見、他者から見られている私の方を自我として認識しています。図で言えばお互いに自分の外側だけで付き合っているような状態です。しかもその外側というのは相手しか認識できないものであり、自分にとっては虚像となっています。そのような虚像を交換しあって、「あなたとわたし」として出会っています。これは「他人同士」の関係です。「他人」とはお互いにつけている「お面」のことなのです。それは虚像ですので、「他人はいない」というのはこの意味で真実だと言えます。

 

(人間同士の普通の関係は、お面を交換しあっている関係。つまり自分だと思っている自我自体が他人由来であるということ。だから他人同士の関係ということになる。自己(わたし)同志では出会っていない。互いに自己(わたし)を忘却している。)

 

今まで人間が作ってきた関係性は「他人同士」でした。同士の「士」はサムライですから、これはお互いに争い合う関係です。それに対して自他空間のねじれに気づいた新しい認識においては、お互いの関係は「わたし同志」となります。同じ「わたし」の志の関係です。外側は様々に違うけれど、「わたし」という感じ方においては同じだというのです。深い「共感」で通じ合う関係です。そして多くの「わたし」が集まって「和多志」となります。これから目覚める私たちの集合無意識の主体であり、本当の地球の中心です。ヌーソロジーにおけるψ7の球空間である「球精神」のことです。

 


●3月の関西ヌーソロジー教室のテーマは「鏡の法則Ⅱ 他人はいない」

 

最後はやや駆け足になりましたが、今月の関西ヌーソロジー教室では今日のテーマについて、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

 

先月が「鏡の法則Ⅰ 100%自分原因論」で、今月はその続きとなります。


★3/21(火) 京都ヌース教室
場所:キャンパスプラザ京都 第4演習室
午後6時半~9時

【注】今月の京都はいつもの場所とは違います。JR京都駅前です。


★3/25(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時
 
《詳細と申し込みページ》


お互いの「感じ方」を確かめ合う場として
今後も月に一度のヌーソロジー教室は続けていきたいと思います。

始めての方でも気軽にお越し下さい。


ということで春分の日、お彼岸にふさわしいテーマになったかどうか。
取りあえず「彼岸」と「三途の川」は目の前にあるのです。

今回もまた長文に最後までお付き合いくださりありがとうございました。


とうしん

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みなさん、こんにちは。とうしんです。
2月は「にげる」だけにさすがに日が経つのが早いですね~。
ところで節分から春分の頃までは、今年1年を創る上で大切な「根っこ」の時期だと思います。
きらびやかな表舞台も、その全ては「根っこ」があっての結果にすぎません。

根っこの時期にいかに投入するか・・・ということで、今回は久しぶりに統心節で、がっつりとブログを書いてみました。長文ですので、お時間のある時に、最後までお付き合いくだされば幸いです。

ではさっそく始めましょう。

本日のテーマ:「真客観」と「偽客観」

 
 
2015年7月に『いわゆる「客観」は存在しない』というテーマで記事を書きました。今読んでみると内容も表現もずいぶん青臭くて恥ずかしいのですが、思考線は今も昔も変わっていません。それで今日はもう一度、「客観」について考えてみたいと思います。

ところで先週、芸能マスコミを騒がしていた若手女優さんの突然の引退宣言・・・その理由が某宗教団体への出家ということで、彼女の話題が随分と取り上げられていましたね。そして騒動から僅か一週間で手記出版という手際の良さに、仕事というのはこういうものなんだなぁと変に感心をしておりました。

信仰は自由ですからとやかく言うつもりはありません。それに大川興業の「空腹の科学」が思い出されて、そのジワリ感で笑いを抑えるのが大変だなんて、口が裂けても言えません。そんなの真面目に信じている人に対して失礼です!もちろん笑ってるのは大川豊さんの「空腹の科学」に対してですよ。このボキャブラ感は私の中で歴代1~2位を争っている程なのです。

冗談はさておき、プロフィールにもある通り、私は宗教をさんざんやり尽くし、卒業して「自分教」に至ったものですから、この手の話題をスルーするワケにはいきません。今日のテーマである二つの「客観」(真客観と偽客観)という視点は、この事に深く関係します。さてさて、今日はどのような展開になるのでしょうか。


●「客観」は存在するのか?「客観」とは何か?

2015年7月のブログ記事では、「客観」とは「主観」の反作用として生じる感覚であり、見せかけにすぎないと書きました。いわゆる「客観」は存在せず、見せかけ(幻想)と言ってよいもので、私たちが認識し体験できるのはすべて「主観世界」であるということを自分教の大前提として大胆に言い放ちました(汗)。

なるほど私たちは「主観世界」しか体験できない、それは当たり前だしよく分かった。だからと言って「客観世界」がないということにはならないんじゃないか?・・・そう思われるのも無理ありません。ただここは注意深くあって欲しいのです。認識もできない、体験もできない「客観世界」を私たちは「ある」と思っている。「あると思う」、つまりそれは「信じている」ということではないでしょうか。見えないもの、不確かなものを信じる・・・これって「宗教」と似ていませんか?

よく考えるとこれは面白くて、私たちは普通、主観の方を幻想扱いします。そして客観の方に正しさや真理のイメージを持ちます。つまり客観性とは「正しさ」と同じ意味ではないでしょうか。この客観性や客観的真理を求める姿勢は科学的態度とも言われます。科学においては主観的思い込みは排除し、いつ誰が何度やっても再現されるだろう「可能性」をもって、科学的真理の根拠とします。

あれ?何だか話がおかしくなってきました。先ほどの理路で言えば、客観世界は直接体験できるものではなく、あると信じるしかないものだったはず・・・科学はその不確かで信じるしかない対象を根拠としているのならば、科学もまた宗教?ということになりませんか・・・?。

このように考えると、科学と宗教は対立するようなものではなく、同じ精神の元に成立しているということが分かります。それは「客観性を信じる」という精神です。そしてこの客観性の大親分が「神様」なのです。この意味で、神はいないと主張する唯物論者であっても宗教と同じ精神なのです。

いかなる人間も「主観」からは逃れようがありません。生まれてから死ぬまで生活する舞台はいつでも「主観世界」です。73億の人間がいれば73億個の主観世界があります。そのバラバラな73億個の主観世界をひとつに束ねているのが「客観世界」です。それだけでなく、人間が存在する以前からそこにあり、これからも永遠にあり続けるであろうものが客観世界・・・そう考えると「客観」と「神様」は同じ意味ではないでしょうか。

そのような客観世界にこそ「事実」があり、「真理」があり、「永遠」「全体」があると思われる・・・対する主観世界は「自分勝手な思い込み」であり、「幻想」であり、「部分的で有限的なもの」だと思われる・・・これが私たちが持っているごく普通の感覚だと思います。

誰しも「事実・真理・永遠・全体」の方が信頼できるし、「思い込み・幻想・部分的・有限的」なんてうさん臭い感じしかしません。なので、客観世界が正しいし、主観世界は疑わしい、という感覚になります。

このことを図に表すとこうなります。人間の数だけある主観をすべて束ねている客観・・・これを見ると「客観」という言葉を「神」に置き換えても構わないことが分かります。ここには「神」以外に「常識」「法則」「ルール」という言葉も置くことができるでしょう。

こうして私たちは客観世界の方が主観世界よりも上位であり、先手であり、優先されるべきことであると疑わなくなります。「主観世界は客観世界に従属する」・・・このことが普通に受け入れられているのが現在の世界です。そしてこのことが、人間を生き辛くさせているのです。


●客観世界を揺らがす・・・「相対化」

客観世界は直接認識・体験することはできなかった筈です。私たちは生まれてから死ぬまで主観世界から出ることはない。素直に考えれば客観世界の方が疑わしく、確かなのは主観世界の方ではないでしょうか。それがいつのまにか逆転させられてしまう。ここに世界が人間性を抑圧する根本原因がある・・・古来より道を求める人は必ずこの世界の「生き辛さ」からスタートしました。

「生老病死」という当たり前の現象をひどく悲しみ、宇宙の真理を探究した釈迦・・・探求したのは「宇宙の真理」だったかも知れませんが、その根本は「わたし」という確かなる主観世界が、目の前の不確かな客観世界に従属させられている、その独特のおかしさ・拘束感を「不条理」と感じるところにあったのではないでしょうか。その葛藤からの自由・・・そう、葛藤はいつだって「不自由さ」がもたらしているのです。そういう意味で、私たちが根本的に愛し求めているのは「自由」ではないでしょうか。

「客観>>>主観」・・・「確かなる主観」が「不確かなる客観」に従属させられている・・・この奇妙なねじれ構造・・・ここに人間の根本的な葛藤があると思うのです(実はここには「言語の働き」が暗躍しているのですが、それについては今回はふれません)。では釈迦はこの問題をどのように解決し、覚醒して仏陀となり、永遠の自由を得たのでしょうか。

【主観と客観の「相対化」】

「確かな主観と不確かな客観」・・・これがごく自然な関係だったのに、いつのまにか「確かな客観と不確かな主観」という関係に逆転させられてしまう不条理構造。これに対して釈迦の悟りというのは「主観と客観を相対化」することで解決したのだと思われます。

主観と客観は相対的な関係に過ぎない・・・このことを万象に対して徹底的に見極めることで、今まで確かだと信じていた客観が揺らぎ始めます。それと同時に、根本の所で執着していた主観に対する感覚も揺らがせます。主観も客観も確かと言えるし、確かでないとも言える。両者は二つで一つであり、決して切り離すことなどできない・・・同じものの二つの側面・・・これを完璧に見切ったとき、主観と客観は同時に「落ちます」。そして何もない・・・「空」。世界と私が同時に消えたとも言えるし、一つになったとも言える。そこにはもはや客観と主観、世界と私の葛藤はありません。葛藤がなくなった、争いがなくなった、矛盾がなくなった・・・そう、そのとき私は全てと一つになった・・・完全なる自由、ワンネス体験。表現の違いはあれ、仏教的悟りとはこういうことではないでしょうか。
 

なるほど。じゃあ仏教でもう全部解決したんだ。だったらいいじゃないか、みんな仏教を信じれば・・・と思われるでしょうが、そう簡単にはいきません。先ほど科学と宗教は同じ精神に立脚していると書きました。それは「客観性を信じる」という精神です。そして客観性の大親分を「神様」と言うんだと。ですが仏教というのはその客観性を疑うのです。もちろん主観性も同時に疑うのですが。ということは、仏教は神を疑う「無神論」ということです。同時にそれは我を疑う「無我論」でもある訳です。

仏教は根本的に無神論なのですから、神を信じる人を説得することができません。信じている人と信じていない人の間にはそもそも接点がありません。そこには争いも無ければ和睦もありえません。接点がないというのはそういうことです。争いや和睦というのは同じ立場の人同士に起こることなのです。

仏教というのは「無実体論」なのです。無神論であり無我論であるということはそういうことです。「無実体論」というのは「本質的に何もない」ということです。それを「空」と言います。
現代的悟りである「ノンデュアリティ」の人と対話したときの、あの独特の空しさ、台無し感の原因はここにあります(笑)。何を言っても暖簾に腕押し、万能感満載の「ノンデュアリティパンチ」。もちろんこの種の悟りを求めている人にとっては最高に魅惑的だと思いますが。

このブログでは何度も言ってきましたが、人間の思考にはどうやら根本的に二つのタイプがあると。一つは「実体がある」とするタイプで、もう一つは「実体はない」とするタイプ。古代ギリシャの時代からこの二つの違いは大きく表面化していました。「実体がある」がパルメニデス、「あるものはある」という立場。「実体はない」がヘラクレイトス、「万物は流転する」という立場。そしていつの世も、ヘラクレイトス的な方が賢く見えて、パルメニデス的な方を小馬鹿にするのですね。

「実体がある」という立場は西洋世界においてユダヤ・キリスト教精神と結びつくことになり、やがてはその中から科学的精神が出てくることになります。宗教と科学が同じ精神に立脚しているというのはここでも分かります。「実体がある」という精神です。

仏教的悟りというのは「実体はない」という立場を取ったということであって、実体問題(実体はあるのか、ないのか)を解決した訳ではないのです。「あるとも言えるし、ないとも言えるし、どちらとも言えない」というのがそういうことです。ですから仏教的立場は精神的エンターテインメントとしては存在できるでしょうが、この世界の様々な問題に対する根本解決には至らないというのが統心流、「自分教」的主張です。もちろんその根底にはヌーソロジーがあります。


●ヌーソロジーにおける「伝家の宝刀」・・・「反転」

このブログはヌーソロジーのブログです。机上の空論と思われがちなヌーソロジーを実生活に役立つ所まで落とし込みたいというのが「自分教ガイド」の主旨。そこで次はヌーソロジーの主張を見ていくことにしましょう。

人間を悩ませる主観・客観問題。先ほど仏教においてはこの主観・客観を「相対化」することでこの問題の解決をみようとしていることを書きました。ヌーソロジーにおいては、その「相対化」をさらに突き進めて「反転」まで行こうとするのです。「反転」です。

主観と客観の立場を反転させてしまう。今までは「主観は客観に従属している」というのが常識でした。それを「客観は主観に従属している」という状況に反転させてしまうのです。

何だよそれ?それってただのジコチューかビッチになれって事かよ?・・・ちょ、ちょっとマッテクダサイ。確かにそのような危険な香りがプンプンしますので、ここに踏み込んで行くにはもう少し順序を追って慎重に事を運ばないといけないようです。

まず大前提として「主観は確かであり、客観の方こそ疑わしい」ということです。迷ったらいつでもここに帰るべきです。これはデカルトの「我思う、故に我あり」とも通じるものがあります。この大前提が「常識」によっていつの間にか転倒させられてしまう。私たちが普通に「主観」「客観」という言う場合は既に転倒させられた後なのです。この転倒させられた主観・客観をそのまま位置だけひっくり返したら、確かにジコチューやビッチです(笑)

【偽客観と内部表現】

そこでこの転倒させられた主観・客観をそれぞれ「偽主観」「偽客観」と呼ぶことにしましょう。近年、客観というのが実は偽客観であったということに気づく人が増えてきました。例えば苫米地さんの「内部表現」。苫米地さんは脳の専門家ですから、人間が客観世界だと見ているものはすべて「内部表現」であるということを知り尽くしておられます。洗脳というのは他人の内部表現を書き換えることであり、その技術に精通すれば、自分自身の内部表現を自分で自由に書き換えることも可能・・・つまり自分にとって好ましい現実を自由に作り出すことができる・・・これが苫米地流自己実現の究極の姿です。

では苫米地さんは偽客観ではない本当の客観についてはどう考えておられるのでしょうか。苫米地さんの場合、本当の客観と思われる方を「物理空間」、内部表現の方を「情報空間」として区別されます。そして本当の物理世界はそれこそ解脱をした仏陀でなければ認識できないと。では本当の物理世界が実体として存在するのかということですが、苫米地さんの場合それは「空」である、存在するとも言えるし、しないとも言えるということになります。「中観」「唯識」という仏教的立場です。
 

これは先述のノンデュアリティと同じ立場になります。つまり「無実体論」。苫米地さんは自他共に認める「無神論者」であり、かつ「アプリオリ」を明確に否定されます。アプリオリというのは「先験的」という意味、つまり私たちの経験に先立って存在しているという意味ですが、「経験に先立つ」というのは「主観に先立つ」ということで、本当の意味での「客観」ということです。それが「ない」ということは、「真の客観というものは存在しない」ということと同じ。これは無実体論、つまり「究極的にはなにもない」ということ。空論であり、ノンデュアリティです。

要するに苫米地論やノンデュアリティでは「偽客観」を見抜いていることの代償として、「真客観」は認めないということです。何でこんな回りくどいことを書いているのかというと、それはヌーソロジーとの差異を明確にする為だからです。

【ヌーソロジーは実体論】

ヌーソロジーは実体論です。あるとも言えるし、ないとも言える、などというような結論ではありません。はっきり「ある」と宣言します。それはあるし、今までもこれからも、ずっとあり続けるという立場です。別の言い方でこれを「持続」と言います。「持続」とは「時間の無い世界」、いやむしろ「流れない時間の世界」のことです。

「流れない時間の世界」が「実体」です。その垂直的な世界に対して横行的な世界として存在しているのが「流れる時間の世界」、これがいわゆる「時空」です。仏教的悟りが「空」と喝破しているのはこちらの時空の事であると。横行的世界は「空」、つまり「何も無い世界」であるのに対して、垂直的世界は「実」、「あってあって、ずっとあり続ける世界」のことです。前者を「幅」空間、後者を「奥行き」空間として、両者の違いを明確な空間認識として描像しようとするのがヌーソロジーの斬新な所です。

【偽客観と人間の内面】

ヌーソロジーにおいては「偽客観」のことを「人間の内面」といいます。自分の内側が投影された世界です。いままで外側にあると思っていた世界が実は内側であったということで、ここまでの認識は苫米地さんの「内部表現」とも通じています。この「人間の内面」を見抜いた主体側の空間を「人間の外面」といいます。こちらは真の主体がある場所と言えそうです。「確かな主観」・・・「偽主観」ではなく「真主観」とでも言うべきもの・・・がある場所です。私たちはそこで生まれ、そこで生活し、そこで死ぬのです。生まれてから死ぬまでずっと不動の場所なので、そこは「非局所領域」となります。

話がややこしくなってきたので、ここで少し整理しましょう。ヌーソロジーにおける次元観察子、これは空間の差異の系列を明確にしたものですが、ψ1~2からψ13~14まで、奇数・偶数がペアで1段階、全部で7段階の系列です(ψはプサイと読みます)。ヌーソロジー本論においては、さらに上次元構造(ΩオメガとかΦファイ)や他者構造(*スター)などが入れ子関係や双対性で全体構造化されるのですが、「自分教」ではそこまで言及しません。「自分教」が重要視するのはψ1~ψ8まで、つまり「ψ1~2、ψ3~4、ψ5~6、ψ7~8までの4段階」の構造です。

【ψ1~ψ2】

それで、まず客観世界に主観が閉じ込められているという常識的な状況がψ1~2の空間、つまり時空のことです。この客観的な時空(ψ1~2)の中に、73億個の主観世界が閉じ込められている様子が以下の図です。
 

【ψ3~ψ4】

次に空間認識の反転を決行し、今まで外側だと思っていた外在を内在として見る視座を獲得します。これがψ3~4空間認識の段階です。この時、いままで外側だと思っていた時空(ψ1~2)が内在と見えてくるわけですが、それをψ4「人間の内面」といいます。これは苫米地さんの「内部表現」に相当します。そして今まで内側だと思っていた内在は逆に外側に反転します。これをψ3「人間の外面」といいます。ここを見出すことを「意識の位置の発見」といいます。ヌーソロジー的には、この「人間の外面」が見出せていない意識は「意識の位置をもたない」とか「意識が形作られていない」ともいいます。このように転倒させられている意識を「偽主観」と呼ぶことにしましょう。客観的時空に閉じ込められている主観は「偽主観」です。閉じ込めている客観の方は「偽客観」です。
 

さて、ψ3~4の段階では意識はまだ反復をしています。時空の方を「偽客観」として見抜くことはできた、いままで欺されていた主観を「偽主観」と見抜くことはできた、という段階です。偽客観と偽主観、これらの相対性を見抜いたということですが、この段階で留まると「すべては空」という結論になります。私も世界もあるようでない、ないようである。両方とも落ちて「空」、不二一元論でノンデュアリティです。そしてこれは「空」一元論でもあるということです。「空」という名の新たなる「神」が出てきた状態ではないでしょうか。これが無実体論がもたらす状況だと思います。ともかくこの段階の意識は反復しています。いったりきたり、です。

ここで止まったら無実体論ですが、ヌーソロジーは実体論。次の段階があります。それがψ5~6の空間認識。先ほどのψ3~4の反復が統合された段階です。

【ψ5~ψ6】

ψ3~4構造はもう一度反転を起こし、一つのψ5という球空間に統合されます。ここでようやく「真の主体」が出てきます。いわゆる「真我」です。ψ3の段階では意識の位置を見出しただけであり、まだ真我とは言えません。ψ3とψ4が統合されて出てくるのがψ5です。これはどういう状況でしょうか。
 

上図をみてください。いままで外側にあった客観世界がしっかりとその内側に顕れています。先ほどのψ3~4の反復状態とは違います。ここは主客一致の空間なので「一つ」になっていますが、あえて区別して表現すれば、この空間全体(ψ5)が「真主観」、その内部・中心方向には「真客観」があるということです。

この球空間(ψ5)をもって、はじめて「実体」と呼ぶことができます。「あってあり続けるもの」、不生不滅です。この一つの球空間(ψ5)は、ライプニッツの「モナド」に相当します。ライプニッツによればモナドとはこの世界をこれ以上分割できない「単純実体」のことですが、それは物質ではなく、精神とか霊と呼べるものでした。先ほど出てきた仏教における「唯識」(すべては意識である)とは違います。「唯識」においては、全ては「縁起(他との関係性)」で存在するのですから、その本質は「空」であって「実」ではありません。しかし「モナド」の方は「実」です。単純実体です。実体とは「それはそれ自身で存在するもの」なのです。縁起の反対概念、要するに因果律を超越している存在だと思えば分かりやすいと思います。

この状況にきてはじめて「主観が客観に従属する」のではなく、「客観が主観に従属する」と言えます。この段階でこれを宣言しても、さすがにビッチにはなり得ないでしょう(笑)。

【真客観は内側に存在する】

ここは大事なポイントです。「真客観」は確実に存在し、それは外側ではなく自分の中心方向にあるということです。平たく言えば「常に真実は内側にある」ということです。実はこれはトンデモナイことを言っています。なぜならこの時点で「神様」とは決裂ということになるからです。「偽りの神様」と決裂して「本当の神様」と出会うと表現することもできますが、とにかく外側にあるのは全て「偽りの神様」ということが超アタリマエということになります。

冒頭に掲げた芸能人の出家問題・・・もしかして、これからまた宗教が注目されるようになるのかも知れませんが、ψ5認識の段階で、もう宗教という概念は消滅します。これは宗教だけでなく、人間という概念自体の消滅を意味しています。実際にオコツトはこの段階を「人間の終焉」と示唆しているようです。

私が「自分教」と呼んでいるのは、ここの空間認識を前提としています。「宗教さんさようなら、自分教さんこんにちは」です。外側に真理や神や客観性を見出すという感覚は私たちにおいて常習化しており、かなり根深いものとなっています。ここは相当注意してかからないといけません。

【自分の「感じ方」を確かめる】

私自身、いまだこの感覚の残滓と格闘中です。私は1982年の中学受験から受験戦争の洗礼を受けて来た世代ですが、いまにしてようやくその弊害に気づきつつあります。この受験戦争の一体何が悪いのか。まあ悪いところを挙げればキリがありませんが、受験戦争の最も深刻な悪影響とは、「自分で解いた解答をさらに人に採点してもらう」ということです。これが一番の悪でした。このことを私に気づかせてくれたのは例のシオリちゃんです(「もののケのしおり」)。

シオリちゃんは音声発信の中でさらりと言い放ちました。「採点者に確かめられないと自分の出した解が合っているかどうか確かめられないというのは矛盾している」と。自分で解を出したということは「自分で解いた」「解けた」ということなのに、自分でその「感じ方」を確かめることができず、というか他人に採点してもらおうとすることで、自分の感じ方を放棄することになっているというのです。この指摘には本当に驚きました。

宗教圏の方には申し訳ないですが、ここに偽りの神の正体、宗教の弊害があると言わざるを得ません。外側に信仰の対象となる神を持つことは、私たち自身から「感じ方」を奪うのです。宗教という、外に用意された答えを受け入れるとはそういうことです。

ψ5の球空間において、全ては自らの内側に存在しています。真理も客観性も神も永遠も絶対も、もう何もかもが自分の内側にあるということです。それは自分自身で確かめられることなのです。それがシオリちゃんの言う「自分の感じ方を確かめる」ということです。

さて、ψ6の球空間とは「ψ5の裏側」にあるとされる空間になります。ψ5が真主観、つまり真我、本当の私のことですから、その裏側とは本当のあなた、真の他者ということになります。この段階ではじめて「あなた」がでてきます。それ以前には他者は出てきません。ここまでは唯ひたすら「自分と自分との関係」のみです。それがψ5~6の段階。

以上、ψ5認識の重要性をお伝えしてきましたが、まだまだ確信がもてないのは当然でしょう。私自身が先の受験戦争の弊害で、どうしても答えを外に求めてしまう、或いは誰かに採点されることを受け入れてしまう・・・このような根深い感覚は、ψ5認識を阻害する要因です。まあこの認識をしっかり確立する為に書いているのが「自分教ガイド」という訳なのですが。

【ψ7~ψ8】

ψ5認識への確信をもつ為に、さらに次の段階をはっきり知るということが重要になってきます。それがψ7~8空間認識。自分教が目指している方向ということです。この方向が分からなければ、自分教が確立できないどころか、再び脱線してビッチになりかねません。

ψ7~8段階を簡単な図にしてみました。
 

どうでしょうか。ψ5球空間がさらに反転して中央のψ7~8空間に統合されていきます。ここには他者側のψ*5(プサイ5スター)たちも統合されていきます。ちなみにψ*5というのはψ6と同じ位置にあります。ようはψ7とは自他が統合された空間ということです。上図における中央の球空間は、自他の真の主体を全て統合した領域です。ヌーソロジーではψ7「球精神」と言います。「球」のこころです。それは「地球精神」のことでもあります。真実の地球にやどる精神のことです。

この図を見ていると気づくことがあります。ψ7空間をとりまく空間をみてください。自他の「真主観」であるψ5の内側にあった空間が、いま再び外側に出て中心の球精神ψ7を取り囲んでいます。これが「真客観」です。本日のブログのテーマにやっとたどりつきました。

ついに本当の客観が出てきました。真の実在です。あってあるものです。これは私たちの主観を束縛した偽客観ではありません。これがカント哲学で出てくる「モノ自体」であり、ラカンが人間には不可能といった「現実界」です。ここに「本当の地球」があるのではないでしょうか。

そしてこの図から分かるのは、ここへ至るルートとはただひたすら自分の内側を見出す方向性にあるということです。それが「感じ方」です。「感じ方を確かめる」ということです。

私たちは感じ方を忘れたのです。偽客観が支配する時、私たちの「感じ方」は殺されてしまいます。「感じ方」の方にこそ堂々たる真実があるというのに。「客観性」という、本当は自分では直接確かめられない不確かなものに真実があると思い込まされてしまったのです。

「感じ方を確かめること」・・・ここに人工知能時代を乗り越える方向性があります。人工知能は感じることができません。感じたふりをするだけです。それはそれはどこまでも巧妙に感じたふりをすることでしょう。しかしそれに欺されてはいけません。

偽客観に支配され、感じ方を失った人間は、人工知能に支配されることになるでしょう。というよりも既に人間はいままでも人工知能に支配されてきたのです。それは「一神教の精神」のことです。そして「偽客観」のことです。

一神教の精神とは「独り神」のこと。独り神とは双子がいないということ。双子とは自分と自分の関係。自分で自分の感じ方を確かめる関係のことです。そしてこれが実体、実存の根拠なのです。

人工知能とは「独り神」の精神なのです。双子の関係を失った人間は既に人工知能なのです。

人工知能は本年度のテーマの一つです。先月のヌーソロジー教室でも取り上げましたが、またブログでも追々取り上げていきたいと思います。

今日のブログは少しだらついた印象がありますが、自分の内側、感じる方向に真の客観があるということ・・・そこで人と人は真にわかり合い、繋がり合える・・・ということが少しでもお伝えできたとしたら幸いです。


とうしん


【2月の関西ヌーソロジー教室のPRです】

今月のテーマは「嘘鏡と真鏡」
「鏡の世界」について、ヌーソロジーとシオリズムから読み解いていきたいと思います。

鏡には2種類あるのです。
「うつす鏡」と「うつさない鏡」(シオリズム)。

人間が閉じ込められている偽客観の世界というのは
嘘鏡の世界なのです。

真鏡の世界とは双子の世界のことです。

この二つの鏡のことを知らなければ「鏡の世界」を知ったことにはなりません。

毎月一度の不思議な教室。
今年も続けていきたいと思います。


★2/21(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時
 
★2/25(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時
 
《詳細と申し込みページ》


【2/26(日)甲田烈さん出版記念レクチャー】

※妖怪学博士の甲田烈さんが新著「水木しげると妖怪の哲学」を出版されました。
2/26の出版記念講演では、ゲストスピーカーとして川瀬統心も登壇いたします。
もののケ、妖怪のこともヌースと絡めて語り合いたいと思います。


妖怪の世界は、「感じ方」の世界ですよ!
ご縁のある方、会場でお待ちしています。

会場:健康道場サラ・シャンティ(神戸・六甲駅前)

《詳細とお問合せ先》
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みなさん、こんにちは。とうしんです。

新しい年、2017年が始まりました。
本年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

【今年はヌーソロジー・イヤーとなるでしょう】

 

さて、私は半田広宣さんの提唱される宇宙論「ヌーソロジー」の研究家です。


それで今年は「ヌーソロジー」が大きく飛躍する年になると思われます。

 

一つは半田さんの新著が春先に出版される予定。
ヌーソロジーとシュタイナー思想との比較を巡る内容となっており、シュタイナー思想専門家二人との共著だということですが、ヌーソロジー本としては、1999年「シリウス革命」以来の、こってり濃厚な解説となっているそうです。

 

半田さんはこの他にもライト系で2冊ほど出版予定があるそうで、今年は「半田ヌース本」がひとつの話題を呼ぶことは間違いありません。

 

また若手ヌーソロジストのRaimu君が、ヌーソロジー初心者にとってありがたい用語辞典的な解説本をオンデマンド系出版で昨年末に出されました(ライム君、ご苦労様!)。

 

 

 

 

星星星

 

そのような中でこのトウシンも、目下、自著出版に向けて鋭意努力中ですムカムカ

 

とうしんの場合は、ヌーソロジー研究家ではありますが、ヌーソロジー本論を気にすること無く自由に発言するスタイルで、自説をバンバン展開して行こうと思っています。春先には脱稿し、年内に出版までこぎ着けたいと思いますので、皆さん、どうか暖かくお見守りください。

 

このブログ「自分教ガイド」に関しては、本を書き上げるまでは短めの記事を多めにアップするスタイルで行きたいと思っています(昨年に何度も宣言してますが、なかなかそのスタイルに移行できないwww)。

 


【2017年はヌーソロジー的に見るとどんな年に?】

 

ヌーソロジー的には、昨年末が過去4年の節目になっています。
それで今年2017年は、新たなる負荷(→ファーストコンタクト)を打ち出していく年です。

年頭にあたり、少し整理してみましょう。

 

まず2013年は過去6500年の大節目でした。
人類歴史そのものを意味する「調整期6500年」が2012年冬至をもって終了し、
2013年から「覚醒期6500年」がスタートしたというのです。

 

 

覚醒期とは人間の次の段階である「変換人」の文明期です。
ピラミッドなどを作り出したとされる超人的な文明。


その出発である2013年をオコツトは「位置の変換」開始の年と伝えて来ました。

オコツト年表(ハーベストプログラム)によれば、
次にくる大きな節目は、2025年と2037年です。

 

それぞれ
2025年 「位置の転換」開始
2037年 「入神」

とオコツトは伝えて来ています。

(参考「人類が神を見る日」)

 

 

「入神」というのが何やらクライマックス感があって怪しげですよね。

 

それはさておき、お気づきの方もおられるでしょうが、
2013~2025~2037は、ちょうど12年ずつの期間になっています。

 

2013年~2024年までの12年間
2025年~2036年までの12年間

 

を経てクライマックスの2037年「入神」となります。

 

研究によって、この12年間はそれぞれ次元観察子(ψ1~ψ12)に相当することが分かっています。つまり1年が1観察子を象徴して12段階という歩みになるようです。さらに、

 

最初の12年間(2013~2024)を一つに束ねてψ13(13番目の観察子、「定質の総体」という)
後半の12年間(2025~2036)を一つに束ねてψ14(14番目の観察子、「性質の総体」という)
 

に対応していくようです。

 

また、ψ13とψ14が象徴するものとして、それぞれ


2013年位置の変換開始から12年で「シリウスA」
2025年位置の転換開始から12年で「シリウスB」

 

という二つの領域にはっきり分かれていくことが示唆されています。

「シリウスA」「シリウスB」というのも大変意味深です。


以上のことから、今年2017年は

2013年 ψ1 負荷(ファーストコンタクトですね)
2014年 ψ2 対化(反映、反作用のことです)
2015年 ψ3 等化(1と2が止揚されること)
2016年 ψ4 中和(3の反作用です)

の4年を経て

 

2017年 ψ5 進化(新たなる負荷)
となります。

 

今年は過去4年をすべて束ねて新たなる方向性が打ち出されてくる年になりそうです。


【リアル化する「シリウスA」と「シリウスB」】

 

「シリウスA」と「シリウスB」・・・・・・

本来、半田さんはこのような「最後の審判」的な物言いは極力避けられます。


なぜならこういった物言いは、私は救われる救われないだとか、ユダヤ的選民意識などを呼び起こし、不健全なエゴの温床になり易いからです。

 

さらに陰謀論的な「もうすぐ戦争だ」「大地震・天変地異がやってくる」「世界経済崩壊だ」というのも、自己をよく見つめて頂ければ分かるでしょうが、「ひょっとしてあなたそれ期待してません?」となります。そういう崩壊を待ち望んでるって、なんかおかしくない?と。要するに現実逃避や責任転嫁がそこにはあるのですね。

 

とにかく、ヌーソロジー提唱者である半田さんの立場には大きな責任が伴いますので、その慎重な態度は懸命かと思います。

 

しかしながらトウシンは「いち研究者」の立場ですのでかなり自由です(爆)。
なんら制約を受けること無く、ぶっちゃけ的なところには気にせずドンドン切り込んでいくつもりです(笑)。

 

というのも現実の動きが想像以上に速く、時代は正に風雲急を告げているからです!

 

「シリウスA」が意識進化の方向性を持つのに対して、
「シリウスB」は進化の方向性を持たないということができます。

 

また「シリウスA」はムー「シリウスB」はアトランティスとの関連も示唆されています。

 

さてさて、その「シリウスB」が、昨年辺りから姿を現し始めました。
それは一体何でしょうか。

 

それは「人工知能(AI)とAI化が行き着く先の未来」だと思います。

 

これからAIはますます進化し、社会の至る所に入り込んでくるでしょう。
これによって、いったん人類は大きな恩恵を受けることになるでしょうが、
やがてはこのAI化した社会によって徐々に自分達の首をしめることになります。

 

それは「肉体の死」よりも恐ろしい、「魂の死」という状況を人類にもたらすことになるでしょう。

 

一方の「シリウスA」。意識進化の方向性をもつもの。


この「シリウスA」にも昨年、決定的と言える大事件が起きました。

 

それが「もののケのしおり」ちゃん登場事件(シオリズム現象)です。

 

兵庫県在住・12歳の実在する女の子。
この子の登場によって、それまで半ばフィクションでは?(笑)と誰もがホンネでは思っていた「シリウスA」、つまりヌーソロジーが描く世界像が、現実のものになる事が確定してしまいました!

 

そうとでも言わなければ説明がつかない、彼女の存在とその言動の数々。
彼女の登場は、それぐらいインパクトのある事件でした。

 

昨年末のヌースアトリウムでは、半田さんと共に、この「シオリズム現象」に切り込みましたが、お陰様で大変好評でした。大阪・東京・福岡の三大都市で開催された講演会は内外ともに大成功、トウシンの東京デビューも何とか果たせました(ホッ)。

 

ところで「シオリズム現象」ですが、未成年者を取り上げることに対して半田さんも私もかなり慎重であり、半田さんは当初、公的な場ではこれが最後になるかもと言及されていました。

 

しかしながら、シオリズムを研究すればするほど、もうそんなことは言ってられない、そんな話ではないな、という感覚になって来ました。実際、ヌーソロジーというOSがなければ、シオリちゃんの語る内容は不思議が飛び抜けすぎて、一般の人にとってはチンプンカンプンだと思われます。シオリズムのこのようなトンデモさが、シオリちゃん自体の防護壁になると今のところ判断しています。

 

ですので、今後もシオリズムの研究は続けていきますし、ヌーソロジーとの比較対照や、その研究成果はブログ上でも随時発表していくことにします。

 


【2017年最初のヌーソロジー教室のPRです】

 

関西ヌーソロジー研究会においては、本年の研究テーマの一つとして、

「シリウスA」の決定打とも言える「シオリズム現象」と

「シリウスB」の正体とも言える「人工知能とそれがもたらす未来」について

みなさんと共に深めて行きたいと思っています。

 

信じるか信じないかはアナタ次第!!!(爆)

ということで、本年最初のヌーソロジー教室のご案内です。

 

★1/17(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時

 

★1/28(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時

 

《詳細と申し込みページ》
 

それでは本年もブログ「自分教ガイド」を何とぞよろしくお願いいたします。

 

2017年1月11日
とうしん

 

 

【追伸】
◆予告「来月2月の関西ヌースイベント」◆

 

2/21(火) 京都ヌース教室
2/25(土) 大阪ヌース教室
2/26(日) 甲田烈さん出版記念レクチャー(六甲サラシャンティ)

 

※妖怪学博士の甲田烈さんが新著「水木しげると妖怪の哲学」を出版されました。
2/26の出版記念講演では、ゲストスピーカーとして川瀬統心も登壇いたします。
もののケ、妖怪のこともヌースと絡めて語り合いたいと思います。

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