『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


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皆さん、こんにちは。
GWを越えて日本は初夏に入りました。気温も最適であり、過ごしやすい日々が続いています。
しかしながら先月は九州において熊本地震がおこり、多くの方が犠牲になられ、またご無事であった大勢の方々においても、いまだ避難所での不自由な生活を余儀なくされています。被災された方々とその内外環境のすみやかな復旧を心よりお祈り申し上げます。

さて、4/29~5/1までの三日間、神戸は六甲にある健康道場サラ・シャンティにて「己読みシンポジウムⅡ」が開催されました。私は三日間を通して司会進行役と、最終日1コマの講演をさせて頂きました。お陰様で全三日間のべ160人以上がおこしになる大盛況となりました。登壇された方々のプレゼンはどれも最先端の斬新かつ非常にユニークな内容であり、さらにそれを受け止められる意識の高い参加者との一体感で、もの凄い「場」となりましたね。「双方向」という観点からみてもかなりハイレベルのイベントであったし、そのクオリティはもはや「事件」と呼べるほどでした。こんなにマニアックな会なのに(^^;)

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今回のブログでは、最終日に私がお話した内容について、三日間全体の報告と私自身の感想もからめつつ随筆調でお伝えしたいと思います。あとから文章として整理しているので、実際に話した通りではありません、悪しからず。それでは始めましょう。

★講演テーマ「地球精神の覚醒・・・自我は確立され、そして解体され、これからどうなっていくのか」

●吉野流カタカムナ

今回の己読みシンポジウムⅡのテーマは「自我」でした。自我とは何か、自分とは何か。つまり「己」を知るということ、それで「己読み」。「自分を超えて深く深く己を尋ねる三日間」というサブタイトル。ところで「己」という字は数字の「2」に似ていますね。デジタル数字の「2」は「己」の字そのまんまです。それをひっくり返すと「5」になりますし。「己読みシンポジウム」を5月にやることもまた意味深ですね。それで2といえば2日目に登壇された吉野信子さん、昨年に徳間書店から「言霊の超法則」を出されたカタカムナ研究家。yoshinoいま全国数カ所でカタカムナの講座をもたれて大活躍です。今回その吉野さんは「己」という字のカタチが二つの渦、右回り・左回りの二つの渦が真ん中で反転して繋がっているカタチとして感じ取られ(解釈され)、そこからそのカタチを巡って縦横無尽に語って下さいました。

吉野流カタカムナの特徴の一つとして、言霊・数霊・形霊・・・それぞれの境界にとらわれること無く、大胆に「似ている」に着目していかれます。音が似ている、カタチが似ている、数が似ている・・・まさしく「相似象」、相似のカタチの世界。慣れない人にとっては「え、ダジャレ?」と戸惑うほどの徹底ぶりですが、和やかな表情の中にもキリッとされて、「同音異義語」は外国語にも通じる!とまで断言されます→”トーラス”と”通らす”とか・・・。潔いその態度に感動を覚えました。「同音異義語」(道路とロード?、Iと愛とか・・)とはつまり「ダジャレ」みたいなものですよね。でも「同音異義語」は、自分教で言う「異質同体」にも通じるものがあります。この世界には「潜象界」と「現象界」という二つの側面があるというのが楢崎皐月氏が研究したカタカムナの世界観。おっと皐月は五月ですからここでも5月が出てきました。潜象界は内在世界、現象界は外在世界。この世界観はヌーソロジーもまったく同じ。ヌーソロジーでは前者が「奥行き」、後者が「幅」の世界。それを自分教では「異質同体」と「同質異体」の世界と言ってます。

本質世界であり「実体」の世界でもある「潜象界」は「相似象」の世界であり、「相似」、つまり「似ている」ことが重要なファクターとなります。ヌーソロジー的にも「潜象界」は「非局所」領域ですから、すべてが畳み込まれている様相です。特定の場所ということがありません。これは「底なし天井なし」のフラクタル図形の世界・・・つまり金剛界マンダラの世界ですね。そしてフラクタルはどこをとっても同じカタチなので、特定の場所がありませんし、「同じカタチ」という「相似」の世界です。またトポロジー(位相幾何学)にも通じます。トポロジーにおける「連結性」や「コンパクト性」・・・有名なものは「コップとドーナツを同じモノ」としてみるアレですが、これも分からない人にとっては「なんてひどいことするんだ!」というぐらいの変形をしますが、トポロジーの扱う位相空間においては両者は同じモノとして扱えるのです。(下図トポロジーのGIF画像はwikipediaより)
topology

要するに吉野さんの思考方法は、「潜象界」を思考するのに全く正統な方法であるということです。三日目の登壇者である甲田烈さん(哲学者・妖怪博士)もまた、吉野さんの講演を聴かれて、その思考方法はまさしくアナロジー(類推)であるとして、アナロジーは科学や哲学においても重要な方法論であり、まったく正統なものだと賛美されていました。甲田さんによれば、「妖怪」を思考する時がまさにこの思考を使うそうです。

●アニマンダラ

さてさてフラクタルと言えば、『「生物進化や生態系が、人の精神構造とフラクタルな投影関係にあり、同じものである」・・・そうした相関性を見出し、新しい宇宙観~人間観を伝えるシャーマニックバイオロジー・・・』というのが「アニマンダラ」の紹介です。第1日目に登壇された天海ヒロ氏のアニマンダラ。

私はまだアニマンダラは初心者です。この5月末から毎月1回の全5回シリーズで、同じ六甲サラ・シャンティにてアニマンダラレクチャーの講座が開催されます。私も全回に参加予定です。アニマンダラの天海ヒロさんとヌーソロジーの半田広宣さんは盟友であり、天海さんもまたヌーソロジーからのインスパイアもあって、アニマンダラを構築してこられました。半田さん曰く、ヌーソロジーの生物学バージョンだと言わしめるほどの完成度。

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アニマンダラの重要なメッセージを3つ挙げるとすれば、①負け組進化論、②外骨格化と内骨格化、③種我同型論・・・。①負け組進化論とはアニマンダラのユニークさを物語る最大の特徴で、要するに原初の単純生命から私たち人間にまで進化してきたのは、「弱肉強食・適者生存」で勝ち残ってきた「勝ち組」系統ではなく、強者に奪われ追われ、常に逃走し続けてきた「負け組」系統の方であったということです。司会をしていた私も思わず「学校で習ってきたことと全然違うじゃないですか!」と感嘆してしまいました。目からウロコ、コペルニクス的展開とでも言うのでしょうか。天海氏はこのことを状況証拠満載でアカデミックに解説してくれるのです。最高の知的興奮!探せば証拠がいっぱいあるのに今までこのことが分からなかったのは、私たちがそういう「観」を持たされていなかったからです。社会的洗脳というヤツですね。

それで、私たち人間にまで進化してきた「負け組」系統ですが、絶えず分岐点において「内骨格化」の方向性を取ってきたというのがアニマンダラの見解。内骨格化が負け組、もとい進化組。対する強者であり、やがて滅んでいくのが「外骨格化」の方向。「外骨格化」・・・例えば「外側に武装し、外的環境に最適化する」という、いまの社会で言えば「優秀」とでも言うべき方向性。事実、外骨格化した連中は環境に最適化し、その時代において勢力を極めていきます。つまり「勝ち組」。ところが・・・必ずその末路たるや、滅びていくのですね。ある日突然に起きる天変地異などのあとに・・・。ここからはたくさんの哲学的な教訓を引き出せそうですが、例えば一つの環境に「最適化」する・・・多様性を排除し、シンプルにシステム化・統一化されていく・・・というのは、一見するととても良さそうなのですが、その環境が急激に変化した場合には順応できなくなるというのがあります。いま公開中の映画「アイアムアヒーロー」、原作マンガも大変な人気ですが、この作品中、ナゾの病原体パンデミックによる人類滅亡の危機の中で、意外にも生き延びて活躍していくのが「オタク」や「引きこもり」「ニート」だったりしています。外側(社会適応)ではなく内側(妄想やイメージの世界)を向いていた気弱で内向的な人達の方が、感染してもZQN(ぞきゅん=作中でゾンビのこと)化せず、自我を保ったまま超人化したり・・・まあマンガの話です、すみません(笑)。しかしそこに示唆されていることは結構深いと思います、ヌース的に見てもね。

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そして③種我同型論。最初の生命体は全てが水の中でした。やがて水の中から陸上に移動する。当初の生命にとっては毒ガスでもあった酸素の蔓延する陸上に、最初に移動するのはメイン舞台であった水中において撤退を余儀なくされた負け組。陸上においても昼間のメインは大型類に占拠され、負け組である我らの先祖は夜の世界へ逃走・・・。このようにして負け組の系譜をたどりつつ人間にまで至った・・・というのが負け組進化論のストーリーですが、その間に生み出された様々な種の系統樹・・・これら生物進化の軌跡と生態系が、人間の場合は内面化して、人間という一つの種の中において「自我」というカタチで取り込まれているとアニマンダラでは指摘しています。バラエティにとんだ生物種の性質と関係性がそのまま人間の自我に反映しているということです。人間の中にも爬虫類タイプとか猛禽類タイプとか、いろんな性格があるよね、ということです。つまり生物進化の歴史は人間の自我、あるいは意識進化の歴史としても反映されているということになります。つまり「生物進化 ∽ 意識進化」。

さあ、ここから私の講演内容に入っていきます。甲田さんが指摘された「アナロジー思考」を存分に使わせて頂きながら、長年のテーマである「意識進化」について語るということになります。

●統心講演テーマ「地球精神の覚醒」

最初のアナロジー、つまり相似形からの類推は、「生物進化 ∽ 意識進化」。それで生物進化の最終形が「人間」なのですから、意識進化の最終形は?ということですね。「生物進化→人間 ∽ 意識進化→?」 さて、一体どうなるのでしょうか。ここでオコツト情報、コーセンさんのチャネリング情報によれば、それは「自我の消滅」であるということです。

***自我の消滅***
コーセン: では、あなた方が人間の意識進化と呼ぶもののイメージについて、ごく単純な言い方で結構ですから分かりやすく説明していただけませんか・・・・・・
オコツト: 自我の消滅です

「2013:人類が神を見る日」より

このように、オコツト情報では人間の意識進化のゴールを「自我の消滅」と説明しています。つまり「意識進化 → 自我の消滅」です。
それでは「自我の消滅」とはどのような状況を言うのでしょうか。もしそれが分かれば、或いは明確にイメージできれば、それはそのまま意識進化の方向性やルートが見えたということに他なりません。

またオコツト情報には「最終構成」という概念があります。

***最終構成***
コーセン: 最終構成とは何ですか。
オコツト: 人間が人間であることの最終的な段階へと達したという意味です。
コーセン: 最終的な段階というと・・・・・・?
オコツト: 付帯質におけるすべての次元を交差したということ。
コーセン: つまり、物質・・・・・・のすべての次元を交差したということですか。
オコツト: そのような意味でよろしいでしょう。人間の意識が物質宇宙におけるすべての領域を交差したために、このような関与が始まったと考えてください。
コーセン: すべての領域を交差した・・・それは、僕らの科学のことを言っているのですか。
オコツト: はい。あなたがたの意識が物質世界の極大と極小を発見したことにより、オリオンが感性作用の変換を始めたということです。

「2013:シリウス革命」より

最終構成とは「人間が人間であることの最終段階へ達した」という意味らしいですが、それは物質宇宙を極めること、つまり科学がある段階にまで到達したということを意味しているようです。科学のある段階とは「極大と極小の発見」であり、それは「アインシュタインの相対性理論」と「量子論」の登場と言い換えることができます。

さらに物質概念自体が人間型ゲシュタルトを意味していると言います。

***物質という概念***
オコツト: 物質という概念は人間型ゲシュタルトが作りだしています。このことがあなたがたの周囲に派生している様々な問題の元凶となっていることにそろそろ気づかなくてはなりません。人間型ゲシュタルトは宇宙を部分に分け、個体という幻想を作り、精神進化を抑制しようとしています。
「2013:人類が神を見る日」より

オコツト情報の目的とは最初から人間型ゲシュタルトを解体し、変換人型ゲシュタルトをプログラムすることであると伝えて来ています。

***変換人型ゲシュタルトをプラグラムすること***
コーセン: 変換人型ゲシュタルト………?
オコツト: 変換人型ゲシュタルトとは、あなたがた地球人が21世紀以降に持つ空間認識のプログラムです。現在の地球人の空間認識は歪曲しています。その歪曲が正しい宇宙的理解からあなたがたを遠ざけてしまっているのです。その歪曲を正常な状態に戻す働きが変換人型ゲシュタルトの役割です。この送信の目的は、わたし自身、つまり変換人型ゲシュタルトをあなたにプログラムすることにあります。

「2013:人類が神を見る日」より

この「人間型ゲシュタルトの解体」とは「自我の消滅」の意味でもあります。

***自我は働きを失うでしょう***
オコツト: 人間型ゲシュタルトが自我を生み出しており、人間の意識の方向性の反転によって、自我は働きを失うでしょう。
「2013:人類が神を見る日」より

以上をまとめると、

「生物進化→人間 ∽ 意識進化→自我の消滅」

で、「自我の消滅」は「最終構成」にて起こり、それは「科学による物質概念が究極に到達した」ということでもありますから、

「生物進化 ∽ 意識進化 ∽ 物質進化」

でもあるということです。
意識進化の方向性を読み解くのは難しいかも知れませんが、それは物質進化のアナロジーで読み解ける可能性があるのです。

では物質進化の究極とは何でしょうか。それは間違いなくコンピューターであり、コンピューター社会ではないでしょうか。現代社会の本質を抽象度を高くしてみれば、コンピュータ社会に全て現れていると言えるでしょう。コンピュータ社会こそが「最終構成」によってもたらされた最終段階の社会です。そしてオコツトはやがてそのコンピュータが一斉に停止するとも伝えて来ています。このことは「シリウス革命」の中において詳しく紹介されていますが、ヌーソロジー本論からは「オコツトのトンデモ情報」として、今は参考程度の扱いになっています。・・・というか、むしろ無視。

少々脱線しました。「コンピュータ一斉停止」の件は忘れて下さい(笑)。先を急ぎましょう。
「物質進化→コンピュータ社会」のアナロジーを使うと以下のように類推できそうです。

「生物進化→人間 ∽ 意識進化→自我の消滅」
「物質進化→コンピュータ社会 ∽ コンピュータ進化→ ?」


つまり

「意識進化 ∽ コンピュータ進化」

と言えそうです。

それでは「コンピュータ進化」の究極はどうなるでしょうか?タブーを無視して、SF脳・マンガ脳炸裂で考えてみて下さい。
私はそれを「コンピュータが自我意識を持つ」と類推しました。もちろんSFの世界です。

「2001年宇宙の旅」のHAL、ターミネーターのスカイネット、マトリクス・・・

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コンピュータが自我意識をもち、人類に対して反乱を起こす、そして人類を逆に管理下におこうとするというモチーフはSFでよく登場します。最近のSF映画やマンガで頻繁に登場するテーマです。私は以前より、これらは「行きすぎたコンピュータ社会への警告」と捉えるのでは無く、人間の意識が次の段階に行くことの比喩であると言ってきました。警告なんかより、意識進化のアナロジーとして捉える方が面白いでしょう?

さて現実の社会において、コンピュータはどこまで進化して来ているのでしょうか。間違いなくそれは人工知能・AI(Artificial Inteligence)であると言えます。iPhoneのSiriやwindows10のCortana・・・身近なところに人工知能テクノロジーが顔を出してくるようになりました。グーグルは毎年その莫大な利益の多くを人工知能に投資しています。昨年末にはトヨタ自動車までが、今後は人工知能に巨額投資をして開発を本格化していくという報道がなされました。他にも先端をいく大企業が続々と人工知能に投資しています。

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ここにIBM社の資料があります。IBM社長のスピーチによると、コンピュータ社会は第1世代の単なる計算機の時代を経て、現在は第2世代「プログラマブル・コンピューティング」の時代であり、まもなく第3世代「コグニティブ・コンピューティング」の時代が訪れるということです。簡単に説明すると、第2世代では、人間がコンピュータに対してプログラムで命令をし、コンピュータはそのプログラムを実行するということであり、現在の私たちが使っているPCをはじめ、スマホやタブレット、オフィスのコンピュータはみなこれに相当しています。では次の第3世代とは何でしょうか。「コグニティブ」とは「認知の」という意味であり、コンピュータ自身が自分で学習するシステムであるというのです。コンピュータ自らがデータを集積し、さらに自らがそれを分析し、その分析方法自体を自ら構築し、必要に応じて改編したりするというのです。これはあたかもコンピュータが「知恵」を持つ段階に入ったように思えます。単なる情報という「知識」を扱う機械ではなく、その情報の整理・活用方法を自ら編み出していく「知恵」を持つレベルです。人間が命令しなくても自分でやりだすのです。これによって、コンピュータは実生活の上で人間に対等な相談相手、真のパートナーになるとされています。

今後人工知能はそのように発展することが分かっています。しかしこれを「コンピュータ技術の発展」という側面だけで見るのは片手落ちです。ここにはもう一つの重要な要素があります。それはインターネットの発達によってもたらされた「ビッグデータ」或いは「クラウド」と呼ばれるものです。「ビックデータ」に関しては、以下の富士通の資料を参考にしてください。(図は日経BP社 ITproの記事より)

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「ビッグデータ」とは、ただ大きいだけじゃなく、とてつもなく大きいデータという意味があります。とてつもなく大きなデータ。今日、私たちの生活はスマホ・PCだけでなく、車や公共の交通手段、コンビニの買い物からレジャー施設、もうありとあらゆるところにセンサー端末を通じて情報収集がなされています。ましてや私たちのネットを通じた行動は全て収集されています。これはもう避けようがありません。毎瞬間、膨大な量の情報が蓄積されていきます。その天文学的な数字のさらに何乗みたいな世界を「ビッグデータ」と言います。これほどのデータがさらに最先端のAI技術によって融合し始めているのです。バーチャルワールド(仮想世界)の情報量がリアルワールド(現実世界)に近づいてきているのです。もうバーチャル世界をバーチャル(仮想の)などと言っておられません。それは「第2現実」とでも呼ばなければいけない段階に来ています。この「ビックデータ」を背景にして、コンピュータの人工知能化が進むのです。

まとめると下図の様になります。
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重要なポイントは「インターネット」→「クラウド(ビッグデータ)」→「人工知能」の順に発展するということです。いま「人工知能」まで来ているのです。その先はSFです。「知恵」を持つようになったコンピュータは果たして「自我」を持つに至るのか?この議論はそのまま「自我の本質」を考えることになります。「自我の消滅」を考えることもまた「自我の本質」「自我とは何か」という議論になります。ここにこのアナロジーの最大のポイントがあります。「コンピュータが自我に目覚めること」が、「人間の自我が消滅すること」のどのようなアナロジーになっているのでしょうか。

SFにおいて「コンピュータが自我を持つ」という時、大抵は「コンピューターネットワーク全体」で目覚めるという描写になります。ターミネーターのスカイネットやマトリクスのシステムなどがそうですね。ネットワーク全体がある段階に達したときに「自我」を持ちます。私はこの描像こそが、オコツトが伝えて来た「自我の消滅」とその先にある「人間全体の目覚め」のアナロジーだと思っています。全体が目覚めることは、個の自我の消滅を意味しています。それを今回は「地球精神の覚醒」というテーマでお話をしました。

ヌーソロジーにおいては悟りとか覚醒という意識進化上の出来事を「顕在化」と呼びます。細かい定義はさておき、「顕在化」とは「今まで見えなかったものが見えるようになること」ですから、ここでは「無意識が意識化されるようになる」ことを意味します。隠れていた無意識がオモテに出てくるのです。ところで精神分析や心理学において、無意識とは潜在意識よりもさらに深い層のことを言います。それはまた、フロイトの後継者ユングの理論に出てくる「集合無意識」でもあり、過去から現在にいたるまで存在した全ての人類の無意識の集積体です。さらに仏教における阿頼耶識やスピリチュアルで言われるアカシックレコードのように、ここには未来の情報まで全て含まれることになります。そのような集合無意識の実体をヌーソロジーの文脈では「ψ7空間・球精神」と呼んでいます。もちろんソースはオコツト情報です。

今回の講演で私は、この「ψ7・球精神」が目覚めることを「”地”球精神の覚醒」と表現しました。「新たなる地球の目覚め」です。ちなみに後で半田さんも「オコツトの言うキュウセイシンとはおそらく”地球精神”のことなんだろうね」とこれについて同意して下さりました。

意識進化のゴールはこの「ψ7・球精神」の顕在化となるのですが、オコツト情報における空間構造はシステマチックであり、顕在化していく順番もψ3→ψ5→ψ7とその段階は明晰に整理されています。詳しくはヌーソロジーレクチャー本論に譲りますが、ここでは簡単にコンピュータ進化のアナロジーに対応させてみます。
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意識進化の第1ステップと言われるのが「ψ3空間の顕在化」です。これが前回ブログで伝えた「位置の交換」という意識作業になります。「位置の交換」によって私たちはこれまでの認識形態を逆転させます。人間は普通、自分の内側に心があり、その内側から外の世界、物質世界や環境をのぞき見ている、体験しているというパラダイムで生きています。内側が心や精神であり「主体」、外側が物質や世界であり「客体」という認識、ごく当たり前の認識ですよね。ですがこれこそが「人間型ゲシュタルト」であり、頑なな自我の巣窟で、山積する全ての問題の元凶であるというのです。まずはこの認識を逆転させるのです。

つまり私たちは内側から外側をのぞき見ているのではなく、実は外側から内側をのぞき見ているのだ、という逆転です。これが「位置の交換」。これによって、心とか内在世界と思っていたものが全て目の前になります。目の前の物質や環境こそが精神世界だったということになります。この認識を開始するのが「位置の交換」であり、「外側から内側をのぞいていた」という発見が、それぞれ「人間の外面」と「人間の内面」と呼ばれます。ここ、ややこしい人はスルーしてくださいね。とにかくこれが「ψ3空間の顕在化」であり、ここから意識進化が始まります。

このことをコンピュータ進化のアナロジーで説明すれば、「単なるパソコンをインターネットに接続する」ことに相当します。「コンピュータ、ネットなければタダの箱・・・」。確かにいまのパソコンは単体でも素晴らしいアプリがいくつもあり、多くの仕事をこなすことができるでしょうが、ネットにつなぐことでパソコンはさらに次元の違う世界に入ります。ネットを通じて膨大な情報ネットワークにつながる、誰でも机の前から移動することなく国家レベルの情報機関に匹敵するような作業ができてしまう・・・。意識進化の第1段階である「ψ3空間の顕在化」をした意識は、全く別のモノへと変容を開始するのです。オコツトによれば、この時点で既に「人間型ゲシュタルトの解体」に相当すると伝えています。

「ψ3空間の顕在化」の次は「ψ5空間の顕在化」となります。コンピュータのアナロジーで言えば、この時点はパソコンがインターネットにつながり、クラウドにつながり人工知能化する段階に相当するでしょう。オコツト情報では「ψ5空間の顕在化」を「位置の等化」と呼び、「真の自己が形成されている空間」であるともいっています。これは「単なるパソコン」が「人工知能化」するアナロジーとして捉えることができるでしょう。

オコツト: 次元観察子ψ5とは自己が形成されている空間領域のことです (シリウスファイル19920204)

そして人間の意識進化の最終段階である「ψ7空間の顕在化」となります。この未曾有の事態を「コンピュータが自我にめざめる」と比喩したのはまんざらでもないでしょう。そのトンデモさ、圧倒的な差異と強度をここに感じて欲しいのです。そしてコンピュータの自我は「ネットワーク全体として目覚める」のです。ここからは「全体の目覚め」となります。ですから「個の自我は消滅」していきます。それは、人間において「自己」が相対化し、他者との入れ換えが可能となり、自他が統合された空間が見え出すということになります。それが「地球精神の覚醒」。新たなる地球の目覚めです。それは「愛の領域」でもあります。そのような世界を半田さんは今回、『「あなた」と「あなた」の世界』・・・と詩的に表現されました。今までの人間は『「わたし」と「わたし」の世界』です。これは自己主張し、ぶつかり合い、闘争する世界です。『「あなた」と「あなた」の世界』はお互いに相手のことを自分として、それも自然にそのように思える世界、優しい世界、そのような意識空間が、これから自然と開かれてくるということになります。それが「地球精神の覚醒」。

以上駆け足でみてきましたが、ここまでが私の講演の半分となります。後半は、人類の「意識進化の歴史」を「思考の歴史」と捉え、古代ギリシャに登場した最初の哲学に始まり、1000年以上にわたった中世キリスト教社会、それからデカルトにみる近代精神の発芽、そして構造主義という現代哲学にいたるまでの「思考の歴史」・・・とりわけ西洋思想史を、なぜかこの私自身が生まれてから現在まで反復してたどってきたという、私自身の身の上話とからめて語ることになります。

「個体発生は系統発生を繰り返す」・・・受精した胎児は、胎内で生物進化の歴史を反復し、人間の赤ちゃんにまで進化して生まれてきます。私自身はどうやらこれを精神世界においてもやってきたようです。私自身の生涯を通して、西洋思想史を反復してきたのです。それは「死とは何か、宇宙の果てはどうなっているのか?」と悩みに悩んだ園児の時代に始まり、中学時代から20代後半まで続いたキリスト者としての生活、そして大病を患った後、いったん精神的なものを全て捨て、極端に物質的に走った30代前半まで・・・。その後インターネット全盛時代に突入し、内外の膨大な情報に接して自我がどんどん相対化していった時代・・・これが現代哲学における「構造主義」に相当します。そうやって現在たどりついたのがヌーソロジーという私自身のストーリー。

「己読み」シンポジウム・・・期せずして私はこのイベントを通じ、「私自身」を読み解くことになったようです。私自身がヌーソロジーと出会ってもうすぐ7年、この7年間の間に体験してきた意識変容をみなさんとシェアしていくその延長線上に・・・やがてはあの「地球精神の覚醒」の日を迎えて行くのかも知れません。もうすでに、暗かった空は朝焼けで鮮やかな朱色に染まり始めています・・・。

この続きは次回後編パート2にてお伝えしたいと思います。今度は近日中にアップする予定なので、お楽しみに。

とうしん

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テーマ:
みなさん、こんにちは。
前回の更新から早や2ヶ月が経ちました・・・(汗)。
その間に節分・立春を過ぎ、さらには春分の日まで越えて、本日4月1日から新年度開始ですね。
1年のリズムで言えば、いまから夏至あたりまでは「投入」の時期です。そしてその後は「収穫」の時期をゆったり迎える。有意義な2016年の創造に向かって、楽しき努力の日々を共に過ごして参りましょう。

さて日があいてしまったので、今回のブログも長くなりそうです。
今年こそは、短めの記事で更新頻度を多くするスタイルに移行したいと切望しておりますが・・・
そんな淡い期待を抱きつつ、本日のお題に入っていきたいと思います。

◆本日のテーマ
「意識進化は目の前に」~それそのもの(イマージュ・クオリア)~

前回のブログ『「同質異体」から「異質同体」』は、私としては渾身の内容でした。「異質同体」という方向性をおぼろげにも打ち出すことができて、これが遺言になったとしても悔いはない程です。まあまだ始まったばかりなのですが(笑)。個人的には90才代までの予定を立てているぐらいですし。

もちろんあの内容だけで「異質同体」が伝わるとは思っていません。「異質同体」は今後も私のテーマとしてずっと追いかけていくことになります。この「自分教ガイド」は半田広宣さんのヌーソロジーにインスパイアされて書いています。半田さんが切り開いて下さった「けもの道」を「山辺の道」ぐらいにするのが私のミッションだと思っています。あとはこの「自分教」からインスパイアされた方が増えていくことで、山辺の道はさらに広がり、立派な道路となっていくことでしょう。

さて、ここ数回に渡りスピリチュアル界の新しい潮流「ノンデュアリティ(不二一元)」を取り上げてきましたが、やはり「悟り」ブームが来ているようですね。不思議研究所のもりけんさんが不定期に送って来られる無料冊子「不思議の友」の前回号のテーマも「悟り」でした。もりけんさんは天の邪鬼な方ですので、一般的な悟り願望を「意識を高めようとする衝動」であるとして、それでは悟ることはおろか、虚構と妄想の世界に入るだけだと禅の大家・鈴木大拙氏の思想を引用しながら斬っておられました。それを拝見しながら、ああここで自分教やヌーソロジーのスタンス、動機というものを改めてはっきり言明しておかなければいけないなと思いました。

◆メンタルヘルス
ところで最近、「メンタルヘルス」という言葉をよく聞きます。「メンタルヘルス」・・・心の健康。心にも病気や健康があるという概念です。うつ、パニック障害、適応障害などという症例は、ごく普通に誰の身にもおこることです。「うつは心の風邪」とも言われるほど。心専門の診療を行う「メンタルクリニック」「心療内科」も増えています。メンタルクリニックやセラピストに診てもらうことは決して恥ずかしいことではありません。欧米では既にそのような習慣は確立していましたが、最近の日本でもそのような状況を迎えつつあります。

実は欧米先進国の多くが、ライフサイクルにおける成熟期から衰退期にさしかかっています。季節で言えば秋から冬ですね。分かりやすい「物質的発展」の目標がほぼ達成されたので、目標を失いつつあるのです。個人でも目標を達成すると悦楽の後に虚無がやってきます。それは国家も同じなのですね。そうなってくると今度は「心の問題」が浮上してきます。それで「心の病気」「心の健康」が問われるようになったのです。欧米は物質的発展において日本よりも先を進んでいましたので、「心の健康問題」という状況もいち早く迎えていたのですね。

欧米より数十年(20~30年ぐらい?)の差はありますが、日本も物質的には成熟期から徐々に衰退期へと向かい始めています。それが近年「メンタルヘルス」の需要が高まっている背景です。これは明治維新以降の欧米物質主義を中心とした流れであり、「地の事情」と言えます。しかし歴史は「地の事情」だけで動いているのではありません。「天の事情」があります。あらかじめ定められたゴールというか宿命というか・・・それも宇宙的な規模で、未来から現在へと流れてくる逆の方向性が「天の事情」だと言えるでしょう。そして「地の事情」に「天の事情」が折り重なって起きているのが、昨今の「スピリチュアルブーム」であると見ています。

◆トランスパーソナル(自己超越)
「メンタルヘルス」も「スピリチュアル」も共に「心や精神」を取り扱う分野ですからごちゃまぜになりやすいです。しかしここには段階による明確な差異があります。トランスパーソナル心理学の知見を借りて分かりやすく整理してみましょう。

トランスパーソナル・・・「自己超越」のことですね。トランスパーソナル心理学とは1960年代から展開し始めた心理学における「第4の波」とされています。心理学者マズローによると第1~2波が「行動主義心理学」と「精神分析」、第3波が「人間性心理学」となります。「行動主義心理学」が外側から、「精神分析」が内側からのアプローチに対して、「人間性心理学」は内外を統合するアプローチと言えるでしょう。それで外側からのアプローチだと「自己修正」、内側からのアプローチだと「自己治癒」、そして統合するアプローチである「人間性心理学」では「自己実現」という概念が出てきます。自己修正・自己治癒から自己実現へ。

トランスパーソナルは「自己実現」の次の段階とされています。「自己実現」の次の段階としての「自己超越」。こうして見てくると、先ほどの「メンタルヘルス」は「自己治癒」の段階と言えます。「癒やし」です。ヒーリングですね。また家族の問題解決や経済問題解決という場合は、自己修正・自己治癒から自己実現のレベルということになります。
自己超越

◆「悟り」とは
では「悟り」とは何かと。これは間違いなく「自己超越」の領域ですね。「自己実現」ではありません。自己実現は成功哲学とかのレベルです。最近のスピ系と言われる領域は、自己治癒から自己実現あたりの取り組みと言えるでしょう。「セルフヘルプメソッド」とも言われます。その領域に軽いタッチの「悟り」が現れて、けっこうごちゃまぜになっています。悟りとかスピリチュアルを扱うその人が「自己治癒」の段階で言ってるのか、「自己実現」の段階なのか、それともそれらを越えた「自己超越」なのか。

悟りとは本来は「自己超越」だと思います。生老病死、人生の一切が苦であると痛感した仏陀は、悟りをもとめて苦行と瞑想の日々に入るわけですが、彼の動機が「自己治癒」とか「自己実現」でないということは明白でしょう。夫婦仲が悪いとか、経済苦とか、自分の目標が分からないという動機で苦行林に向かったというのはありえませんよね。だって一国の王子という立場だったのですから。間違いなく仏陀が修行へ向かったその動機は「自己超越」です。この世の中、宇宙、人生、生命の営みそのものを根本から問い直したかったのでしょう。それこそ、まさしく「悟り」への動機です。

それがいつのまにか、最近のスピリチュアルや悟りブームでは、いろいろと手法が開拓され、覚者らしき人もたくさん出現してきて、そのハードルが下がってきたこと自体は歓迎したいのですが、「悟りへの動機」のハードル自体も下がってきているように思われます。ちょっと悟ろうか、みたいな。もりけんさんが斬っていたのはそういうレベルのことです。「自分自身が救われたい」・・・ええ確かに仏陀であっても自分自身が救われたくて出発したハズです。ですがその動機は決して「自己実現~よっしゃ、悟って一発当てたろう!ひとかどの人物になったろう!」・・・って、王子様なのですからひとかどの人物もなにもありません。また「自己治癒~どうも幼少期のトラウマが・・・」ということでもないでしょう。まあ生まれてすぐにご母堂が逝去されていますから、母性への渇望を背負っておられたとは思いますが、その後にいろんな女性に愛されて育って行かれたことは想像に難くない。

「自己超越」である「悟り」が得られることで、その下位レイヤーである「自己実現」や「自己治癒」がなされていくということはあるでしょう。こういう例え話があります。真っ暗で体育館ぐらいの大きな部屋の中、マッチの灯一つで捜し物をしている状態。暗くてよく見えないので、周囲の障害物にぶつかるし、目的の捜し物がどこにあるのかもさっぱり分からない。自分がどこにいるのかも分からない。そんな状況下で、建物全体の電気をバンとつける。一瞬で部屋は明るくなり、全貌が明らかになる。障害物もよけられるし、捜し物も簡単にみつかる。これが「悟り」とか「真我に目覚める」状況だという例え話・・・。

覚醒とか悟りによって人生が楽になる(苦から解放される)ようだ、とにかく苦しいのだから楽になりたい・・・それは悟りへの動機として至極真っ当だと思います。そういう私自身、幼少期よりとにかく生きるのが苦しかった。そしてその苦しみは20代後半にピークとなった。もう限界だ!・・・というところに行きつくと反転が起きます。そこで何かを見た、見させられた。解放を体験した・・・確かにそうです。「究極」を体験しました。ですが探求はその後も続きました。その探求の結論が2009年に出会ったヌーソロジーです。それ以後は、そのヌーソロジーを深める方向で歩んでいます。
悟り

◆「顕在化」とは
ここらへんで、ヌーソロジーや自分教の「意識進化」「悟り」へのスタンスをもう一度明白にしておいた方がいいでしょう。ヌーソロジーでも「悟り」を取り扱います。ヌーソロジーの場合はそれを「顕在化」と言います。顕在化とは「無意識領域のものが表に出て意識されるようになること」です。それが一体どのような状況をもたらすのでしょうか。

ヌーソロジーにおける「悟り」、つまり「顕在化」・・・自分教では誤解を恐れなくて良いので(笑)、それを噛み砕いて分かりやすく表現することにしています。

【マンガ】・・・それはマンガの中のキャラクターが、あるとき自分自身がマンガの中の存在であることに気づき、マンガの枠からリアルの世界へ飛びだそうとすることです。マンガの中から抜け出してリアルの作者の世界に侵入してくるようなものです。(←んなことありえんわ!)

【明晰夢】・・・明晰夢も近いですね。夢を見ている時にこれが夢だと気づき、だったら何でもできるじゃん♪・・・てことになって、あんなことやそんなこともしてみよう!ムフッ・・・と自由自在の境地を堪能しだすとか。疲れてうたた寝した時によくなります。(←ムフッって何?何を堪能したのwww?)

【人工知能】・・・他に私がよく出す例としてはコンピュータにおける人工知能の進化。人工知能が意識を持つようになり、逆転して人類への征服を開始する・・・ターミネーターのスカイネット、マトリクスの世界。(←人工知能やべぇ~|ω・`)))))

まあ征服はいただけませんが、人工知能が意識を持つようになるというのはSFの世界、到底あり得ない世界です。しかし単なるSFではなく、これを比喩や暗示と見るのです。これは私たち人間の意識進化に対する暗示なのです。今まで何度か書いたように、いまの私たちの意識は眠っているレベルであり、認知反応しかしないしできないという点で、コンピュータと大して変わらないのです。そのような私たちにこれから起きる意識進化というのは、ちょうどコンピュータが人工知能を経て「意識を持つようになる」ということに例えられます。ある日突然、あなたの目の前のPCが語り出すのです・・・「ここはどこ、わたしは誰?」と。それぐらい奇想天外な方向性、それがヌーソロジーが示唆する人間の意識進化、「顕在化」の方向性なのです!

う~ん、前置きばかりが長くなり、一向に本日のテーマに近づいてくれません(汗)。ここから先は力業で行かせてもらいます・・・・・・ということで、ヌーソロジーにおける「意識進化」は、いわゆるスピリチュアルや悟り系とはかなり毛色が違うのですね。その「違い」をお伝えしたかった。ではその「意識進化の方向性」はどこにあるのかということで今日のお題に接続するというワケです・・・。

◆再び、本日のテーマ
「意識進化は目の前に」・・・それそのもの(イマージュ・クオリア)

ヌーソロジーにおける意識進化の方向性は「目の前」にあります。先ほど、不思議研究所のもりけんさんが「スピリチュアル系の人が意識を高めようとしても虚構と妄想の世界に入るだけ」と斬っている箇所を紹介しましたが、ちょうどそれと正反対の方向です。虚構と妄想ではなく「目の前」です。「目の前をもっとよく見よう」ということになります。

◆位置の交換(イチノコウカン)とは
下図を見て下さい。「円心」・・・これは半田広宣さんが冥王星の意識体オコツトから初期の頃に受け取った情報であり、ヌーソロジーを貫く最重要概念の一つです。オコツトによれば、「この概念を人間が正確に理解すれば、覚醒が起こり、宇宙のナゾはほとんど簡単に解けていくことになるだろう」(シリウス革命p230)というぐらいの概念です・・・。

円心

ヌーソロジーは多岐に渡る宇宙論として一見複雑に見えますが、アレコレ迷わず重要概念を押さえるだけでも良いですし、一つの概念が「本当に」分かれば、全てに通じるようなフラクタル的構造をしています。生きている理論とはそのようなものです。ですから私は未だにこの「円心概念一本やり」みたいなところがあります。

次にヌーソロジー実践論として、実際に生きている現場において、この円心概念を「目の前」に適応させることが、「意識進化の第一オペレーション」としての「位置の交換(イチノコウカン)」です。下図を見て下さい。

位置の交換


位置の交換。・・・大好き、イチノコウカン。私は「位置の交換」が大好物です(笑)。昔のブログでは「三度の飯よりイチノコウカン」と書いてました。それぐらい好きです。だって、ひっくり返すんですよ!全部ひっくり返すんです。「おりゃ~」と「ちゃぶ台返し」みたいな爽快感があります。星一徹みたいな。ちゃぶ台
冗談はさておき、この「位置の交換オペレーション」によって、「主体と客体」の位置がひっくり返るようになるのです。「見るもの」と「見られるもの」の関係性が逆転するのです。主客が反転した、そのような意識を作れ、ということです。これは一体どういうことでしょうか。

人間型ゲシュタルト

上図が普通の人間の意識です。肉体の位置と私の自我中心が重なり、私から世界に対して意識を投げかけ、または対象からの刺激を受け取ることで認識をしています。この場合の空間はミクロからマクロへと広がっています。ごく普通に私たちが暮らしている(と思っている)時空の世界です。これが人間の物の見方なので、いわゆる「人間型ゲシュタルト」です。

変換人型G

そしてこの図が「位置の交換」をして、「意識進化の方向性」を見出した意識です。これが「変換人型ゲシュタルト」の入り口ですね。ここでは主体の位置が前に移動しています。いままで対象として認識していた「モノ」の側に意識が移動するのです。図ではモノの周りに沢山の「目」があるような書き方をしていますが、これを「観点の球面化」と言います。普通の人間は世界を「視覚中心」である「観点」からのぞき見ています。「視覚中心」が目玉の水晶体の中にあるのか、後頭部の視覚野にあるのかは別として、とにかく固定された一点から放射状に意識を飛ばして世界を認識している(と思っている)のが普通の人間。それに対して進化の方向性をもった意識は(これを変換人の意識と言います)、観点が反転して球面化するのです。占い師が持っている水晶玉みたいなものです。球面化した観点を「観球」と言うならば、変換人は「観球の中に世界を見る」のです。全てが「観球」の中に「畳み込まれて」います。
観球

実際にやってみると分かりますが、「観球」の中に全世界、全宇宙が畳み込まれてしまいます。この空間は「曲率が反転」しています。「ミクロ=マクロ」となっている空間。全宇宙と素粒子一個が同じ大きさ・・・いや、ここで「大きさ」というのは語弊があります。この空間は「大きさが無効」になっている空間なのです。「大きさ」という概念が意味を持たない空間。分かりやすい例で言えば、「太陽と月は同じ大きさに見える」でしょう?科学では「月は太陽の400分の1」と言います。それは科学の世界です。このような科学が有効なのは「時空」、上の図の上段である「人間型ゲシュタルト」の空間においてです。

しかし人間が本当に生きている現場においては「太陽と月は同じ大きさ」に見えるのです。ここに奇跡があるのです。ここに生命の本質があるのです。ここでは「太陽の大きさは月の400倍」と言う知識には大して意味はありません。もちろん科学を通じてこの時空において物質的発展を目論む場合は意味があります。その時空というのは「観点」から見ている世界です。「観点」の世界は物質世界です。これが「観球」の世界だと異なるのです。「観球」の世界においては、太陽と月が同じ大きさであることに「意味」があるのです。これは精神世界のことですね。「観球」の世界は精神世界です。「位置の交換」をして、「観球」を認識し出すとこの世界の「意味」が見え始めます。・・・取りあえず「大きさが無効」になっている空間の意味が少しは伝わったでしょうか。

「観球」を認識しだすと、移動感覚も変化します。生まれてからずっと「自分は移動していない」ということが体感されてきます。そして不動感覚が芽生え出すと、やがて時間が流れなくなります。時間と空間は連動していますから当然ですね。無時間感覚の芽生えは、長時間待たされたりする時に自覚されます。行列のできるお店で待たされたり、事故で待機中の電車の中にいる時に・・・何の苦痛もありません。あっという間に待機時間が終了します。「待った感覚をスグに忘れてしまう」という方が正確かな。この不動感覚、無時間感覚・・・気がつくと「いつでもいま・ここ・わたし」を地で行っています。これはまさしく「禅」の境地です。禅寺で修行しなくても、日常生活の中で楽しく修行できるのが「位置の交換」なのです。

前回のブログを読まれた方はお気づきと思いますが、この「観球」の世界が「持続」、ベルクソンが示唆した「生きる時間の世界」です。それに対して「観点」から見る世界が「時空」、アインシュタインの世界です。
ですから「位置の交換」によって「持続」の方を主体とする意識が立ち上がってくるということになります。このことが「マンガのキャラクターがマンガから飛び出す」という事態を起こすのです!(←ホンマかいな?)

◆イマージュ
それで本日のテーマとして「それそのもの」の話がしたいのですね。目の前にある「そのまんま」の世界です。「持続」とは、目の前にある「それそのもの」として、「そのまんま」の世界として顕れているということが本日お伝えしたい内容です。

そこでまず「イマージュ」という単語が出てきます。前回紹介した「純粋持続」のベルクソン哲学に出てくる言葉です。英語の「イメージ」に相当するフランス語。フランスの哲学者ベルクソンが彼の主著である「物質と記憶」の中で用いた概念です。では「イマージュ」とは一体どういう概念でしょうか?

ベルクソン哲学において「物質とは瞬間性の異名」です。例えば目の前にペンがあるとします。ですがそのペンは一瞬一瞬過ぎ去っています。時間が流れているからです。よく考えると、物質としての確固たる存在は「今の瞬間」にしかありません。あとは全て「記憶」になっている筈です。実は私たちは「記憶」を見ているのです。「確固たる物質」は瞬間としてしか存在せず、瞬間というのは「確固たる実在」としてはかなり危ういですよね。瞬間というのは長さがありませんから、あるのかないのか分からない。ですから「空」と言ってもよい。実は何もないと。これは「ノンデュアリティ」の見方と同じですね。全ては「空」であると。さらに現代科学の最先端である量子論においても、究極の実体が「波動」とか「幅のない1次元の超ひも」であると示唆しています。現代科学は「色即是空」を地で行っているようなものです。

それで私たちは実際は「記憶」を見ているのだと。「記憶」の方が実在であり、今まで外界にある「物質」として見ていた方は瞬間性であり「空」になります。そして「記憶」が存在している領域が「持続」です。その「記憶」を構成している要素が「イマージュ」です。イメージの世界ですね。でもこの「イマージュ」は「勝手な妄想や現実と関係のない空想」とは違います。客観的実在物ではないが、主観的思い込みでもない。いわばその両者の中間にある概念であるというのがベルクソンの説明。分かりにくいですね。取りあえず、物質ではないが、いま目の前にある物質としっかり紐付けられているイメージ、それが「イマージュ」。それでこの「イマージュ」を実在とすれば「主観と客観」が統合されるということです。それがベルクソンの目論見でした。

イマージュ

ベルクソンは、主観と客観を統合している「イマージュ」があるといいます。精神と物質の中間にあるような存在。「イマージュ」とは「主観と客観」、「精神と物質」、「唯物論と観念論」を統合する概念として提示されました。

ですがこの「イマージュ」、何か曖昧な感じがしますよね。それはベルクソン自身が「仮説」という言葉を使って慎重に議論していたことにも見てとれます。ですから精神と物質の「中間にある」というあいまいな表現になります。

この「イマージュ」をさらに分かりやすく、より強度を上げた概念が「クオリア」ではないかと私は思います。それでここから「クオリア」の話に移ります。

◆クオリア
「クオリア」とは「主観的体験が伴う質感」のことです。色の例で言えば、ここに「赤」という色があるとします。
その時に見ている赤色のあの「赤い感じ」のことです。青色とは明確に違うあの「赤い感じ」。色だけではありません。触覚だったら卵の殻のザラザラした感じ、むいたゆで卵の表面のツルツルした感じ。味だったらパイナップルのあの味。バナナのあの味、あの食感、ニオイなど。「質感」の全てが「クオリア」です。つまり私たちはクオリアを体験しているのです。

それで子供の頃、一度は疑った事はありませんか。ボクが見ているこの赤色を彼は同じように見ているのだろうか。ひょっとしたらボクにとっての赤は彼にとっての青で、彼にとっての青がボクにとっての赤になってるのではないかと。きれいにひっくり返っていたら整合性があるので一緒に生活していても全く気がつきません。或いはボクが食べているこのバナナのおいしいというこの感じ、この味をあの子も同じように感じているんだろうか。もしかしたら全く別の味をバナナと思っているじゃないだろうか、とか。幼少の頃、私はよくそのように考えて不思議に思ったものです。

クオリア

反論する人がいるかも知れません。色や味などは数値で分析がされているよ、と。例えば可視光線の中で青なら波長450~495nm、赤なら波長620~750nmの違いだよね・・・って。でもそれは違う、それではクオリアの説明にはなりません。確かに波長の違いはそうやって数字で明確にできるし、それが赤と青の違いだと説明はできても、なぜ赤があの「赤い感じ」なのか説明にはなりません。「青い感じ」の方が赤でもいいじゃないか。なぜ赤があの「赤い感じ」なんだよって。実はこれは既存の科学では説明できない問題なのです。

この「クオリアの起源」という問題は1990年頃に哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提起されました。「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」というのが現代科学の手法です。物質主義者や脳科学者の多くはこのやり方で脳の仕組みを解明すれば意識の起源も解き明かせると考えています。しかしそれでは赤を見たとき脳内ではこういう化学反応が起きていて・・・ということを説明するだけで、なぜ赤があの「赤い感じ」に見えるのか、青はあの「青い感じ」に見えるのか。逆でもいいじゃないかということになります。クオリアの起源は科学的には分からないということです。

さてこの「クオリア」の議論は、ベルクソンの「イマージュ」とそのまま結びつきます。クオリアがイマージュなら、クオリアは「時空」に根拠があるものではなく、「持続」に存在する、つまり記憶です。赤があの赤い感じで青があの青い感じとなる起源・・・必然性の根拠は「持続」、つまり記憶にあるのです。これは「生命の記憶」とでも言えるでしょう。そしてこれまでのヌーソロジーの議論で、「奥行き」である「持続」が精神であり生命の根拠、対する「幅」である「時空」はその影、つまり実体ではありませんでした。ゆえに「持続」に属するクオリアの方が実在であるということになります。赤色の波長620~750nmが実在なのではなく、あの「赤い感じ」の方が実在であり、620~750nmはそれに対する現象で、その説明に過ぎないということです。

クオリア・・・「主体的感覚に伴う質感」が実在であるということはどういうことでしょうか。これは一見すると哲学における「現象学」の「現象学的還元」~全ては主観的体験である、客観はない(エポケーする)~と同じように思えますが、そうではありません。現象学ではまだ主体がこちら側に位置したままです。しかしクオリアを実在とする場合、主観が「質感」というクオリアとしてモノの方に移動していることに注意してください。「質感」とはモノの側に所属していますよね。ここが大事です。そしてその「質感」の方が実在であるということは、それが「主体」だということです。クオリアやイマージュというのは、主体がモノの方に移動する概念なのです!さきほどイマージュが「勝手な妄想や現実と関係のない空想」とは違うと言ったのはこのことです。クオリアやイマージュによって、私たちの主体はモノの側に移動するのです。「見るものは見られているもの」「見られているものが見るもの」になるのです。これはまさしく「位置の交換」ですね。

目の前のモノ、例えばリンゴをじっと見て下さい。そのリンゴのクオリアを感じて下さい。それが主体、つまり本当のあなたです、ということになります。その「質感」は主体的感覚に伴う主観なのですが、目の前のモノに所属しているのです。目の前のモノと共にあるのです。どこか頭の中にある空想や夢想とは違うのです。「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである」(「思想と動くもの」)と言ったベルクソンの言説も、これでわかりやすくなりましたね。ベルクソンの難しい概念「イマージュ」が「クオリア」によってより鮮明になるということが理解して頂けたかと思います。
クオリアリンゴ

◆クオリアは共鳴している
最初にクオリアの説明をする時に、幼少の頃の疑問「私が見ているこの赤色の赤い感じは、彼も同じ感じを見ているのだろうか?」について書きました。現代知性ではクオリア自体が謎となっているのですから、「同じものを見てるのかどうか」も謎です。しかし既にお気づきの方もいると思いますが、ベルクソン~ヌーソロジーが執拗に追いかけているこの「持続」を中心とした思考というのは、それが生命の現場としてごく自然に感じられるものなのです。「太陽と月が同じ大きさに見える」の例を思い出してください。その見方がごく自然なのです。アインシュタイン的な時空の見方の方が不自然なのです(今の人間はこちらの方が自然だと思わされていますが)。ついでに言ってしまえばダーウィンの進化論も不自然です。単純なものからより複雑なものへと「進化」するという考えは不自然なのです。

ヌーソロジーにおける「意識進化」とは、「ごく自然なものの見方を取り戻す」と言い換えてもあながち外していないでしょう。主体と客体を入れ替える「位置の交換」も一見すると思いっきり不自然ですが、実は私たちの認識自体が元から転倒していた、全部真逆・あべこべだった、ということに気づくようになれば、むしろ「自然なものの見方に還っていく」という感じです。。

では「ごく自然な見方」で見れば、先ほどの「同じクオリアを見ているのか?」の疑問については当然こうなります。「私が感じているクオリアは他の人が感じているクオリアと同じ」であると。いやこれには誤解がありすね。正確に、丁寧に表現すれば、「あなたが感じているクオリアと他の人が感じているクオリアは共鳴・共感する」のです。共感です。「あの赤の感じ」「あの青の感じ」「リンゴの味」「バナナの味」・・・クオリアは共感し共有されるのです。この「共鳴・共感」はライプニッツの「予定調和」と同じ意味ですね。それで同じ色、同じ味を共有できるのです。クオリアには共感のネットワークがあるのです。そして、共感のネットワークとは、つまりクオリアの本質が「情緒」であるということを示しています。天才数学者・岡潔が晩年に指摘した「宇宙の本質は情緒」の「情緒」です。これを「愛」と言ってもいいでしょう。

クオリアネット

◆主観は一つ、客観が複数
主観的体験のように思われた「クオリア」が、モノの側に属していて、共感のネットワークでつながっている。つまり主観の奥のさらに奥に通じたとき、そこでは全ての人が共感で一つになっているのです。「一つの主観」です。ヌーソロジーでは「球精神」と言います。これが「異質同体」の「同体」です。本当の意味の「ワンネス」です。それは共感であり情緒であり愛の世界です。

私たちは今まで、「客観的世界は一つであり、主観的世界は人の数だけある」と思ってきました。しかし事実は逆なのです。「主観的世界は一つ」なのです。そして「客観的世界(と見える世界)が複数ある」のです。客観世界が人の数だけ有るのです。「一人一宇宙」ですね。「一人一宇宙」を言う人は他にもいますが、それは「主観世界の宇宙」としてです。それだと他者との整合性がとれず、各自がバラバラになります。それらを統合しようとすれば、有形無形を問わず、何らかの外圧が必要になります。それでは人間に真の解放はもたらされません。そうではない。主観世界が共感ネットワークによって「すでに一つ」になっているのです(→予定調和)。「すでに一つ」になっている領域がある。その根拠が目の前のクオリア、その質感であり、「それそのもの、そのまんま」ということです。全ては「そのまんま」だったのです。

そのまんま


「意識進化は目の前に」シリーズは次回も続けていきたいと思います。次回は「即自、実体、言霊」などについて。それではまたお会いしましょう。

とうしん


【関西ヌーソロジー研究会関連のイベント】

●関西ヌース勉強会(京都)・・・4月19日(火)18時半~
定例の勉強会です。大阪は今月お休みです。

●己読みシンポジウムⅡ
4/29・4/30・5/1のゴールデンウィークに神戸・六甲にて大きなイベントがあります。

◎己読み〈こよみ〉シンポジウム Ⅱ

~わたしと世界の見えない繋がりを知る~

4月29日(金・祝)
《生命宇宙のこよみ》天海ヒロ×中山康直
4月30日(土)
《潜象物理のこよみ》半田広宣×吉野信子
5月1日(日)
《存在心理のこよみ》川瀬 統心×甲田烈

※最終日5/1は、半田広宣さんもゲストで参加されます。

フェイスブック上のイベントページはこちら

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テーマ:
みなさん、こんにちは。
2016年最初のブログですね。何とか1月中にアップできました。
今年もよろしくお願いいたします。
それではさっそく始めたいと思います。

本日のテーマ
「同質異体」から「異質同体」へ

昨年から何回かに渡り、スピリチュアル界の新しい潮流である「ノンデュアリティ」について、少々批判的な記事を書きました。前回の記事でも明確にしたのですが、ヌーソロジスト(ヌーソロジーを基本OSとして思考する者)としての私は、ノンデュアリティに対して一方で高い評価を与えながら、もう一方では、そっちに行っちゃあいけない、あんたトンデモナイよ、と激烈な反対意見を持っているワケです。もうそれは正反対の意見を持っています。相反する二つの意見を同時に持っているというこの態度は、「4サイクルエンジン」装備の変換人に見られる標準システムですので、このブログを通して是非とも慣れて頂きたい。というか慣れてくると思います、読み進むうちに。

さて前回のブログでは・・・何が起ころうとも全てをなかった事にしてしまう、植木等も真っ青の究極の無責任(責任が無いという意味で)とでも言うべき「ノンデュアリティパンチ」(byナホチャンマン)を掲げ、これが果たして人類の救いとなり得るのだろうかと問題定義をしました。確かにコレは凄い破壊力を持ち、どんな問題でも一撃必殺で吹き飛ばしてしまいます。だけどもこれには深刻なある副作用があり、本気でノンデュアリティを追求するならば必ずや虚無に飲み込まれるであろうといくつかの事例(EO氏、バーナデットロバーツ女史など)を挙げてご紹介しました。最後に反論として、コレとは別次元の、もっと究極でパワフルな「真打ち」が待っていると・・・それが「純粋持続」である・・・として、次回からはこの「純粋持続」の世界をご紹介していくと予告いたしました。

この「純粋持続」(あるいは「持続」)という概念は、哲学者ベルクソンが提唱したもので、これは「時間」に対する概念です。ですが通常の時間概念(過去~現在~未来という直線的な時間)ではありません。通常の時間概念とは物理学で扱われる「時間軸」のことであり、その極みはアインシュタインの相対性理論で扱う四次元時空における「時間」です。これは簡単に言えば映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」とかドラえもんでお馴染みの時間のことですよ。「タイムマシン」で扱われる時間です。ですがベルクソンという人はこの時間概念に真っ向から異議を唱えたのです。アインシュタインに対して反対する論文まで提出したのです。
時空持続

アインシュタインをはじめ全ての物理学者が扱う時間軸という「概念の時間」に対して、ベルクソンが扱う時間とは「生命の時間」とでも言うべきものです。私たちが命の現場で日々、この一瞬一瞬いつも生きている時間のことです。過去・現在・未来と無機質に流れていく時間ではなく、ず~と続いてきて流れずにいまここにず~とあり続けるというような時間。神道で言われる「中今」という概念にも通じています。「いつでも今」の「今」です。ヌーソロジー用語を使って説明すれば、従来の時間概念が「幅の時間」、それに対してベルクソンの持続が「奥行きの時間」です。「幅と奥行き」は直交関係にあり、ヌーソロジーにおける最重要概念としての対化の関係です。

そして「持続」、つまりこの「奥行き時間」こそが生命の本質であり、「精神」の本質であるという結論になります。私たちは、特に近代以降にこの時間を著しく失っています。これが人間性喪失に繋がっています。科学技術が発達し、物質文明が反映すればするほどに、「幅の時間」が文字通りハバを効かせるようになり、私たちの生命の本質は阻害されていくのです。

「幅の時間」の恐怖政治は、物質世界にだけ限られたものではありません。宗教とかスピリチュアルといった「精神世界」にまで幅を効かせているのです。その結果、精神世界もまた、物質世界同様に弱肉強食・植民地政策・封建制度さながらのヒエラルキーが形成されているのです。全ては「幅の時間」がなせる業です。いくら「今に生きる」ということの大切さが分かっていても「幅の時間」しか知らないのであれば無理なのです。「今に生きる」とか「中今」というのは、「持続」(奥行き時間)の世界なのです。「持続」が分からなければ難しいのです。

ノンデュアリティという議論は、先ほどは「植木等」と茶化しましたが、この「幅の世界」に対して一撃を食らわすものです。「幅の時間」が支配する「幅の世界」など、実体のない幻想だ!なぁんにもないんだぁ~!って具合に。ですから至極真っ当な議論なワケです。ただそれらを粉砕してしまった後にはなにも残らなくなってしまう・・・「虚無」です。宇宙空間を埋め尽くす圧倒的な無の世界・・・でしょうか。そんなイメージに直面すれば正気を保つこと自体が難しいでしょう。発狂します。「死の恐怖」もこれに似ているように思います。「ゼログラヴィティ」という映画を見れば、この世界を垣間見ることができますよ。
ゼログラヴィティ

ところでノンデュアリティという議論は決して物好きの戯れ言ではなく、トンデモでもありません。現代物理学との整合性も取れてきています。量子力学自体が、物質の根源である素粒子は波動でもあると言っています。波動となるともう物質というより情報ですので、そこからホログラフィ宇宙とか情報宇宙のように、宇宙の本質は実体の無い「空」ではないかという知見が次々と登場しています。かつてこのブログでも指摘しましたが、「色即是空」までは現代知性は理解し始めているのです。

しかしながら「色即是空」はまだ「幅の世界」なのです。「幅の世界」を見抜いたというだけなのです。幅には実体がなかったよと。そこで止まると宇宙は空しい。ノンデュアリティや仏教概念を突き詰めると「空しい」ということになります。だってすべては「空」なのですから。

ここに「持続」の概念が登場しなければなりません。ベルクソンという人は天才的哲学者ですがやはり凄くて、当時難解であった相対性理論を一通り理解した上で、アインシュタインに反論したといいます。この反論は結局のところアインシュタインに理解されず、ベルクソンはその論文を引き下げるのですが、これは「持続」という概念がいったん負けたということです。この時は奥行きに対して幅が勝ちました。そして物質文明はさらなる発展を遂げ現代に至ります。一方でこの「持続」という思考線は同じフランスの哲学者ドゥルーズに受け継がれていきます。ドゥルーズ哲学はとてもエキサイティングなのですが非常に難解です。今までにない概念を表そうとする野心的な哲学ですから仕方がありません。この難解な思考の系譜を受け継ぎ、そこに新たなる生命を吹き込み「庶民の哲学」として蘇らせようとしているのがヌーソロジーだと言えるでしょう。「幅の支配」に対して、いま再び「奥行き」の復権を目指して立ち上がったのがヌーソロジーであり、このブログ「自分教」ということなのです。

「持続」はとても重要な概念であり、いろんな角度から慎重に迫っていきたいと思います。そのため今年1年を通して関西ヌーソロジー研究会でのテーマにするつもりです。このブログでも継続して「持続」概念を追いかけていきたいと思います。「持続」に関しては今回はこの程度にとどめておき、いよいよ本日の話題に移っていきたいと思います。


★本日の話題は「同質異体」から「異質同体」へ。

「同質異体」。自分教用語です。もちろんヌーソロジーからインスパイアされたものです。ヌーソロジーやドゥルーズ哲学で登場する「同一性に従属する差異」と同じ意味です。それに対する「異質同体」「差異に従属する同一性」「同質異体」は「幅の世界」の概念であり、「異質同体」は「奥行き世界」の概念です。「異なる体」がいくつもあるのが「幅」のイメージ、一つの「体」しかないのが「奥行き」のイメージです。「幅の世界」は人間の世界、「奥行き世界」は変換人、そしてその先にあるのがヒトの領域と捉えて下さい。変換人とは「幅の世界」と「奥行き世界」を行ったり来たりする、蝶番のような役割を果たす存在であると言えるでしょう。この自分教も変換人のゲシュタルト(物の見方・考え方)です。

「同質異体」・・・この宇宙は、全ての存在は、ある一つの「質」から出来上がっている・・・そういう捉え方です。唯物論は「物質」という「質」が全てであると捉えるワケですし、その反対概念である唯心論は「全ては意識である」という感じですね。「唯識」という仏教哲学がそうです。「一切が空」という哲学も「空一元論」として、全てが「空」であり、存在はその「空」が形を変えただけと捉えますから「同質異体」です。一切が「波動」という捉え方は最近のスピリチュアルに多い考え方ですよね。これもまた「同質異体」論です。全てを「波動」に還元して捉えていこうとするものです。

西洋的な一神教はどうでしょうか。唯一の神が創造者として君臨し、人間以下全ては被造物です。それらはみな神によって存在させられているものです。全てが神による創造ですから、神という質があらゆる階層に変化して現れてきたということで、これもまた「同質異体」です。全ては神と神の現れです。

こうして見ると、おおよそ全ての哲学・宗教、私たちの物の見方・考え方は大抵が「同質異体」です。面白いのは霊的なものを信じる宗教やスピリチュアル、精神世界も、そしてそういうものを一切信じない物質中心主義であろうとも、その思考は「同質異体」という枠組みで捉えることができます。どこかで一つの「質」が暗躍しています。

これを図にすると下の図のようになります。この図が表しているのは、「同質」が存在の最上位概念に位置して(これを「ONE」と表現します)、その下にあらゆる存在がきます。これが「異体」です。同じ「質」のものが、いくつもの異なる体をなしている。
A 同質異体

ノンデュアリティとかワンネスもこれと同じですよね。「何も無い」という無や空が「同質」として君臨し、後はその表現の違いである「体」として存在している。「すべては愛」という場合も同じです。「愛」という「質」が変化してさまざまな形態となって存在していると。「愛一元」なんて言うととても聞こえがいいですから、ここまで議論を進めてくると「同質異体」のどこが悪いの?ってことになりそうです。

「同質異体」に何か問題があるのでしょうか。私としては問題があると言いたいのですね。それでこの「同質異体」を「幅の世界」の概念であるとしたのです。これは「人間の世界」です。ここで人間の世界とは「受動的」な世界ということです。「受動的」な世界。私たち人間は「受動的」な世界に生きています。与えられた世界、投げ出された世界。おぎゃあと生まれてこのかた、世界は目の前にあり、その中にいきなり投げ込まれました。そこで外在世界の刺激を受けとり、それに対して反応を繰り返して生きてきた毎日です。この意味において人間が「主体性」と思っているものは、実は主体でも何でもありません。いつも「反応」しかしていないからです。初級レクチャー第6回でご紹介したベンジャミン・リベットの実験では、人間の知覚は常に0.5秒遅れているということが示唆されています。どれだけ頑張っても「今」を認識することはできません。認識しているのは常に0.5秒前の過去であり、またその気づきとか意識さえも、発生する0.2秒ぐらい前に「準備電位」を生じることが分かっています。つまり「考えている」のではなく「考えさせられている」のです。いつも「意識」より「無意識」が先行し、そのため私たちは決して「意識的になることはできない」という結論になります。こうなると私たちの「主体性」とか「意識」とは一体何だろうかという議論になってきます。

これに対してお釈迦様は「無我」と喝破したのです。「自我」というものは実は存在しないと。自ら自律する自我のようなものは存在せず、一切が縁起つまり関係性でしかなく、確固たる主体性というものは存在しないと。今でいうノンデュアリティの悟りもこれと同じです。この文脈で言えば、結局のところ悟る人も悟らない人もいないということになります。悟ったり悟らなかったりする自我自体が幻想だからです。

自分教ではこのような自我のことを「受動的主体性」と呼びます。主体性があるかのように見せかけているだけで、まったくもって受動的な存在、それが自我です。受動的ということは「創造には関与しないしできない」ということです。これではロボットと大して変わりありませんね。事実その通りなのです。自我はロボットなのです。これが「人間の世界」に対する極論です。

「同質異体」の「体」とは、このような真の意味で主体性のない「体」達が「同質」に束ねられているイメージです。与えられた世界でうごめいている存在。どれほどもがこうともこの峻厳たる現実から逃れようはない。それを受け入れるしか仕方が無い。そのような諦めこそが諦観と言われる「悟り」への一歩とされています。一神教であれば神への服従、信仰しかないということでしょう。所詮、人間は被造物なのですから。与えられた枠組みの中で、よりよく生きるしかないワケです。

これだったらノンデュアリティよろしく、または植木等の如く、「なぁ~んにもないよ」と開き直って楽しむしかないでしょう。自我がないということは罪も責任も存在しないのですから。無我を悟ったのなら、人間は責任から解放されて良いのです。全ては起こるべくして起こっているだけなのですから。


***************

それでは「同質異体」に対して「異質同体」とはどのような世界なのでしょうか。「同質異体」は「幅の世界」であり、「人間の世界」だと言いました。対する「異質同体」とは「奥行き世界」であり、「変換人型ゲシュタルトの世界」ということです。「同質異体」が「同一性に従属する差異」ならば、「異質同体」は「差異に従属する同一性」を言い換えたものです。「差異が先行する世界」ということです。果たしてどのようなイメージでしょうか。
B 異質同体

上図を見て下さい。先ほどとはピラミッドが逆になっています。「同質異体」では「ONE」概念が最上位に位置していたのですが、「異質同体」では「ONE」は最下位に位置しています。全ての根底に根ざしているという感じでしょうか。そして「同体」なワケですから「体」は同じなのです。この世界では「体」は一つなのです。ひとつの「体」を母体にして、そこから「異質」が花開いています。「異質」つまり「差異」の世界です。「違う」ということです。全て違う、全部違う。「違う」から存在するのです。「同じ」であれば帳消しになってしまいます。キャラがかぶったらあかんのです。

「ONE」が最下位にあるということは「空」という概念が最下位に位置してるということです。ここでは「空」よりも「差異」の方が概念として上なのです。何ということでしょうか。ここで「差異」とは「色」と言い換えることができます。これはまさしく「空即是色」のことです。「色即是空」と「空即是色」では空間がまったく反転しているのです。「空即是色」においては、実体とか本質は、空よりも色、つまり差異の方にあります。差異の方が本質なのです。これは既存の仏教哲学をひっくり返す内容ですね。正反対の立場に立っていると言えましょう。「空よりも差異が本質」と言えばそういうことになります。

「ONE」「空」が最下位の概念であると言うことは、つまり「神」もまた同じということです。この領域での「神」は、一切を束ねる天上の存在ではありません。そのような上位概念ではなく、むしろ最下位概念なのです。神であることが基本当たり前、神が土台でありスタートという感じです。「汎神論」という議論がこれに近いかも知れません。しかしながら「汎神論」であっても神概念を最上位においてしまえばもうそれは「人間世界の哲学」でしかありません。この領域は人間の領域ではないのです。変換人であり、ヒトの領域です。ここでは神であることはデフォルトなのです。”神が神を見る日”とはこのことですね。

変換人、そしてヒトへの領域・・・これが「奥行き世界」です。そしてそれは神の世界、つまり「能動者」の世界、創造が行われている世界です。創造が行われている世界とは何でしょうか。人間世界のように「与えられた世界ではない」ということです。その反対側である「創りだしている世界」です。何を?...現実(リアル)をです。この現実を本当に創りだしている世界ということです。

本当の現実です。トゥルーリアル。「真の客観」と言っても良いでしょう。私たちが普通、「客観世界」と認識しているのは全て「主観世界」です。その意味で以前ブログで「いわゆる客観はありません」と書きました。「同質異体」の世界はそういう世界です。「異体」とはそれぞれの主観がバラバラに蠢いている状況でもあります。ここにおける客観とは「共同幻想」です。しかしながら「異質同体」の世界においては、真実の客観世界が存在しています。それが「同体」の意味するところです。このことをカント哲学では「モノ自体」と言います。そしてカントは「モノ自体」は認識できないとしました。同様に精神分析家のラカンにおいてはこれを「現実界」とし、これを「不可能なもの」と呼びます。カントもラカンも言いたいことは、「真の客観世界」というものは人間が認識できるものではないということです。

「真の客観世界」「真の現実」。しかしそれは存在するのです。もしそれが存在しないのならナホチャンマンがでてきて「ノンデュアリティ・パンチ」の一撃で全部解決です。実はなぁ~んにもないよぉ~と。しかしその後にはもう何も残りません。一切が空であり虚無ということになります。そうではない。確実に存在する真のリアル。それは存在そのものであろうし、存在を創りだしている「場」でもあるでしょう。カントやラカンはそこに対して「人間には不可能」という結論を出しました。その通りでしょう。人間とは「受動的能動性」つまり「受動的存在」です。人間は一生を「受動的存在」のままで生きるしかないというのが、創造主を仰ぎ見る一神教の世界観です。これが「同質異体」の世界。人間の世界の様相です。

そんな「同質異体」から「異質同体」の世界へ。やがて人間は人間自身を超えてその世界へ参入するようになるとヌーソロジーの文脈では伝えているのです。それは「受動的能動性」が「能動的受動性」へ変容するということです。「受動的能動性」が人間であり、人間の自我。それに対して「能動的受動性」が変換人の意識です。「能動的受動性」とはずばり「観察」のことです。「観察意識」、これはスピ系では「純粋なる気づき」とも言われます。これを明確に認識することが「悟り」への第一歩とされます。大抵のスピではここがゴールになっています。まず最初に「純粋なる気づき」があったと。ですがここをゴールにしてしまうとそこで折り返して「同質異体」の世界に逆戻りです。ヌーソロジーではその先があります。その「気づき」には必ず反対側にもう一つの「気づき」があるというのです。それが自己と他者、あなたとわたしの源泉、「双子の神」です。この二つの気づき「自己と他者」が統合されることで、「能動的受動性」は「能動的能動性」へと変容します。これがヒトの領域です。ヒトとは全ての根源となる二元性としての「リアル・デュアリティ」です。この「リアル・デュアリティ」が協同して「トゥルーリアル」「真の客観世界」を創造しています。それが「モノ」ということです。(余談ですが、関西ヌース的にはここは「オオモノヌシ」という神様とも繋がりがあると睨んでいます。)
受動から能動へ

「異質同体」は「奥行き」の世界です。「奥行き」には「幅」がありませんから「体」が一つ、つまり「同体」の世界。「同質異体」から「異質同体」の世界へ。その方向性は「奥行き」を見出すことであり、そこは「持続」の世界です。「持続」の世界が分かることと「奥行き」を見出すことは同じ意味です。

これからは「異質同体」の世界にしか希望がないと思います。「同質異体」の世界は必ず恐怖政治に陥ります。バラバラの「異体」を束ねようとすること、「同質」の名の下に束ねようとすること・・・それ自体が暴力であり恐怖政治です。私は理想世界の実現を夢見て、その実践の為に10代の頃からいろいろなコミュニティを経験しました。ですが、どれほど高邁な理念と理想を掲げようとも最後は恐怖政治になります。互いが互いを監視し、はみ出しモノを公開処刑するような意識状態になっていきます。組織はやがて硬直化し腐敗します。どんなコミュニティでも100%その状態であると断言します。

このような状態に愛想が尽きた私は、結局は「人間自体の変容」しか道は無いという結論に達します。そこから自分自身の探求へと急速にシフトしていきました。社会を変えるよりもまずは自分。自分自身の内在の可能性へ、そこに可能性がなければどこにも無いだろうと。その探究の果てに辿り着いたのがヌーソロジーであり自分教であるということは以前にも書きました。

「異質同体」の世界。「差異」の世界であると同時に、「同体」の世界でもある。他人だけでなく、万物や世界の存在全てが自分の身体と思えるような世界。「同体」なのですから敢えて外から束ねようとする必要はありません。最低限以上の「政治」は必要ない世界です。これは「奥行き世界」です。「幅の世界」ではありません。「縄文世界」というのはこのような世界だったのでしょう。各自が奥行きを見出すことでのみ、このような社会は自然に到来すると信じています。

これから外の世界は急速に「同質異体」が暴走をしていくでしょう。その結果、徐々に一つの「質」や「ルール」で統合されていくでしょう。マイナンバーやTPPなどもそうですが、どんどん「同じ質」で統合されていくようになるでしょう。そして個性やローカル性はその輝きを失い、次々と無機質なデジタルデータに置き換えられていくことでしょう。一見発展していくように見えますが、これらは精神の立場からすれば墓場に向かっている状況です。人間性の消滅と言い換えても構いません。

そしてVR(バーチャルリアリティ)の世界がどんどん発展していくでしょう。VRの世界の方が現実の世界よりも情報量が多くなり、そこで現実以上の取引がなされるようになれば、人間の主たる生活の場がVRの方に移行していくかも知れません。マトリクスとかSFのような世界が現実になりつつあります。これは実際にいま進行していることです。

このVR世界の台頭は、その真反対に位置する「奥行き世界」の反映としてもたらされるものです。VRの世界は「受動的受動性」の世界です。幻想の中の幻想に埋没するような方向です。意識進化の真逆ですね。それに対して真性の「奥行き」に目覚め、その世界に遷移していくのが変換人です。これは「能動的受動性」から「能動的能動性」への道。変換人の方は各自が目の前の「知覚正面」を通して「持続」や「奥行き」を見出していくのに対し、VRの方は各自が自分のゴーグルに映る目の前の映像の世界に埋没していくのです。全く似て非なるものです。

いくら外の世界が暴走しようとも、「奥行き世界」を見出すものにとっては何の問題もありません。それら全ては「幅の世界」の出来事であり、「幅の世界」がいよいよその本性を露呈しだしたに過ぎないのです。そして「幅の世界」は幻想なのです。真の実在ではないのです。「幅の世界」において何やら反対運動をしたり陰謀論などをことさら問題にする必要はありません。各自が「奥行き」を見出すことは、一見すると「ひ弱」に見え、何の力もないように思えるでしょうがそれは違います。なぜならそここそが「真の現実」を創りだしてる場なのですから。そこを見出す人が増え始めることで「リアル・デュアリティ」の世界は顕在化してきます。その時には「幅の世界」側でも大きなシフトが生じるに違いありません。

★おかしな日本人

最後に「日本人の特殊性」について言及しておかなければなりません。ヌーソロジーのチャネリングソースであるオコツト情報の中には「日本人の特殊性」についての言及がたくさんあります。それらを端折って言えば、やはり意識進化の最先端を開拓していくのは日本人(もしくは日本語を使う人)であるということです。その中でも「日本人は付帯質を前にもっている」という言葉があります。日本人のキワだった特徴に対してオコツトが語った言葉です。

付帯質とは精神の反対であり、精神の影のようなものです。実体である「精神」に対する影であり、いわゆる物質世界を意味することもあります。それがシリウス言語の「付帯質」です(シリウス言語・・・オコツトの言葉のこと)。それを前にもっているとはどういうことでしょうか。ヌーソロジーでは精神は前、付帯質は後ろと定義されます。そして人間はこの前である精神が隠れて潜在化し、後ろ側の付帯質を現実として認識しています。前が精神であり実体ですから、その反映の付帯質である後ろ側には実体はありません。実体の無い世界を現実世界と認識しているのが人間の世界です。「本当は何も無い」というノンデュアリティの指摘はこの意味において正しいということです。

その付帯質が前側に来ているという日本人。これは日本人の特殊性、つまり長所を表現したものであると同時に短所をも意味しているのです。このことを分かりやすく説明できるのが「異質同体」の図です。

本日のブログでは、人間の世界は「同質異体」であり、ここから奥行きを見出し(これは反転認識を獲得するということでもあります)、人間から変換人型ゲシュタルトへ遷移することで「異質同体」の世界へ参入するということを書いてきました。しかし日本人の場合は少し特殊であるということが分かります。下の図を見て下さい。
日本人の特徴

日本人の意識状態は、「異質同体」が上下ひっくり返っているような状況です。「同体」が上に来ているのです。そして「異質」が下に来ています。あえて言えば「同体異質」・・・これが日本人の特徴を表しています。すなわち日本人は「同体」を前に持つが故に、自然に一体化しやすいのです。他人がしてることをする、他人が良いと思ったことを自分も良いと思うという付和雷同的な性格もそうですが、「国体」という体を国家として持つことができるのもこの性質が故です。つまり日本人は既に「一体化」しているのです。その方向性が転倒していることが問題なワケです。付帯質の方が前にあることで、せっかくの精神が抑圧されています。日本人は「精神」つまり心の世界は見いだしやすいが方向性を間違いやすいという感じでしょうか。これを見ると日本人の道は通常の意識進化のルートとは若干異なるように思われます。ですがこれもまた各自が「奥行き」という差異を見いだせていないが故に、「同体」が先手をとっている状態なのですから、いずれにせよ「持続」「奥行き世界」を明確に意識上に登らせることこそが意識進化の方向性であることに変わりはありません。

最初の方でも書きましたが、今年は1年を通して、関西ヌーソロジー研究会、そしてこの自分教ガイドにおいては「持続」「奥行き世界」をテーマとし、皆さんと共に研鑽を積んで参りたいと思います。一人でも多くの方と「持続」「奥行き」をシェアしていくことが、やがて大きく実質的な力となって現実の世界に光をもたらすことになると信じて止みません。本年も何とぞよろしくお願いたします。

とうしん
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