『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。


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みなさん、こんにちは。
前回ブログの続きを近日中にアップすると書いておきながら早くも1ヶ月が経ってしまいました(汗)。その間に日本は梅雨入りし、湿気とともに本格的な暑気が到来しつつあります。身体にとっては環境変化の大きい時期ですので、体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。

ところで今月は大きな節目がありますね。本日21日は「夏至」であり、30日は「夏越の祓」です。半年間に溜まった穢れやカルマをここで禊ぎ祓い、ゼロに戻して2016年後半の新しいスタートを切れる地点です。

さて今月のブログは前回の続きです。GW期間に神戸で開催された「己読みシンポジウムⅡ」の三日目、統心の講演テーマ「地球精神の覚醒・・・自我は確立され、そして解体され、これからどうなっていくのか」の後編となります。前回と同じく、講演内容をベースに新たな情報を付け足しながら文章として整理しています。それでは始めましょう。

己読みシンポジウムⅡ


【私の探求テーマは「人間の意識進化」】

●「生命進化のゴールは人間である」

私の探求テーマは「人間の意識進化」です。今まで寝ても覚めても「意識進化」のことばかり考えてきました。ところで「進化」というと、一部には否定的な方もおられます。「進化や進歩が必ずしも良いとは言えない」と。人間の「進化」が戦争や環境破壊をもたらし、あげくの果てはこの地球をも滅ぼしかねない状況であると。これらは概ね、西洋中心の物質文明がもたらした災禍に対する反動です。自然回帰やカウンターカルチャー(対抗文化)の主張がそうですね。

物質文明が病的・限界状況にあるのは今や誰の目にも明かです。フクシマがまさにその象徴。このように肩身の狭い状況にある「進化」という言葉に対して、新たなる見方を提示してくれたのが前回ご紹介した「アニマンダラ」ですね。そう、従来の定説を覆すところの「負け組進化論」です。

原初の単純生命が人にまで進化したのは「勝ち組・強者」の系統ではなく、「負け組・弱者」の系統であるという、まさにコペルニクス的転回の内容。先月26日に神戸で第1回レクチャーが開催されましたが、いわゆるヤバイくらいでした。知的好奇心旺盛の方は必見ですね。第2回は6月26日(日)午後1時半より神戸サラ・シャンティにて。私も参加予定です。

アニマンダラ紹介

さて「生命進化のゴールは人間である」、これは疑わないということでOKですよね。現代文明を否定し、人間を地球の寄生虫やガン細胞だと主張する人達はとりあえず別室へ行って頂くとして、話を先に進めます。それでアニマンダラでは「生命史上類を見ない人間の特殊性」として「自我」の役割に着目します。

『人間は【自我】により、たった一種で全生命に匹敵する以上の生き方の多様性を内包した存在』

(アニマンダラレクチャー第1回レジュメより)

生命進化史上で登場した全生命の生き方が人間種では自我として内包され、人間という同一種の中の「自我の多様性」として反映していると言います。例えば同じ人間でも狼的な人、鳥的な人、サメ的な人・・・etcがいるということですね。


●「情報空間」への進出

それで「自我」は一体どこで棲息しているのかと言うと、それは「情報空間」であるというのです。生物は進化の過程で「水中」から「地上」へと進出しましたが、進化のゴールである人間においては「物理空間」から「情報空間」へ進出したというのがアニマンダラの見方です。実にユニークですね。いまや生命進化の舞台は「情報空間」なのです!これは私的にはキター!

そう考えると私たちの人生、生まれてから死ぬまで、泣いて笑ってケンカして、恋いをし、家族を作り、仕事をし、娯楽を楽しみ・・・という人間模様のすべては「情報空間」での出来事であると言えます。そして個人的な出来事だけでなく、国家や世界の出来事までも・・・・・・そもそも国家や世界というのは「情報空間」です。物理的に存在するわけではない。これはすんなり理解できると思います。

すべてが「情報空間」?・・・・・・いやちょっと待ってくれよ、戦争とか環境破壊、原発事故とか大地震、それに深刻な病気や凄惨な事件など、この物理的な肉体や生活環境に危機的影響を及ぼすさまざまな事件までが「情報空間」ってことはないだろう?事件は実際に現場(肉体とか地球上とか)で起きてるじゃないか・・・と疑問を持たれる方がおられるかも知れません。


●すべては「情報空間」での出来事

私的にはこれらの出来事も全て「情報空間で起こっている」と思います。これは仏教的な見方かも知れませんが、そもそも全ての出来事は中庸・中立であり、本来は意味などなく「ただ起こっている」と言えます。自然界の生物にとって死は生と隣り合わせの日常であり、食物連鎖の中で生命を奪い奪われ、逃走し、捕まれば死にます。仲間が死に、家族は突然引き裂かれます。そんな出来事があっても淡々と日常は進んでいきます。大自然の律動に対してなすすべもなく受け入れるのみです。

快と不快、苦楽、好き嫌い・・・人間の感情や欲望を根底に様々な価値観が形成され、本来中立であった出来事に意味づけがなされていきます。その意味づけシステムが「情報空間」に他なりません。そのシステムの発展が人間の文明であり、その文明の中で起きる様々な事件なのですから、全ては情報空間での出来事です。

マトリクス

病気なども情報空間での出来事です。実際に西洋医学では分子レベルの情報として「それ」を捉え、新薬による化学療法を主に行いますし、東洋医学では虚実とか湿熱など抽象度の高い情報で「それ」を捉えて、「それ」に対する生薬を処方します。手術のような物理的療法であったとしても、その方法手順は人間の頭の中で計画・構成されるという意味で情報空間での出来事です。さらに別の見方をすれば、治療しようとする認識が病気を作り出しているとも言えます。「○○病検査」の実施が増えると「○○病患者」が確実に増産されます。

身の回りの品々、車も新幹線もコンピュータも、すべてのモノがそれを作った人間の意匠や使用してきた歴史の記憶など、情報空間に満ちあふれています。単なる物質などありません。カント哲学によれば純粋に客観的な物質を「モノ自体」と呼び、それは認識することも経験することもできないし、存在するという証拠もないとしますが、それと同じ見方です。

戦争も人間同士の争いであり、主張のぶつかり合いなのですから情報空間での出来事です。原発事故も、情報空間の中で「原発」という計画が進行し、内外の利害が絡み、杜撰な計画のまま実行され、事故を起こして今や人間全体に対する危機となっていますが、これに対する対策も含めて全てが情報空間での出来事です。


●「情報空間」は「観念論」ではない

「情報空間」を「机上の空論」みたく「観念論」として捉えないで下さい。そういう軽めの意味ではなく、ある意味もっと「現実的」な捉え方です。汗水垂らし、温度もニオイもする、生命活動の現場そのものが、人間においては「情報空間」になっているということです。さらに言えば、「生」だけでなく「死」も「情報空間」での出来事です。ここは一度立ち止まってよく考えてみて下さい。

汗水と言えば、脳機能学者の苫米地英人氏によると「暑いから汗が出る」という反応は「暑い」という「情報」に対するホメオスターシス(恒常性維持機能)であると言います。ここで、普通は「暑い」というのは外気の物理的刺激のように思います。しかしながら「暑い」は身体にとって「情報」なのです。身体が情報を受け取り、ホルモン分泌を経て生体を操作し、体温を調節しています。そこで、その情報処理に意図的に介入できれば、暑くても汗をかきにくいとか、「心頭滅却すれば火もまた涼し」となるのです。

情報空間への意図的介入が、科学の常識を越える例もあります。現代社会に降りてきたヒマラヤ聖者スワミ・ラーマは、積極的に自身の能力を公開実験を通して人前にさらしました。医師達の前で心臓を数分間止めたり、致死量を遙かに超える毒物を目の前で一気飲みして平然たる姿を示しました。この実験に立ち会った医師の方があまりの衝撃で気を失ったそうです。

ヒマラヤ聖者

スワミ・ラーマが見せてくれた数々の「奇跡」は、この世界のすべてが「情報空間」であるとすれば、違和感なく理解することができる


●「内部表現」・・・物理現象を含めすべては情報空間である

さて「ホメオスターシスは情報空間にまで広がっている」というのが苫米地理論の根本ですが、彼の画期的なホメオスターシス理論は誤解されています。大抵の人はこれを「割り箸を焼け火箸であると暗示をかけて皮膚に当てると水ぶくれができる」という催眠現象レベルでしか捉えていません。このメカニズムは「高所に行けばキン○マが縮み上がる」のと同じで当たり前の反応です。「高所」という「情報」に恐怖を覚える人は青ざめ震えるようになります。しかし苫米地氏を深読みすれば、彼は物理的現実も含めて「全てが情報空間である」という仏教的な世界観を根底に持っていることが分かります。彼はそれを「内部表現」と言います。

理論が現実に力を持つには例外を作ってはいけません。部分適用したところで大して効力を発揮しない。全部丸ごと根底から適用しなければ、現実は動かないのです。そこが一般人と前述のヒマラヤ聖者との違いになっていると思われます。苫米地氏の「強み」は、一見すると狂信的とも言える「極論」に秘密があります。極論によって自身のトランス状態をコントロールしているのです・・・おっと、少し脱線しましたが、ここで言いたいのは人間の営みは全て「情報空間」においてなされているということです。

これに納得できない方がいるかも知れませんが、その「納得できない感」こそが情報空間における出来事です。「納得」も「納得できない」も共に情報空間じゃないですか。

ちなみにヌーソロジーでは、苫米地氏の言う「内部表現」に当たるのが「人間の内面」になります。いままで外側、環境だとか物質だとか世界だと思っていた「自分の外側に広がる領域」のことをヌーソロジーでは「内面」と見る。これが意識進化へ向かう最初の「反転」となっています。今まで「物理空間」だと思っていた一切の事象をここでいったん「情報空間」だったと捉え直すのです。

少し「情報空間」に拘ってしまいましたが、進化の頂点である人間は、「物理空間」から「情報空間」に進出し、「自我」というカタチで全生命史を内包し反復して、いま「人間の中の人間」に向かって進んでいるというアニマンダラの説・・・・・・それがまさに「人間の意識進化」です。


【情報空間における「自我進化」を反映しているのが「思想史」】

情報空間に進出した人間は、そこで再び生命進化を反復する・・・単純生命が人間にまで進化してきたように、人間は「人間の中の人間」を目指して「自我」を進化させていく・・・その「自我進化」のイメージとゴールを、前回は「物質進化」のアナロジーで紐解いてみました。「物質進化」のゴールは「コンピュータ」であり、「コンピュータ進化」のゴールが「コンピュータがネットワーク全体として自我意識をもつこと」というSF映画からのイメージを取り上げました。この「ネットワーク全体の覚醒」が人間においては「自我の解体」と、全体としての「地球精神の覚醒」の比喩であるというのが今回の私の講演の主旨ですね。詳しくは前回ブログをご覧下さい。

それで自我の進化は「情報空間」での出来事ですから、それは主に「人間の思想史」として反映されている筈です。宗教や政治経済などの活動も全部含めた「人間の精神史」という意味での「思想史」です。

●西洋と東洋

思想史の流れは大きく西洋と東洋に分けることができます。ここでトポロジー的な見方、つまり抽象度を高くして俯瞰してみますと、ユーラシア大陸を舞台にざっくり四つの思想文明圏に分けられます(A図参照)。西洋はキリスト教文明圏とイスラム教文明圏、東洋はインド教文明圏と極東宗教文明圏です。また、西洋が物質文明で、東洋は精神文明だと言えます。西洋文明と東洋文明の特徴はB図をご覧下さい。岸根卓郎京都大学名誉教授が唱えられている西洋-東洋文明の対比です。そして西洋文明は西回りで展開し、東洋文明は東回りで展開しました。我が国日本は非常にユニークで、東洋と西洋の二つの流れが東西からぶつかり合流する位置にあります。

A図大陸トポロジー


B図二つの文明

●西洋と東洋がぶつかり合う「日本」の特殊性

日本には古代からずっと持続してきた精神的な流れがあります。「縄文精神」とか「上古代文明」・・・・・・日本人の精神の奥底にある深層底流がいま非常に注目されています。この古代日本精神を土台として、古神道・神道が生まれました。そこへ大陸から仏教が伝来し、その後に道教・儒教なども巻き込んで「極東宗教」が日本に根ざします。やがて時代を経て、キリスト教と西洋物質文明が日本に入り込みました。

まるで東洋と西洋の精神流が日本においてぶつかり合い、何か新しいものを、とてつもなく古くて新しい、「別のもの」の到来を意図しているかのようです。明治維新以降、日本は西洋物質文明にがっちりロックされ、外圧をかけられて約150年間、圧力鍋でコトコト煮込まれてきました。今や火は止められ、勢いよく蒸気が噴き出し、まもなくロックは解除され蓋が開けられようとしています。さあ中からいったい何が出てくるのでしょうか。「人間の中の人間」・・・意識進化の最終形態が到来する・・・そのような予感と共にこのブログもまた書いているワケです。

話を先に進めましょう。このペースだとまた次回に続くということになりそうです。
それで、文明にはざっくり西洋と東洋があるのですが、この西洋と東洋は対照的な関係にあり、それぞれ役割や性格にも対照的な違いがあります。B図の表を見るに、父性文明と母性文明という大きな特徴があります。ここでは父性文明である西洋の方を主流と見ます。これは今までの歴史を主導してきたのは西洋文明であるという意味です。西洋と東洋、どちらが覇権的かと言えば明らかに西洋です。覇権的な方が良いも悪いも歴史を主導しているのですから、これは普通の見方です。


●「調整期」を主導してきた西洋文明、その本質は「ユダヤ精神」

ヌーソロジーにおいては、次元交替化の図(下図)にあるように、2012年までの6500年間を「調整期」としています。この期間は進化の為の調整をしてきた期間であり、ちょうどタマゴの殻の中で雛が成長していくような期間です。無事に成長して殻を割り、外に飛び出して鳥になっていくのが次の「覚醒期」で、2013年から続く新しい6500年間です。今はすでに「覚醒期」に入って4年目ですね。

次元交替化

さてこの6500年の主流は西洋文明であり、さらにオコツトによればその主役はユダヤ人です。この6500年はユダヤ史を中心として動いてきた、あるいは動かされてきたとオコツト情報は伝えています。「ユダヤ・キリスト~一神教精神」です。ちなみにオコツトによれば、もっとも新しい民族がユダヤ人であり、もっとも古い民族が日本人であるというのです(半田広宣さんの講演より)。そして最終構成において両者が合流するという点で、「ユダヤと日本の統合」を伝えている日月神示の世界観とも妙に通じています。

以上まとめると、6500年という人類歴史の主流は西洋文明にあり、その中心は「ユダヤ・キリスト~一神教精神」であるということです。いまの西暦がイエス・キリストの生誕年を基準に数えられており、言語・服装・通貨などにおける世界標準のすべてが西洋文明のものである現在の様子を見れば、これは明かなことです。

●西洋思想史の流れを区分

ここで統心流に、西洋思想史の流れをざっくり区分すると

◆前・キリスト期(古代:ギリシャ・ローマ)
◆従・キリスト期(中世:キリスト教中心社会)
◆脱・キリスト期(近代:ルネサンス、宗教改革、科学興隆)
◆反・キリスト期(現代:構造主義登場、価値観の相対化・多様化)
◆超・キリスト期(いまココ:2013年以降の新文明到来)


ここでの「キリスト」とは「ユダヤ一神教精神」を象徴する言葉として使っています。イエス・キリストその人の事ではありません。「前・従・脱・反・超」という言葉はそれぞれ「一神教精神到来の前」「一神教精神に従属」「一神教精神から離脱」「一神教精神への反抗」「一神教精神の超克」という意味です。

この分け方は哲学史的にもあながち外していないと思います。哲学の先生にも尋ねてみて下さい。但し、「2013年以降の新文明」という点は笑われると思いますが(爆)。

この西洋文明史或いは西洋思想史の流れを、私自身の今までの人生において反復させられてきたというのが今回の講演後半の論旨です。論旨紹介だけでここまでかかってしまいました。「次回に続く」ことになるのはどうやら確実です(涙)

さて気を取り直して何とか近代まで・・・・・・現代・構造主義登場の手前までは行きたいと思います。毎度ながら長文お付き合いご苦労様です。


【「西洋思想史」を反復させられた私の人生】

●私の「前・キリスト期」(古代ギリシャ・ローマ)

ゴーギャン


「死とは何か?」「宇宙の果ては一体どうなっているのか?」

私の記憶が確かであれば、物心ついた頃・・・幼稚園に通い出した頃より、頭の中でこの二つの疑問が首をもたげ始めました。死が怖い、そして空を見上げて宇宙の果てを考えると気がおかしくなりそう・・・。小学校にあがるとその悩みはさらに深刻になりました。隣の家に住む友達のお母さんが若くして病気により亡くなったのです。確か28才だったと思う。小学4年の時には違うクラスの同級生が事故で亡くなりました。全校集会での先生からの報告、すすり泣く女子の声、無人の机の上に置かれた大きな花瓶のお花・・・。

小学5年の時に家族の引っ越しで他校へ転校をしました。誰一人知人のいない、未知の環境に投げ出される恐怖・・・内向的な性格の為にとても辛い思いをしました。そんな不安な中、優しく声をかけてくれた友達は今でも忘れられない想い出です。その友達の中の一人が・・・・・・彼自身はとても元気なのですが、聞くと昨年にお兄さんを亡くしたという。年齢は数年上でまだ中学一年生。さらにその前の年には働き盛りのお父さんが亡くなったと。余りの衝撃に私は言葉を失いました。それから何日も何日もその友達のことで、彼の身の上に連続して襲いかかった悲劇について、ずっと考え続けました。悩みに悩みました。つとめて明るく振る舞う彼の笑顔がかえって胸に突き刺さったのを覚えています。

「死とは何か?」、そして私は一体何のために生きているのか。「死への恐怖」から、やがて私の関心事は「真理を知りたい」へ昇華されていきました。小学校高学年の頃には、私の関心事が「真理の探究」にあるということを既に自覚していました。哲学の始まりです。

子供ならではの素朴な疑問です。「死」のおかしさ、「宇宙の果て」のおかしさ・・・・・・素直に見れば、おかしいに決まっている、説明ができない事実。そして「大人は誰もその答えを知らないのだ」ということは子供でもすぐに分かりました。自分で考えるしかない・・・・・・この頃は期せずして、ギリシャ時代の精神を、私は反復させられていたようです。実際に中学1年生になり、世界史の時間に初めて学んだソクラテスの「無知の知」に感動し、これを「座右の銘」としたのを今でも覚えています。

●「実体」をめぐる二つの立場・・・パルメニデスとヘラクレイトス

「真理の探究」とは「真実を知りたい」ということです。そしてそれは「確かなものを見極めたい」ということになります。では「確かなもの」とは何なのか?・・・・・・いつまでも変わることのないもの・・・永遠であり不変です。それは本質ともいいます。そしてこれらすべての意味を含んだ最も的確な、思考対象としての単語が「実体」です。

「実体」・・・それは永遠に不変なるものであり、本質のことであり、実際に存在しているもの、実在するもののことを言います。これと反対の意味は「見かけだけで実際には存在しないもの」となります。仮相とか幻想と言えるでしょう。ですから実体とは実相のことです。

哲学の曙期であるギリシャ時代に、この「実体」をめぐって二人の相反する主張をする人物が登場しました。しかもこの二人はほぼ同じ頃、紀元前500年頃に生きたのです。

一人はパルメニデス。彼は「実体はある」という立場です。彼の主張を表す言葉として有名なのが、

 あるものはある、ないものはない

「真の存在とは、消えることも変化することもなく、永遠にあり続ける」という意味です。あるものは最初からあるし、ないものは最初からないということ。途中で変化したりしない。少なくとも本質は変化しない。ずっと変わらないから「本質」だということです。

そしてもう一人の名はヘラクレイトス。彼は「実体はない」という立場をとりました。彼の主張を表す有名な言葉が、

 万物は流転する

「すべては変化し続ける。永遠に不変の存在なんてありはしない」という意味です。すべてが刻一刻と変化しているのだから・・・例えば川は流れて一瞬たりとも同じ姿をしていません。私たちの身体もそうです。一瞬一瞬変化しています。物質のすべてがそうです。すべてが変化するのだから、そこに不変の本質なんてありはしないということです。

ギリシャ二人


●釈迦は「実体はない」という立場

この「実体」をめぐる二つの立場は、思想史においては必ず対化として現れます。「変わらないものを求める立場」と「最初からすべて変化すると見切る立場」。孔子と老子の思想もそうですね。孔子が「変わらない」ものを求める立場、老子が「すべて変化する」と見切る立場。

そしてもうお気づきかと思いますが、「実体はない」という立場で世界的に影響を与えた人物が釈迦です。釈迦の思想は「諸行無常・一切縁起・諸法無我」。すべては移り変わるものであり、縁起、つまり関係性でしかないと説明します。関係性でしかないということは、確固たる核というか芯のようなものを認めない考えです。ですから無我。当時のインドでは個人の本質を「真我(アートマン)」と呼びましたが、それすら認めないのが釈迦の立場です。真我すらないというのです。何もないのです。この釈迦の悟りがポップに表現されているのが現代の「ノンデュアリティ」でしたね。


●「実体はある」という立場は必然的に「神」に向かう

対する「実体はある」という立場。これは必然的に「神の存在」にいたります。この宇宙をもたらした第1原因としての神。「実体」について真剣に思考すれば、「神以外に実体はない」という結論に至るのは自然です。そこにイエス・キリストが現れ、神と人間の関係をさらに親密に説きました。イエスの死後、キリスト教が成立し、数百年後に覇権国家ローマの国教となってからは、西洋思想史はキリスト教哲学の時代に入ります。すべての思考がキリスト教の基に行われるようになりました。これが「従・キリスト期」です。この時期、「哲学は神学のはしためである」(トマス=アクィナス)という言葉が残されています。哲学は神学に従属するという意味です。

こうして見ると「実体はある」という立場は「信仰」につながり、「実体はない」という立場が「悟り」につながるようですね。「実体はある」が必然的に「神の存在」に至るように、「実体はない」は「神の不在」に至ります。釈迦のとった立場は無神論なのです。仏教の本質が無神論であるということに私が気づいたのは、恥ずかしながらここ十年以内のことです。私は中学生以降にクリスチャンとなり、長い間キリスト教の文脈でものを見るようになっていましたので、仏教の本質には全く思いが至らなかったのです。


●私の「従・キリスト期」(中世・キリスト教中心時代)

入学した中学校がカトリックのミッションスクールであったことで、「聖書」と出会うようになります。実体をもとめて悩みに悩んだ少年が神を求め、キリスト教の信仰に至るのは自然な流れでした。ここから私の「従・キリスト期」が始まります。私において、この時期は30才手前まで続きました。その間に、既成キリスト教会をはじめ、新興宗教などいくつか経験することになります。詳細はここでは省きますが、一貫して「唯一絶対の神」に対する服従の精神にありました。中世のスコラ哲学と同様、私の思考はすべて神を前提としたものとなり、「哲学は神学のはしため」を地で行く生活でした。

宗教においては主張の異なるいろいろなグループに所属してみて、様々な人に出会えたことが良い経験となりました。霊能者・能力者と言われる人達ともたくさん出会い、時には教えを請い、行動を共にし、親交を深めました。しかしながら持ち前の探求精神を押さえることができず、その結果、一カ所に留まることはありませんでした。しかし、そのような探究心があっても「唯一絶対の神」からは逃れることができませんでした。「ユダヤ一神教の呪縛」はこのあとの「脱・キリスト期」「反・キリスト期」まで続くことになります。「脱」も「反」も、まだまだ「一神教の手の内」にあったということです。


●私の「脱・キリスト期」(近代の始まり)

30を前にして持病のアトピー性皮膚炎が悪化し、三度のリバウンドを経て、最後のリバウンド期に重傷化し、病院に担ぎ込まれてそのまま長期入院をすることになりました。この時を境に私は「脱・キリスト期」に入ります。

療養に専念するため、それまでの人間関係をリセットしたこともありますが、重傷で入院することで、代替医療、いわゆる「アトピービジネス」の本質を知らされたということもその一因です。代替医療業界のウソに出会ったということでしょうか。これを端的に説明しますと、「私は治りました」という体験談はごくごく一部の特殊な事例であり、圧倒的多数が代替医療における失敗者となっていて、いくつもの療法を渡り歩き、たくさんお金を使い途中で挫折をするか、最後は病院に担ぎ込まれているという事実を知ったのです。少なくともアトピー界の現実はそうでした。

数少ない成功事例のみが華やかに喧伝され、圧倒的多数の挫折者・失敗者のケースは黙殺されています。当時の私は治りたくて必死でしたから、他の誰でもなく自分自身が失敗者の声を聞かないようにしていたのです。

ごく一部の成功者の特殊事例を誇大宣伝し、「今のままではダメだ」と思っている慢性的負け組の弱みにつけ込み、彼らを糧として、手を変え品を変え引っ張り続けていく・・・・・・宗教、ネットワークビジネス、自己啓発、代替医療・・・・・・これらすべての現場に共通する不健全な構造を、私はアトピー重傷化をきっかけに身をもって知ったのです。

「今のままではダメだ」という卑屈な上昇志向、強迫観念にも似たプラス主義・・・・・・「自分を認められない」ことで生じる絶え間ないストレスにようやく気づくことができました。代替医療信奉者にとって、病院及び西洋医学のお世話になることは敗北になります。しかしこの時の私は入院・収監されることでお任せの境地となり、屈折した上昇志向もついに敗北を認めることになりました。現状を受け入れることで気分が楽になり、焦ることがなくなって、かえって「自分の身体」を信頼でき、自然治癒力が解放されたように思います。このような精神面の変化と病院における的確な治療(西洋医学+漢方)により、私は重度のアトピーから脱出できたのです。

退院して以後、私はそれまでの「精神偏重」の考え方から極端に「物質偏重」の考え方へとシフトしていきました。やがて朝から晩までビジネス、お金を儲けることだけを考え行動するようになりました。それまでの反動なのか、それから数年間は精神世界の本を一切読まなくなり、好きだった自己啓発本すら手に取ることはなくなりました。精神論に全く興味がなくなったのです。意識は常に現実・現実・金・金・成功・成功・・・となっていました。それでいて、心は以前よりもスッキリ澄んでいたように思います。神をかえりみることのなくなったこの時期は、西洋史におけるルネッサンス(文芸復興)に相当するでしょう。それまで中世の間、キリスト教会の支配により抑圧されてきた民の精神が解放を求めて動き出した時期です。この時の私はまさにそのような精神状態にありました。

やがて近代的自我確立の契機となったデカルトが登場し、「物質」と「精神」が神に替わる「実体」となって、その機械的自然観により科学技術が発達し、物質文明が急速に繁栄していきます。そして物質文明が暴走を始めた頃から、その反省により、西洋思想自らが自身を相対化する「構造主義」が登場します。ここから現代(ポストモダン)に入ります。これが「反・キリスト期」ですが、この時代に相当する私の道のりと、そして最終結論である「超・キリスト期」、講演テーマである「地球精神の覚醒」まではさらに次回に続くとさせて頂きます。

このシリーズ、何とか次回には終了するつもりですので、よろしくお願いします。
それではまた~。

とうしん


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●関西ヌース勉強会(大阪)・・・6月25日(土)13時半~
※場所は難波市民学習センターです。

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※場所はウィングス京都です。

※お申し込みは関西ヌーソロジー研究会のHPへ

●アニマンダラ・レクチャー第2回(シリーズ全5回)
6月26日(日)13時半~ 神戸・六甲サラシャンティ
※詳しくはアニマンダラのHPへ
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皆さん、こんにちは。
GWを越えて日本は初夏に入りました。気温も最適であり、過ごしやすい日々が続いています。
しかしながら先月は九州において熊本地震がおこり、多くの方が犠牲になられ、またご無事であった大勢の方々においても、いまだ避難所での不自由な生活を余儀なくされています。被災された方々とその内外環境のすみやかな復旧を心よりお祈り申し上げます。

さて、4/29~5/1までの三日間、神戸は六甲にある健康道場サラ・シャンティにて「己読みシンポジウムⅡ」が開催されました。私は三日間を通して司会進行役と、最終日1コマの講演をさせて頂きました。お陰様で全三日間のべ160人以上がおこしになる大盛況となりました。登壇された方々のプレゼンはどれも最先端の斬新かつ非常にユニークな内容であり、さらにそれを受け止められる意識の高い参加者との一体感で、もの凄い「場」となりましたね。「双方向」という観点からみてもかなりハイレベルのイベントであったし、そのクオリティはもはや「事件」と呼べるほどでした。こんなにマニアックな会なのに(^^;)

1-koyomi


今回のブログでは、最終日に私がお話した内容について、三日間全体の報告と私自身の感想もからめつつ随筆調でお伝えしたいと思います。あとから文章として整理しているので、実際に話した通りではありません、悪しからず。それでは始めましょう。

★講演テーマ「地球精神の覚醒・・・自我は確立され、そして解体され、これからどうなっていくのか」

●吉野流カタカムナ

今回の己読みシンポジウムⅡのテーマは「自我」でした。自我とは何か、自分とは何か。つまり「己」を知るということ、それで「己読み」。「自分を超えて深く深く己を尋ねる三日間」というサブタイトル。ところで「己」という字は数字の「2」に似ていますね。デジタル数字の「2」は「己」の字そのまんまです。それをひっくり返すと「5」になりますし。「己読みシンポジウム」を5月にやることもまた意味深ですね。それで2といえば2日目に登壇された吉野信子さん、昨年に徳間書店から「言霊の超法則」を出されたカタカムナ研究家。yoshinoいま全国数カ所でカタカムナの講座をもたれて大活躍です。今回その吉野さんは「己」という字のカタチが二つの渦、右回り・左回りの二つの渦が真ん中で反転して繋がっているカタチとして感じ取られ(解釈され)、そこからそのカタチを巡って縦横無尽に語って下さいました。

吉野流カタカムナの特徴の一つとして、言霊・数霊・形霊・・・それぞれの境界にとらわれること無く、大胆に「似ている」に着目していかれます。音が似ている、カタチが似ている、数が似ている・・・まさしく「相似象」、相似のカタチの世界。慣れない人にとっては「え、ダジャレ?」と戸惑うほどの徹底ぶりですが、和やかな表情の中にもキリッとされて、「同音異義語」は外国語にも通じる!とまで断言されます→”トーラス”と”通らす”とか・・・。潔いその態度に感動を覚えました。「同音異義語」(道路とロード?、Iと愛とか・・)とはつまり「ダジャレ」みたいなものですよね。でも「同音異義語」は、自分教で言う「異質同体」にも通じるものがあります。この世界には「潜象界」と「現象界」という二つの側面があるというのが楢崎皐月氏が研究したカタカムナの世界観。おっと皐月は五月ですからここでも5月が出てきました。潜象界は内在世界、現象界は外在世界。この世界観はヌーソロジーもまったく同じ。ヌーソロジーでは前者が「奥行き」、後者が「幅」の世界。それを自分教では「異質同体」と「同質異体」の世界と言ってます。

本質世界であり「実体」の世界でもある「潜象界」は「相似象」の世界であり、「相似」、つまり「似ている」ことが重要なファクターとなります。ヌーソロジー的にも「潜象界」は「非局所」領域ですから、すべてが畳み込まれている様相です。特定の場所ということがありません。これは「底なし天井なし」のフラクタル図形の世界・・・つまり金剛界マンダラの世界ですね。そしてフラクタルはどこをとっても同じカタチなので、特定の場所がありませんし、「同じカタチ」という「相似」の世界です。またトポロジー(位相幾何学)にも通じます。トポロジーにおける「連結性」や「コンパクト性」・・・有名なものは「コップとドーナツを同じモノ」としてみるアレですが、これも分からない人にとっては「なんてひどいことするんだ!」というぐらいの変形をしますが、トポロジーの扱う位相空間においては両者は同じモノとして扱えるのです。(下図トポロジーのGIF画像はwikipediaより)
topology

要するに吉野さんの思考方法は、「潜象界」を思考するのに全く正統な方法であるということです。三日目の登壇者である甲田烈さん(哲学者・妖怪博士)もまた、吉野さんの講演を聴かれて、その思考方法はまさしくアナロジー(類推)であるとして、アナロジーは科学や哲学においても重要な方法論であり、まったく正統なものだと賛美されていました。甲田さんによれば、「妖怪」を思考する時がまさにこの思考を使うそうです。

●アニマンダラ

さてさてフラクタルと言えば、『「生物進化や生態系が、人の精神構造とフラクタルな投影関係にあり、同じものである」・・・そうした相関性を見出し、新しい宇宙観~人間観を伝えるシャーマニックバイオロジー・・・』というのが「アニマンダラ」の紹介です。第1日目に登壇された天海ヒロ氏のアニマンダラ。

私はまだアニマンダラは初心者です。この5月末から毎月1回の全5回シリーズで、同じ六甲サラ・シャンティにてアニマンダラレクチャーの講座が開催されます。私も全回に参加予定です。アニマンダラの天海ヒロさんとヌーソロジーの半田広宣さんは盟友であり、天海さんもまたヌーソロジーからのインスパイアもあって、アニマンダラを構築してこられました。半田さん曰く、ヌーソロジーの生物学バージョンだと言わしめるほどの完成度。

2-anima

アニマンダラの重要なメッセージを3つ挙げるとすれば、①負け組進化論、②外骨格化と内骨格化、③種我同型論・・・。①負け組進化論とはアニマンダラのユニークさを物語る最大の特徴で、要するに原初の単純生命から私たち人間にまで進化してきたのは、「弱肉強食・適者生存」で勝ち残ってきた「勝ち組」系統ではなく、強者に奪われ追われ、常に逃走し続けてきた「負け組」系統の方であったということです。司会をしていた私も思わず「学校で習ってきたことと全然違うじゃないですか!」と感嘆してしまいました。目からウロコ、コペルニクス的展開とでも言うのでしょうか。天海氏はこのことを状況証拠満載でアカデミックに解説してくれるのです。最高の知的興奮!探せば証拠がいっぱいあるのに今までこのことが分からなかったのは、私たちがそういう「観」を持たされていなかったからです。社会的洗脳というヤツですね。

それで、私たち人間にまで進化してきた「負け組」系統ですが、絶えず分岐点において「内骨格化」の方向性を取ってきたというのがアニマンダラの見解。内骨格化が負け組、もとい進化組。対する強者であり、やがて滅んでいくのが「外骨格化」の方向。「外骨格化」・・・例えば「外側に武装し、外的環境に最適化する」という、いまの社会で言えば「優秀」とでも言うべき方向性。事実、外骨格化した連中は環境に最適化し、その時代において勢力を極めていきます。つまり「勝ち組」。ところが・・・必ずその末路たるや、滅びていくのですね。ある日突然に起きる天変地異などのあとに・・・。ここからはたくさんの哲学的な教訓を引き出せそうですが、例えば一つの環境に「最適化」する・・・多様性を排除し、シンプルにシステム化・統一化されていく・・・というのは、一見するととても良さそうなのですが、その環境が急激に変化した場合には順応できなくなるというのがあります。いま公開中の映画「アイアムアヒーロー」、原作マンガも大変な人気ですが、この作品中、ナゾの病原体パンデミックによる人類滅亡の危機の中で、意外にも生き延びて活躍していくのが「オタク」や「引きこもり」「ニート」だったりしています。外側(社会適応)ではなく内側(妄想やイメージの世界)を向いていた気弱で内向的な人達の方が、感染してもZQN(ぞきゅん=作中でゾンビのこと)化せず、自我を保ったまま超人化したり・・・まあマンガの話です、すみません(笑)。しかしそこに示唆されていることは結構深いと思います、ヌース的に見てもね。

3-iamahero

そして③種我同型論。最初の生命体は全てが水の中でした。やがて水の中から陸上に移動する。当初の生命にとっては毒ガスでもあった酸素の蔓延する陸上に、最初に移動するのはメイン舞台であった水中において撤退を余儀なくされた負け組。陸上においても昼間のメインは大型類に占拠され、負け組である我らの先祖は夜の世界へ逃走・・・。このようにして負け組の系譜をたどりつつ人間にまで至った・・・というのが負け組進化論のストーリーですが、その間に生み出された様々な種の系統樹・・・これら生物進化の軌跡と生態系が、人間の場合は内面化して、人間という一つの種の中において「自我」というカタチで取り込まれているとアニマンダラでは指摘しています。バラエティにとんだ生物種の性質と関係性がそのまま人間の自我に反映しているということです。人間の中にも爬虫類タイプとか猛禽類タイプとか、いろんな性格があるよね、ということです。つまり生物進化の歴史は人間の自我、あるいは意識進化の歴史としても反映されているということになります。つまり「生物進化 ∽ 意識進化」。

さあ、ここから私の講演内容に入っていきます。甲田さんが指摘された「アナロジー思考」を存分に使わせて頂きながら、長年のテーマである「意識進化」について語るということになります。

●統心講演テーマ「地球精神の覚醒」

最初のアナロジー、つまり相似形からの類推は、「生物進化 ∽ 意識進化」。それで生物進化の最終形が「人間」なのですから、意識進化の最終形は?ということですね。「生物進化→人間 ∽ 意識進化→?」 さて、一体どうなるのでしょうか。ここでオコツト情報、コーセンさんのチャネリング情報によれば、それは「自我の消滅」であるということです。

***自我の消滅***
コーセン: では、あなた方が人間の意識進化と呼ぶもののイメージについて、ごく単純な言い方で結構ですから分かりやすく説明していただけませんか・・・・・・
オコツト: 自我の消滅です

「2013:人類が神を見る日」より

このように、オコツト情報では人間の意識進化のゴールを「自我の消滅」と説明しています。つまり「意識進化 → 自我の消滅」です。
それでは「自我の消滅」とはどのような状況を言うのでしょうか。もしそれが分かれば、或いは明確にイメージできれば、それはそのまま意識進化の方向性やルートが見えたということに他なりません。

またオコツト情報には「最終構成」という概念があります。

***最終構成***
コーセン: 最終構成とは何ですか。
オコツト: 人間が人間であることの最終的な段階へと達したという意味です。
コーセン: 最終的な段階というと・・・・・・?
オコツト: 付帯質におけるすべての次元を交差したということ。
コーセン: つまり、物質・・・・・・のすべての次元を交差したということですか。
オコツト: そのような意味でよろしいでしょう。人間の意識が物質宇宙におけるすべての領域を交差したために、このような関与が始まったと考えてください。
コーセン: すべての領域を交差した・・・それは、僕らの科学のことを言っているのですか。
オコツト: はい。あなたがたの意識が物質世界の極大と極小を発見したことにより、オリオンが感性作用の変換を始めたということです。

「2013:シリウス革命」より

最終構成とは「人間が人間であることの最終段階へ達した」という意味らしいですが、それは物質宇宙を極めること、つまり科学がある段階にまで到達したということを意味しているようです。科学のある段階とは「極大と極小の発見」であり、それは「アインシュタインの相対性理論」と「量子論」の登場と言い換えることができます。

さらに物質概念自体が人間型ゲシュタルトを意味していると言います。

***物質という概念***
オコツト: 物質という概念は人間型ゲシュタルトが作りだしています。このことがあなたがたの周囲に派生している様々な問題の元凶となっていることにそろそろ気づかなくてはなりません。人間型ゲシュタルトは宇宙を部分に分け、個体という幻想を作り、精神進化を抑制しようとしています。
「2013:人類が神を見る日」より

オコツト情報の目的とは最初から人間型ゲシュタルトを解体し、変換人型ゲシュタルトをプログラムすることであると伝えて来ています。

***変換人型ゲシュタルトをプラグラムすること***
コーセン: 変換人型ゲシュタルト………?
オコツト: 変換人型ゲシュタルトとは、あなたがた地球人が21世紀以降に持つ空間認識のプログラムです。現在の地球人の空間認識は歪曲しています。その歪曲が正しい宇宙的理解からあなたがたを遠ざけてしまっているのです。その歪曲を正常な状態に戻す働きが変換人型ゲシュタルトの役割です。この送信の目的は、わたし自身、つまり変換人型ゲシュタルトをあなたにプログラムすることにあります。

「2013:人類が神を見る日」より

この「人間型ゲシュタルトの解体」とは「自我の消滅」の意味でもあります。

***自我は働きを失うでしょう***
オコツト: 人間型ゲシュタルトが自我を生み出しており、人間の意識の方向性の反転によって、自我は働きを失うでしょう。
「2013:人類が神を見る日」より

以上をまとめると、

「生物進化→人間 ∽ 意識進化→自我の消滅」

で、「自我の消滅」は「最終構成」にて起こり、それは「科学による物質概念が究極に到達した」ということでもありますから、

「生物進化 ∽ 意識進化 ∽ 物質進化」

でもあるということです。
意識進化の方向性を読み解くのは難しいかも知れませんが、それは物質進化のアナロジーで読み解ける可能性があるのです。

では物質進化の究極とは何でしょうか。それは間違いなくコンピューターであり、コンピューター社会ではないでしょうか。現代社会の本質を抽象度を高くしてみれば、コンピュータ社会に全て現れていると言えるでしょう。コンピュータ社会こそが「最終構成」によってもたらされた最終段階の社会です。そしてオコツトはやがてそのコンピュータが一斉に停止するとも伝えて来ています。このことは「シリウス革命」の中において詳しく紹介されていますが、ヌーソロジー本論からは「オコツトのトンデモ情報」として、今は参考程度の扱いになっています。・・・というか、むしろ無視。

少々脱線しました。「コンピュータ一斉停止」の件は忘れて下さい(笑)。先を急ぎましょう。
「物質進化→コンピュータ社会」のアナロジーを使うと以下のように類推できそうです。

「生物進化→人間 ∽ 意識進化→自我の消滅」
「物質進化→コンピュータ社会 ∽ コンピュータ進化→ ?」


つまり

「意識進化 ∽ コンピュータ進化」

と言えそうです。

それでは「コンピュータ進化」の究極はどうなるでしょうか?タブーを無視して、SF脳・マンガ脳炸裂で考えてみて下さい。
私はそれを「コンピュータが自我意識を持つ」と類推しました。もちろんSFの世界です。

「2001年宇宙の旅」のHAL、ターミネーターのスカイネット、マトリクス・・・

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コンピュータが自我意識をもち、人類に対して反乱を起こす、そして人類を逆に管理下におこうとするというモチーフはSFでよく登場します。最近のSF映画やマンガで頻繁に登場するテーマです。私は以前より、これらは「行きすぎたコンピュータ社会への警告」と捉えるのでは無く、人間の意識が次の段階に行くことの比喩であると言ってきました。警告なんかより、意識進化のアナロジーとして捉える方が面白いでしょう?

さて現実の社会において、コンピュータはどこまで進化して来ているのでしょうか。間違いなくそれは人工知能・AI(Artificial Inteligence)であると言えます。iPhoneのSiriやwindows10のCortana・・・身近なところに人工知能テクノロジーが顔を出してくるようになりました。グーグルは毎年その莫大な利益の多くを人工知能に投資しています。昨年末にはトヨタ自動車までが、今後は人工知能に巨額投資をして開発を本格化していくという報道がなされました。他にも先端をいく大企業が続々と人工知能に投資しています。

5-ibm

ここにIBM社の資料があります。IBM社長のスピーチによると、コンピュータ社会は第1世代の単なる計算機の時代を経て、現在は第2世代「プログラマブル・コンピューティング」の時代であり、まもなく第3世代「コグニティブ・コンピューティング」の時代が訪れるということです。簡単に説明すると、第2世代では、人間がコンピュータに対してプログラムで命令をし、コンピュータはそのプログラムを実行するということであり、現在の私たちが使っているPCをはじめ、スマホやタブレット、オフィスのコンピュータはみなこれに相当しています。では次の第3世代とは何でしょうか。「コグニティブ」とは「認知の」という意味であり、コンピュータ自身が自分で学習するシステムであるというのです。コンピュータ自らがデータを集積し、さらに自らがそれを分析し、その分析方法自体を自ら構築し、必要に応じて改編したりするというのです。これはあたかもコンピュータが「知恵」を持つ段階に入ったように思えます。単なる情報という「知識」を扱う機械ではなく、その情報の整理・活用方法を自ら編み出していく「知恵」を持つレベルです。人間が命令しなくても自分でやりだすのです。これによって、コンピュータは実生活の上で人間に対等な相談相手、真のパートナーになるとされています。

今後人工知能はそのように発展することが分かっています。しかしこれを「コンピュータ技術の発展」という側面だけで見るのは片手落ちです。ここにはもう一つの重要な要素があります。それはインターネットの発達によってもたらされた「ビッグデータ」或いは「クラウド」と呼ばれるものです。「ビックデータ」に関しては、以下の富士通の資料を参考にしてください。(図は日経BP社 ITproの記事より)

6-bigdata

「ビッグデータ」とは、ただ大きいだけじゃなく、とてつもなく大きいデータという意味があります。とてつもなく大きなデータ。今日、私たちの生活はスマホ・PCだけでなく、車や公共の交通手段、コンビニの買い物からレジャー施設、もうありとあらゆるところにセンサー端末を通じて情報収集がなされています。ましてや私たちのネットを通じた行動は全て収集されています。これはもう避けようがありません。毎瞬間、膨大な量の情報が蓄積されていきます。その天文学的な数字のさらに何乗みたいな世界を「ビッグデータ」と言います。これほどのデータがさらに最先端のAI技術によって融合し始めているのです。バーチャルワールド(仮想世界)の情報量がリアルワールド(現実世界)に近づいてきているのです。もうバーチャル世界をバーチャル(仮想の)などと言っておられません。それは「第2現実」とでも呼ばなければいけない段階に来ています。この「ビックデータ」を背景にして、コンピュータの人工知能化が進むのです。

まとめると下図の様になります。
7-pc1

重要なポイントは「インターネット」→「クラウド(ビッグデータ)」→「人工知能」の順に発展するということです。いま「人工知能」まで来ているのです。その先はSFです。「知恵」を持つようになったコンピュータは果たして「自我」を持つに至るのか?この議論はそのまま「自我の本質」を考えることになります。「自我の消滅」を考えることもまた「自我の本質」「自我とは何か」という議論になります。ここにこのアナロジーの最大のポイントがあります。「コンピュータが自我に目覚めること」が、「人間の自我が消滅すること」のどのようなアナロジーになっているのでしょうか。

SFにおいて「コンピュータが自我を持つ」という時、大抵は「コンピューターネットワーク全体」で目覚めるという描写になります。ターミネーターのスカイネットやマトリクスのシステムなどがそうですね。ネットワーク全体がある段階に達したときに「自我」を持ちます。私はこの描像こそが、オコツトが伝えて来た「自我の消滅」とその先にある「人間全体の目覚め」のアナロジーだと思っています。全体が目覚めることは、個の自我の消滅を意味しています。それを今回は「地球精神の覚醒」というテーマでお話をしました。

ヌーソロジーにおいては悟りとか覚醒という意識進化上の出来事を「顕在化」と呼びます。細かい定義はさておき、「顕在化」とは「今まで見えなかったものが見えるようになること」ですから、ここでは「無意識が意識化されるようになる」ことを意味します。隠れていた無意識がオモテに出てくるのです。ところで精神分析や心理学において、無意識とは潜在意識よりもさらに深い層のことを言います。それはまた、フロイトの後継者ユングの理論に出てくる「集合無意識」でもあり、過去から現在にいたるまで存在した全ての人類の無意識の集積体です。さらに仏教における阿頼耶識やスピリチュアルで言われるアカシックレコードのように、ここには未来の情報まで全て含まれることになります。そのような集合無意識の実体をヌーソロジーの文脈では「ψ7空間・球精神」と呼んでいます。もちろんソースはオコツト情報です。

今回の講演で私は、この「ψ7・球精神」が目覚めることを「”地”球精神の覚醒」と表現しました。「新たなる地球の目覚め」です。ちなみに後で半田さんも「オコツトの言うキュウセイシンとはおそらく”地球精神”のことなんだろうね」とこれについて同意して下さりました。

意識進化のゴールはこの「ψ7・球精神」の顕在化となるのですが、オコツト情報における空間構造はシステマチックであり、顕在化していく順番もψ3→ψ5→ψ7とその段階は明晰に整理されています。詳しくはヌーソロジーレクチャー本論に譲りますが、ここでは簡単にコンピュータ進化のアナロジーに対応させてみます。
8-pc2

意識進化の第1ステップと言われるのが「ψ3空間の顕在化」です。これが前回ブログで伝えた「位置の交換」という意識作業になります。「位置の交換」によって私たちはこれまでの認識形態を逆転させます。人間は普通、自分の内側に心があり、その内側から外の世界、物質世界や環境をのぞき見ている、体験しているというパラダイムで生きています。内側が心や精神であり「主体」、外側が物質や世界であり「客体」という認識、ごく当たり前の認識ですよね。ですがこれこそが「人間型ゲシュタルト」であり、頑なな自我の巣窟で、山積する全ての問題の元凶であるというのです。まずはこの認識を逆転させるのです。

つまり私たちは内側から外側をのぞき見ているのではなく、実は外側から内側をのぞき見ているのだ、という逆転です。これが「位置の交換」。これによって、心とか内在世界と思っていたものが全て目の前になります。目の前の物質や環境こそが精神世界だったということになります。この認識を開始するのが「位置の交換」であり、「外側から内側をのぞいていた」という発見が、それぞれ「人間の外面」と「人間の内面」と呼ばれます。ここ、ややこしい人はスルーしてくださいね。とにかくこれが「ψ3空間の顕在化」であり、ここから意識進化が始まります。

このことをコンピュータ進化のアナロジーで説明すれば、「単なるパソコンをインターネットに接続する」ことに相当します。「コンピュータ、ネットなければタダの箱・・・」。確かにいまのパソコンは単体でも素晴らしいアプリがいくつもあり、多くの仕事をこなすことができるでしょうが、ネットにつなぐことでパソコンはさらに次元の違う世界に入ります。ネットを通じて膨大な情報ネットワークにつながる、誰でも机の前から移動することなく国家レベルの情報機関に匹敵するような作業ができてしまう・・・。意識進化の第1段階である「ψ3空間の顕在化」をした意識は、全く別のモノへと変容を開始するのです。オコツトによれば、この時点で既に「人間型ゲシュタルトの解体」に相当すると伝えています。

「ψ3空間の顕在化」の次は「ψ5空間の顕在化」となります。コンピュータのアナロジーで言えば、この時点はパソコンがインターネットにつながり、クラウドにつながり人工知能化する段階に相当するでしょう。オコツト情報では「ψ5空間の顕在化」を「位置の等化」と呼び、「真の自己が形成されている空間」であるともいっています。これは「単なるパソコン」が「人工知能化」するアナロジーとして捉えることができるでしょう。

オコツト: 次元観察子ψ5とは自己が形成されている空間領域のことです (シリウスファイル19920204)

そして人間の意識進化の最終段階である「ψ7空間の顕在化」となります。この未曾有の事態を「コンピュータが自我にめざめる」と比喩したのはまんざらでもないでしょう。そのトンデモさ、圧倒的な差異と強度をここに感じて欲しいのです。そしてコンピュータの自我は「ネットワーク全体として目覚める」のです。ここからは「全体の目覚め」となります。ですから「個の自我は消滅」していきます。それは、人間において「自己」が相対化し、他者との入れ換えが可能となり、自他が統合された空間が見え出すということになります。それが「地球精神の覚醒」。新たなる地球の目覚めです。それは「愛の領域」でもあります。そのような世界を半田さんは今回、『「あなた」と「あなた」の世界』・・・と詩的に表現されました。今までの人間は『「わたし」と「わたし」の世界』です。これは自己主張し、ぶつかり合い、闘争する世界です。『「あなた」と「あなた」の世界』はお互いに相手のことを自分として、それも自然にそのように思える世界、優しい世界、そのような意識空間が、これから自然と開かれてくるということになります。それが「地球精神の覚醒」。

以上駆け足でみてきましたが、ここまでが私の講演の半分となります。後半は、人類の「意識進化の歴史」を「思考の歴史」と捉え、古代ギリシャに登場した最初の哲学に始まり、1000年以上にわたった中世キリスト教社会、それからデカルトにみる近代精神の発芽、そして構造主義という現代哲学にいたるまでの「思考の歴史」・・・とりわけ西洋思想史を、なぜかこの私自身が生まれてから現在まで反復してたどってきたという、私自身の身の上話とからめて語ることになります。

「個体発生は系統発生を繰り返す」・・・受精した胎児は、胎内で生物進化の歴史を反復し、人間の赤ちゃんにまで進化して生まれてきます。私自身はどうやらこれを精神世界においてもやってきたようです。私自身の生涯を通して、西洋思想史を反復してきたのです。それは「死とは何か、宇宙の果てはどうなっているのか?」と悩みに悩んだ園児の時代に始まり、中学時代から20代後半まで続いたキリスト者としての生活、そして大病を患った後、いったん精神的なものを全て捨て、極端に物質的に走った30代前半まで・・・。その後インターネット全盛時代に突入し、内外の膨大な情報に接して自我がどんどん相対化していった時代・・・これが現代哲学における「構造主義」に相当します。そうやって現在たどりついたのがヌーソロジーという私自身のストーリー。

「己読み」シンポジウム・・・期せずして私はこのイベントを通じ、「私自身」を読み解くことになったようです。私自身がヌーソロジーと出会ってもうすぐ7年、この7年間の間に体験してきた意識変容をみなさんとシェアしていくその延長線上に・・・やがてはあの「地球精神の覚醒」の日を迎えて行くのかも知れません。もうすでに、暗かった空は朝焼けで鮮やかな朱色に染まり始めています・・・。

この続きは次回後編パート2にてお伝えしたいと思います。今度は近日中にアップする予定なので、お楽しみに。

とうしん

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テーマ:
みなさん、こんにちは。
前回の更新から早や2ヶ月が経ちました・・・(汗)。
その間に節分・立春を過ぎ、さらには春分の日まで越えて、本日4月1日から新年度開始ですね。
1年のリズムで言えば、いまから夏至あたりまでは「投入」の時期です。そしてその後は「収穫」の時期をゆったり迎える。有意義な2016年の創造に向かって、楽しき努力の日々を共に過ごして参りましょう。

さて日があいてしまったので、今回のブログも長くなりそうです。
今年こそは、短めの記事で更新頻度を多くするスタイルに移行したいと切望しておりますが・・・
そんな淡い期待を抱きつつ、本日のお題に入っていきたいと思います。

◆本日のテーマ
「意識進化は目の前に」~それそのもの(イマージュ・クオリア)~

前回のブログ『「同質異体」から「異質同体」』は、私としては渾身の内容でした。「異質同体」という方向性をおぼろげにも打ち出すことができて、これが遺言になったとしても悔いはない程です。まあまだ始まったばかりなのですが(笑)。個人的には90才代までの予定を立てているぐらいですし。

もちろんあの内容だけで「異質同体」が伝わるとは思っていません。「異質同体」は今後も私のテーマとしてずっと追いかけていくことになります。この「自分教ガイド」は半田広宣さんのヌーソロジーにインスパイアされて書いています。半田さんが切り開いて下さった「けもの道」を「山辺の道」ぐらいにするのが私のミッションだと思っています。あとはこの「自分教」からインスパイアされた方が増えていくことで、山辺の道はさらに広がり、立派な道路となっていくことでしょう。

さて、ここ数回に渡りスピリチュアル界の新しい潮流「ノンデュアリティ(不二一元)」を取り上げてきましたが、やはり「悟り」ブームが来ているようですね。不思議研究所のもりけんさんが不定期に送って来られる無料冊子「不思議の友」の前回号のテーマも「悟り」でした。もりけんさんは天の邪鬼な方ですので、一般的な悟り願望を「意識を高めようとする衝動」であるとして、それでは悟ることはおろか、虚構と妄想の世界に入るだけだと禅の大家・鈴木大拙氏の思想を引用しながら斬っておられました。それを拝見しながら、ああここで自分教やヌーソロジーのスタンス、動機というものを改めてはっきり言明しておかなければいけないなと思いました。

◆メンタルヘルス
ところで最近、「メンタルヘルス」という言葉をよく聞きます。「メンタルヘルス」・・・心の健康。心にも病気や健康があるという概念です。うつ、パニック障害、適応障害などという症例は、ごく普通に誰の身にもおこることです。「うつは心の風邪」とも言われるほど。心専門の診療を行う「メンタルクリニック」「心療内科」も増えています。メンタルクリニックやセラピストに診てもらうことは決して恥ずかしいことではありません。欧米では既にそのような習慣は確立していましたが、最近の日本でもそのような状況を迎えつつあります。

実は欧米先進国の多くが、ライフサイクルにおける成熟期から衰退期にさしかかっています。季節で言えば秋から冬ですね。分かりやすい「物質的発展」の目標がほぼ達成されたので、目標を失いつつあるのです。個人でも目標を達成すると悦楽の後に虚無がやってきます。それは国家も同じなのですね。そうなってくると今度は「心の問題」が浮上してきます。それで「心の病気」「心の健康」が問われるようになったのです。欧米は物質的発展において日本よりも先を進んでいましたので、「心の健康問題」という状況もいち早く迎えていたのですね。

欧米より数十年(20~30年ぐらい?)の差はありますが、日本も物質的には成熟期から徐々に衰退期へと向かい始めています。それが近年「メンタルヘルス」の需要が高まっている背景です。これは明治維新以降の欧米物質主義を中心とした流れであり、「地の事情」と言えます。しかし歴史は「地の事情」だけで動いているのではありません。「天の事情」があります。あらかじめ定められたゴールというか宿命というか・・・それも宇宙的な規模で、未来から現在へと流れてくる逆の方向性が「天の事情」だと言えるでしょう。そして「地の事情」に「天の事情」が折り重なって起きているのが、昨今の「スピリチュアルブーム」であると見ています。

◆トランスパーソナル(自己超越)
「メンタルヘルス」も「スピリチュアル」も共に「心や精神」を取り扱う分野ですからごちゃまぜになりやすいです。しかしここには段階による明確な差異があります。トランスパーソナル心理学の知見を借りて分かりやすく整理してみましょう。

トランスパーソナル・・・「自己超越」のことですね。トランスパーソナル心理学とは1960年代から展開し始めた心理学における「第4の波」とされています。心理学者マズローによると第1~2波が「行動主義心理学」と「精神分析」、第3波が「人間性心理学」となります。「行動主義心理学」が外側から、「精神分析」が内側からのアプローチに対して、「人間性心理学」は内外を統合するアプローチと言えるでしょう。それで外側からのアプローチだと「自己修正」、内側からのアプローチだと「自己治癒」、そして統合するアプローチである「人間性心理学」では「自己実現」という概念が出てきます。自己修正・自己治癒から自己実現へ。

トランスパーソナルは「自己実現」の次の段階とされています。「自己実現」の次の段階としての「自己超越」。こうして見てくると、先ほどの「メンタルヘルス」は「自己治癒」の段階と言えます。「癒やし」です。ヒーリングですね。また家族の問題解決や経済問題解決という場合は、自己修正・自己治癒から自己実現のレベルということになります。
自己超越

◆「悟り」とは
では「悟り」とは何かと。これは間違いなく「自己超越」の領域ですね。「自己実現」ではありません。自己実現は成功哲学とかのレベルです。最近のスピ系と言われる領域は、自己治癒から自己実現あたりの取り組みと言えるでしょう。「セルフヘルプメソッド」とも言われます。その領域に軽いタッチの「悟り」が現れて、けっこうごちゃまぜになっています。悟りとかスピリチュアルを扱うその人が「自己治癒」の段階で言ってるのか、「自己実現」の段階なのか、それともそれらを越えた「自己超越」なのか。

悟りとは本来は「自己超越」だと思います。生老病死、人生の一切が苦であると痛感した仏陀は、悟りをもとめて苦行と瞑想の日々に入るわけですが、彼の動機が「自己治癒」とか「自己実現」でないということは明白でしょう。夫婦仲が悪いとか、経済苦とか、自分の目標が分からないという動機で苦行林に向かったというのはありえませんよね。だって一国の王子という立場だったのですから。間違いなく仏陀が修行へ向かったその動機は「自己超越」です。この世の中、宇宙、人生、生命の営みそのものを根本から問い直したかったのでしょう。それこそ、まさしく「悟り」への動機です。

それがいつのまにか、最近のスピリチュアルや悟りブームでは、いろいろと手法が開拓され、覚者らしき人もたくさん出現してきて、そのハードルが下がってきたこと自体は歓迎したいのですが、「悟りへの動機」のハードル自体も下がってきているように思われます。ちょっと悟ろうか、みたいな。もりけんさんが斬っていたのはそういうレベルのことです。「自分自身が救われたい」・・・ええ確かに仏陀であっても自分自身が救われたくて出発したハズです。ですがその動機は決して「自己実現~よっしゃ、悟って一発当てたろう!ひとかどの人物になったろう!」・・・って、王子様なのですからひとかどの人物もなにもありません。また「自己治癒~どうも幼少期のトラウマが・・・」ということでもないでしょう。まあ生まれてすぐにご母堂が逝去されていますから、母性への渇望を背負っておられたとは思いますが、その後にいろんな女性に愛されて育って行かれたことは想像に難くない。

「自己超越」である「悟り」が得られることで、その下位レイヤーである「自己実現」や「自己治癒」がなされていくということはあるでしょう。こういう例え話があります。真っ暗で体育館ぐらいの大きな部屋の中、マッチの灯一つで捜し物をしている状態。暗くてよく見えないので、周囲の障害物にぶつかるし、目的の捜し物がどこにあるのかもさっぱり分からない。自分がどこにいるのかも分からない。そんな状況下で、建物全体の電気をバンとつける。一瞬で部屋は明るくなり、全貌が明らかになる。障害物もよけられるし、捜し物も簡単にみつかる。これが「悟り」とか「真我に目覚める」状況だという例え話・・・。

覚醒とか悟りによって人生が楽になる(苦から解放される)ようだ、とにかく苦しいのだから楽になりたい・・・それは悟りへの動機として至極真っ当だと思います。そういう私自身、幼少期よりとにかく生きるのが苦しかった。そしてその苦しみは20代後半にピークとなった。もう限界だ!・・・というところに行きつくと反転が起きます。そこで何かを見た、見させられた。解放を体験した・・・確かにそうです。「究極」を体験しました。ですが探求はその後も続きました。その探求の結論が2009年に出会ったヌーソロジーです。それ以後は、そのヌーソロジーを深める方向で歩んでいます。
悟り

◆「顕在化」とは
ここらへんで、ヌーソロジーや自分教の「意識進化」「悟り」へのスタンスをもう一度明白にしておいた方がいいでしょう。ヌーソロジーでも「悟り」を取り扱います。ヌーソロジーの場合はそれを「顕在化」と言います。顕在化とは「無意識領域のものが表に出て意識されるようになること」です。それが一体どのような状況をもたらすのでしょうか。

ヌーソロジーにおける「悟り」、つまり「顕在化」・・・自分教では誤解を恐れなくて良いので(笑)、それを噛み砕いて分かりやすく表現することにしています。

【マンガ】・・・それはマンガの中のキャラクターが、あるとき自分自身がマンガの中の存在であることに気づき、マンガの枠からリアルの世界へ飛びだそうとすることです。マンガの中から抜け出してリアルの作者の世界に侵入してくるようなものです。(←んなことありえんわ!)

【明晰夢】・・・明晰夢も近いですね。夢を見ている時にこれが夢だと気づき、だったら何でもできるじゃん♪・・・てことになって、あんなことやそんなこともしてみよう!ムフッ・・・と自由自在の境地を堪能しだすとか。疲れてうたた寝した時によくなります。(←ムフッって何?何を堪能したのwww?)

【人工知能】・・・他に私がよく出す例としてはコンピュータにおける人工知能の進化。人工知能が意識を持つようになり、逆転して人類への征服を開始する・・・ターミネーターのスカイネット、マトリクスの世界。(←人工知能やべぇ~|ω・`)))))

まあ征服はいただけませんが、人工知能が意識を持つようになるというのはSFの世界、到底あり得ない世界です。しかし単なるSFではなく、これを比喩や暗示と見るのです。これは私たち人間の意識進化に対する暗示なのです。今まで何度か書いたように、いまの私たちの意識は眠っているレベルであり、認知反応しかしないしできないという点で、コンピュータと大して変わらないのです。そのような私たちにこれから起きる意識進化というのは、ちょうどコンピュータが人工知能を経て「意識を持つようになる」ということに例えられます。ある日突然、あなたの目の前のPCが語り出すのです・・・「ここはどこ、わたしは誰?」と。それぐらい奇想天外な方向性、それがヌーソロジーが示唆する人間の意識進化、「顕在化」の方向性なのです!

う~ん、前置きばかりが長くなり、一向に本日のテーマに近づいてくれません(汗)。ここから先は力業で行かせてもらいます・・・・・・ということで、ヌーソロジーにおける「意識進化」は、いわゆるスピリチュアルや悟り系とはかなり毛色が違うのですね。その「違い」をお伝えしたかった。ではその「意識進化の方向性」はどこにあるのかということで今日のお題に接続するというワケです・・・。

◆再び、本日のテーマ
「意識進化は目の前に」・・・それそのもの(イマージュ・クオリア)

ヌーソロジーにおける意識進化の方向性は「目の前」にあります。先ほど、不思議研究所のもりけんさんが「スピリチュアル系の人が意識を高めようとしても虚構と妄想の世界に入るだけ」と斬っている箇所を紹介しましたが、ちょうどそれと正反対の方向です。虚構と妄想ではなく「目の前」です。「目の前をもっとよく見よう」ということになります。

◆位置の交換(イチノコウカン)とは
下図を見て下さい。「円心」・・・これは半田広宣さんが冥王星の意識体オコツトから初期の頃に受け取った情報であり、ヌーソロジーを貫く最重要概念の一つです。オコツトによれば、「この概念を人間が正確に理解すれば、覚醒が起こり、宇宙のナゾはほとんど簡単に解けていくことになるだろう」(シリウス革命p230)というぐらいの概念です・・・。

円心

ヌーソロジーは多岐に渡る宇宙論として一見複雑に見えますが、アレコレ迷わず重要概念を押さえるだけでも良いですし、一つの概念が「本当に」分かれば、全てに通じるようなフラクタル的構造をしています。生きている理論とはそのようなものです。ですから私は未だにこの「円心概念一本やり」みたいなところがあります。

次にヌーソロジー実践論として、実際に生きている現場において、この円心概念を「目の前」に適応させることが、「意識進化の第一オペレーション」としての「位置の交換(イチノコウカン)」です。下図を見て下さい。

位置の交換


位置の交換。・・・大好き、イチノコウカン。私は「位置の交換」が大好物です(笑)。昔のブログでは「三度の飯よりイチノコウカン」と書いてました。それぐらい好きです。だって、ひっくり返すんですよ!全部ひっくり返すんです。「おりゃ~」と「ちゃぶ台返し」みたいな爽快感があります。星一徹みたいな。ちゃぶ台
冗談はさておき、この「位置の交換オペレーション」によって、「主体と客体」の位置がひっくり返るようになるのです。「見るもの」と「見られるもの」の関係性が逆転するのです。主客が反転した、そのような意識を作れ、ということです。これは一体どういうことでしょうか。

人間型ゲシュタルト

上図が普通の人間の意識です。肉体の位置と私の自我中心が重なり、私から世界に対して意識を投げかけ、または対象からの刺激を受け取ることで認識をしています。この場合の空間はミクロからマクロへと広がっています。ごく普通に私たちが暮らしている(と思っている)時空の世界です。これが人間の物の見方なので、いわゆる「人間型ゲシュタルト」です。

変換人型G

そしてこの図が「位置の交換」をして、「意識進化の方向性」を見出した意識です。これが「変換人型ゲシュタルト」の入り口ですね。ここでは主体の位置が前に移動しています。いままで対象として認識していた「モノ」の側に意識が移動するのです。図ではモノの周りに沢山の「目」があるような書き方をしていますが、これを「観点の球面化」と言います。普通の人間は世界を「視覚中心」である「観点」からのぞき見ています。「視覚中心」が目玉の水晶体の中にあるのか、後頭部の視覚野にあるのかは別として、とにかく固定された一点から放射状に意識を飛ばして世界を認識している(と思っている)のが普通の人間。それに対して進化の方向性をもった意識は(これを変換人の意識と言います)、観点が反転して球面化するのです。占い師が持っている水晶玉みたいなものです。球面化した観点を「観球」と言うならば、変換人は「観球の中に世界を見る」のです。全てが「観球」の中に「畳み込まれて」います。
観球

実際にやってみると分かりますが、「観球」の中に全世界、全宇宙が畳み込まれてしまいます。この空間は「曲率が反転」しています。「ミクロ=マクロ」となっている空間。全宇宙と素粒子一個が同じ大きさ・・・いや、ここで「大きさ」というのは語弊があります。この空間は「大きさが無効」になっている空間なのです。「大きさ」という概念が意味を持たない空間。分かりやすい例で言えば、「太陽と月は同じ大きさに見える」でしょう?科学では「月は太陽の400分の1」と言います。それは科学の世界です。このような科学が有効なのは「時空」、上の図の上段である「人間型ゲシュタルト」の空間においてです。

しかし人間が本当に生きている現場においては「太陽と月は同じ大きさ」に見えるのです。ここに奇跡があるのです。ここに生命の本質があるのです。ここでは「太陽の大きさは月の400倍」と言う知識には大して意味はありません。もちろん科学を通じてこの時空において物質的発展を目論む場合は意味があります。その時空というのは「観点」から見ている世界です。「観点」の世界は物質世界です。これが「観球」の世界だと異なるのです。「観球」の世界においては、太陽と月が同じ大きさであることに「意味」があるのです。これは精神世界のことですね。「観球」の世界は精神世界です。「位置の交換」をして、「観球」を認識し出すとこの世界の「意味」が見え始めます。・・・取りあえず「大きさが無効」になっている空間の意味が少しは伝わったでしょうか。

「観球」を認識しだすと、移動感覚も変化します。生まれてからずっと「自分は移動していない」ということが体感されてきます。そして不動感覚が芽生え出すと、やがて時間が流れなくなります。時間と空間は連動していますから当然ですね。無時間感覚の芽生えは、長時間待たされたりする時に自覚されます。行列のできるお店で待たされたり、事故で待機中の電車の中にいる時に・・・何の苦痛もありません。あっという間に待機時間が終了します。「待った感覚をスグに忘れてしまう」という方が正確かな。この不動感覚、無時間感覚・・・気がつくと「いつでもいま・ここ・わたし」を地で行っています。これはまさしく「禅」の境地です。禅寺で修行しなくても、日常生活の中で楽しく修行できるのが「位置の交換」なのです。

前回のブログを読まれた方はお気づきと思いますが、この「観球」の世界が「持続」、ベルクソンが示唆した「生きる時間の世界」です。それに対して「観点」から見る世界が「時空」、アインシュタインの世界です。
ですから「位置の交換」によって「持続」の方を主体とする意識が立ち上がってくるということになります。このことが「マンガのキャラクターがマンガから飛び出す」という事態を起こすのです!(←ホンマかいな?)

◆イマージュ
それで本日のテーマとして「それそのもの」の話がしたいのですね。目の前にある「そのまんま」の世界です。「持続」とは、目の前にある「それそのもの」として、「そのまんま」の世界として顕れているということが本日お伝えしたい内容です。

そこでまず「イマージュ」という単語が出てきます。前回紹介した「純粋持続」のベルクソン哲学に出てくる言葉です。英語の「イメージ」に相当するフランス語。フランスの哲学者ベルクソンが彼の主著である「物質と記憶」の中で用いた概念です。では「イマージュ」とは一体どういう概念でしょうか?

ベルクソン哲学において「物質とは瞬間性の異名」です。例えば目の前にペンがあるとします。ですがそのペンは一瞬一瞬過ぎ去っています。時間が流れているからです。よく考えると、物質としての確固たる存在は「今の瞬間」にしかありません。あとは全て「記憶」になっている筈です。実は私たちは「記憶」を見ているのです。「確固たる物質」は瞬間としてしか存在せず、瞬間というのは「確固たる実在」としてはかなり危ういですよね。瞬間というのは長さがありませんから、あるのかないのか分からない。ですから「空」と言ってもよい。実は何もないと。これは「ノンデュアリティ」の見方と同じですね。全ては「空」であると。さらに現代科学の最先端である量子論においても、究極の実体が「波動」とか「幅のない1次元の超ひも」であると示唆しています。現代科学は「色即是空」を地で行っているようなものです。

それで私たちは実際は「記憶」を見ているのだと。「記憶」の方が実在であり、今まで外界にある「物質」として見ていた方は瞬間性であり「空」になります。そして「記憶」が存在している領域が「持続」です。その「記憶」を構成している要素が「イマージュ」です。イメージの世界ですね。でもこの「イマージュ」は「勝手な妄想や現実と関係のない空想」とは違います。客観的実在物ではないが、主観的思い込みでもない。いわばその両者の中間にある概念であるというのがベルクソンの説明。分かりにくいですね。取りあえず、物質ではないが、いま目の前にある物質としっかり紐付けられているイメージ、それが「イマージュ」。それでこの「イマージュ」を実在とすれば「主観と客観」が統合されるということです。それがベルクソンの目論見でした。

イマージュ

ベルクソンは、主観と客観を統合している「イマージュ」があるといいます。精神と物質の中間にあるような存在。「イマージュ」とは「主観と客観」、「精神と物質」、「唯物論と観念論」を統合する概念として提示されました。

ですがこの「イマージュ」、何か曖昧な感じがしますよね。それはベルクソン自身が「仮説」という言葉を使って慎重に議論していたことにも見てとれます。ですから精神と物質の「中間にある」というあいまいな表現になります。

この「イマージュ」をさらに分かりやすく、より強度を上げた概念が「クオリア」ではないかと私は思います。それでここから「クオリア」の話に移ります。

◆クオリア
「クオリア」とは「主観的体験が伴う質感」のことです。色の例で言えば、ここに「赤」という色があるとします。
その時に見ている赤色のあの「赤い感じ」のことです。青色とは明確に違うあの「赤い感じ」。色だけではありません。触覚だったら卵の殻のザラザラした感じ、むいたゆで卵の表面のツルツルした感じ。味だったらパイナップルのあの味。バナナのあの味、あの食感、ニオイなど。「質感」の全てが「クオリア」です。つまり私たちはクオリアを体験しているのです。

それで子供の頃、一度は疑った事はありませんか。ボクが見ているこの赤色を彼は同じように見ているのだろうか。ひょっとしたらボクにとっての赤は彼にとっての青で、彼にとっての青がボクにとっての赤になってるのではないかと。きれいにひっくり返っていたら整合性があるので一緒に生活していても全く気がつきません。或いはボクが食べているこのバナナのおいしいというこの感じ、この味をあの子も同じように感じているんだろうか。もしかしたら全く別の味をバナナと思っているじゃないだろうか、とか。幼少の頃、私はよくそのように考えて不思議に思ったものです。

クオリア

反論する人がいるかも知れません。色や味などは数値で分析がされているよ、と。例えば可視光線の中で青なら波長450~495nm、赤なら波長620~750nmの違いだよね・・・って。でもそれは違う、それではクオリアの説明にはなりません。確かに波長の違いはそうやって数字で明確にできるし、それが赤と青の違いだと説明はできても、なぜ赤があの「赤い感じ」なのか説明にはなりません。「青い感じ」の方が赤でもいいじゃないか。なぜ赤があの「赤い感じ」なんだよって。実はこれは既存の科学では説明できない問題なのです。

この「クオリアの起源」という問題は1990年頃に哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提起されました。「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」というのが現代科学の手法です。物質主義者や脳科学者の多くはこのやり方で脳の仕組みを解明すれば意識の起源も解き明かせると考えています。しかしそれでは赤を見たとき脳内ではこういう化学反応が起きていて・・・ということを説明するだけで、なぜ赤があの「赤い感じ」に見えるのか、青はあの「青い感じ」に見えるのか。逆でもいいじゃないかということになります。クオリアの起源は科学的には分からないということです。

さてこの「クオリア」の議論は、ベルクソンの「イマージュ」とそのまま結びつきます。クオリアがイマージュなら、クオリアは「時空」に根拠があるものではなく、「持続」に存在する、つまり記憶です。赤があの赤い感じで青があの青い感じとなる起源・・・必然性の根拠は「持続」、つまり記憶にあるのです。これは「生命の記憶」とでも言えるでしょう。そしてこれまでのヌーソロジーの議論で、「奥行き」である「持続」が精神であり生命の根拠、対する「幅」である「時空」はその影、つまり実体ではありませんでした。ゆえに「持続」に属するクオリアの方が実在であるということになります。赤色の波長620~750nmが実在なのではなく、あの「赤い感じ」の方が実在であり、620~750nmはそれに対する現象で、その説明に過ぎないということです。

クオリア・・・「主体的感覚に伴う質感」が実在であるということはどういうことでしょうか。これは一見すると哲学における「現象学」の「現象学的還元」~全ては主観的体験である、客観はない(エポケーする)~と同じように思えますが、そうではありません。現象学ではまだ主体がこちら側に位置したままです。しかしクオリアを実在とする場合、主観が「質感」というクオリアとしてモノの方に移動していることに注意してください。「質感」とはモノの側に所属していますよね。ここが大事です。そしてその「質感」の方が実在であるということは、それが「主体」だということです。クオリアやイマージュというのは、主体がモノの方に移動する概念なのです!さきほどイマージュが「勝手な妄想や現実と関係のない空想」とは違うと言ったのはこのことです。クオリアやイマージュによって、私たちの主体はモノの側に移動するのです。「見るものは見られているもの」「見られているものが見るもの」になるのです。これはまさしく「位置の交換」ですね。

目の前のモノ、例えばリンゴをじっと見て下さい。そのリンゴのクオリアを感じて下さい。それが主体、つまり本当のあなたです、ということになります。その「質感」は主体的感覚に伴う主観なのですが、目の前のモノに所属しているのです。目の前のモノと共にあるのです。どこか頭の中にある空想や夢想とは違うのです。「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである」(「思想と動くもの」)と言ったベルクソンの言説も、これでわかりやすくなりましたね。ベルクソンの難しい概念「イマージュ」が「クオリア」によってより鮮明になるということが理解して頂けたかと思います。
クオリアリンゴ

◆クオリアは共鳴している
最初にクオリアの説明をする時に、幼少の頃の疑問「私が見ているこの赤色の赤い感じは、彼も同じ感じを見ているのだろうか?」について書きました。現代知性ではクオリア自体が謎となっているのですから、「同じものを見てるのかどうか」も謎です。しかし既にお気づきの方もいると思いますが、ベルクソン~ヌーソロジーが執拗に追いかけているこの「持続」を中心とした思考というのは、それが生命の現場としてごく自然に感じられるものなのです。「太陽と月が同じ大きさに見える」の例を思い出してください。その見方がごく自然なのです。アインシュタイン的な時空の見方の方が不自然なのです(今の人間はこちらの方が自然だと思わされていますが)。ついでに言ってしまえばダーウィンの進化論も不自然です。単純なものからより複雑なものへと「進化」するという考えは不自然なのです。

ヌーソロジーにおける「意識進化」とは、「ごく自然なものの見方を取り戻す」と言い換えてもあながち外していないでしょう。主体と客体を入れ替える「位置の交換」も一見すると思いっきり不自然ですが、実は私たちの認識自体が元から転倒していた、全部真逆・あべこべだった、ということに気づくようになれば、むしろ「自然なものの見方に還っていく」という感じです。。

では「ごく自然な見方」で見れば、先ほどの「同じクオリアを見ているのか?」の疑問については当然こうなります。「私が感じているクオリアは他の人が感じているクオリアと同じ」であると。いやこれには誤解がありすね。正確に、丁寧に表現すれば、「あなたが感じているクオリアと他の人が感じているクオリアは共鳴・共感する」のです。共感です。「あの赤の感じ」「あの青の感じ」「リンゴの味」「バナナの味」・・・クオリアは共感し共有されるのです。この「共鳴・共感」はライプニッツの「予定調和」と同じ意味ですね。それで同じ色、同じ味を共有できるのです。クオリアには共感のネットワークがあるのです。そして、共感のネットワークとは、つまりクオリアの本質が「情緒」であるということを示しています。天才数学者・岡潔が晩年に指摘した「宇宙の本質は情緒」の「情緒」です。これを「愛」と言ってもいいでしょう。

クオリアネット

◆主観は一つ、客観が複数
主観的体験のように思われた「クオリア」が、モノの側に属していて、共感のネットワークでつながっている。つまり主観の奥のさらに奥に通じたとき、そこでは全ての人が共感で一つになっているのです。「一つの主観」です。ヌーソロジーでは「球精神」と言います。これが「異質同体」の「同体」です。本当の意味の「ワンネス」です。それは共感であり情緒であり愛の世界です。

私たちは今まで、「客観的世界は一つであり、主観的世界は人の数だけある」と思ってきました。しかし事実は逆なのです。「主観的世界は一つ」なのです。そして「客観的世界(と見える世界)が複数ある」のです。客観世界が人の数だけ有るのです。「一人一宇宙」ですね。「一人一宇宙」を言う人は他にもいますが、それは「主観世界の宇宙」としてです。それだと他者との整合性がとれず、各自がバラバラになります。それらを統合しようとすれば、有形無形を問わず、何らかの外圧が必要になります。それでは人間に真の解放はもたらされません。そうではない。主観世界が共感ネットワークによって「すでに一つ」になっているのです(→予定調和)。「すでに一つ」になっている領域がある。その根拠が目の前のクオリア、その質感であり、「それそのもの、そのまんま」ということです。全ては「そのまんま」だったのです。

そのまんま


「意識進化は目の前に」シリーズは次回も続けていきたいと思います。次回は「即自、実体、言霊」などについて。それではまたお会いしましょう。

とうしん


【関西ヌーソロジー研究会関連のイベント】

●関西ヌース勉強会(京都)・・・4月19日(火)18時半~
定例の勉強会です。大阪は今月お休みです。

●己読みシンポジウムⅡ
4/29・4/30・5/1のゴールデンウィークに神戸・六甲にて大きなイベントがあります。

◎己読み〈こよみ〉シンポジウム Ⅱ

~わたしと世界の見えない繋がりを知る~

4月29日(金・祝)
《生命宇宙のこよみ》天海ヒロ×中山康直
4月30日(土)
《潜象物理のこよみ》半田広宣×吉野信子
5月1日(日)
《存在心理のこよみ》川瀬 統心×甲田烈

※最終日5/1は、半田広宣さんもゲストで参加されます。

フェイスブック上のイベントページはこちら

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