調べによると、昨年10月ごろ、赤軍派幹部から武器調達のために8万円を受け取り上野を出発、手始めに海上自衛隊のころ知り合った医師宅から上下2連銃と散弾68発を盗んだ。
■1970年3月16日 赤軍派委員長を逮捕(朝日)
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塩見は田宮(後によど号)、小西(後によど号)、前田と討論をした後、前田と2人でタクシーで駒込駅へ向かったところを警官にとめられた。降りたとたん、逃亡をはかった。
ところが、陸橋のところに派出所があったのが運のつきだった。そこに若い警官がいて、彼に差をつめられた。「止まれ!」なんて叫んでいるもんだから、近所の6,7人の小中学生が、泥棒か何かと間違えて、わあわあ騒ぎ一緒になって追いかけてくる。「オレは人民のためにやっているのに、なんでガキ共に追いかけれれるんだ」(笑い)・・・。警官はピストルまで抜いて追いかけてくる。追いつめられ、しゃあない、という感じで逮捕された。まあ、それから僕の「20年」というのが始まるわけです。
(「赤軍派始末記」)
押収された塩見の手帳には「HJ」のメモ書きがあったが、警察はそれが「ハイジャック」を意味するとは気づかなかった。
ちなみに 「ハイジャック(hijack)」 とは乗り物を占拠すること。日本では 「Hight Jack」 と誤解され(?)、航空機に対してのみ用いられ、他の乗り物の場合は、シージャックとかバスジャックという和製英語で表現される。
このころ、内ゲバを敵前逃亡し活動をはなれていた森恒夫が赤軍派に復帰する。重信房子は独自の活動をしていたようだ。
大菩薩峠のあと、赤軍派は中央政治局員7人のうち、花園紀男、堂山道生、上野勝輝、八木健彦が逮捕され、作戦を練るのは、塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3人になっていた。政治局員の補充に塩見は森恒夫を推したが、田宮は 「あんな度胸のないやつはだめだ。ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」 と反対した。しかし塩見は 「あの男には理論がある。一平卒からやりなおさせよう」 と納得させた。12月に大阪からボストンバッグ1つで上京した森は一平卒から出直すことを承諾し、翌日からビラ配りに従事した。
12月12日、京大全共闘議長にして赤軍国際部長の小俣昌道が、国際根拠地建設のためアメリカ、キューバに向け旅立った。アメリカではイリノイ大学の集会などで大みえをきり、極左集団に精力的に働きかけた。キューバではカストロ首相に面会しようとするが、相手にされるはずがなく、滞在期間がオーバーして200ペソの罰金をとられるありさまだった。
1月16日、お茶の水の電通会館で再起のための政治集会「1・16赤軍派武装蜂起集会」を開き、「国際根拠地論」 を披露し、すでにキューバに1人送り込んだと発表した。この日は1500円払えば報道関係者も傍聴できたが、これは大菩薩峠の痛手からよみがえったことを印象付けるための演出だったと思われる。
(「連合赤軍・この人間失格」より要約)
森恒夫は臆病者だといわれているが、そのエピソードは次のようなものだ。
1965年11月11日、日韓条約批准デモで逮捕されたとき「おっちゃん、かんにん、おっちゃん、かんにん」と泣声であっさり自供した。
1969年6月28日、内ゲバで森恒夫と藤本敏夫が監禁され、自己批判を迫られたとき、藤本は拒否したためリンチを受けひん死の重傷を負うが、森はあっさり自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と泣きわめいた。
1969年7月2日、赤軍派は藤本リンチの報復のため敵陣に乗り込むが、まさに乗り込もうとする直前、敵前逃亡した。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなった。
森が連合赤軍のリーダーになったとき、「もう2度と逃げない」 と心に誓い、それが総括をより過激にさせたと考えられている。