※文字色が見にくいので、今回より新聞や著作の引用は枠で囲むようにしました。以前の記事は少しづつ変更していきます。
■1969年12月8日 爆弾列車の通過直前 火炎ビン投げる(朝日)
調べに対し、黙秘権を使っているが、先月の厚木基地にダイナマイトを持って忍び込んだ指名手配中の京浜労働者南部反戦団員・石井勝(25)とみて家族を呼び確かめたところ本人とわかった。逃げた2人の人相はわかっていない。
現場からはサイダービンの火炎ビン6本と軍手、「反米愛国」と書いた赤旗がみつかった。先月29日の弾薬列車通過中に火炎ビンが燃え上がり、ダイナマイトがみつかったことや、横浜の米領事館の爆破未遂事件にも石井らのグループが関与しているものとみて追求している。
■1969年12月9日 米基地などのマイト事件 主犯を都内で逮捕(朝日)
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逮捕されたのは、リーダーの川島豪。川島陽子と柴野晴彦(後に上赤塚交番襲撃で警官に射殺される)といっしょに食事をして喫茶店をでた直後のことだった。川島陽子が公安に尾行されていたのだった。柴野はその場から走り去って逮捕をのがれた。川島陽子は交番までついて行ったが、川島豪に促され永田洋子らに連絡するために帰った。
このころ、愛知外相訪米訪ソ阻止闘争で逮捕されたメンバーの法的処分が決定しつつあった。羽田に侵入した坂口弘に対して懲役7年、吉野雅邦に懲役5年が求刑された。坂口は予想外の重い求刑にとまどい、下獄前に女性を抱きたいと思いたち永田にプロポーズする。米ソ大使館への火炎ビン闘争の寺岡恒一(連合赤軍リンチで死亡)は執行猶予がついたが、後の連合赤軍で、寺岡だけが執行猶予だったことについて森恒夫に「権力と関係があったんちゃうか?」と執拗に追求されてしまう。
永田洋子はこのころの大槻節子(連合赤軍リンチで死亡)について述べている。
9.3・4闘争で逮捕された人たちが保釈出獄し始めた。・・・大槻さんは九月末、起訴猶予で釈放されたあと、実家に戻っていた。一度、私が会ったが、彼女は、「活動をやめることにしました。このことは、母と約束したことです。母は、私にとって、大切な人であり、この約束を破るつもりはありません」といっていた。(「十六の墓標(上)」)
(参考)1969年9月4日 愛知外相訪米訪ソ阻止闘争(革命左派)
ところが、翌年2月ごろには再び活発に活動をはじめるようになってしまう(恋人の渡辺正則にオルグされたようだ)。もし、大槻節子がこのまま活動をやめていたら・・・と思わずにいられない。
また、同時期、幹部の河北三男が政治ゲリラ闘争に反対して離脱し、革命左派における永田の立場は次第に繰り上がっていった。