1969年11月 連続爆弾闘争(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 革命左派は、10・21国際反戦デー闘争 による総括集会で、「実力闘争が持ち込まれてからは、それがすべてに優先され、職場、学園での闘争に立脚した京浜安保共闘として闘いができなくなった」という不満が支配していた。それを幹部たちは「非情に遅れている」と断じ、つぎつぎと爆弾闘争を仕掛けていった。


 当時、永田洋子は婦人集会などを担当しているだけで、まだ頭角を現していなかった。10月中旬に川島から薬品の手配を命じられ、それがうまくいくと、爆弾闘争の連絡係となった。永田は爆弾闘争の計画は知らされていなかったので、かかってくる電話をそのまま伝えるだけの中継係だった。


 坂口弘は 愛知外相訪米訪ソ阻止闘争 で逮捕され、留置場で新聞と刑事からの情報で爆弾闘争を知ったが、「組織とわが身の行く末を思うとぞっとし」て、いい気持ちではなかったようだ。


■1969年11月6日 ダイナマイトを持ち米軍厚木基地に侵入(朝日)

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侵入したのは佐藤保と石井勝で、逃げ遅れた佐藤が逮捕され、自供してしまう。

永田洋子は以下のようにふりかえっている。


 川島氏は、米軍基地にダイナマイトを置く事によって、みなに度胸試しをさせたと思われる。あとになって、私は、ダイナマイト爆弾の時限装置をわざと間違えて爆破しないようにしたということを聞いたが、実際、米軍基地におかれた時限爆弾のうち、爆発したものは1つもなかった。


 佐藤氏の自供から、金子みちよさん(後にリンチで死亡)は私に「佐藤さんの救援活動はできない。どうして軍の人が自供するの。自供するような人を軍に入れたのはどういうこと。あまりにだらしがないじゃないの」と立て続けに言った。また「家族対策をしようとしても、玄関払いされる自分の立場のことも考えてほしい」と不満を述べた。
(「十六の墓標(上)」)


 永田はこのとき「指導に多少の不満や疑問はあっても、それに従うべきなのに、金子さんはそうしようとしない」 と思ったという。


■1969年11月16日 米軍立川基地に時限爆弾 爆破3分前に処理終る(朝日)

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■1969年11月17日 横浜の米総領事館に時限爆弾 爆発前に見つける(朝日)

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 石井勝は厚木基地侵入後、消耗して戦線離脱したが、永田にみつかり復帰する。そして川島から佐藤首相訪米阻止闘争として「ヘリコプターで羽田空港に行きダイナマイトを投げ下とせ」という命令を受けた。石井は藤沢の新聞社の屋上にいくがヘリコプターはなかった。すると「そのまま羽田空港にいって爆弾を投げろ」と指示され、車で羽田空港に向かうが、警戒中で近づくことはできなかった。それで仕方なく横浜の米総領事館に爆弾を置いてきたのだった。


 この失敗に対し川島は「なにがなんでも11月末の米軍弾薬列車阻止を闘う」と主張する。


■1969年11月22日 過激な労働反戦団 立川基地と米領事館への時限爆弾(毎日)

 16、17日の両日、米尾軍立川基地と横浜の米国領事館で使われた精巧な時限爆弾をしらべていた警視庁と神奈川県警は、この2つの爆弾が、狂信的な毛沢東支持集団体「京浜労働者反戦団」に属する者の犯行と断定、追求を始めた。

 いずれも岐阜県下で盗んだダイナマイトと雷管を私用、作り方もまったく同一とわかったためで、背後で日本共産党を脱党した「革命的左派」が指導していた疑いが強く、背後関係も追及する。このダイナマイトと雷管は、5日、米軍厚木基地に侵入した同反戦団・佐藤保(22)と石井勝(25)の2人が、岐阜県の石炭採掘所から盗み出したものであることがはっきりしたため、京浜労働者反戦団の一味による犯行と断定した。


■1969年11月29日 爆弾列車に火炎ビン(毎日)

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 この事件に関して「連合赤軍・この人間喪失」(読売新聞社会部編)に永田が犯行に加わった様子が具体的に書かれている。しかし、永田の「十六の墓標」によれば実行に加わった様子はない。一連の爆破計画について「具体的なことは私にはまったくわからなかった」 とさえ書いている。はたして信憑性はあるのだろうか。


 このときの襲撃グループは、永田を含めて女2人、男3人である。5人は車で現場近くに行って草むらにひそみ、爆弾輸送列車が接近したところで火炎ビンを破裂させ、停車させる計画だった。しかし、列車は通過時間が確認できておらず、気がついたときには、刑事は目の前に迫っていた。「やれっ!」という永田の号令で数本投げつけたが、それ以上はどうすることもできず、警官の駆けつける様子に、手袋などをほうりだしたまま逃げたのである。
(「連合赤軍・この人間喪失」)


 こうして11月の一連の爆弾闘争は大したインパクトも与えられないまま、革命左派と共闘関係にあった組織や人は消耗し、離脱していくのだった。