1969年10月21日 国際反戦デー(革命左派、赤軍派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 この日は「国際反戦デー」で、社共両党・総評など86万人が統一行動し、反共産党系学生のゲリラ活動もあって1,505人が逮捕された。


 紙面は盛りだくさん。NHK放送センター乱入、立川基地・横田基地に火炎ビン、日本生産性本部襲撃、交番襲撃多数、神田や横浜の商店街で大暴れ、日本工業倶楽部に乱入、青山高校・東大・法大封鎖、東京駅・新宿駅の騒乱などなど・・・。市民は怒りをあらわにし、学生たちをつかまえる動きもみられたことも報じられている。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1969-10-21 国際反戦デー


さてこの日、革命左派の行動がほんの小さく報じられた。


■また火炎ビン騒ぎ 横田基地、侵入の疑いも(読売夕刊)

 21日午前、手製爆弾が投げ込まれた米軍横田基地で、再び火炎ビンの炎上騒ぎがあった。同日午後10時50分ごろ、同基地わきの畑でコーラのビンにガソリンを詰めた火炎ビンが炎上しているのを見張りの隊員が見つけ、届け出た。被害はなかったが、近くからおなじ火炎ビン3本と「反米愛国の旗のものと横田基地を撤去せよ・反米愛国行動隊」と書かれたビラ十数枚が発見された。また、現場わきの同基地の金網が約50センチにわたってカギ型にカッターで切られ、手袋とカッター、皮グツが残されており、犯人が基地内に侵入した疑いもあるところから、現場一帯を捜査している。

 4名の実行メンバーは、何度か横田基地の下見をした後、10月21日の午後11時ごろ行動を起こした。彼らはワイヤーカッターで基地の境界線柵金網をL字型に切断し、そこから侵入した。南東方向に焼く50メートル進出し、そこにあった飛行機に灯油とガソリンを混合させたものを撒き、これに日を放って同機を炎上破損させた。だがこの飛行機は消化訓練用として設置固定された退役機で、被害額も1万円と軽微にとどまった。マスコミはこの事件を報道しなかった。


 10月25日、川島さんのアパートに川島、柴野、石井、佐藤の4人が顔をそろえた。席上、川島さんは、横田闘争は失敗だったと総括し、この失敗を克服するため、11月の佐藤首相訪米前に、ダイナマイトを使って厚木米軍基地内の施設を爆破することを提起し、みんなに了承された。
(「あさま山荘1972(上)」)


 赤軍派は「中野坂上のパトカー襲撃」や「新宿駅襲撃」を行うが、記事の一部として埋もれてしまって具体的な行動はわからない。


 植垣康博はこの直前に上京し、赤軍派にオルグされている。オルグするのは爆弾魔といわれた梅内恒夫(行方不明)である。


 梅内氏は、赤軍派の理論や路線については何も語らず、いきなり武装闘争の必要性を主張し、いわゆる東京戦争をを説明し、私たちの度肝を抜いた。もうすでに銃や爆弾が用意してあり、いつでも市街戦ができるかのように語り、私たちへの参加を呼びかけてきた。
(「兵士たちの連合赤軍」)


東京戦争への参加をきめた植垣だったが、待てど暮らせど連絡がこなかった。


 こうして、私と神山氏は東京戦争に参加できないまま、埼玉大学の南先生の研究室で過ごした。もっとも9月30日に東京戦争なるものはなく、梅内氏の話は眉唾ではないかと思うようになった。


 私は弘前で教わってきた赤軍派の連絡先に電話を入れた。今度は連絡は取れたが、ただ、「待機していろ」というだけで、何も指示してこなかった。・・・赤軍派はいうことだけはデカイが実際とひどく違うこと、ただあちこち振りまわしているだけなことにうんざりしてしまったので、第4インターの部隊に加わり、10・21闘争に参加していくことにした。
(「兵士たちの連合赤軍」)


 デモ中、第4インターとはぐれてしまった植垣は他のデモ隊に入って投石などを行う。結局逮捕され、公務執行妨害と凶器準備集合罪(軍手と石2個!)で逮捕され、70年12月中旬まで獄中生活を送ることになった。